F1-9-2
漫画に学ぶダイバーシティ(後篇)
マイノリティとマジョリティの距離
構成:山本ぽてと
漫画を題材にコミュニケーション論を展開した、三木那由他さんの『会話を哲学する』(光文社新書)は、コミュニケーション観を一新するものとして話題になりました。と同時にそこには溢れんばかりの漫画愛がありました。
DISTANCE.mediaの編集委員である塚田有那は、キュレーター・編集者として、また無類の漫画好きとして、漫画を絡めた企画をこれまでいくつか手掛けてきました。
漫画から学び、漫画に救われてきた2人が、それぞれ3冊の作品を持ち寄り、コミュニケーションの困難さとダイバーシティがもつ希望について語り合いました。(前篇はこちら)
付記:2023年12月、本記事公開後に、塚田有那さんはご病気のため逝去されました。心よりご冥福お祈りします。
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Contents
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次の世代のリアリティ『HEARTSTOPPER』
三木 アリス・オズマン『HEARTSTOPPER ハートストッパー』(トゥーヴァージンズ)は登場人物がみんなかわいい。イギリスにある男子校を舞台に、ゲイであることをカミングアウトしているチャーリーと、ラグビー部で明るいスポーツマンであるニック、この二人の男の子の恋愛を軸に進んでいきます。
二人には傷つくこともある。特に最初、チャーリーは学校の男の子から性被害を受けています。それでも周りの友人たち、特に大人がしっかりと彼らを見守っている環境を描いているので、辛いこともあるけれども、安心できる世界でもある。そのうえで、二人の恋愛もあれば、チャーリーの親友であるタオと、トランスジェンダーのエルとの不器用なふれあいもあり、と思ったらいつの間にか先生たちも付き合っていたりしていて。
塚田 作者も94年生まれで、ネットで発表したところから人気に火がつき、いまやNetflixでドラマ化もされていますよね。いまの世代らしい描き方だなと思いました。日本のBLは一種のファンタジーとして読まれてきた節もありますが、日常の延長にこうした世界が見えているという事実をリアルに書いているのかなと思います。
三木 そうそう。新しい世代だなと感じました。先生にも同性のパートナーがいて、相談に乗ってくれるエピソードがありますよね。
私がこれまで慣れ親しんできた同性の恋愛の話は、親世代には同じような人がおらず、自分たちで頑張って苦しみながら道をつくっていく、あるいはそれに失敗していく話が多かった。ですが『HEARTSTOPPER』では、親世代や先生世代に同性のパートナーがいたりして、いざというときにそうした経験をした人がいる。
同性が好きだからといって、一人ぼっちで孤独に悩まないといけない世界ではない。それが新しい世代の作品だと思いました。
塚田 本当にそうですよね。作中では『同級生』のように、互いの気持ちを確かめあうシーンもありますよね。

- 出典:アリス・オズマン『HEARTSTOPPER』1巻(トゥーヴァージンズ、2021年)
三木 はらはらするシーンです。微妙な言い回しで、チャーリーは最初はジェンダーを特定せず「好きな子」と言っているのに、「いないわけじゃない」と聞いたあとは意図的に「彼女」を使っていますよね。これは使わざるをえなかったんだと思うんですよ。この状況でニックが男の子に恋する可能性があることをチャーリーは想定していない。「好きな子いないの?」と聞いた時、チャーリーはもちろん「好きな子がいない」と言ってもらえれば希望を抱ける。ニックは自分を好きにはならないかもしれないけど、でもいちばん近い距離で仲良くすることはできるかもしれないと思う。
もちろんヘテロな二人の間でも起こることだと思うのですが、「いない」と言われることを期待していて、たいていの場合は好きな相手の好きな人は自分ではないということを同性同士だからこそいっそう強くそう期待する。「いる」と言われるとそれはきっと自分ではないから。でも、ニックは「いないわけじゃない」と答える。ここであえて「彼女どんな子?」と言った時、顔つきも暗くなっていて、チャーリーはニックが好きなのは女の子だということを「約束事」にして確定させ、自分の気持ちをいまのうちに諦めたい面もあるのだと思うんです。
だからこそ、それに対して普通に答えるのではなく、約束事をつくること自体を拒絶するニックの「俺の好きな子が女って決めつけてない?」にとても救いがあるのだと思います。こういう場面ってありますよね。私も昔から好きになる子の性別を問わないタイプだったので、いろんなことを言ったなぁ……。自分自身のことをいろいろ思い出すシーンです。
『詩歌川百景』が描く日本の共同体と希望
塚田 一方で日本での状況はどうなのか。吉田秋生『詩歌川百景』(小学館)を紹介したいと思います。前篇の冒頭でも言いましたが、私は吉田さんの『BANANA FISH』が大好きです。余談ですが、最近アニメ化したのもあって、いまの学生さんたちも「アッシュに救われた」なんて話をしているんですよ。
三木 すごいですね。『BANAN FISH』はレジェンドですよね。
塚田 永遠のレジェンドです。それから数十年の時を経て吉田さんが描く『詩歌川百景』では、山形の温泉街の小さな人間関係が描かれています。保守的な土地の中で、いまの感性を持った20代前後の子たちが、親の圧力だったり、無意識の差別だったり、いろんなものに苦しみながら成長していく。少しネタバレになりますが、作中には同性愛をカムアウトをする子が出てくるんです。
この土地だと、もしそれを知られたら、この保守的な共同体の中では生きていけないかもしれない。『HEARTSTOPPER』で描かれている世界とは違いますが、それも日本社会の現実だなとも思っています。
ただ希望があるのは、その子をちゃんと見守ろうとする大人や友人たちもいること。まだ完結しておらず、結論は出ていないのですが、今後希望が持てるような描き方になっていくのではないかと思っています。
日本で同性愛は数多く描かれてきましたが、その多くはBLカルチャーとして、女子たちの「逃げ道」だった面があると思います。世にはびこる「男と女」の物語の中で、性的対象としての「女」と見られることからいかに逃げるのか。元来、家父長制が強い国だったからこそ、少女たちは「男の人に愛され、お嫁さんになる」未来だけではなく、性を超えた関係性のなかで愛し愛されるファンタジーを求めたと思うんです。
ですが最近はもっと多様なジャンルにもなりつつあるように思いますね。日本だと田亀源五郎さんが、『弟の夫』(双葉社)のような作品を出しています。田亀さんはゲイをオープンにしながら活動していて、いままでの女性が描く女性向けBLに出ていた細身の男子とは違った、男性によってガタイのいい熊さん系の方々が描かれている。
三木 田亀源五郎さんは私も大好きで、『魚と水』(双葉社)をよく読んでいます。料理が得意なヒゲのおじさんのコージと営業職で筋肉質なアキラ、週末になると二人で集まってご飯をつくって食べる。『きのう何食べた?』もそうですが、やっぱりおじさん二人が週末に一緒になってお出かけしたり、映画を見たり、一緒にご飯を食べることっていままであまり描かれてこなかったなと思いました。おじさん同士で仲良くして、ケアし合う。そうした関係が描かれてるのがいいですよね。

- ©田亀源五郎/双葉社
わかりあえなさのうえに――『違国日記』
塚田 最後にヤマシタトモコ『違国日記』(祥伝社)を挙げたいと思います。中三の時に両親を事故で亡くした田汲朝が、母の妹であり人見知りの小説家である高代槙生に引き取られ、手探りながら二人で暮らしていくというストーリーです。
そもそも人と人とはわかりあえるものではないことを前提としながら、とても丁寧にそのなかで起きる感情や関係性を紡いでいった漫画だなと思いました。最近完結して、ヤマシタトモコさんが何を描こうとしたのかをずっと考えています。
「違う国の人間同士」という表現にもあるように、正反対の性格の朝と槙生の二人がゆっくりと生み出した関係は、究極のシスターフッドだとも言えるし、親子でもない、友人でも、恋人でもない、いまは名のつけようのない関係になっている。それでも愛し合いながら ――「愛し合う」という言葉でもくくれないような関係の中で――人と人が共にいることができることの希望を描いているなと思っています。
萩尾望都先生の『トーマの心臓』(小学館)を思い返しても、彼らの関係はいわゆる少年愛ではなく、「恋」という言葉だけではくくれないような、お互いを慈しみ合うようなものだったと思います。萩尾先生らに代表される伝説の少女漫画家たちは、従来の社会にあった「男と女」「恋愛」「結婚」だけではない人間同士の関係性を求め、その希望を描き続けてきたと思うんです。そうやって繋いできた少女漫画家たちのバトンを、ヤマシタトモコ先生の世代が受け継ぎ、また次世代に渡していく。それは作中でもラストシーンで槙生から朝へとバトンが渡される海の描写があったように、新しい連帯の形を描こうとしているのかなと私は感じました。
『違国日記』は『会話を哲学する』でも取り上げられていた作品ですよね。三木さんはどんな印象であの作品を読みましたか。
三木 すごくおおざっぱなことを言いますけれど、とにかくいろんな人が同じ社会で生きている感じがあれほどに描かれている作品はないなと思っています。いろんなマイノリティの人もいるし、男らしさから降りようとしている男性もいるし、性差別に気づいた男の子もいる。攻撃的なことを言う人もいる。あちこちにいろんな人たちがいて、なにかしらのお喋りをしたり、衝突したりしている。朝があの時期を生きてきた世界を丸ごと描いているスタイルが素敵だなと思いました。
私がいいなと思ったのは、一人の人間のかかわっているコミュニティがいくつもある感じです。たとえば槙生さん一人とっても、朝と生活している世界もあるし、元カレである笠町くんとのなんともいえない関係もあり、朝の友人であるエミリちゃんに小説を勧めるようなやり取りもあるし、昔からの友達たちと飲みに行くシーンもある。一人の人間の中で、複数の世界が重なり合っている感じがすごくいいなと思いました。現実でもひとつのつながりだけだったら辛くなっていくと思うんですよね。特に昔からの友人たちとの関係が好きです。
塚田 いいですよね。私も好きです。気心の知れた仲間といることで、普段、朝に接する会話とは打って変わって、槙生の言葉が荒っぽくなる感じもわかる。人格というのは一種類ではなく、コミュニティによって変化することがよく描かれていると思います。
当事者研究に取り組んでいる小児科医の熊谷晋一郎さんも、「自立とは依存先を増やすこと」と言っていますよね。物語としてハイライトになるのは、槙生と朝との関係だけれども、それぞれには心を預けられるいろいろな居場所があり、そのリアリティを漫画を通して伝えてくれているように思います。
三木 4人で飲んでいるシーンで、友達の一人が、自分は恋をしない人間なんだとわかったという話がありますよね。
塚田 「ワタシ レンアイ しませーん」「わかっちゃったー」って言う回。ですね。

- ©ヤマシタトモコ/祥伝社 FEEL COMICS

- ©ヤマシタトモコ/祥伝社 FEEL COMICS
出典:『違国日記』6巻(2022年)
三木 そうそう。「お先でーす」と言っているのがいい。あれは一種のカムアウトだと思うんです。それが深刻になる場面もありますし、友人のエミリが朝にカミングアウトしたときは、友達を失う覚悟でやっていました。私が親にしたときも、すごくシリアスなカムアウトをした。でもあんなふうにひゅるっと言える時もやっぱりある感じがして。すごくいい関係を描いているなと思いました。
塚田 みんなが仕事やプライベートでいろいろと抱えていて、悩みを語り合うようなシーンがありながら、「それ美味しそう」という食事の会話が並行していく感じだとか、ヤマシタさんは上手いなと思います。
居場所としてのフィクション
塚田 さて、ここまで漫画を挙げながらお話してきました。改めて思うのは、私たちが物語を読んで共感するのはジレンマの部分だということです。私は「人と情報のエコシステム(HITE)」と呼ばれる、研究領域と関わってきました。たとえばAIや情報テクノロジーが発展した中で社会の側がどう変化するのかを考える。人文と科学技術の重なる部分です。
そこで行われるワークショップでよくあるパターンは、AIが浸透した社会の未来ビジョンを描くために、SFや漫画といった物語から学ぼうというもの。たとえば『ドラえもん』のようなロボットができたらどうなるだろう? と。
こうしたワークショップをやっていて気づいたのは、ロボットがシンギュラリティで云々という話よりも、『ドラえもん』の道具でどのような失敗をしたかといった小さなナラティブの方が大切であることです。
小さなナラティブに触れることで、私たちは自分の生活の延長として未来の世界を見ることができるようになるのではないか。そして漫画やアニメといった物語は、そうした小さなナラティブを積み重ねることができる力を持っていると感じています。それは私たちが未来の社会を語る時に、抜け落ちがちな視点でもある。
三木 小さなナラティブを積み重ねるというのはすごくよくわかります。私はテクノロジーに対して専門的に考える立場ではないのですが、SF的なガジェットや理論の説明だけを聞きたいのではなく、その社会で暮らしている人の話を聞いてみたいと思います。
塚田 そうしたナラティブを積み重ねる力を、マイノリティと言われる方と関わるうえでも生かせるのではないかと思っているんです。いま、学生さんと接する機会があるのですが、マイノリティの話をすると、「わからないから、関われない」「知らないから怖い」という意識を持ってしまうことが多いように感じています。ジェンダーのことに限らず、障害がある方との接し方がわからないから、失礼にならないようについ避けてしまうという声もあります。
相手を知らなくても、コミュニケーションをすることはできるはずなんだけど、勇気が出せないというジレンマがあるなかで、それはどうやって乗り越えられるのか。全体的に一歩踏み出すことを恐れてしまう、失敗を恐れてしまう風潮があるように思います。
三木 知らない場合は、もし失礼に当たった時は頑張って謝ってどうにかするしかないように思います。そして「失敗する」「失敗しない」で考えるとテストみたいになってしまいますから。相手はテストでも教材でもなくて、人間ですからね。
塚田 そうしたコミュニケーションのスタートラインに立つときに、『違国日記』のような漫画がいろんなことを教えてくれるのではないか。物語を通すことで、事象に対して「自分事化」でき、自分の物語になっていく部分があると思います。
たとえば、マイノリティや多様性の議論でも、トップダウン式に「多様性は大事」と言われるよりも、漫画のなかで登場して、その人たちの存在がそこにいることが大事だと思っています。三木さんは漫画がさまざまなマイノリティを知る「入口」となりえるのか、考えていることはありますか。
三木 まずマイノリティの当事者側には、自分の居場所になるようなフィクションが必要だと思っています。
大前提としてその人たちが穏やかに暮らすために、社会制度や法制度の偏りがあるなら、それは改定した方がいいし、そのためには何かを訴えたり運動したりする必要があります。たとえ怖がられてもしなきゃいけないし、私自身も頑張ろうと思っています。ただその一方で、厳しい環境のなかで、慰めもない状況というのも、本当に絶望的だと思うんですよね。だから受け皿を与えてくれる作品が増えて欲しいなと思っているんです。
なのでまずはマイノリティの人々にとって必要な漫画が増えてほしいのですが、そのうえで、漫画がそうしたマイノリティの人々についてマジョリティ側の読者が学ぶような「入口」になるかを考えると、現状ではまだけっこう難しいんじゃないかと思っています。いまだに漫画を読んでいて、危なっかしいなと感じる作品の方が多い。
私は少なくとも、性的マイノリティに関しては自分なりに、「これは詳しい人が描いているな」「よく知らない人が描いているな」と判断がつきます。だからいい作品は周りにオススメすることもあります。ですが当事者のリアルが反映されていないなぁと思いながら、「まあでもほかの面では面白いから」と読んでいる漫画もある。そのあたりの区別をつけながら楽しめるならいいと思うのですが、それってわりと上級者向けというか、すでにそれなりに詳しい人の読み方だと思うんですよね。ですから漫画が「入口」となるかと言われるとけっこう懐疑的です。
だから実際にその世界を生きている人がインタビューに答えているような、ドキュメンタリー映画やノンフィクション作品の方が「入口」として勧めやすいのではないかなと思いますね。
塚田 なるほど、その観点はとても重要ですね。私自身、マジョリティ側の立場からものごとを見てしまっているんだという反省にもなりました。そのうえで、もうひとつお聞きしたいことがあります。先ほど三木さんは居場所としての漫画の可能性をお話されてましたが、いま依存先をつくれない若者は多そうですよね。
三木 本当に深刻な問題だと思っています。私が思い浮かべるのはクィアな子たちですが、少なくない人にとってSNSがずっと逃げ場だったんですよね。自分に似た人は近くにいないけれど、SNS上だったら仲間が見つかって、匿名のまま自分のセクシュアリティの話をすることができた。それがいまのSNSは攻撃を受けやすい場になってしまった。SNSでしかつながれなかった、現実で行き場のない人たちが、そこでつながろうとしたら、ものすごく慎重にしないと、さらされたり攻撃されてしまう。
私は大人ですし、周りにいる人もそうだからもう少しは大丈夫なんですけど、いまのクィアな若い子たちはどうやって他の子とつながれるんだろうと。周りのクィアな大人たちともよく話しているんですが。どうしたらいんでしょうね。
塚田 先日手話の世界について映像作家の牧原依里さんと、インタープリターの和田夏実さんにお話を聞きました。彼女たちが言っていたのは、ろう者は聴者文化の中のマイノリティであり続けてきたけれども、ろう者のためのろう者の文化を作るには、集まらないといけない。それは聴者によってつくられた福祉センターではなく、ろう者がろう者のためにつくった場所がいままでなかったのだと。集まって、話し合って、そこで文化をつくっていこうと。
そうした、自分たちがそういうところにいてもいいんだと、みんなが集まれる場所が各所にあったらいいですよね。そしてネット空間でも、もう少し小さな場があったらいいような気がします。
三木 小さな場か……どこにあるんだろう。
塚田 その直接的な答えにはなっていないかもしれませんが、最近LINE漫画を読んでいると、そのコメント欄に自分の悩みを吐露しているのをよく見るんです。漫画と同じような状況に私もあって……と。継続してある程度の時間をかけて、この漫画を同じように読んできた人だから明かせる話なのかなと、思ったりもしています。そうした小さくて閉じた場を発展できたら、安心なSNSの可能性がもしかしたら見えてくるのかもしれません。

- 三木那由他(みき・なゆた)
- 1985年、神奈川県生まれ。大阪大学大学院人文学研究科講師。京都大学大学院文学研究科博士課程指導認定退学。博士(文学)。著書に、『言葉の展望台』(講談社)、『話し手の意味の心理性と公共性 コミュニケーションの哲学へ』『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』(ともに勁草書房)。共訳書に、ロバート・ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』上・下巻(勁草書房)。

- 塚田有那(つかだ・ありな)
- 編集者、キュレーター。1987年生まれ。一般社団法人 Whole Universe 代表理事。「Bound Baw」編集長。2023年、東京都のSusHi Tech Squareにおける「わたしのからだは心になる?」展のキュレーションを担当。2021~22年、展覧会「END展 あなたの人生の物語」を主催(東急ラヴィエールと共催)。21年より、岩手県遠野市の民俗文化をめぐるカルチャーイベント「遠野巡灯籠木(トオノメグリトロゲ)」を主催。『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』、『RE-END 死から問うテクノロジーと社会』(ビー・エヌ・エヌ)など多数。
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