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そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #2

「表現とケアとテクノロジー」をめぐる4つの対話 ④

そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか(#2)の画像

「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを通して表現の捉え方を再考する活動に取り組む田中みゆきさん。「アート」と「ケア」の視点からさまざまな先駆的事業を実施している奈良県の市民団体「たんぽぽの家」が主宰するプロジェクト「Art for Well-being」に全体監修として関わっている小林茂さん。

本連載インタビューでは、障害者支援とテクノロジー実装の最前線に立つ実践者たちにたいして、二人が行った4つの対話を掲載していきます。対話を通じて、「誰のための技術か?」を多様な視点から深掘りしていきます。(本連載イントロはこちらより)

第4の対話では、自らの障害の経験や知を出発点としてテクノロジーを捉え直す研究で知られる、ヴァージニア工科大学教授アシュリー・シューさんに、お話を聞きました。中篇では、障害者を支援するはずのテクノロジーが、結果として「障害は克服されるべきもの」という価値観を強化してしまう問題を、「テクノエイブリズム」という概念を通じて解き明かします。(全3回)

構成・編集:山田兼太郎(DISTANCE.media)

Contents

    「障害者は本来こうあるべきだ」という押しつけ

    田中 外骨格型ロボットをはじめとする障害に関するテクノロジーは、必ずしも当事者たちが望んでいるものとは限りません。むしろ、「正常」とされる身体に近づけることを障害者に求め、社会の価値規範を押しつけるものにもなりうる。シューさんは、こうした問題を「テクノエイブリズム」という概念を通じて論じています。この発想について、もう少し詳しく聞かせてください。

    シュー テクノエイブリズムは、「私たちは健常な状態に近づくべきだ」と前提しています。そして、それは実現可能なものだとも考えている。もちろん、治療法を望む障害がある、ということ自体を私は否定しません。私はテクノロジーに反対しているわけでも、治療に反対しているわけでもないんです。大事なのは、テクノロジーが「当事者が本当に望んでいること」に応えるものであるべきだ、ということです。実際、障害によっては、当事者コミュニティ自身が研究資金を集め、治療法や技術開発を後押ししているケースもあります。それは非常に重要なことだと思います。

    ただ同時に、多くの人にとっては、たとえ研究が進んでいても、たとえ治療を望んでいたとしても、その実現までの時間を生きていかなければならない。だからこそ、「今」をどう生きられるかが重要なんです。どんな技術があれば、今の生活がより良くなるのか。それは切実な問題です。人は、「いつか来るかもしれない未来の治療」を待ちながらだけ生きるべきではない。しかも、そのいつかは、自分の生きているあいだには訪れないかもしれないのですから。

    そして、多くの障害に関して言えば、そもそも「治療」がそれほど重要ではない場合もある、と私は思っています。もちろん、その点についてはもっと細かく説明することもできます。一方で、別の障害については、私たちはまだ解決にはほど遠い段階にいます。仮に研究がかなり進んでいたとしても、その途中の時間が、障害者の毎日のすべてを「いつか非障害者になりたい」という希望だけで埋め尽くすわけではありません。だから私たちは、障害者がいま良い人生を生きられる世界を作るべきなんです。

    田中 治療の可能性を追求することと、障害者がいま生きている生活をより良くすることは、別の問題として考える必要がありますね。未来の治療への期待によって、現在の生活が後回しにされてはならない。

    シュー そこには、「障害者は、何かを受け取るにしても、健常者より少ないものしか受けるに値しない」という前提が、どこかに潜んでいます。テクノエイブリズムは、「障害者はこういうものを望んでいるはずだ」と決めつけてしまう。そしてその発想は、多くの場合、「障害者は本来こうあるべきだ」という非障害者側の価値観によって導かれています。私はこの問題を、単なるテクノロジーの話としてだけではなく、「治療」や「セラピー」の問題としても考えています。だから、「テクノエイブリズム」という言葉だけでは十分ではないのかもしれません。もっと広く、人々の行動を正常化しようとする技法やアプローチ全体について考える必要がある。

    私が本の中で取り上げているのも、たとえば自閉症に対する治療的アプローチです。一見すると、それらは「支援」や「改善」のための療法のように見えるかもしれない。でも実際には、自閉症の当事者をより苦しめてしまう場合がある。そして短期的には行動を修正できたように見えても、長期的には本人にとって有害になることがあるのです。

    私たちは、もっと「違い」に開かれた世界を考えることができるはずです。とくに、人それぞれの振る舞いや行動の違いに対して。もしその行動が本人に関わるもので、本人や他人を傷つけるものでないのなら、私たちは公共の場においても、もっと幅広い振る舞いを受け入れられるのではないでしょうか。つまり、人が「その場にいる」ということ自体に対して、もっと多様なあり方を認めてもいいはずなんです。

    そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか(Against Technoableismの装幀)の画像
    アシュリー・シューさんの著書Against Technoableism

    障害そのものをなくすテクノロジーと、生活の質を上げてくれるテクノロジー

    田中 シューさんがテクノエイブリズムを論じるとき、そこでいう「テクノロジー」には、機械や装置だけではなく、人の行動を矯正したり管理したりする「テクニック(技法)」も含まれている、ということでしょうか?

    シュー はい、まさにそうです。私がこう考えるようになったのは、とくに自閉症に関する事例についてかなり深く考えてきたからです。人は、自分の状態を「意志の力だけで克服する」ことはできません。だから私は、自閉症やADHDのようなものについて考えるんです。それらは、その人が「どういう人間か」、あるいは「どのような特性を持っているか」ということの一部です。

    もしかすると、こうした特性が人類の中に存在していることには、進化的な理由があるのかもしれません。そして、ある環境では、それらは障害にならない可能性もある。けれど、現在の社会環境の中では、「障害」として現れてしまうのです。かつては、そうした特性が障害として認識されていなかった時代もあったかもしれません。でも、現代社会の文脈のなかで、私たちはそれらを障害として捉えるようになった。だからといって、それが本当ではないとか、存在しないという意味ではありません。むしろ重要なのは、それにどう向き合うかです。私は、働き方や環境そのものをどう変えられるか、ということを考えています。

    たとえばADHDについて言えば、集中の困難さが問題になっている場合には、薬が助けになることもあります。でも、ときには「働く時間帯」を変えるだけで助けになることもあります。あるいは、仕事の進め方そのもの——ワークフローや、求められる成果、締め切りの設定、リマインダーの仕組み——を調整することで、大きく状況が変わることもあります。特にリマインダーは、とても重要です。ADHDの人にとっては、リマインダーがあるかどうかが日常を大きく左右することもあるんです。

    私は「ケモブレイン(chemo brain)」[★01]★01 があるので、ADHDの人たちと感覚が重なる部分が多いんです。以前は、もっと物事を整理して管理できていた感覚を覚えています。でも今は、「時間」をうまく扱うのが難しい。自分でも説明しづらいんですが、時間の感覚に問題があるんです。私は朝のほうがうまく機能します。午後や夜よりも、朝のほうが時間を把握しやすいからです。だから、今日はこんなに早い時間にミーティングを設定してくれて、本当にありがたいです〔このインタビューは現地時間の朝6時=日本時間の19時から行われた〕。時間が遅くなればなるほど、「ミーティングがあること自体」を忘れてしまう可能性が高くなるので。

    そこで、私は、ADHDのある人たちから学んだ、さまざまな管理のためのテクノロジーを使っています。コミュニティに耳を傾けることで、問題に対処できるようになるんです。でも、それは「障害の程度が軽くなった」という意味ではありません。そこが、とても理解されにくいところだと思います。つまり、障害は依然として存在していて、状況によっては実際に生活を困難にする。でも同時に、それに対処するためのさまざまな方法を身につけることもできる。そうすることで、障害を以前ほど「支障」として経験しなくなる場合もあります。私は時計にたくさんアラームを設定しています。たとえば、午後2時28分になるとアラームが鳴るんですが、子どもを学校に迎えに行かなければならないからです。アラームなしで覚えていられるかって? 絶対に無理です。

    実際には、「障害そのものをなくす」わけではなくても、生活を良くしてくれる障害者向けのテクノロジーはたくさんあります。そして私は、テクノロジーについて語るとき、多くの人にとってこの二つを区別するのは本当に難しいことなのだと思います。

    そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか(アシュリー・シューさん)の画像
    アシュリー・シューさん

    テクノエイブリズムが障害をスティグマ化する

    田中 「テクノエイブリズム」という概念について、何か具体的なきっかけがあってたどり着いたのでしょうか? それとも、研究やご自身の経験を通して、徐々に形になっていったのでしょうか?

    シュー 私は障害者になって12年になります。もっとも、クローン病を患っていたので、おそらく実際にはその前から障害はあったのだと思います。何度か症状の悪化もありました。でも当時は、それが何なのかわからず、診断もついていませんでした。だから、自分を障害者だとは思っていなかったんです。治療の過程でも、いろいろな段階で、自分が障害者なのかどうか確信が持てませんでした。ただ、切断手術を受けて義足ユーザーになったとき、「自分は障害者になるんだ」とはっきり理解しました。身体の一部を切除するわけですから。それは明確に「障害」と呼ばれるものです。そして、その時点で、ある意味では少し気持ちが楽になりました。

    化学療法の影響による聴覚の変化についても、「これは障害として数えられるんだ」と受け止められるようになったんです。私は化学療法によって聴力を失いました。だから、「障害者ではなかった頃」のことも覚えています。でも実際には、障害者になる以前から、私は多くのことを学んでいました。たとえば、人工内耳をめぐる論争についても知っていましたし、医学的ジレンマや哲学に関する授業も担当していました。だから、障害に関するさまざまな事例には以前から馴染みがあったんです。

    その頃は、まだ「テクノエイブリズム」ということを考えていたわけではありません。でも、自分が障害者になりつつあった時期や、実際に障害者になった直後、私は障害のある友人たちに「何を読めばいい?」と尋ねていました。そして、さまざまな障害者の回想録を読み始めたんです。足の切断手術を受けた直後の一か月間、私はずっと上肢切断者の本ばかり読んでいました。なぜそうしていたのか、自分でもよくわかりません。ちなみに、下肢切断者のものはほとんど読んでいません。ただ、切断については読みたかった。

    おそらく、自分自身の状況を真正面から見つめることはまだできなかったんだと思います。ゆえにか、私は障害に関する回想録や障害史をたくさん読みました。そうしているうちに、テクノエイブリズムは本当にいろいろな物語の中で繰り返されているのだ、と気づいたんです。たとえば、歴史家のジャイプリート・ヴィルディ[★02]★02の研究にも、それが見られます。彼女はHearing Happiness: Deafness Cures in History[★03]★03という本の中で、「聴覚障害の治療法」として宣伝されてきた100年分の製品や広告を調べています。でも、そのどれ一つとして、実際には聴覚障害を治してはいないんです。それにもかかわらず、広告を見るたびに、「これを試さなければならない」という気持ちにさせられる。そしてその過程で、常に「聴覚障害であること」がスティグマとして強化されていくのです。

    だから、こうしたあり方において、テクノエイブリズムは結果として障害をスティグマ化してしまうのです。表向きには、「障害を治す」とか、「障害者をエンパワーする」と語られていたとしても。

    田中  非常に重要な指摘だと思います。障害者を支援し、エンパワーするという善意のもとでつくられたテクノロジーが、結果として「障害は治すべきもの、恥ずべきものだ」という認識を強化してしまう。その矛盾には、技術開発に携わる人だけでなく、私たち自身も向き合う必要があります。

    シュー 私は足の切断をきっかけに、外骨格[★04]★04 についてのさまざまな議論を追っていました。たとえば、「Crippled Scholar」[★05]★05 というブログでは、外骨格プロジェクトに対する詳細な批評が行われていました。それから、リズ・ジャクソン[★06]★06がTwitterで使っていた「#DisabilityDongle」というハッシュタグにも注目していました。これは基本的には、「誰も困っていなかった問題」に対して、非障害者が解決策を作り出してしまう、という状況を指しています[★07]★07 。私は、こうした問題提起がすでに行われているのだと感じています。

    そして実際、この傾向は、多くの障害者の書きものの中に繰り返し現れます。非障害者たちは、「自分たちは障害者が本当に望んでいるものを作っている」と思っている。そして、「自分たちは彼らを救っている」と考えながら、熱心に開発を進めている。さらに、エンジニアたちはしばしばメディアで称賛されます。それは、障害について扱っているにもかかわらず、障害者本人にはまったく取材していないニュース記事などにも、はっきり表れています。

    新しい義肢技術についての話は、たいてい「人生を変える技術」として語られます。でも、その多くは実際には商業的に成功しませんし、誰の人生も変えないまま終わることが多い。それにもかかわらず、PRやメディアの中では大きく称賛されるんです。だから私は、みんながすでに感じ取り、語っていたこの傾向を指し示すための言葉が欲しかったんです。

    これは、それまでも特定の障害や特定の技術についてはよく議論されていました。でも、それら全体を横断する名前がなかった。だから、「テクノエイブリズム」という言葉は、ある意味では、他の研究者たちの仕事を踏まえたものなんです。みんな、この傾向には気づいていた。そして多くの人が、それぞれ異なる形でこの問題を言語化していました。

    たとえば、「#DisabilityDongle」という言葉もそうですし、ジリアン・ヴァイゼ[★08]★08 が書いている「コモン・サイボーグ」をめぐる議論もそうです。つまり、同じ問題意識はすでにいろいろな場所に存在していたんです。だから、「テクノエイブリズム」という言葉が定着して、多くの人に響いたことを私はとても嬉しく思っています。実は私、自分でこの言葉をGoogle検索したことがあるんです。「こんな言葉、絶対にもう誰かが使っているはずだ」と思って。でも、存在していなかった。とはいえ、自分が何かものすごく斬新なことを思いついた、という感覚はありませんでした。ただ、この言葉によって、障害をめぐるさまざまな語りを一つにつなげやすくなったとは感じています。

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    田中みゆきさん

    テクノエイブリズムへのアカデミアからの反応

    田中 では、「テクノエイブリズム」という概念を発表したとき、特に工学や技術研究の領域では、どのように受け止められたのでしょうか?

    シュー 最初に使い始めたのは、障害学のカンファレンスのような場でした。そこには、技術開発が「私たちを治してくれるもの」として語られることに、すでに違和感を持っていた人たちが集まっていました。つまり、こうした物語に馴染みのある人たちです。すると、ほかの人たちもこの言葉を使い始めたんです。その頃、誰かにこう言われたのを覚えています。「すぐに論文を書いたほうがいい。でないと、誰かにこの用語を取られてしまうよ」って。

    それに対して私は、「ただの言葉なんだから、誰でも使えばいいじゃない」と思っていました。でも最終的には、『IEEE Technology and Society Magazine』[★09]★09 に、「テクノエイブリズム」という言葉をタイトルに入れた論文を投稿しました。その中では、技術開発について私たちがどのように語るかを通して、エイブリズムがどのように再生産され、強化されていくのかを、初期の三つの事例を通して論じています

    田中 技術研究者やエンジニアからフィードバックはありましたか?

    シュー はい。でも実際には、「その問題をどう避ければいいのか」と尋ねられることのほうが多かったですね。この概念そのものを真正面から否定したり、軽蔑的に扱ったりする文章を書いた人は、私が知る限りでは一人くらいしかいません。

    田中 具体的には、どのような批判だったのでしょうか?

    シュー それは、リハビリ工学の学術誌に載った短い論説でした。長年、人工内耳関連の技術に携わってきた人が書いたもので、個人的に傷ついたり、不快に感じたりしている様子が伝わってきました。彼女は本当に、「テクノロジーは障害者に力を与えるものだ」と信じているんです。

    でも、私はその考え自体に反対しているわけではありません。彼女は、私の言おうとしていることを誤解しているのだと思います。私はむしろ、障害者自身が技術開発に関わることで、私たちにとってより良いテクノロジーが生まれると考えています。私は反テクノロジーではありません。

    ただ、そういうふうに受け取られてしまったんです。とはいえ、それが活字になった批判としては、いちばん強いものでした。その後は、むしろさまざまな工学系のグループから、「どうすればこうした問題を避けられるのか」「対象となるコミュニティとどう協働すればいいのか」「障害者を研究者としてよりよく巻き込み、適切にクレジットを与えるにはどうすればいいのか」といったテーマで話してほしいと依頼されるようになりました。そして、それが今の私の研究の大きな部分になっています。


    そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #1
    そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #2
    #3(8/7公開予定)

    ★01 抗がん剤治療の間、もしくはその後に、記憶力、思考力、集中力が一時的に低下する症状。★02 Jaipreet Virdi。医学・科学技術・障害の歴史を専門とする歴史学者。ビクトリア大学准教授。自身も4歳で失聴した当事者であり、障害者の実体験と医療技術の関わりを研究。著書にHearing Happinessなどがある。★03 Jaipreet Virdi, Hearing Happiness: Deafness Cures in History, The University of Chicago Press, 2020★04 身体の外側に装着して人間の筋力や運動機能を補助・拡張する装置。★05 障害学やアクセシビリティ、慢性疾患などをテーマに発信している海外の著名な障害者権利活動家・ブロガーのペンネーム。自身の経験に基づき、社会的な障壁や制度の問題点を鋭く分析・発信。★06 Liz Jackson。アメリカを拠点に活動する障害当事者のデザイナー/活動家。デザイン批評集団「The Disabled List」を設立し、障害者を単なる「支援の対象」ではなく「主体的で優れた専門家」として捉え直す変革を牽引。自身も特発性ニューロパチーという難病を抱えており、紫色の杖を愛用する。★07 障害者の本当のニーズを無視し、非障害者のエンジニアが自己満足や話題作りのために開発した「一見未来的だが実用性の低い支援技術」を批判・揶揄するSNS上の言葉。★08 Jillian Weise (1981- )。 アメリカの詩人・小説家・障害者権利活動家。義足を使用し自らを「サイボーグ」と称する。代表作The Amputee's Guide to Sex(義足者のセックス・ガイド)などで、障害・性・技術のタブーに挑み、表現におけるエイブリズムを批判している。★09 IEEE SSIT(技術の社会的影響に関する学会)が発行する学術雑誌の名称。AIなどの先端技術が社会や倫理に与える影響や課題を多角的に検証・議論する場を提供。

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    アシュリー・シューAshley Shew
    ヴァージニア工科大学リベラルアーツ・人間科学部教授。専門は、技術哲学、生命倫理、障害学。自らの障害の経験や知を出発点としてテクノロジーを捉え直す研究で知られ、「技術は障害を克服するためのもの」という通念を批判的に問い直している。「テクノエイブリズム」という概念を提起し、障害者を「改善すべき存在」とみなす技術観を鋭く批判。現在は、障害者主導の技術開発や包摂的な未来社会の構想、バイオエシックス教育にも取り組んでいる。主な著書に、Against Technoableism: Rethinking Who Needs Improvement (Norton Shorts)。ポートレート: Mallory Kay Nelson。
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    田中みゆきたなか・みゆき
    キュレーター・プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害当事者含む鑑賞者とともに再考する。2022年7月から12月までACCのフェローシップを経てニューヨーク大学障害学センター客員研究員。2025大阪・関西万博 日本館基本構想クリエイター。主な仕事に、「ルール?展」(2021年、21_21 DESIGN SIGHT)、「語りの複数性」(2021、東京都公園通りギャラリー)、「オーディオゲームセンター+CCBT」(2024、シビック・クリエイティブ・ベース東京)など。主な書籍に、『誰のためのアクセシビリティ?』(リトルモア)など。
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    小林茂 こばやし・しげる
    情報科学芸術大学院大学[IAMAS]図書館長・教授。人工知能などのテクノロジーは、中立の単なる道具でもなければ不可避で抗えない決定論的なものでもなく自在に解釈できるものであると捉え、多様な人々が手触り感を持って議論に参加できるような手法を探求している。著書に『テクノロジーって何だろう?——〈未完了相〉で出会い直すための手引き』(ビー・エヌ・エヌ)、監訳書に『デザインと障害が出会うとき』(オライリー・ジャパン)など。岐阜県大垣市において隔年で開催されているメイカームーブメントの祭典「Ogaki Mini Maker Faire」では2014年より総合ディレクターを担当。撮影:丸尾隆一

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