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コミュニケーションの現在2023
01 差異に向き合うプロトコル

- 写真:原田教正
インターネットの登場から30年あまり。「つながった未来」の現在地とは? DISTANCE.media の編集委員 塚田有那、ドミニク・チェン、山本貴光が語り合った。
構成:DISTANCE.media編集部
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Contents
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〈剥き出しの差異〉の荒地から
——DISTANCE.mediaの最初の特集として、「新しい距離を考える――〈わかりあえなさ〉のコミュニケーション」というテーマを掲げます。『InterCommunication』の創刊号(1992年)の特集が「コミュニケーションの現在 Frontiers of Communication」でした。オンラインの世界が拓かれていく、そこはかとない期待感に満ちたものでした。あれから30年を経て、 当時の「未来」にあたる2023年のコミュニケーションの現在地はどうなっているのか、あらためて考えていきたいと思います。
塚田有那 2017年から2019年にかけて、ドミニクさんや伊藤亜紗さん、渡邊淳司(NTTコミュニケーション科学基礎研究所)さん、緒方壽人さんたちと「情報環世界」という研究会を行いました。その実績が書籍にもなったのですが、その本の帯には「ひどい!人間はスマホばかり見て他人のことなんか知らんぷりだ!」(ひらのりょうさんの漫画のセリフ)とあります。個々人のタイムラインはみんなバラバラ、インターネットで「つながる」はずが、それぞれの情報の「環世界(Umwelt:ウムヴェルト)」にむしろ閉じこもるようなことになってしまった時代。当時はちょうどトランプが大統領に就任した頃でしたが、「フィルターバブル」「エコーチェンバー」「陰謀論」といった事象がまさにアクチュアルな問題として顕在化してきていました。
あれから数年たったいま、フィルターバブルが当たり前になった世界で、コロナ禍が起き、社会の分断はますます可視化されてしまったわけですが……では次に何をどう考えていったらいいのか。おそらく多くの人が「インターネットって自由じゃなかったね」という絶望感を共有しているんじゃないかと思うんですね。今日は、そのほとんど荒地のようになってしまった場所から、何を考えてゆけるのかを、「コミュニケーションの現在2023」ということで話ができたらと思います。
ドミニク・チェン 確かに、情報環世界研究会で「そろそろこの状況は危ないよね」と話していたことがそのまま現実になってしまいましたね。
塚田 そう、誰も止められなかったんですよね。
ドミニク いま、望ましい世界を構想するための大きな「見晴らし」みたいなものを私たちが共有できていないという感覚がありますよね。そのための棚卸しが必要だなと思います。
山本貴光 お二人の見立てを言い換えると、私たちはいったんコミュニケーションの廃墟に突き落とされて、というか自分たちで廃墟にしちゃったわけですが、そこからどうやってもう一回やり直すか、というところにいるんだろうと思います。
学問の世界でも、対象を小さく分けて、その範囲で徹底的に検討する分析、要素還元という方向で研究が進められてきた結果、個別の部分についての知見が増える一方、いろいろな分野の「違い」が際限なく生み出される状況が起きています。こうした状況を「サイエンティフィック・バベル」と呼ぶ人もいます。細分化された領域を、再び集めてその全体を眺めてみる、いわば総合の方向での検討が圧倒的に足りていないと申しましょうか。
ジェンダーにおける差異についても同じような状況があるように思います。差異というと、しかつめらしく聞こえるなら、互いの違いや距離と置き換えてもいいわけですが、いままさに、差異を起点として日々、摩擦や炎上が起こっている。私たちは、かつてポストモダンということが盛んに言われた時代に、それこそ『InterCommunication』でもさんざん議論されたことかと思いますが、「差異が大事だよね」という話をしていた。インターネットが普及して、もっぱらSNSを通じて個々人同士の差異がそのまま剥き出しで触れ合うようになり、加えてそこに人間ならざるAIなども入り込んできたことによって、結局、何が明らかになったかというと、私たちはお互いの差異をうまく処理するだけの装備を持たないままこの場に放りこまれているということだろうと思います。
「ポリコレ」のルーツを堀りかえす
塚田 アジア系の女優のミッシェル・ヨーが、映画『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で第95回のアカデミー賞主演女優賞を受賞しましたが、いま、ハリウッドを中心に多様性やポリティカル・コレクトネスへの注目がますます勢いを増していますよね。マーベル映画[★01]なんかも、いまや俳優にマイノリティが登場するのはあたりまえになっているし、『ブラックパンサー/ワカンダフォーエバー』などは主役が黒人女性のレティーシャ・ライトになっただけでなく、キャストやスタッフにも黒人や女性を多数起用しています。一方で、そうしたムーブメントに対して、日本でちらほら聞こえてくるのは「あぁ、またポリコレね」といった声で、いわゆる「ポリコレ疲れ」も起きている。なぜポリコレが必要になったかという実感を伴わないまま、「いまはそういう時代だから」という感覚が根強くあると思います。
山本 ある概念がなぜ必要とされるのか、という動機を共有しないまま、言葉だけ、形だけ受け入れるとそうなってしまうわけですよね。たとえば「人権」という明治以来の造語(ということはつまり、異言語から移入した概念)なんかも同様かもしれません。なぜそうなってしまうか。それは、先ほどドミニクさんがおっしゃったように、皆が大きな「見晴らし」をそもそも共有できていないからでもあるし、お互いが手にしている世界を見晴らすマップが、似ているようでじつは互いに結構違うんだということが、めいめいの頭のなかで像を結ばない、ということでもある。
塚田 なぜ、それらが叫ばれるように至ったのかという背景が失われたたまま、日本では情報だけが上滑りしているというか……。最近も歌舞伎町タワーのジェンダーレストイレがフォーカスされて炎上しましたが、あのトイレが設置されるに至った背景もあるわけで、それが瞬間的な炎上というかたちだけで注目されてしまうのは、日本にはまだ、ポリコレ的な問題を受けとめるための土壌が十分に育っていないと感じました。
一方で、先日、難民・移民の受け入れに関する入管法がひどい形で改悪されたり、LGBT法案の修正案も進んでいたりするけれど、世間的な関心がどこまで集まっているかといえばメディアの報道もごくわずかで、非常にやきもきしています。このままでは、ますます差異への嫌悪と無関心が増長されてしまうのではないかという不安もあります。
山本 あからさまに、そして思った以上に細かいお互いの差異があちこちにあって、私たちはその違いを調停しつつ、その場しのぎでもいいからまずはなんとか平穏にやり取りしていくことが大事なんだけど、それがうまくできていないわけです。
能楽師の安田登さんと話していると、「古代中国の礼(礼儀)というのは、差異〈他人〉と接するときのインターフェイスとして機能していたはずのものだ」とおっしゃるんですね。それを聞くたび、われわれは2023年における「礼」というインターフェイスをうまくインストールできていないんじゃないかという気がしてきます。
塚田 そう考えると、まず私たちがやるべきことは、差異が剥き出しになった荒地の地下を掘って、なぜ人間は差異を受け入れがたいのか、希望はどこにあるのか、その根底にあるルーツを探ることなんじゃないかと。それこそが、2023年のコミュニケーションを考えるうえですごく必要なことだろうと思います。
山本 以前の編集会議で、私たちは「エイリアンズ」なんだという話をしましたね。お互いが剥き出しの差異にさらされた状態で、お互いのことを何も知らないエイリアンなんだという前提で学びなおそう、と。
なぜポリティカル・コレクトネスが重要なのかとか、なぜ人々が血みどろの闘いを経て、人権や平等という概念を獲得してこなければならなかったんだっけ?といったことを、私たちはもう一回レッスンしなおさないとまずいんじゃないかと思います。
★01 『スパイダーマン』『アベンジャーズ』など、アメリカのマーベル・コミックが出版するコミックの実写映画化作品のこと。通称はMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)。

- 1992年から2008年まで刊行した雑誌『InterCommunication』。コミュニケーションをテーマに幾度か特集を組んだ。
Theme 1)人間以外の存在から人間を見る
山本 なぜ、私たちは人間同士の差異をうまく扱えないままなのか。きわめて重大な問題ですが、放っておいてもなかなかうまくいかないのは、人間同士の差異を穏当に扱うにはそれ相応の技術やトレーニングが必要だということなんでしょうね。いろいろな対処がありえると思いますが、たとえば、いったん人間と人間以外の差異を目にすることで、人間がどういう存在なのか、相対化するということをやってみてはどうかと提案してみたいです。
ドミニク 私自身、そうした問題意識から、ぬか床サイボーグNukabot(ぬかボット)などの研究を通じて、従来のように人間の側から考えるのではなく、脱人間中心の視点、つまりロボットや微生物の側から人間を捉えなおすヒントを探ってきました。その際、手がかりとしてきたのが、これまで積み重ねられてきた自然言語以外のコミュニケーションに関する研究、そして人と他の生命種の関係性を綴った民族誌なんですね。
塚田 それは、「人間と非人間」の両方を含めた社会ネットワークとして世界を捉えなおそうとする「モア・ザン・ヒューマン(人間以上)」にもつながる話でもありますね。私はつねづね、「もう人間同士の問題は、人間だけで解決できないんじゃないか」と思っています。この地球を生きるうえで、人間中心の思考というものが視野を狭くしすぎているのではないかと。まさにユクスキュルの「環世界」のように、もっと動物や植物の視点に立ってこの世界や社会を見つめてみたいと思います。
ドミニク モア・ザン・ヒューマンはもともと、哲学者のデイヴィッド・エイブラムが90年代に書いた『感応の呪文―〈人間以上の世界〉における知覚と言語』(結城正美訳、論創社・水声社、2017年)という本で使った用語ですが、その後マルチスピーシーズ民族誌や人類学、ポストヒューマニティーズやエコクリティシズムでも使われるようになって、2010年代以降はHCI(ヒューマン・コンピュータ・インタラクション)の領域でも参照されるようになりました。日本語でも『モア・ザン・ヒューマンーマルチスピーシーズ人類学と環境人文学』(奥野克巳、近藤祉秋、ナターシャ・ファイン編、以文社、2021年)という優れたインタビュー集が刊行されています。この概念に沿って研究していて面白いのは、つねに人間が多種との絡まり合い(entanglement)のなかに位置づけられ、つねに「人間以上」の生態系ネットワークに内包される存在として捉えられるので、人間の行動や道具の様式の考え方が一気に広がることなんですよね。
山本 まさにそうです。最近、出版された『プランタ・サピエンス―知的生命体としての植物』(パコ・カルボ、ナタリー・ローレンス著 山田美明訳 KADOKAWA 2023年)という面白い本があるのですが、この本で著者らは「植物に知性はあるか」という問題を提起しています。これまで生物学者も植物学者も、知性というのは動物だけがもつもの、もっと言えば、人間〈サピエンス〉だけに宿るものだ、という人間中心主義に立ってきました。だから、植物に知性や神経に相当するものがあるかもしれない、なんて言うと、そんなのは絵空事だと相手にもしてもらえなかった。ところが最近、植物のなかに、知性と呼ぶに値するような振る舞いや動きがあることがいろいろわかってきた。そして、その振る舞いや動きを実現している生物学的、生理学的な仕組みを、知性として捉えなおすことで、従来、動物や人間について考えてきた知性の概念そのものを見なおすことができるんじゃないか。そういう見通しが書かれています。
もちろんこれは、実験的かつ冒険的な試みではありますが、「プランタ・サピエンス(植物の知性)」というタイトルに示されているように、まさに人間とは違う種を見ることの大きな意義を示している。こうした視点をもつこと、つまり非人間から人間を捉えなおす視点こそが、今回の特集の一つの核心になるんじゃないかと。そのうえで、改めて人間の差異について考える段取りをつけましょう、ということです。
ドミニク いま、近代科学や近代哲学が依拠してきた人間例外主義――人間だけに言語を司る知性があって、自然は人間が統御する対象であるという前提が、問いなおされているというのは、非常に重要なポイントだと思います。それがアカデミアの中心である英語圏の論文、しかも自然科学の論文のなかで語られ始めている、というのはとても興味深いことです。
最近も、キノコ(菌類)が電気信号を使って情報発信をするパターンについて書かれた論文が話題を呼びましたが、その論文のなかにも触れられているように、とくにここ20年くらいの間に、自然科学の観察のなかから、人間だけでなく、哺乳類も鳥類も植物も言語的なパターンを使って互いにコミュニケーションしているということが解明されつつあるのは、非常に大きな意味をもっています。
そうしたなかでいま、私たちは、剥き出しの差異と向き合うために、いったん人間例外主義から離れて、人間以外の存在との関係のなかから自分たちのいま現在のポジションを見つけなおすということをやってみてはどうか、ということですね。
たとえばその一例として、岡田美智男先生(豊橋技術科学大学教授)の「弱いロボット」の話もぜひお聞きしたいのです。岡田先生は、人間の代替としてのロボットではなく、人間の協調行動や人間のもつ能力を導くロボットを提示することで、これまでのテクノロジー観や、人間とテクノロジーのコミュニケーションのあり方に再考を促してこられました。ぜひ、そうした取り組みを今回の特集でさまざまに紹介していきたいと思っています。

- ぬか床サイボーグ「Nukabot(ぬかボット)」。「おーい、ヌカボット!」と話しかけると、「なーに?」と言って質問に答えてくれる。
Theme 2)ノンバーバルなコミュニケーションに立ち返る
山本 ネット社会のなかでわかったもう一つのことは、「われわれは言語だけでやりとりすると、どうも喧嘩ばかりしてしまう」ということなんですね。
ドミニク 言語だけだとなぜか馬鹿になってしまう。
山本 そう(笑)。『インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ』(晶文社、2015年)という本を小林弘人さんと柳瀬博一さんが書かれていましたけれど、まさにそうで、特にテキストは、それを目にした人がめいめい勝手に意味を思い浮かべることによって記されていないことも読みとる。読んでわからなかったり、疑わしいときには、相手に「これってこういう意味?」と確認すればいいんだけど、SNSではそうした手続きなしに、いきなり喧嘩腰でつっかかったりすることも多い。テキストをベースとしたネットでのやりとりでは、人間のもっているそういう面がものすごく増強されちゃったわけですね。たとえば、自分としては冗談のつもりで書いたことが、他の誰かにとっては腹立たしい言葉に見えるということがある。とりわけ互いに文脈を共有していない状態だと、誤解や誤読もいっそう増えそうですね。でもSNSでは文脈を共有していない不特定多数の他人の言葉を大量に目にしたりする。言語って思ったよりも使うのが難しいものなんですね。
一方、私たちは日常では言語以外のものをたくさん使いながらやりとりしていますよね。言語はそのなかの一部でしかないということを、やはりもう一度思い出す必要があると思う。つまり、2023年現在のコミュニケーションを考えるときに、ネットで交わされている言語のコミュニケーションだけでなく、それ以外も含めた広い意味でのコミュニケーションまで広げて、その意味を問いなおすことが重要だと思っています。
塚田 大賛成です。それはまさに、以前、編集会議で話した異星人とのコミュニケーションに通じる話ですし、そこから改めて、詩を紡ぐように、ゆっくり考えながら言葉を発信していくという営みにもつながっていくのだろうと思います。
Theme 3)「プロトコル・オブ・ヒューマニティ」を探りなおす
山本 もう一つ、昨年、作家の長谷敏司さんが出された『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房、2022年)[★02]という小説がヒントになるように思います。これは、事故で右脚を失った若いコンテンポラリーダンサーが、AIが搭載された義足をつけるという話なんですね。本人の歩き方のデータを収集・学習して、歩きやすくチューニングされるAI義足をつけることで、自分の身体ではない義足とどう共生しながら、自らのダンスを再構築していくのか、という物語です。そこでは、人間のダンスと機械のダンスはどこが違うのかを考えるために、「人間らしさ」というものをプロトコルによって定義しなおすということが主題になっている。一方、主人公のお父さんも有名なダンサーなのですが、認知症を患い徐々に人間らしさを失っていく。つまり、この小説では、AIやロボット、人間の中でも認知症を患っている人とそうでない人を比較しながら、「人間らしさ」とは何かということを、プロトコルという概念を使って見ていく試みで、書名にも掲げられた「人間のプロトコル」という課題を自分事としても受けとったのでした。
翻って、われわれが「コミュニケーションの現在」というテーマのもと、差異が顕わになった荒地からコミュニケーションをやりなおすにはどうすればいいかを考えるなら、プロトコル・オブ・ヒューマニティを探りなおすことも、一つのテーマになるのだろうと。差異のあいだをどう調停しながらやりとりしていくのかというのは、まさにプロトコルそのものですからね。
ちなみに、プロトコルという言葉はコンピュータ用語で、違う装置同士がどうやって通信〈コミュニケーション〉をするのかという通信規約のことを指しますが、もともとは外交の用語なんですね。つまり、異なる国同士の折衝の形式、すなわち利害関係を調整していく技術、手法を指す言葉でもある。それを、人間について考えてみる、というのはどうだろうと。
ドミニク コミュニケーションの問題って、今後10年間ずっと議論してもいいテーマですよね。コミュニケーションという言葉そのものは当たり前のものとして陳腐化してしまっている感がありますが、どんな議論をしていてもいつも立ち戻ってくる重要なテーマだと思います。さらにいえば、「インターコミュニケーション」という用語がコミュニケーションの定義を自明のものとして捉えていたとすれば、「コミュニケーション」という概念が含んでいる、つながるほうが良い、近いほうが良い、といったバイアスを解体しながら、再定義していく作業が必要になりそうにも思いますね。それはもはや「トランスコミュニケーション」なのかもしれない(笑)。そう考えるなら、特集で種を蒔きながら、連載などのほかの記事やメディアの活動のなかで議論を蓄積していって、あたかも、植物が根を張って伸びていくように成長していけるといいな。
山本 単発で特集をやっておしまい、といって次に行くのではなく、植物のように根が張って、つながって変化していく。いいイメージですね。過去の対話から芽が出て、いまここに違う花が咲いているというイメージをウェブデザインでもうまく表現できるとなおいい。まさにリンクのイメージであったり、ルートが伸びていくようなものであったり。
塚田 そういう意味では、特集「DISTANCE 新しい距離を考える」というテーマで3カ月くらいコミュニケーションについて考えていく過程でも、中身を更新しながら根を伸ばしていきたいですね。1カ月ごとに問題を提起していって、たとえば「プロトコル・オブ・ヒューマニティ」の一つのソリューションを提案し合う、そのソリューションに関する記事が掲載されていくといったことができないかな。この編集会議自体も、特集を進めるなかでアップデートしていきたいです。
山本 では、エディット・イン・プログレスということで、まずは「人間以外の存在から人間を見る」というテーマで、企画をもち寄るとしましょうか。
★02 2016年に、土方巽直系の舞踏振付法を学んだ振付家の大橋可也が率いるダンスカンパニー「大橋可也&ダンサーズ」が、長谷敏司に短編小説を依頼し、上演したダンス作品《プロトコル・オブ・ヒューマニティ》がベースになっている。ダンス作品には、ヒューマノイドロボット(ペッパー君)が登場し、人間と機械、それぞれに生じるヒューマニティが話題を呼んだ。
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