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そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #3
「表現とケアとテクノロジー」をめぐる4つの対話 ④
「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを通して表現の捉え方を再考する活動に取り組む田中みゆきさん。「アート」と「ケア」の視点からさまざまな先駆的事業を実施している奈良県の市民団体「たんぽぽの家」が主宰するプロジェクト「Art for Well-being」に全体監修として関わっている小林茂さん。
本連載インタビューでは、障害者支援とテクノロジー実装の最前線に立つ実践者たちにたいして、二人が行った4つの対話を掲載していきます。対話を通じて、「誰のための技術か?」を多様な視点から深掘りしていきます。(本連載イントロはこちらより)
第4の対話では、自らの障害の経験や知を出発点としてテクノロジーを捉え直す研究で知られる、ヴァージニア工科大学教授アシュリー・シューさんに、お話を聞きました。後篇では、障害者主導の技術開発の意義と、それを支えるコミュニティに多様な人々が参加することの重要性についてお聞きしました。(全3回)
構成・編集:山田兼太郎(DISTANCE.media)
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Contents
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障害者をデザイン・開発におけるコンサルタントに
田中 「テクノエイブリズム」についての論文を発表して以降、工学系の研究者やグループからさまざまな反応があったということですが、実際にこの考え方を取り入れたプロジェクトは進んでいるのでしょうか。
シュー 現在私は、「アンドリュー・W・メロン財団」[★01]★01 の助成を受けて、地域の障害者グループに、テクノロジーのプロジェクトに参加してもらう活動をしています。ただし、彼らを「被験者」や「実験対象」として扱うのではありません。コンサルタントとして参加してもらうんです。
完成したアイデアを持ってきて、「あなたたちのために作ったこの製品を試してください」と言われるのではなく、もっと初期の段階から、障害について対話する場が必要だと思っています。そして重要なのは、異なる障害のある人たちが一緒にこうした議論をすることです。そうすることで、最終的には、より多くのユーザーに適したテクノロジーが生まれる可能性が高くなる。というのも、多くの場合、技術者たちは一つの障害だけを想定して開発を進め、他の障害を排除してしまっているからです。そして、そのことは実際に世に出る製品にも表れています。
たとえば最近、スマートフォンとBluetooth接続できる糖尿病モニターが登場しました。これは素晴らしい技術です。でも、その機器には数値を音声で読み上げる機能がありませんでした。しかし実は、糖尿病患者には視覚障害のある人が少なくありません。というのも、糖尿病は失明につながることがあるからです。つまり、糖尿病患者だけに焦点を当てて、ほかの条件や障害のある人たちを排除してしまうと、肝心な部分を見落としてしまうんです。結果として、多くの糖尿病患者を排除することになってしまった。
実際、こういうことはデザインの現場で頻繁に起きています。そして、その結果がかなりひどい場合もある。それに、これは障害だけに特有の問題ではないと思います。たとえば、AppleのiHealthプログラムが最初に公開されたとき、月経データを記録する機能がまったくありませんでした。そういうとき、「デザイナーたちは誰に相談したんだろう?」「チームはどんな構成だったんだろう?」と考えますよね。人口の半分は月経を経験するのに、それを完全に忘れていたわけですから。
田中 笑えない話ですね。障害に限らず、そのデザインが誰に向けられているか(誰に向けられていないか)や開発メンバーの属性が当事者には透けて見えてしまうということですね。
シュー 障害向けデザインについても、私は同じような批判が必要だと思っています。ただ、この問題が特に重要なのは、多くの人が「良い障害向け技術を作りたい」と本気で考えているからです。だからこそ、異なる障害のある人たち同士や、複数の障害がある人たちが、一緒に技術について話し合うことがとても大事なんです。そういう対話が、技術を前に進めることにつながる。
他方で、科学研究では、そうしたことが抑制されがちです。「この特定の障害だけを研究対象にする」「ほかの複雑な条件は入れない」という研究設計が求められるからです。もちろん、それは薬の開発研究などでは合理的かもしれません。でも、障害者のための製品や技術を作る場合には、その考え方はうまく機能しません。本来なら、できるだけ多くの人が使える技術を目指したいはずですから。
私は、科学の世界で作られた規範の一部が、そのまま技術研究に持ち込まれていて、それが非常に不合理になっていると思っています。もし本当にめざしているのが、「より多くの人のための、より良い技術」であり、「より多くのユーザーが使える包摂的な技術」なのだとしたら、開発の初期段階で一部のユーザーを排除してしまうやり方は、とても問題があります。
だから、私たちのコンサルティンググループでの活動は本当に面白いんです。私はそこで、自分の意見を全部言うわけではありません。ただ、人々が何を語るのかを聞き、記録していく。参加者の募集もかなり幅広く行っています。私たちは、多様な人たちに集まってほしいと思っているんです。

- アシュリー・シューさん
障害者も多様であるということを知ってもらう
田中 コンサルティンググループには、実際にどんな方がいるのでしょうか?
シュー 高齢の人もいれば、18歳以上の若い人もいます。コンサルタントとして参加してもらうには成人である必要があるので、対象は18歳以上になります。ただ、たとえ若い人向けの技術について話している場合でも、障害のある大人たちの多くは、かつて障害のある子どもでした。だから、私たちのグループには、そうした「生きた経験に基づく専門知」があるんです。しかも、彼らは本当に優れたアイデアを持っています。ときには、想定されていた使い方そのものを広げてくれることもあります。
たとえば、ある技術について、「これは視覚障害者向けだ」とエンジニアが考えているケースがあるとします。「これは盲目の人にとって素晴らしい技術だ」と。そこで私たちは、コンサルティンググループを呼ぶんです。すると、「いや、視覚障害者は実はそこに困っていないと思う」と言う人が出てきたりする。あるいは、「あなたが想定しているのとは違って、私のような身体性を持つ人の場合は……」という話が出てきたりする。
そういう場面では、ときにエンジニア自身が、自分の中にあるバイアスに気づかなければなりません。そして、こういう研究には、ある程度の謙虚さが必要なんだと思います。
つまり、参加者たちは、研究者を喜ばせる必要がないんです。私たちは最初から、「障害者同士でも意見は一致しない」ということをかなり明確にしています。だから、エンジニアが提案したものに対して、「自分はそうは思わない」とはっきり反対する人もいます。でも、私はそれを見ることがとても重要だと思っています。
田中 とてもよくわかります。一見同じカテゴリーの障害に見えても、その障害がその人の人生や生活でどのような位置付けを占めるかは人によって異なるので、多様な意見が出るのは自然なことですね。
シュー 障害をめぐる語りでは、しばしば「自分たちが聞きたいことを言ってくれる障害者」の声だけを選び取ってしまいがちです。たとえば、私が参加している切断者のグループには、テクノロジーの話ばかりしていて、新しい技術が出るたびにものすごく興奮する男性が一人います。彼にとっては、どんな技術開発も「良いこと」なんです。でも、彼はかなり例外的な存在で、グループ全体を代表しているわけではありません。もちろん、彼が違う考えを持っていること自体は問題ではありません。人によって望むものが違う余地は、当然あるべきだと思っています。
ただ、そのこと自体を伝えるのが難しいんです。実際に、障害者同士がある技術について議論していて、それぞれ異なる考えを持っている場面を見ない限り、なかなか理解されない。ある人には必要でも、別の人には「なぜそれが必要なのかわからない」ということもあります。だからこそ、コミュニティにきちんと相談することが重要なんです。合意がどこにあるのか、本当に共通する問題は何なのかを見極めるために。というのも、ときには、実はかなり特殊な問題ばかりを追いかけてしまっていることもあるからです。もちろん、それ自体は面白いし、興味深いことでもあります。
たとえば、パラリンピックの事例を考えるとわかりやすい。あれは、ごく特殊な条件の中で生まれる問題です。ある意味では、「アンコモン・サイボーグ」なんです。

- インタビューの様子
障害者コミュニティという蓄積がもらたしてくれるもの
小林 何度か言及されてきた「コモン・サイボーグ」と「アンコモン・サイボーグ」という言葉について、どんな意味なのか教えてください。
シュー 私が言いたいのは、いわば「エリート的なユーザー」と、それ以外の人たちを区別したいということなんです。
さきほども言及した、ジリアン・ヴァイゼ の「コモン・サイボーグ」という文章の言葉を借りていますが、彼女は、「コモン・サイボーグ」が何を気にしているのかについて書いています。その内容は、人々が「障害者ならこういうことを気にしているはずだ」と思っているものとは全然違うということ、あるいは、私たちが「障害者はこう考えるものだ」と教え込まれてきたものとも違うということです。私は、彼女が「コモン・サイボーグ」と 「トライボーグ(Try-borg)」 ――つまり、技術に強い関心を持ち、しばしば技術エリートの一部でもある人たち――を対比しようとしていたのかはわかりません。
でも、私はここで別の区別をしたいと思っています。障害者のコミュニティやグループはとても重要だ、ということです。というのも、人は孤立した状態にいると、かなり奇妙なことを考えてしまうことがある。そして、それはしばしば、自分が属するコミュニティ全体にとっては適切ではなかったりする。
多くの障害者は、ある日突然、障害者になります。多くの切断者も、突然切断者になる。でも、その時点では、同じ障害のある人をほとんど知らなかったり、もっと広い障害者コミュニティを知らなかったりすることが多いんです。そして、ときには、人はあまりにもエイブリズムに浸された状態にあるので、「自分はこうなりたい」「こういう技術が欲しい」と思っていること自体が、数年後の自分の経験とは一致しなかったりする。それは、自分の障害についての広い経験や、コミュニティとの関わり、あるいは利用可能な技術についての知識がまだ十分ではないからです。
だから、ときには、障害コミュニティや障害者としての誇りから切り離され、社会的に孤立している人たちが、自分自身についてテクノエイブリズム的なことを語ってしまう場合もある。つまり、人は内面化したエイブリズムを持ちうる、ということです。
そして、その語られ方の中にも、こうした問題はよく表れています。たとえば、ある一人の障害者が自分の障害について何かを語ると、その声だけを取り上げて、「これが障害者の考え方だ」と一般化されてしまうことがよくあります。でも、私はそれを本当に問題だと思っています。というのも、そうした語りは、その人自身の障害の経験が非常に限られたものだからこそ出てくる場合があるからです。
私は、自分自身がサイボーグとしての身体をさまざまな形で経験してきましたし、他の人たちと障害や経験について対話もしてきました。だからこそ、そう言えるんです。
私は障害当事者のコミュニティに属していて、そこで会話をしています。また、ときには、自分では「障害者ではない」と思っている人でも、自分のあり方ゆえに偏見や差別を経験していることがあります。だからこそ、そういう対話が存在することが、社会の中でサイボーグとして生きる経験を、より広く理解するうえで本当に重要なんです。
孤立している障害者はいますし、多くの人が他の障害者から切り離された状態に置かれている現実もあります。障害者は、自分の障害を隠すよう促されることがとても多い。すると、障害について語ること自体が難しくなり、自分の中にエイブリズムを取り込んでしまうことが起こります。公共の場に出ることすら恥ずかしいと感じてしまう。そういう経験を、多くの障害者が人生のどこかでしています。
自分の身体や心に対して恥を感じさせられる経験は、とても恣意的に与えられることがあります。たとえば、いじめのような形で、人を社会から排除する手段として。そして、多くの障害者が社会から引きこもってしまうことがある。なぜなら、自分は「十分ではない」と思わされているからです。
そういう状況では、テクノエイブリズムの物語はとても魅力的に見えてきます。「正しいテクノロジーさえあれば、自分は社会に適応できるはずだ」と感じてしまう。これが、内在化されたテクノエイブリズムです。もちろん、それは内在化されたエイブリズムとも重なっています。
だから、「コモン・サイボーグ」と「アンコモン・サイボーグ」の違いを考えるとき、「アンコモン・サイボーグ」とは、こうしたつながりを持っていない人たちのことなのだと思います。彼らは、自分の障害経験をより広い文脈で語ることが難しい。なぜなら、自分自身に対してエイブリズムを向けてしまっているからです。私自身にも、そうした内在化されたエイブリズムの経験があります。
田中 障害者コミュニティの中で対話を重ねることが、内面化されたエイブリズムに気づき、自分自身の経験を位置づけ直すことにもつながるのですね。そして、その蓄積された経験や知が、テクノロジーをより包摂的なものへと変えていくのだということがよくわかりました。
シュー 私は後天的に障害を得た人間です。生まれつきではありませんでした。でも、そもそも誰も「変化しない身体」のまま生きているわけではありません。私たちは皆、成長し、変化していく存在です。そして障害は、時代や場所を超えて、常に存在してきました。それぞれが異なる身体を持っているという意味で、障害は「新しいもの」ではありません。たとえ多くの病気が治療されるようになったとしても、障害そのものはなくならないでしょう。そして私たちは、これからさらに「障害のある世界」に向かっていくのだと思います。
気候変動や感染症の流行、グローバルな移動によって、人々の身体はより多様になり、障害のあり方も変化していく。これは中立的な事実です。もちろん、それを脅威のように感じる人もいるでしょう。でも、私は障害そのものを「悪いもの」だとは考えていません。私は、アンコモン・サイボーグという問題に応答しようとしているんです。そして今でも、障害者を社会から排除する力は存在しています。価値づけや序列化の仕組みが、それを正当化している。
たとえば、多くの障害者が施設に入れられ、文字通り社会から隔離されることがあります。施設の中では、他の障害者の存在を感じられるかもしれません。でも、もっと限定的な孤立の形では、「障害をどう受け止めるか」「どう語るか」に関して、大きな危険があると思います。だからこそ、外に出ること、そして障害者として可視化される存在であることが重要なんです。
そうすることで、世界に対して「私たちはここにいる」と認識させることができるのです。
小林 貴重なお話をありがとうございました。私自身、アシュリーさんの著書や論文から多くを学び、テクノロジーのあり方を問い直してきました。本日直接お話を伺えたことで、その視点がより鮮明になったと感じています。「エイブリズム」や「テクノエイブリズム」という概念は、日本ではこれまで触れる機会の少ないものでした。AIなどのテクノロジーが急速に進化する今だからこそ、読者のみなさんとこの視点を共有できたことには大きな意味があると確信しています。本日いただいた視点を足がかりに、これからの社会とテクノロジーをめぐる議論を、みなさんとともに深めていきたいと考えています。
そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #1
そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #2
そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #3
★01 アメリカの慈善信託財団。高等教育、人文学、文化芸術、文化財保護などの分野へ多額の助成金を提供し、社会の多様性や公正性の向上を支援している。

- アシュリー・シューAshley Shew
- ヴァージニア工科大学リベラルアーツ・人間科学部教授。専門は、技術哲学、生命倫理、障害学。自らの障害の経験や知を出発点としてテクノロジーを捉え直す研究で知られ、「技術は障害を克服するためのもの」という通念を批判的に問い直している。「テクノエイブリズム」という概念を提起し、障害者を「改善すべき存在」とみなす技術観を鋭く批判。現在は、障害者主導の技術開発や包摂的な未来社会の構想、バイオエシックス教育にも取り組んでいる。主な著書に、Against Technoableism: Rethinking Who Needs Improvement (Norton Shorts)。ポートレート: Mallory Kay Nelson。

- 田中みゆきたなか・みゆき
- キュレーター・プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害当事者含む鑑賞者とともに再考する。2022年7月から12月までACCのフェローシップを経てニューヨーク大学障害学センター客員研究員。2025大阪・関西万博 日本館基本構想クリエイター。主な仕事に、「ルール?展」(2021年、21_21 DESIGN SIGHT)、「語りの複数性」(2021、東京都公園通りギャラリー)、「オーディオゲームセンター+CCBT」(2024、シビック・クリエイティブ・ベース東京)など。主な書籍に、『誰のためのアクセシビリティ?』(リトルモア)など。

- 小林茂 こばやし・しげる
- 情報科学芸術大学院大学[IAMAS]図書館長・教授。人工知能などのテクノロジーは、中立の単なる道具でもなければ不可避で抗えない決定論的なものでもなく自在に解釈できるものであると捉え、多様な人々が手触り感を持って議論に参加できるような手法を探求している。著書に『テクノロジーって何だろう?——〈未完了相〉で出会い直すための手引き』(ビー・エヌ・エヌ)、監訳書に『デザインと障害が出会うとき』(オライリー・ジャパン)など。岐阜県大垣市において隔年で開催されているメイカームーブメントの祭典「Ogaki Mini Maker Faire」では2014年より総合ディレクターを担当。撮影:丸尾隆一
