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漫画に学ぶダイバーシティ(前篇)

マイノリティとマジョリティの距離

漫画で学ぶダイバーシティの画像

構成:山本ぽてと

漫画を題材にコミュニケーション論を展開した、三木那由他さんの『会話を哲学する』(光文社新書)は、コミュニケーション観を一新するものとして話題になりました。と同時にそこには溢れんばかりの漫画愛がありました。

DISTANCE.mediaの編集委員である塚田有那は、キュレーター・編集者として、また無類の漫画好きとして、漫画を絡めた企画をこれまでいくつか手掛けてきました。

漫画から学び、漫画に救われてきた2人が、それぞれ3冊の作品を持ち寄り、コミュニケーションの困難さとダイバーシティがもつ希望について語り合いました。(後篇はこちら

付記:2023年12月、本記事公開後に、塚田有那さんはご病気のため逝去されました。心よりご冥福お祈りします。

Contents

    コミュニケーションは「約束の積み重ね式」

    塚田 私は小さい頃から漫画が大好きで、2021〜2022年に開催した展覧会「END展」でも死を考えるための想像力を広げるきっかけとして漫画を取り入れました。

    私の問題意識として、X(Twitter)をはじめとするSNSが荒れた戦場のような空間になってしまい、安心安全な状態のまま人とコミュニケーションをとることが難しくなっているのではないかというものがあります。もちろんマイノリティの方にとっても安全な場ではないでしょうし、若い人たちも自分の意見を発言することが怖くなっているのではないか。

    「他者を受け入れる」という点において、現状のSNS空間にはあまり希望を感じられないのですが、でも漫画をはじめとした物語にはまだまだ希望があると感じています。漫画には他人の人生を疑似体験できるような力があるからこそ、さまざまな視点を得ることができる。私自身、漫画からさまざまなことを学んできました。実際、吉田秋生さんの『BANANA FISH』(小学館)が私のバイブルで、主人公のアッシュ・リンクスの生き方から、ひどく痛めつけられたとき、どう生き、どう戦っていくのかを教えてもらったと思っています。

    そうした関心がある中で、漫画を中心にコミュニケーションの哲学を論じた三木さんのご著書の『会話を哲学する』(光文社新書)を面白く拝読しました。

    漫画で学ぶダイバーシティの画像

    帯にもなっている高橋留美子『うる星やつら』(小学館)の「ラムちゃんとあたるは『好きだ』と言わないことで互いに何を伝えているのか?」は、ものすごく巧みな問いかけで、思わず膝を打ちました。さらに、私の好きな作品がたくさん取り上げられていて、興奮しました。

    特に、中村明日美子先生の『同級生』(茜新社)の名シーンを例にして、三木さんのコミュニケーション論の核である「バケツリレー式」と「約束の積み重ね式」のコミュニケーションを解説されていたのが素晴らしくて。私、『同級生』大好きなんですよね。

    三木 私も大好きです。『同級生』は絶対に入れたいと思っていました。

    いま本について触れていただきましたが、少し説明すると、「バケツリレー式」とは話し手が頭のなかに考えを持っていて、それを言葉にして伝達し、聞き手はその言葉を受け取り、話し手が考えていたことを受け取るというコミュニケーション観です。話し手の伝えたいことを言葉というバケツに放りこんで、そのバケツを受け取った聞き手が話し手の伝えたかったことを知る。多くの人が考えるコミュニケーションはこの「バケツリレー式」でしょう。

    一方、「約束の積み重ね式」は、聞き手と話し手との間で「約束事」を積み重ねるというものです。

    『会話を哲学する』の中では例として『同級生』のワンシーンを挙げました。第1話の終盤で交わされる会話で、眼鏡をかけた佐条利人くんが草壁光くんに抱いている気持ちを打ち明けようとしているシーンです。

    漫画からよむ、わかりあえなさのコミュニケーションの画像
    漫画からよむ、わかりあえなさのコミュニケーションの画像

    詳細は本を読んでいただければと思いますが(第2章参照)、この場面で佐条くんは、「お前と…… う うたったりするのが……」と言い淀み、その先を言わない。それに対して、草壁くんは続きを言わせたがっています。草壁くんには「佐条くんは草壁くんが好き」という佐条くんの気持が伝わっているので、情報伝達に重きを置いたバケツリレー式のコミュニケーション観であれば、草壁くんの行動に意味がないはずです。

    しかし草壁くんはその先を言わせたい。「佐条が自分に好意を持っている」ことを「約束事」にしたいのです。約束事にすると話し手も聞き手も責任を負い、今後の行為はその約束事を参照したものになります。これを私は「約束の積み重ね式」と呼んでいます。私はコミュニケーションとは、バケツリレー式ではなく約束の積み重ね式だと考えているんです。

    塚田 それをよくぞ『同級生』のシーンで描いてくれた! と思いました。「約束の積み重ね式」の例として、一番最初に『同級生』を持ってきたのはなぜだったんですか?

    三木 とても正直な動機を言うと、私がときめいたシーンを挙げました(笑)。それにいままでの哲学で挙げられるコミュニケーションは、スムーズに会話しているものが多いんです。言えないとか、言わせたい気持ちが取り上げられることはほとんどない。でもあえてそうした例を取り上げることで、なぜ言えないのか、なぜ言わせたいのかを哲学的に語ることは、私にとって挑戦的な試みだなと思いました。

    塚田 そもそも三木さんが哲学とコミュニケーションの研究に進まれたきっかけはどこにあったのでしょう。

    三木 大学の学部時代から関心がありました。強い問題意識があったというよりは、当時お芝居をしていたので、演劇で考えていることとつながりそうなことを言っている哲学者がいないかなと思い、出会ったのが哲学者のポール・グライス(1913-1988)です。

    グライスは私が「バケツリレー式」と呼んだタイプの代表的な論者でした。もともとはグライスの議論を引き継いで、いまでも使えるような理論にならないかと考えていたのですが、博士論文を書くなかで、これは間違っているのではないかと思うようになったんです。

    それから別の立場を考えようと、いま「約束の積み重ね式」と呼んだ、もう少しテクニカルな言い方をすると「共同行為論」の話を学びだしたらしっくり来ましたし、漫画やお芝居の話もできるようになってきた経緯があります。

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    出典:『会話を哲学する』(光文社新書、2022年)

    塚田 最初はグライスの理論を引き継ぐ方向でしたが、研究する中で限界を感じるようになったわけですね。「バケツリレー型」から「約束の積み重ね型」へと変わっていた。これはコミュニケーション論に限らず、他の分野でも起きている流れだと私は感じています。その背景にはなにがあると思いますか。

    三木 まず私の哲学的立場としては、一見するとバケツリレー型のものも含めて、コミュニケーションは根本的にはそもそもすべて約束の積み重ね型であると考えています。私がこういう話をし始めた当時はたぶんわりと珍しい考え方でした。ただ、以前に比べて私と似たようなことを言う哲学者が増えてきているとも思っています。

    バケツリレー式で想定されているのは、「主体」と「主体」がボールを投げ合っているイメージですよね。いままで会話のなかで主体性を発揮できなかった人たち、女性や他のマイノリティたちが、哲学の領域で語れるようになってきたこととも関係しているかもしれません。いままでの考え方がマッチョだったという反省が行われ出している流れとつながっているように思います。

    塚田 おっしゃる通りで、哲学者の名前を並べるだけでも、近代のみならず現代でも男性ばっかりですよね。最近は近代的自我みたいなものの見直しが起こっていて、「自由意志」や「責任」に対して、哲学者の國分功一郎さんがおっしゃるような「中動態」[★01]的な見方にも注目が集まっています。作家の平野啓一郎さんの「分人」[★02]も同様でしょう。それは男性マッチョイムズではないプレイヤーが出てきたことを背景に、浮かび上がるようになってきたテーマなのかもしれませんね。

    マーベルというダイバーシティ

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    塚田 ここからは、実際の漫画作品を挙げながらお話していきたいと思います。まず三木さんからはマーベルコミックの、ダン・スロット『End of the Spider-verse』を挙げていますね。マーベルといえば、ここ最近はダイバーシティを意識した作品を多数輩出していますよね。選んだ理由はマーベルが原作時代からマイノリティを描いてきた背景があるからでしょうか。

    三木 そうですね。マーベルは映画やドラマでもさまざまなマイノリティキャラクターが登場しています。たとえばドラマ『ファルコン&ウィンターソルジャー』(Disney+、2021年)では、黒人のヒーローがいたのにその歴史が抹消され、白人中心主義が維持されていることが批判的に描かれています。また『ミズ・マーベル』(Disney+、2022年)ではムスリムであるパキスタン系アメリカ人の女の子がヒーローとして目覚めていく。

    ドラマもすごいですが、漫画ではもっといろんなマイノリティキャラが出ています。しかもマイノリティキャラを主人公にするときには、当事者の人が描いている。「当事者じゃない人が勉強する用」のキャラクターでなく「当事者から見てかっこいいと思えるヒーロー」を作ることに力を入れているんです。

    塚田 映画『アイアンマン』(2008)以降、メガ企業になったマーベルが、ダイバーシティの方向にシフトしていく勇気と決断、あれくらいの規模感で物事を動かしていくアメリカ的な力強さを感じますよね。

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    『Gwenpool, the Unbelievable Vol. 1』(Marvel、2016) 書影

    三木 そうですね。私が気になっているのは、アロマンティック・アセクシャル[★03]のヒーローであるグウェンプール(Gwenpool)です。

    その背景を説明すると、スパイダーマンシリーズには、60年代から「グウェン・ステイシー」というヒロインがいます。スパイダーマンの恋人で、敵に誘拐されて亡くなってしまう。でもその女の子が別の世界線ではヒーローをやっているという作品がいくつかあるんです。ピーター・パーカーの代わりに、グウェン・ステイシーがクモに噛まれて、スパイダーウーマンになったり。

    そうした流れのなかで出てきたのがグウェンプールという女の子で、正確にはグウェン・ステイシーとは少し違うのですが、イメージとしてはグウェンと、デッドプールというキャラを組み合わせたキャラクターです。彼女が面白いのが、現実世界でマーベルファンとして生き、仕事が得られずに引きこもりだったのが、ある日突然漫画の世界に入ってしまったこと。特殊能力も戦闘経験もないけれど、マーベル漫画は読んでいたから、その知識を使って生き延びようとする話なんです。

    そのグウェンプールが2022年、自分はアロマンティックアセクシュアルだと発見するエピソードがあります。マーベルは毎年、『Marvel's Voices: Pride』というマイノリティキャラの特集雑誌を刊行しているのですが、そこでグウェンプールは「自分自身がマーベル社のクィア・Aro/Aceアイコンになるんだ」と頑張る話があって。すごく良いんですよね。

    グウェンプールに限らず、スパイダーマンシリーズには車いすでクィアな女性のスパイダーガールがいたり、ゲイのスタイリストで変身をするとドラァグクイーンのようになるスパイダーマンがいたり。『End of the Spider-verse』では、そうしたさまざまな世界のスパイダーマンたちが集合しています。

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    『Marvel's Voices: Pride』(Marvel、2022) 書影

    塚田 面白いですね! ちなみにこうした流れは、従来のスパイダーマンを見てきたファンたちに受け入れられているのでしょうか。

    三木 どうなんでしょうね。確かに女性が主人公の映画『キャプテン・マーベル』(2019)では、公開前から低評価をつけられたことが話題になりました。保守的な人はいるんでしょうけど、マーベルコミックについて語り合っている人たちを見ると、英語でも日本語でも、いろんなキャラクターが出てくることに違和感を持っていない人が多い印象があります。

    塚田 若い人たちがこうしたヒーローが当たり前の世界にいて、最初から受け入れて成長していくことには希望がありますよね。

    三木 そうですね。日本もどんどん増えて欲しいなと思います。

    『つくたべ』と『きのう何食べた?』の食卓

    塚田 三木さんは『作りたい女と食べたい女』(以下、『つくたべ』)も挙げていますね。地上波でのドラマ放送でも注目されました。料理が大好きな野本さんと、豪快な食べっぷりの春日さんが料理を作って食べる物語です。いままでの作品にはないテンションで、主人公は自身がレズビアンであることにだんだん気づき、少しずつ学んでいく様子が丁寧に描かれているなと思います。

    三木 すごく好きな作品です。春日さんがすごく好きなんですよ。かわいいなって。

    塚田 かわいいですよね。

    三木 そしてこの作品は内容がしっかりしているだけではなく、作者のゆざきさかおみさんが、クィアな当事者にとって安心できるコンテンツにしたいという強い意思を持っている。作中で差別的なセリフが話の流れ上出てくるところで注意をするようにされていますし、ご本人も同性婚の法制化に協力しています。そうした活動をされる漫画家さんが、日本にはあまりいなかった気がします。

    塚田 そのあたりは社会の変化に伴い、漫画家さん自身もそうですが、編集者の側も、リテラシーを学んで行こうという風潮になってきましたよね。

    三木 リテラシーもあるし、ゆざきさんは、はっきりと自分の読者が、そういう人たちであるという認識が強いんだと思います。

    塚田 読者をちゃんと見ているからこそだと。

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    出典:ゆざきさかおみ『作りたい女と食べたい女』2巻(KADOKAWA、2021年)

    食事というつながりで、私はよしながふみ先生の『きのう何食べた?』を挙げたいと思います。ゲイのカップルであるシロさんとケンジの日常の食卓を描いている。こちらも地上波でドラマ化・映画化されています。

    よしなが先生はもともとBL出身ですが、過去には食をテーマにしたエッセイ漫画『愛がなくても喰ってゆけます。』(太田出版)のなかで、いまも忘れられない印象的なシーンがあります。

    よしながさん(作中ではYなが)の大学時代の友人がゲイだと知って、一緒に寿司を食べに行ったあと謝罪するんです。「すんませんずっと ゲイをネタにして 漫画でメシを食ってきたよあたし しかもうそゲイで!」と。

    たぶん同人誌のBL文化で活動してきた作家さんからすると、当時は腐女子という言葉こそありませんでしたが、決してメジャーではなかったので「自分たちもマイノリティだ」という意識があったように思います。一方で「ゲイ」という存在を消費してしまっているという後ろめたさを感じている。作中でそう発言していたよしながさんが、いまや15年以上続いている『きのう何食べた』は当事者ではない作者が、当事者に寄り添おうとしている作品なのではないかと私は感じています。しかもそれが、青年誌の『モーニング』に掲載されている。連載開始時はとてもおどろきました。

    三木 私も好きな作品で、コミックスで全巻読んでいます。作中に出てくるご飯が美味しそうで、けっこう真似して作っていますね。

    『きのう何食べた?』では、年齢を重ねていくゲイカップルを描いているのが珍しい。世の中にはいろんなゲイのカップルがいるのですが、物語に出てくるのは若い人が多かったように思います。最近出会って、まさに恋に熱くなっているカップルではなく、出会って何年も経って一緒に暮らして落ち着いているカップルがいままであまり描かれてこなかった。

    あとあの二人の周囲の人たちもいいですよね。たとえば、シロさんとよくスーパーの野菜や果物を分け合う富永家。この家族は、特に夫がシロさんを「ゲイの人」と呼んだりして、シロさんもギョッとするんだけど、なんとなく人づきあいが続いている感じがリアルです。やはり周りにいますからね。ちょっとひどいことを言うなぁ、と思いながら、でもまぁやっていくしかない。あるあるだなと思いながら読みました。

    塚田 そうなんですよね。富永家の夫は社交的で明るい人で、深く考えずに「この人ゲイなんだよ」と言う。自分のテニス仲間にも「ゲイの人連れてくるね」と言ってしまう。そういう残酷さを書いていますよね。

    『つくたべ』も『きのう何食べた?』も食事が出てくる作品ですが、三木さんのなかでコミュニケーションと食事について考えられていることはありますか。

    三木 『つくたべ』における食事について、雑誌に寄稿しています(「安全な場所」『群像』2023年4月号)。そこでは、普段の食卓が実は中立的な場ではないことを扱いました。

    哲学者のサラ・アーメッドが指摘しているのですが、たとえば親戚で集まって食事をしている時、ジョンの小さな子どもが同席していたとして、親戚がその子を「チビジョン」と呼んだりしますよね。すごく何気ない、ほほえましい光景のように見えます。しかし小さい子供であるその子が、将来的には男性として生き続けることや、いつか妻を持ち、のちのち父親になり、チビジョンのチビチビジョンをつくりだしていくことが背後に込められている。何気ないほほえましい食卓のやりとりが、全部ヘテロセクシャルに調整する方向に働いている。

    だからクィアな人たちにとって食卓というのは、安心できない場所なんです。そして『つくたべ』や『きのう何食べた?』は、そうしたヘテロセクシュアル中心の世界で暮らせなかった人たちがつくりあげている食卓でもあります。いろんな家庭で多くの人たちが少なくとも一度は経験してきたであろう強制力や、一定の方向に推し進めようとしてくるような食卓とは別の食卓の可能性を『つくたべ』も『きのう何食べた?』も見せてくれているのだと思います。

    ふたつの食卓で話されているのは、たいてい「普通」の会話です。別の食卓の「普通」の会話だからこそ、私にとっても一緒に加われそうに思える。一緒にごはんを食べたいと思いますもんね。ここなら安心して、ごはんを食べながら喋ることができるなと。

    塚田 別の食卓でありながら、「普通の」会話をしていることが安心感につながっているんですね。たしかに、両方とも『美味しんぼ』(小学館)のような「究極のグルメ!」といった方向性ではなく、日常の安心するようなご飯ですよね。ちなみに私は、『きのう何食べた?』のなかで、シロさんがいつもスーパーで食材の値上げに一喜一憂したり、顆粒だしを使っていたりするのは、たぶん意図的に描いていると思います。日常の延長線上に読者がそこに介在できて、その会話のなかに入っていける。よしなが作品を読んでいるとわかりますが、よしながさんの食への執着って本当にすごいですよね。全レシピを自分でつくっているのがわかるし、食がご本人の日常においても重要であることが伝わってくるんです。

    三木 あと『きのう何食べた?』では、いろんな家庭が描かれるのもいいですよね。シロさんとケンジの二人の食卓もあれば、大皿でご飯をボンボン出すような大家族の食卓も描かれます。

    塚田 そうやっていろんな読者が自分を投影できるのも、食漫画の魅力でしょうね。いまやグルメ漫画は一ジャンルとして成立し、この10年の間にとんでもない数のタイトルが生まれています。私自身、気分がふさがっているときは食漫画に助けられることも多くて。日々いろんなことがあるけれど、何があっても1回食べて、眠って、また明日起きようという力強い生命力を、読むたびに少しずつもらっている気がしますね。

    後篇につづく)


    ★01 中動態とは、インド=ヨーロッパ語系の言語において、かつて能動態と対をなした概念で、能動態が、動詞が指す過程が私の外側で完了している状態にあるのにたいして、中動態はその過程がまだ内側にある状態のことで、主体と客体が未分化の状態を指す。
    ★02 分人とは、対人関係ごと、環境ごとに分化した、異なる人格のことを指し、中心に一つだけ「本当の自分」を認めるのではなく、それら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉える考え方のこと。
    ★03 「アロマンティック」とは他者に恋愛感情を抱かない人、「アセクシュアル」とは他者に性的感情を抱かない人のことを指す。

    三木那由他(みき・なゆた)
    1985年、神奈川県生まれ。大阪大学大学院人文学研究科講師。京都大学大学院文学研究科博士課程指導認定退学。博士(文学)。著書に、『言葉の展望台』(講談社)、『話し手の意味の心理性と公共性 コミュニケーションの哲学へ』『グライス 理性の哲学 コミュニケーションから形而上学まで』(ともに勁草書房)。共訳書に、ロバート・ブランダム『プラグマティズムはどこから来て、どこへ行くのか』上・下巻(勁草書房)。
    塚田有那(つかだ・ありな)
    編集者、キュレーター。1987年生まれ。一般社団法人 Whole Universe 代表理事。「Bound Baw」編集長。2023年、東京都のSusHi Tech Squareにおける「わたしのからだは心になる?」展のキュレーションを担当。2021~22年、展覧会「END展 あなたの人生の物語」を主催(東急ラヴィエールと共催)。21年より、岩手県遠野市の民俗文化をめぐるカルチャーイベント「遠野巡灯籠木(トオノメグリトロゲ)」を主催。『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』、『RE-END 死から問うテクノロジーと社会』(ビー・エヌ・エヌ)など多数。



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