F8-5-1
そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #1
「表現とケアとテクノロジー」をめぐる4つの対話 ④
「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを通して表現の捉え方を再考する活動に取り組む田中みゆきさん。「アート」と「ケア」の視点からさまざまな先駆的事業を実施している奈良県の市民団体「たんぽぽの家」が主宰するプロジェクト「Art for Well-being」に全体監修として関わっている小林茂さん。
本連載インタビューでは、障害者支援とテクノロジー実装の最前線に立つ実践者たちにたいして、二人が行った4つの対話を掲載していきます。対話を通じて、「誰のための技術か?」を多様な視点から深掘りしていきます。(本連載イントロはこちらより)
第4の対話では、自らの障害の経験や知を出発点としてテクノロジーを捉え直す研究で知られる、ヴァージニア工科大学教授アシュリー・シューさんに、お話を聞きました。前篇では、障害者を非障害者よりも劣った存在とみなす価値観である「エイブリズム」という概念について伺いました。(全3回)
構成・編集:山田兼太郎(DISTANCE.media)
-
Contents
-
「エイブリズム」とはなにか?
小林 こんにちは。今日はテクノロジーと障害をめぐる問題を考えていくにあたっての根源的な視点について、アシュリーさんにお話しをうかがいます。テクノロジーと障害というと、すぐに連想されるのは「障害のある人の困りごとをテクノロジーで支援して解決する」ことを目的とする支援技術です。しかしながら、実際のところそう単純な話ではなく、その背景には複雑な問題が潜んでいます。私たちはこの問題にどう向き合うべきなのでしょうか。まさにこのテーマで「テクノエイブリズム」という概念を提唱し、長年研究されてきた第一人者であるアシュリーさんに、思考の手がかりを伺っていきます。アシュリーさん、よろしくお願いします。
シュー こんにちは、アシュリー・シューです。ヴァージニア工科大学の科学技術社会学(STS)分野で教鞭をとっています。私の研究は、テクノロジーと障害の関係、とりわけ障害のある人たち自身がテクノロジーについてどのように考え、どのように語り、書いているのかに焦点を当てています。そうした視点は、障害のない人たちが私たちについて語ったり書いたりしてきたものとは、しばしば大きく異なります。
私には複数の障害があります。もしここで障害とテクノロジーについて話すのであれば、そのことも重要な背景になると思います。いま私は補聴器をつけていますし、みなさんからは見えないと思いますが、義足も装着しています。さらにクローン病のため免疫抑制剤も使用しているので、少なくとも3つのテクノロジーが、いまこの瞬間、私の身体の内外に存在していることになります。

- アシュリー・シューさん
田中 近年、日本でもアクセシビリティやインクルーシブデザインへの関心は高まっています。しかし、その前提にある「エイブリズム」という価値観まで議論される機会は、まだ多くありません。アシュリーさんは、Against Technoableism: Rethinking Who Needs Improvementという本を出されていて、エイブリズムとテクノロジーの関係について思考を重ねられています。「エイブリズム」は、身体的・精神的な「障害のない状態(健常)」を標準とし、そこから外れる人を無意識のうちに不利な立場に置いたり、劣っているとみなしたりする社会的な偏見や価値観のことをさしますが、まずは、「エイブリズム」の基本的なところからお話しできればなと思います。
シュー 「エイブリズム」の定義はいくつかありますが、私はとくに、障害者運動家のタリラ・A・ルイス[★01]★01や社会心理学者のミシェル・ナリオ=レドモンド[★02]★02の研究を参照しています。まず強調したいのは、「エイブリズム」は障害のある人だけが経験するものではない、という点です。これはエイブリズムを理解するうえでとても重要なポイントだと思っています。私たちはしばしば、障害の文脈の中でエイブリズムについて語りますし、その概念も障害を軸に構築されてきました。しかし実際には、エイブリズムはもっと広い範囲で、人間をどのように価値づけ、序列化するかという問題に関わっています。
タリラ・A・ルイス は2022年に非常に優れた定義を提示しており、現在も更新が続けられています。その定義では、「エイブリズム」を、人々の身体や精神をめぐる価値のヒエラルキーを生み出し、強化していく仕組みとして捉えています。障害のある人びとは、そのヒエラルキーの中に位置づけられている存在なのです。
田中 障害だけの問題ではなく、人間の価値づけそのものに関わる問題なのですね。
シュー しかし、エイブリズムは、単に「障害」の有無だけによって成り立っているわけではありません。私たちが通常「障害」と呼ぶカテゴリーとは無関係な理由によっても、人は「障害者」と見なされうるのです。たとえば、エイブリズムが植民地主義や、人種・国籍に関する考え方とどう結びついてきたのかを考えてみてください。あるいは、生まれた場所や暮らしている場所、生産的な労働者になれるかどうか、といった価値観とも深く関わっています。
「誰が生産できるのか」という発想は、歴史的に「障害」という概念の形成に大きく関わってきました。誰が障害者とされ、誰がそうでないとされるのかは、しばしば労働環境によって決まります。たとえば、工場で一日8時間、10時間立ち続けて働けるかどうか。そうした基準が、障害と非障害を分ける境界線になってきたわけです。つまり、障害というのは、生まれながらに自然に存在する固定的なカテゴリーではありません。さまざまに異なる状態や特性を、ひとまとめに収めているカテゴリーなのです。本来なら別の文脈では単なる「違い」や「個性」として扱われるはずのものが、ある社会環境のもとでは「障害」として意味づけられてしまうのです。
私はまた、社会の側が「障害」が現れる空間を作り出している、ということも考えています。たとえば現在、日本やアメリカでは、ほとんどの人が人生のどこかで読み書きを学びます。だからこそ、ディスレクシア(失読症)のようなものが見つかるわけです。でも数百年前、多くの人がそもそも読み書きを教わらなかった時代には、「この人はディスレクシアだ」と判明すること自体がなかったでしょう。情報処理の仕方に違いがあったとしても、それは障害というカテゴリーには入らなかったはずです。読み書きが一般化する以前なら、そうした人たちは「他と違う存在」として認識されることすらなかった。では、誰が数えられ、誰が数えられないのか。そこにはどんなヒエラルキーがあるのか。ディスレクシアと診断されると、「特別な支援が必要な人」と見なされ、不利な立場に置かれます。でもそれは、社会が読み書き能力を非常に重視しているからです。何か生物学的に本質的な欠陥があるからではありません。
そして、私たちがひとまとめに「障害者」と呼んでいる人たちの集まりは、実のところかなり奇妙なものでもあります。ひどいジョークの導入みたいに聞こえるかもしれませんが、「盲目の人」と「手足を失った人」と「双極性障害の人」に共通しているものって何でしょう? 私はそのオチを持っていません。ただ、私たちはみな「障害者」と呼ばれていて、そのことが私たちの人生に何を意味するのか。そこが問題なのです。
田中 日本でも、「障害者」という一つのカテゴリーの中に、多様な経験や状態があることは十分に共有されているとは言えません。さらに同じ障害とされていても一人ひとりの状態や経験は異なるものです。それにも関わらず一括りに語られてしまう現実があります。

- 田中みゆきさん
価値のシステムとしてのエイブリズム
田中 ここまでのお話を聞いていると、「障害者をどう扱うか」という問題ではなく、「社会はどのような人間を価値ある存在として位置づけているのか」という問いに聞こえてきます。
シュー 「エイブリズム」とは、要するに、人をどう価値づけるかという社会全体の仕組みに関わっています。そして障害は、ほとんどの場合、そのヒエラルキーの下位に置かれる。さらに言えば、障害という考え方は、他の抑圧を支える土台の論理にもなっています。
私自身、このことを考えるとき、多くの場合、北アメリカの移民政策や奴隷制の歴史を念頭に置いています。というのも、アメリカ合衆国の歴史では、「人をどうランク付けするか」が、きわめて現実的で物質的な結果を生んできたからです。たとえば奴隷制のもとでは、「誰が売買できるのか」「誰に商品価値があるのか」が問題になっていました。そのとき障害は、人間の価値を文字通り金銭的に差別化する基準の一つとして機能していたのです。そしてそれは、現代にも形を変えて残っています。
たとえば今日でも、障害者は「生産性の低い労働者」とみなされがちです。合衆国の多くの州では、障害者に対して最低賃金以下の給料を支払うことが認められています。もちろん、すべての障害者が同じように生産的というわけではありません。でも一方で、非常に高い能力を発揮する障害者もいます。現実はもっと複雑で、ジグザグなんです。それにもかかわらず、「障害者は全体として生産性が低い」という大雑把な前提が存在している。これは一種の偏見であり、その偏見は「誰を移民として受け入れるのか/受け入れないのか」という政策にも反映されます。
障害者として考えると、私自身、他国の市民権を取得するのは簡単ではないだろうと思います。実際、こんな事例がありました。アメリカでは、カナダはリベラルで寛容な国だと考えられていますよね。でも数年前、ある家族がカナダへ移住し、市民権を取得しようとした際、ダウン症の成人した息子も一緒に移住しようとしていました。すると当局は、「あなたのダウン症の息子はカナダ市民にはなれない」と伝えたのです。そこにある前提は、「障害者は社会保障制度の負担になる存在だ」という考え方です。でも実は、同じような言い方は、特定の人種集団に対しても繰り返されてきました。「彼らは社会の負担になる」と。
だからこそ、エイブリズムとは単に障害についての偏見ではなく、「私たちが人間をどう価値づけるのか」という社会の根本的な問題に関わっているのです。エイブリズムは、障害に関する偏見という一般的な理解には収まらない、はるかに広範なものなんです。障害というカテゴリーは、その優劣を説明する理由の一部として使われているのです。

- 小林茂さん
そのテクノロジーは本当に障害者のニーズなのか?
田中 アシュリーさんは、その価値観がテクノロジーの設計や開発にも組み込まれていることを、「テクノエイブリズム」という概念で論じています。この考え方についても教えていただけますか。
シュー 私が「テクノエイブリズム(technoableism)」について考えるときには、多くの障害に関連するテクノロジーが、こうした社会の価値体系をどのように反映しているのかを問題にしています。その価値体系とは、エイブリズムそのものと言ってもいいし、あるいは社会に存在するヒエラルキー全般と言ってもいいでしょう。しかも、そのヒエラルキーは障害者同士のあいだにも存在しています。つまり、「よりましな障害」と「そうではない障害」がある、という感覚です。特に、四肢切断者(amputees)の場合は顕著です。彼らは、他の障害者とは異なる仕方で扱われることが多く、同じようには周縁化されません。あるいは聴覚障害について考えてみてもそうです。加齢によって生じる軽度の難聴には、他の障害に伴うような強いスティグマがつきまとわないことがあります。
これは、「障害者自身の語ることが、どれだけ信頼されるのか」という問題にもつながっています。つまり、自分自身についての専門家として、どれだけまともに扱われるのか、ということです。たとえば私は義肢装具士のところへ行って、「別のタイプの義足を試してみたい」と言うことができます。すると彼は、「いいですよ」と応じるかもしれないし、「それはあなたには合わないと思う。でも話し合ってみましょう」と言うかもしれない。そこでは、私自身がちゃんと対話の一部になっています。私が何を望んでいて、何を必要としているのかを、周囲が勝手に決めつけるわけではない。
でもテクノエイブリズムには、障害当事者のコミュニティに十分な相談もしないまま、「障害者はこういうものを望んでいるはずだ」「こういう支援が必要なはずだ」と決めつけてしまう傾向があります。だから、ときどき障害当事者が外骨格型ロボット(exoskeleton)[★03]★03を皮肉っぽく語る場面を見るんです。
なぜかというと、麻痺のある人たちが本当に必要としているものと、外から想像されている理想がズレているからです。少なくとも障害支援の文脈では、外骨格は主に麻痺のある人々に向けて提案されます。でも当事者の側からすると、「そんなものに莫大なお金をかけるくらいなら、もっと必要なことがたくさんある」と感じる場合がある。私にとって一番の問題は、「歩けないこと」ではありません。歩けないことを最大の問題だと思っているのは、むしろ周囲の人たちのほうなんです。
田中 障害当事者のニーズではなく、「正常な身体」に近づけること自体が目的化してしまう。その発想こそが、まさにエイブリズムということですね。そこには、「正常な身体」を基準とする価値観だけでなく、技術をつくる側と当事者との非対称な関係が表れています。日本でも、重要な論点だと思います。
シュー 外骨格型ロボットは、新たな問題を生み出す可能性もあります。たとえば麻痺のある人は、もともと褥瘡(じょくそう)(床ずれ)ができやすい。車椅子生活によって起きることもあります。でも外骨格の場合、装置を身体に密着させ、強く固定する必要があるため、さらに褥瘡のリスクが高まることがあるんです。しかも、感覚が失われている人は、「どこかが圧迫されて傷ついている」ということ自体に気づきにくい。その結果、褥瘡が深刻化しやすい。褥瘡は、単なる小さな傷ではありません。敗血症につながることもあるし、命に関わる場合だってある。麻痺のある人に限らず、自分の身体の異常を感覚として把握できず、姿勢を調整することも難しい人にとっては、こうした外骨格プロジェクトが、むしろ危険を増やしてしまうこともあるのです。だから当事者からすると、「社会はどうしても私たちを歩かせたいんだな」と感じることがあります。
でも実際には、私たちが本当に必要としている研究は別のところにあるかもしれない。たとえば、腸や膀胱の健康に関する研究などです。当事者にとっては、そういうテーマのほうが切実だったりする。あるいは、四肢切断者が集まると、私たちはよく「汗の処理(管理)」について話します。けれど、そうした研究はあまり注目されません。というのも、社会が語りたがる「未来のウェアラブル端末」といった華やかな「サイボーグ的未来像」とは、あまりにもかけ離れて地味なものだからです。
これこそが、外骨格型ロボットの開発者が見落としていることなんです。彼らは、「私たちが実際には何を気にしているのか」を理解しないまま、障害者を正常化する方向の技術ばかりを開発している。つまり、「普通の身体」に近づけようとしているわけです。彼らは、人々が普通に歩けるようになることを望んでいる。でも、私は足を引きずって歩きます。それで別に構わない。私は自分の歩き方を気にしていません。気にしているのは、むしろ周囲の人たちなんです。私はあるとき、自分が足を引きずっていることについて、「私自身よりも、他人のほうがずっと気にしている」と気づきました。そしてそれは、私がどこかに現れたとき、周囲からどう読まれるか、どう判断されるかという問題につながっています。つまり、こうした「正常化」の発想の背後には、「障害者はみな、非障害者になりたがっているはずだ」という前提があるんです。
そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #1
そのテクノロジーを必要としているのは本当に障害者なのか #2
#3(8/7公開予定)
★01 アメリカの障害者運動家であり、弁護士/活動家。人種、階級、障害の交差点における構造的不平等を是正する活動を展開。特に「エイブリズム」の現代的な定義を提示したことで知られる。★02 アメリカのハイラム大学で心理学および生物医学人文学の教授を務める社会心理学者。主な専門分野はエイブリズム、ステレオタイプ、障害学、および社会的偏見の解消。★03 身体の外側に装着して人間の筋力や運動機能を補助・拡張する装置。

- アシュリー・シューAshley Shew
- ヴァージニア工科大学リベラルアーツ・人間科学部教授。専門は、技術哲学、生命倫理、障害学。自らの障害の経験や知を出発点としてテクノロジーを捉え直す研究で知られ、「技術は障害を克服するためのもの」という通念を批判的に問い直している。「テクノエイブリズム」という概念を提起し、障害者を「改善すべき存在」とみなす技術観を鋭く批判。現在は、障害者主導の技術開発や包摂的な未来社会の構想、バイオエシックス教育にも取り組んでいる。主な著書に、Against Technoableism: Rethinking Who Needs Improvement (Norton Shorts)。ポートレート: Mallory Kay Nelson。

- 田中みゆきたなか・みゆき
- キュレーター・プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害当事者含む鑑賞者とともに再考する。2022年7月から12月までACCのフェローシップを経てニューヨーク大学障害学センター客員研究員。2025大阪・関西万博 日本館基本構想クリエイター。主な仕事に、「ルール?展」(2021年、21_21 DESIGN SIGHT)、「語りの複数性」(2021、東京都公園通りギャラリー)、「オーディオゲームセンター+CCBT」(2024、シビック・クリエイティブ・ベース東京)など。主な書籍に、『誰のためのアクセシビリティ?』(リトルモア)など。

- 小林茂 こばやし・しげる
- 情報科学芸術大学院大学[IAMAS]図書館長・教授。人工知能などのテクノロジーは、中立の単なる道具でもなければ不可避で抗えない決定論的なものでもなく自在に解釈できるものであると捉え、多様な人々が手触り感を持って議論に参加できるような手法を探求している。著書に『テクノロジーって何だろう?——〈未完了相〉で出会い直すための手引き』(ビー・エヌ・エヌ)、監訳書に『デザインと障害が出会うとき』(オライリー・ジャパン)など。岐阜県大垣市において隔年で開催されているメイカームーブメントの祭典「Ogaki Mini Maker Faire」では2014年より総合ディレクターを担当。撮影:丸尾隆一
