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弱いメディアを実験する

DISTANCE.media プレ編集会議

DISTANCE.media』をどのような「場」としてつくっていくのか――。ウェブの公開に先駆けて、2022年秋からスタートした編集委員会議では、新しいメディアの方向性について月1ペースで議論を重ねてきた。その全5回の記録。

構成:DISTANCE.media編集部
写真:秋山由樹

Contents

    01 弱いメディアを手さぐりする

    メディア=場のプログラムを考える

    ——ドミニクさんは、インターネットを介して人々が交流するさまざまな実験的な「場」をプログラムされてきました。新しいメディアでは、どんなコミュニケーションが生まれることを期待しますか。

    ドミニク・チェン 僕はシンプルに、あまたある他のメディアがやっていないことをできたらいいな、と思います。大学では、テクノロジー批評をベースに、どうやって新しいメディアをデザインしていったらいいのかということを学生たちと一緒にいつも考えています。人とコンピュータのインタラクションや新しい工学的な開発思想を取りいれて、それをポスト人文知や新しい人文学の潮流とどう結合していけるのかといったことに興味がありますね。

    ですから、新しいメディアではやりたいことがたくさんあります。良質な記事を提供する編集部の機能はもちろんですが、メディアそのものに固有の求心力をもたせるにはどうしたらいいのか、ということを考えたいですね。ここでしか読めない形式の記事があるとか、読者との新しいインタラクションを考える、とか。

    塚田有那 これまでのウェブメディアはどうしても記事を発信して拡散するという一方通行的なコミュニケーションにならざるをえなかった部分が大きいのですが、こうした実験的なメディアで新しいインタラクションの方法を考えられるといいですよね。それも、従来型の「コメント欄」に回収されないかたちを探ってみたいです。

    ドミニク そうですね。いま、ネット上で冷静な議論ができる場所がとても少なくなっていますよね。私自身、書き手でもあるのですが、「書き手と読み手がいい関係でインタラクションできる場をどう設計できるか」ということにあらためてとても興味があります。

    ただ書いて、読み手がSNSで意見を言うというのでなく、書き手が「こんなこと考えているんですけど」と言ったら、読者がもっとダイレクトに違う意見を提案する、というような。読み手とのインタラクションによって、著者自身の考え方が変わっていく、深まっていくという場を、マウンティングやポジショントークがはびこらないようなかたちでデザインできるとしたら、より望ましいインターネットの姿に近づけるなぁと。

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    ドミニク・チェン

    山本貴光 お二人のお話を伺いながら、ちょっと古い話を連想しました。イギリスのロイヤル・ソサエティ(王立協会とも)が発行する『Philosophical Transactions』という、世界最長寿の学術雑誌をご存じでしょうか。創刊は1665年ですから、かれこれ360年前ほどになります。創刊からしばらくの号を読んでみると、これが面白いんですね。いまのような論文のフォーマットなどないので、皆、自分が発見した興味あることを手紙に書いて編集長に送るんです。すると編集長がラジオのDJよろしく、「オランダのホイへンス君からこんな手紙が来ました」と、必要に応じて抜粋したり要約したりして掲載する。それを読んだ人が「確認してみたけど、ちょっと違うんじゃないかな」とまた投稿する。雑誌の上で観察したり考えたりしたことを提示しあって、それについてああでもないこうでもないと議論するわけです。

    この雑誌、年を追ってずっと見てみると、19世紀、20世紀に近づくにつれて、だんだんと学術論文らしい形ができていく様子が目に入ります。いったんフォーマットができると、人はフォーマットありきでものを考えたり書いたりするようになる。コミュニケーションの効率という意味ではよいのかもしれないけれど、読んでもあまりわくわくしなくなる。時代が違うと言えばそれまでですが、そういう意味で『Philosophical Transactions』の最初の100年分くらいは、書き方や表現の仕方も含めて探っている感覚があってめちゃめちゃ面白いのですね。

    新しいメディアをこれからつくろうという場合、従来のフォーマットを一度離れて、実験的に楽しみながら、もうちょっと言えば、遊びながら新しい議論の場やUI/UX(ユーザーインターフェイス/ユーザー体験)を考えていけるといいですよね。

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    山本貴光

    分散型のウェブメディアとは

    ドミニク 学術の現場でも、権威主義的になってしまった従来の査読システムを見直す動きがありますよね。査読をGitHubのような場でオープンに、分散型でやろうという試みもあります。狭い専門家コミュニティに閉じずに、より広い範囲でのピアレビューを機能させることによって、論文を集合知でブラッシュアップしていくわけですね。まさに初期の頃の『Philosophical Transactions』のような志をもちつつ、インターネットがあるから可能になる、これまでになかったようなオープンワールドの場をつくれたら理想的です。

    ——具体的にはどのような場がイメージできるでしょうか。

    ドミニク まだ成功例はあまりありませんが、DAO(分散型自律組織)的なメディアというのが一つの手がかりになるのかもしれませんね。そうだとしたら、DAO的なウェブメディアをやるとはどういうことなのか、ということ自体が、一つのテーマになるでしょう。記事を通して、面白がってくれる人、批判をしてくれる人が出てきて、それを受け止めながら発展していく。そういう自分たち自身の変化を歓迎していけるメディアを、ぜひつくってみたいですね。

    山本 いいですね。メディア自身が、手さぐりをしながら、また、そのプロセスを見せながら発展していくとしたら、とても面白いと思います。コンテンツに加えて、UI/UXに関する成果物もオープンソースで公開すれば、さらに工夫を加えてくれる人たちが現れて、より良い場へと発展していけるように思います。

    弱さを隠さない場のデザイン

    ドミニク そういう意味では、「未完成である」ことを積極的に示していけるといいのかもしれません。これまで、強い編集部、強いメディアはあったけれど、最初から「弱い」こと、不完全であることを隠さず、開示していくメディアの成功例ってあまり思い当たりませんね。つねに変化を受け入れて、オープンエンドにゆらいでいけるというのが次の世代の新しいメディアの要件なのではないかと思います。

    塚田 弱さを開示できるって、いいメッセージですね。現在のウェブメディアにも読者コメント欄を有するものがいくつかありますが、インターネットを介して読者がコメントできること自体は画期的な機能だったはずなのに、ネットニュースのコメント欄などに渦巻く炎上や罵詈雑言に満ちた状況を見ていると暗澹たる気持ちになります。ただ、もう世界中がそうした状況になってしまったなかで、個々人にインターネットリテラシーを求めること自体が無効化していると思うんです。

    そもそも、テキストベースのコミュニケーションというのは、何らかの強弱を伴うものだと思うんですね。悪意はなくても、同じ文字が並ぶなかでいかに目立つ発言をするかという心理が働きうるし、その結果として、知識自慢が始まったり、コメントが得意な意識の高い系の有識者だけの場になってしまったり、または自己防衛のための言葉が他者への攻撃になってしまったり。既存の多くのメディアは、こうしたさまざまな問題を抱えています。

    ドミニク まさにメディアを支える構造、アーキテクチャの問題ですよね。ある場が醸し出す雰囲気は、そこで交わされるコミュニケーションのフォーマットによって醸成されるもの。強くも完全でもない私たちが、無意識のうちに強く振る舞ってしまうのが従来のSNSやネット空間のアーキテクチャだったわけですよね。

    塚田 そこに何か、弱さややわらかさを醸し出せる工夫ができないかなと。テーマの立て方、問いの立て方、キャラクターのつくり方から視覚的なデザインまで、編集側で工夫を凝らすことで、そうしたさまざまな問題の解決のいとぐちにつなげられないか、と。

    コメント欄も悪いものばかりではなくて、たとえば多くのマンガアプリのコメント欄では、単話ごとにコメントをし合うコミュニティが形成されていて、その回の内容によっては「私もそうだった」といった、普段は言えないような感情や体験を吐き出せる結束の場としても機能しています。アプリ「サイコミ」から大ヒットした『明日、私は誰かのカノジョ』(をのひなお、小学館)などはその代表例で、美容整形やホスト、配信主にハマる女性たちのリアルな声が渦巻いていて、これからの社会学者はこうしたコメント欄をリサーチするべきじゃないかと思いました(笑)。

    そこではマンガというコンテンツが人の感情を誘発するきっかけになっているわけですが、「問いかけ一つ、インターフェイス一つで人はどう変わるのか」、そういった人間の認知や心理についても、このメディアのなかで考えていきたいですね。

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    塚田有那

    ウェブというより「ゲーム」をつくる感覚で

    山本 ドミニクさんがおっしゃった、弱さを開示できる場というのはとても重要なことですね。また、塚田さんがおっしゃったコメント問題も。その解決のためには、まずわれわれは既存のウェブメディアについての常識を捨てるところから出発する必要があると思います。

    これはローンチの時にどこまでできるかはわかりませんが、一つの発想として、ウェブをつくるというよりも、ゲームをつくるように考えていくのがいいんじゃないでしょうか。ゲームでは、ゲームを提示するクリエイターと、それを受けて遊ぶプレイヤーがいますよね。プレイヤーは単なる「お客さん」として訪れるのではなく、ゲームが提示する場所で遊びを通じて、何か痕跡のようなものを残していくというところに面白みがあります。

    たとえば『マインクラフト』や『おいでよ どうぶつの森』のように、プレイヤーが自らの居場所をつくり、その居場所をベースにして他のプレイヤーやクリエイターたちと交流できる場をつくってみる。そういう場であれば、同じ興味や関心をもつ同好の士と遭遇することもできるでしょう。

    加えて言えば、ゲームはそもそも失敗を楽しむ遊びでもあります。なにかしてみようと思って試す。でも、すぐにはうまくできない。うまくできないけど、失敗するたび、「あ、そうか」と発見もあったりして、試行錯誤を繰り返すうちに自分にも変化が起きる。失敗を楽しむのって、まさに「弱さ」を開示することでもあると思うんですよね。

    インタラクティブな場、弱さを提示できるやわらかな場は、こうしたゲームが一つのモデルになるように思います。

    ドミニク ゲームとしてのメディアというアイデアはとてもいいですね! そうなると、ログインは必須になりますね。単にコンテンツを見るだけでなく、プレイヤーそれぞれに自分なりのミッションとかアクションが生まれるようなオープンワールド形式の場にもなると思います。すると、これまでは「読者」というロールが与えられてきた人たちが、「プレイヤー」として振る舞うような言論空間とはどういうものでしょう。

    「コメントどうするんだ問題」

    山本 見ようによっては、コメントも、最初から自由に入力できるからいろいろな問題が起こるんですよね。だからといって、コメントする機会がなければ一方向でつまらない。これをゲームの発想で考えるとどうなるか。たとえば、ユーザーは最初、コメントで使える語彙を3語しか持っていない。この3語でなんとかやりくりする。そうしていろいろしているうちに、徐々に語彙が増えていく。制限のなかでやりとりを重ねるなかで、他のユーザーとの関係も生まれていく。そんな方法もあると思います。

    昔、『どこでもいっしょ』といって、猫のトロというキャラクターに言葉を教えて遊ぶゲームがありました。最初に使える語彙は少なくて、少しずつ増やしていくうちに、トロがだんだんと身近な存在になってゆく。人間同士だから、まったく同じとはいかないですが、コメント欄で使える言葉を最初は数語しかない状態で始めてみる。そんな不如意な状態のなか、それ自体を遊び、楽しみながら、皆で「コメントどうするんだ問題」を考え直していくといったことができたら面白いですね。

    ドミニク なるほど、「コメントの不如意さからコメント問題を考える」わけですね。徐々にレベルアップして使える言葉が増えるのであれば、ゲーミフィケーションとしての新規性もありそうです。『Philosophical Transactions』 のように、新しいフォーマットの苗床としていろいろな試みができるように思います。

    メディアのあり方そのものを問いながら、面白さをどう担保していくのか。われわれがこれからやろうとしているのは、「メディアとしての面白さの再定義」という、チャレンジングな試みなわけですね。それはつまり、従来の書き手と読み手の役割と関係性を再定義しつつ、双方にとって有益なコミュニケーションとはなにかを問うことでもあるかと思います。今日話しているアイデアはすべて即反映というわけにはいかないでしょうけど、こうだといいなという共通の方向性のイメージが見えてきた気がします。手さぐりでいろいろ実験するプロセスを公開しながら進めていきましょう。

    02 記憶の世話をするメディア

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    見晴らしマップがあるといい

    ——“DISTANCE”というメディア名をお聞きになって、どう思われましたか?

    山本 いま、誰もが実感している喫緊の課題を表現している言葉だと思いました。私たちはいま、誰に頼まれたわけでもないのに、朝から晩までお互いのTwitterやらInstagramやらTikTokやらを見て、誰かとLINEして、動画を観て……というように、断片的なデータが次々と目や耳に入ってくるという世界を生きています。しかもそれらの多くは互いに関係のない細切れな情報です。そういう無数の断片を断片のまま受け取っても、われわれ人間の身の丈に合っていなくて処理しきれない。ジャンクデータまみれと言いましょうか、そういう状態を実感しつつあると思うんです。

    それに対して、断片の全部である必要はありませんが、自分なりにそうした断片のある部分を位置づける「マップ」のようなもの、地図のような視点から物事を捉えることがあらためて必要になっているのではないかなと思っています。マップをつくるには「ディスタンス」、距離が必要になる。対象に近づいたり、ぐっと離れてみたりしながら、その全体や細部の関係を見えるようにするのがマップです。空間だけでなく歴史、つまり時間の観点からも「見晴らす」という感覚がほしい。それはいま、価値になると思うのです。

    ドミニク それはまた、近すぎる情報から「距離を取る」、ということでもありますね。他方で、ただ俯瞰するということでもない気がします。けわしい山道を登ったあとに、気がついたら頂上にたどり着いて、これまで歩いてきた軌跡を見渡せる瞬間。主観的なウォークスルーの経験のあとに、俯瞰的なトップダウンビューに移行する経路とそのプロセスが交互に入り交じることに意味が生じるのだろうと思います。ディスタンスとはだから、ただ「遠い」という意味だけではなく、近くから遠く、遠くから近くへ、遠近の両極を自在に行き来することを考えるコンセプトでもありますね。

    山本 朝から晩までいろいろなものが耳目に飛び込んできて、ごちゃごちゃしてわけがわからない。でも、あそこに行けば、その都度、なにか見晴らしが得られる。そうして見晴らしを得た後でまた日常に戻ってみると、さっきまで断片の山に見えていたもののなかに、関係の糸のようなものが見えてきたり、断片がパズルのピースのように見えたりもする。このメディアが、そういう見晴らしを得られる場になったらいいと思います。適切なディスタンス(距離)があってこそ、空間的・時間的な観点から「見晴らす」ことができるんですね。

    塚田 私も、私たちが想像できるタイムスケールがすごく短くなっているという問題意識があります。もう「未来を予測するメディア」とか掲げるのはやめたほうがいいんじゃないかと(笑)。それは、私自身の反省でもあるのですが。

    たとえば、これからメタバースの未来が来るよねと言ったところで、だいたいそこで語られる「未来像」って5年先か、たかだか10年前後くらいのことなんです。それ以上の未来は考えられないくらい、想像力が矮小化してしまっていることに強く危機感を感じています。私たちは1000年前の古典や歴史を参照して、そこから学ぶこともできるはずなのに、もう「10年先はどうなっているかわからない」なんて言っている。ディスタンスは空間的な距離だけでなく、時間的な、時空間的な距離を自分の想像力のなかにもつという意味でもすごく重要だと思います。

    記憶の世話をする

    山本 他方で、時空間の観点からものごとを見晴らすためには、抽象的な言い方になりますが、じっくりと持続することも必要でしょう。というのも、いま私たちが抱えている問題の本質は、「自分の記憶をどう構成していったらいいか」というところにあると思うのです。なにを覚えておくか、なには忘れ去るままでいいか。

    そもそも人間の記憶って、時間をかけて、何度も似たようなものを見聞きすることで初めて長期記憶として形成されるものですよね。一瞬目にしただけの断片的な情報は、よほど衝撃的な場合を除けば、短期記憶としてすぐに消えていってしまう。しかもいまでは人は四六時中情報やデータが流れ込んでくる装置を肌身離さず持ち歩いていたりするから、目まぐるしく大量の断片が耳目に入るし、次々と注意が動いてゆきます。なにかがゆっくりと記憶に沈殿するような暇もないくらい。

    もう少し具体的に言うと、いまでは個人用のコンピュータでも、数千、数万という規模のファイルを扱えるようになっていますね。スマートフォンに撮りためた写真が何千枚か入っているというのもざらでしょう。前世紀のパソコンなら、ずっと使っているうちにどこになにがあるかという見当識をもつこともできましたが、いまやほとんど不可能です。私はPDF化した本のデータを1万冊分くらい持っていますが、本棚に並べた本の場合と違って、なにがあるのかまったく覚えられません。昨日ネットで見かけて、ちょっといいなと思ったあの服や、気になったコメントをもう一度見ようと思っても、場合によってはどこで見たのかもわからなかったりする(笑)。

    私の記憶力の覚束なさを差し引いても、細切れで流動的な情報があふれる現代では、長期記憶の形成が難しくなっているのではないかと思うことがあります。ではそんななか、どうやって記憶しておきたいことと付き合うか。このところ、「記憶の世話をする」にはどうしたらよいか、ということに関心があります。つまり、細切れに見聞きしたことを、いかに意味のある記憶として構成していくのか――。

    ——山本さんは、『記憶のデザイン』(筑摩選書、2020)というご著書のなかで、そのことについて書かれていますね。

    山本 ありがとうございます。そうなんです。「世界の見方を自分なりにもちたいな」「知的な関心で何かを探究したいな」というときに、現在のコンピュータとネットワークでつくられた細切れの世界とは違った、なにか別の方法が必要とされているのだと思います。もし、このメディアがそうした記憶の世話に役立つような場になるとしたら、あるいはそういうことを探ったり試したりする場になったらとてもいいと思うんですね。というのは、私の勝手な期待ですけれど(笑)。

    〝遠くの過去〟にも目を向ける 

    塚田 NTT出版はかつて、『InterCommunication』という雑誌をつくっていました。私も読者の一人でしたが、山本さんやドミニクさんは執筆もされていましたね。

    ドミニク 僕も学生の頃から読みはじめ、書かせていただいてましたし、大学を卒業してから働いていたメディア・アート施設NTT InterCommunication Center [ICC]と連動して、インターネットやテクノロジーの可能性について、多様な分野で活躍する人々の論考や対話を掲載していました。ある意味で、インターネット黎明期以降の思想的な潮流を考える場になっていたと思います。

    塚田 『InterCommunication』では、テクノロジーと社会の未来を見据えるということをコンセプトの一つに掲げていましたが、今回のメディアでは、未来の先進性というだけでなく、人類が培ってきた歴史や文化にもう一度焦点を当てていくということも打ち出したいなと思います。いわば温故知新、過去と未来が交わる視点を編み出していきたいですね。

    山本 大賛成です。文化やその歴史に対する見方を検討したり拡張したりできたらいいですね。手がかりになるかわかりませんが、『InterCommunication』で「年表・エコロジー300年史」を編んだことがありました。そこでは不十分ながら、自然や社会の出来事に加えて学術のさまざまな領域の要素を入れようと考えてみたのです。学術の歴史には、人類の関心と世界の見方が映り込んでいて、なにごとについて考える場合でも、やはり頼りになるんですよね。

    「学術」という日本語は、もとを辿ると「Science and Art」を訳したものでした。これは「学問」と「技術・芸術」を合わせて「学術」と短縮したわけです。その学術とは、少なくとも文字による記録が残っている時代からから現代まで、その歴史を追うことができます。文字が残っているのは紀元前3000年ぐらいからなので、おおむね過去5000年ぐらいの地球上で行われてきた「Science and Art(学術)」の営みがどう始まって、どこでどう伝わっていまに至るか、その歴史の全体像をマッピングしたいと考えています。

    なぜそんなことをやっているかというと、楽しいからです(笑)。それはともかく、歴史を遡ってみるのは、現在の条件を知るという意味でも大事なことだと思うのですよね。

    たとえば、パソコンってなんだろうと考える。いまのものだと難しいですが、私が小中学生の頃に触っていたパソコンは、いまよりずっと単純なものでしたから、その仕組みもちょっと頑張れば理解できた。ハードとソフトから構成されていて、ハードはこれこれのパーツからなり、ソフトのほうはプログラム言語で書かれている。プログラム言語にはいろいろな種類があるものの、根底では機械に命令するためのマシンランゲージ(機械語)があるらしい。それは2進法で表現されていて、「記憶装置のこの箇所に数字を書き込め」とか、ハードの働きを基礎的なレヴェルで操作できる。そんな仕組みをいったい誰が考えたのか。

    そう思って調べていくとイギリスの数学者チューリングに辿り着く。さらに遡ると、2進法や計算機械を考えたライプニッツという人がいて、彼は概念も論理的に演算で処理できればいいと考えていたらしい。概念や論理ってなんだろうと思って見てゆくと、途中を略して言えば古代ギリシアに辿り着く。そこで提示された問題や考えを頭に入れて、ふたたび歴史を現代に向かって辿ってみると、パソコンという装置がこれまでの知識や技術や試行錯誤の織物に見えてきます。

    学術の世界は、いまではかなり細分化されていて、専門が違うと話も通じにくい。「バベルの塔」のようでもある。いまだに理系と文系なんていう区別が壁になったりもする。他方で、いまのパソコンの話ではないけれど、こんなふうに専門の区別に囚われずに歴史を遡ってみると、それまでバラバラに見知っていたもののなかに、あちこちつながりがあるのも見えてきたりする。古典や歴史は、私たちに「見晴らし」を与えてくれる、重要な役割を担うものだと思うんですね。

    みんなのプレイが場をつくる

    ——どんなコンテンツがあるといいと思いますか?

    塚田 ウェブメディアは単発記事をいかに拡散させるかが勝負です。最近の学生に「よく見ているメディアは?」と尋ねたとき、「LINEニュースかYahoo!ニュース」と返ってきて絶望したのですが(笑)。もう彼らにとって「メディア」とはプラットフォームのことであり、日々SNSやニュース配信アプリから流れてくる単発記事をチェックするのが日常なんですよね。けれど、そんな時代だからこそ、従来の雑誌文化のように毎回特集を設けて、編集部が総力をあげて一つのテーマについて調べていくという熱量のこもった記事づくりもしっかりやりたいなと思います。一方で、月一でガラッとレイアウトが変わるとか、特集と連動したデザインを打ち出すとか、従来のウェブメディアの見せ方自体を問い直してみたいですね。

    山本 たとえば、フランス国立図書館の電子図書館“Gallica(ガリカ)”では、ときどき特集ページをつくっているのですが、毎回、さまざまな工夫を凝らしているんですね。とくに「ファンタジーノベル」特集は、ちょっとしたアドベンチャーゲームのようになっていて、じつに魅力的な工夫をしたものだなあ、と楽しんだのを思い出しました。

    ドミニク それと同時に、一過性の特殊な体験ではなく、日常に無理なく埋め込まれていく体験にしていきたいですよね。いま、テキストコンテンツをメールで配信するプラットフォーム「substack」がアメリカで人気を博していることを想起します。固定読者が何万人もいるライターの人がたくさんいます。僕も日本のメールニュースを購読しているのですが、月曜日の朝7時に記事が届くので、一週間のリズムを刻んでくれるメディアにもなっています。週の初めに記事を読んで、自分なりのミッションやアクションのようなものが生まれる。「今週はこれを調べてみるかな、やってみようかな」と。こうした動きにはメールという枯れたメディアの有用性が再発見されているような面白さがありますが、生活の自然な流れに寄り添うことで、無理なく体験できるという側面もあるように思います。そんなふうに、気軽にゲームをプレイしてみるような感覚でみんなが少しずつ参加できるといいですよね。

    山本 そういう工夫があれば、持続しない、「飽きる」という問題の解決にもつながりますね。単にその都度「訪れて読む」という一度きりの場ではなく、継続的にプレイヤーとして参加し、住みついて、営みを続けたくなる。ゲーム風に言えば、経験値を増やしながらさまざまなスキルを獲得したり、「実績解除」をしていく感じでしょうか。ウェブサイトに、ユーザーの状態を示すステータスシートのようなものがあって、自分がそれまでに読んだ記事の痕跡が蓄積されてゆく。そのデータをもとに、地図や年表やインデックスに自分の興味の所在がマッピングされて、どんな方面が気になっているかという様子が浮かび上がったり、変化してゆく過程を見られる。つまり、ユーザーのアクティビティによって場が構築されていく。ただメディアから情報を受けとるだけでなく、ユーザー自身の「体験をつくる」場にもなるわけですね。

    塚田 参加という意味では、私たちもできるだけリアルに集まって話ができたらいいですね。いまはオンラインが主流ですが、やはり雑談がしにくい。でも本来、編集会議って、雑談の延長からアイデアが生まれてくるものじゃないですか。月1回くらい、楽しいお茶会をする感覚で話せる場があるといいな、と。ときには会議室を飛び出して、ピクニックや旅に出たり、焚き火をしたり、海を眺めたり、遠くを見ながら話すとしましょう。

    03 わかりあえなさを愉しむ

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    みんなが「火星の人類学者」だとしたら

    ——前回、このメディアのUI/UXの一つのあり方として、山本さんから「ゲーム」のように、というご提案がありましたね。

    山本 UI/UXに落とし込む手前にまず考えたほうがいいと思うのは、サイトを訪れた人がどういう場所、どういう位置に置かれるのか、ということです。ゲームであれば、「勇者」とか「宇宙船の乗組員」とか、プレイヤーにはある立場が与えられますよね。あるいは、地図を見る人は、本人にそのつもりはなくても、上空から地球を見下ろす位置に置かれます。コペルニクスの『天球回転論』(1543年)の図を見る人であれば――実際にそんなふうに見える場所があるかわからないけど――太陽が中心になって、その周りを同心円状に惑星が回転している様子を見る場所に置かれる。そういった意味で、このサイトを訪れる人をどんな立場や位置に置くのか/置かないのか、そこを決めるのが大事だな、と。

    普通のウェブは、そんなふうにユーザーの立場を決めずに、「みんな自由に見てください」というスタンスですよね。でも、そうだとするとひょっとしたら、「繰り返し訪れたくなる」とか「持続的に興味をもつ」という意味では弱いのかもしれません。

    塚田 たしかに、人って自分に何か役割があると、その場所への帰属意識が生まれるし、愛着も湧きますよね。それが押し付けがましくないかたちで始まると良いですね。

    山本 そこで今日、ここへ来る前に妄想したのが、たとえば、このサイトに来る人を「火星の人類学者」という立場に置くのはどうだろう、ということでした。「火星の人類学者」というのは、イギリスの神経学者オリヴァー・サックスのエッセイのタイトルです。これは、動物学者で自閉スペクトラム症であるテンプル・グランディンが、神話や寓話に登場する「愛」に当惑した自身のことを評した言葉ではあるのですが、このサイトに来る人を、地球へ探索しにやってきた火星人、あるいはもっと遠い未知の星からやってきた異星人という立場に置いてしまうわけです。つまり、地球のことは何もわからないという立場で調べ歩いて、「地球人ってこういうことをやってるんだ」という発見を重ね、訪れた人同士でその発見を共有する。そういう一種のロールプレイングを考えてみてはどうかと思うんですね。

    ドミニク 面白いですね。地球や人間について何も知らない、まっさらなところから始める、という前提がいいですね。ゲームでいうところのレベル1の段階、チュートリアルの段階からはじめるというロールプレイを通して、わかりきってると思い込んでいる自分たちの世界に接しなおす感じ。

    山本 たとえば、「言語って何だかわからないな」とか、「人類はあんなに働いてお金を稼ぐのが好きなくせに、なんで休みの日になるとわざわざゴルフをしに行くのかな?」とか、「そもそも遊びって何?」とか。「わからないのが当たり前だよね」という状況に置かれることで、楽しみやすくなる。つまり、ハードルがぐっと下がるわけですね。「なんせ自分は異星人だからわかんないんです」という感じで、政治だろうが、サイエンスだろうが、思想だろうが、面白がれる素地をつくることができるんじゃないかと妄想したのです。

    わからないことが面白くなる、異星人設定

    ——その場合、ウェブサイトのユーザー体験としては、どのようなものが考えられるでしょうか?

    山本 よくあるサイトは、最初から全部オープンになっていて、「あなたが好きなように探索してください」というものですよね。たとえるなら、WindowsのOS方式です。最初からたくさんのコマンドが全部オープンな状態で置かれていて、ユーザーは何か目的をもってそれを使いこなすことが前提となっている。ユーザーは来た時点でやりたいことが決まっているので、あとはコマンドを選べばいいだけです。つまり、動機はユーザー側に委ねられている。慣れている人にはとっても便利なやり方です。でもそうなると、「これがやりたい」という目的をもたない人、OSのことをよく知らない人には使えません。コマンドが数十種類あっても、意味がないわけですね。そこで、本屋さんに行って、『Windowsの使い方』といった本を読むけれど、なかなか身につかない。目的や動機をもたない状態でOSに向かっていても、知識やスキルは身につかないわけです。

    塚田 異星人という設定であれば、何も知らないのが当たり前だから恥ずかしくないし、未知のことを知りたいという動機づけにつながるわけですね。さらには、全員が異星人というまっさらな状態に置くことで、知識の有無でマウントを取るような状況も回避できるかもしれない。

    山本 そう、「あなたはいま初めて地球に降り立った異星人ですよ」となれば、右も左もわからないのが当然です。最初に見えているのはトップページだけで、全体像は闇に包まれている。そして、自分が訪れた場所だけが見えてくる、というのはどうかな、と。これはまさにゲームのユーザー体験ですよね。

    ゲームだと、最初から全部マップをオープンにしないで、ユーザーが探索したところだけ地図が広がっていったりすることがあります。地図が広がると、そこでまた何か新しいアイテムや新しい場所が目に入って、それを手がかりにしながら進むと、「まだ行ったことがないけれど、○○○っていう都市があるらしいよ」と噂が入ってきて、「じゃあ、そこに行ってみよう」となる。こういうゲームの場合、最初からフルオープンにするのではなく、探索するとだんだん見えてくるからワクワクするし、面白いんですね。

    これをウェブに置き換えてみると、たとえばサイト全体を100%としたとき、「いまあなたが読んだのは1.5%ですよ」と表示される、とか。「となると、残り98.5%はまだ見ていないんだな」とわかって継続的に探索したくなるかもしれない。もちろんそれを見てさらに探索したくなるかどうかは、ウェブの内容次第ではあります。しかも、その数字が日々更新されていれば、「昨日、30%まで見たはずなのに、一晩寝たら25%に下がった!……あ、何か記事が増えてる」と気づくわけですね。あるいは数字ではなく、ウェブ全体のマップがあって、よく探索した場所とそうではない場所をぱっと見てわかるようにしてもいいですね。

    「わかりあえなさ」を肯定する設計

    塚田 いまの山本さんのお話を聞いて、「エイリアンズ」って言葉を思いつきました。エイリアン“ズ”と複数形にすることで、いろんなエイリアンがいる、ということになる。たとえば、同じ「日本人」だとしても、それぞれの属性も個性も違っていて、本当はお互いエイリアン同士ですよね。多様性を包摂することが難しいとされるいま、エイリアンってちょっとユーモアの利いたいい言葉だな、と思いました。読者も寄稿者も編集者も、全員が「エイリアン」である、と。

    山本 エイリアンから学び直すわけですね!

    私がなぜ、こんな妄想をしたのかというと、このメディアの目玉コンテンツの一つである『InterCommunication』のバックナンバーのアーカイブをどう読むのがいいのだろうと考えていたからなんですね。われわれのように『InterCommunication』を読んで育った世代であれば、「ドミニクさんが書いてたな」とか「磯崎新さんの対談を読んでみよう」と検索して読むことができるけれど、物心がついた頃にはすでに休刊になっていて、その存在自体を知らない「はじめましての人」は、そうはいかないですよね。そういう人に楽しんでもらえるようにするには、探索を誘うしくみがあるといいな、と考えているのです。

    そうやって探索するなかで、「どうも一時期、人類は“マルチメディア”って言葉を盛んに使っていたらしいぞ」と気づいて、「マルチメディア」という言葉を手に入れる。最初はその意味もよくわからないけれど、「関連する記事があるらしい」と知って、読み進めるうちに新しい言葉や概念を収集していく。それが現在にもつながっていたりする。なにせ「人類学者」ですから、ウェブからいろいろなものを拾い集めて、自分の部屋に溜め込んでいくイメージです。

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    塚田 ブルーノ・ラトゥール(フランスの哲学者・人類学者・社会学者)のキュレーションで実施した2020年の台北ビエンナーレのテーマが、「あなたと私は同じ星に住んでいない」(你我不住在同一星球上=You and I Don’t Live on the Same Planet)でしたね。そもそも私たちはそれぞれ異なる価値観をもっていて、簡単にはわかりあえないものでしょう。そのわかりあえなさを肯定しながら、どう楽しむか。それは、ユクスキュルが唱えた環世界(Umwelt:ウムヴェルト)のメタファーが活きる考え方でもあると思います。

    以前、ドミニクさんや渡邊淳司さんたちとご一緒した研究会で、書籍にもなった『情報環世界』(NTT出版、2019年)はまさにそうしたコンセプトで、お互いの異なる情報環境を一種の環世界となぞらえ、それらをどう行き来できるか、またはしないのかといった遊びと実験を行っていました。

    「地球人のための詩」を紡ぐ

    ドミニク まず「わかりあえなさ」を肯定する。そこから始めることに意味があるわけですよね。私は2020年に出した『未来をつくる言葉──わかりあえなさをつなぐために』(新潮社)という本でコミュニケーションについての常識を問いなおしたのですが、そこでたどりついたのが「わかりあえなさ」というのはそもそものスタートポイントであり、「わかりあえる」ということのほうがレアな、奇跡のようなことなのではないか、ということでした。むしろ、わかりあえなさというのは互いの好奇心を生み出す源泉になりえる。100%わかるということはむしろありえず、それでもわかろう、知ろうとして、相手に近づこうとするプロセスに価値が生じるのだと思います。

    山本 話が通じ合わないということを最初に肯定すれば、そこからどうやって話が通じるようになるかを考えることができると思います。それを『InterCommunication』のアーカイブを使って学習していくわけですね。さらに新しい知識を追加していくことで、学びのプラットフォームとして育てていく。

    ドミニク あぁ、学びなおしの場になるというのはいいですね! すると、知識人や有識者が高度な議論を交わして、読者がそれを周りで眺めるというような、旧来のメディアの前提が崩れたところから考えることになりそうです。

    塚田 お話をお聞きしていて、テッド・チャン原作の映画『メッセージ』(原作は『あなたの人生の物語』ハヤカワ文庫)を思い浮かべました。主人公の言語学者が、異星人とのコミュニケーションを図るべく、彼らの「言語」を理解しようとしていく過程で、自分自身の思考体系自体が変わっていくという。

    ドミニク 『あなたの人生の物語』は、サピア=ウォーフ仮説とも呼ばれる言語相対論に基づいたSF作品ですよね。言語相対論とは、使う言語によって世界認識の仕方が変わる、という考え方ですが、作中では言語学者の主人公が円環的な時間軸を体得してしまう。『未来をつくる言葉』でも、夢幻能の亡霊と人間の会話と比較しながらテッド・チャン作品について論じましたが、新しい言語、新しい言葉を知ることによって、私たちも世界との関係のしかたを学びなおすことができるのだと思います。

    塚田 私がもう一つ思い出したのが、三島由紀夫の『美しい星』という作品です。この物語は、ある一家が突然、父は火星、母は木星、息子は水星、娘は金星から飛来した宇宙人であることに目覚めたところから始まるという(笑)、なかなか三島には珍しいトンデモSF小説なのですが。ここで面白いのが、主人公たちが「自分たちはエイリアンである」という視点から、この社会の抱える問題や奇妙さを改めて語り始めることなんです。

    そしてストーリーは水爆の開発による地球滅亡の危機に直面するなか、対立する宇宙人との激しい論争へと展開します。「人類は滅亡するべきか、否か」というテーゼは20世紀の終末論にありがちなものですが、とくに私が印象に残っているのが、終盤に父の重一郎が、もし人類が滅んだら、地球人のために墓標に書くだろうと語った次の詩なんですね。

    地球なる一惑星に住める
       人間なる一種族ここに眠る
    彼らは嘘をつきっぱなしについた。
    彼らは吉凶につけて花を飾った。
    彼らはよく小鳥を飼った。
    彼らは約束の時間にしばしば遅れた。
    そして彼らはよく笑った。
      ねがわくはとこしなえなる眠りの安らかならんことを

    (三島由紀夫著『美しい星』新潮文庫、207頁)

    まさにこの詩の比喩のなかに、人間という弱くて愚かな存在に向けた愛おしさが詰まっている。人間の思考や行動ってそもそも合理的ではないことがほとんどですよね。その愚かさも愛しながら、エイリアンの視点でこの社会を見つめたとき、こんなふうに、DISTANCEなりの「地球人に向けた詩」をみんなで紡いでいけたらいなと思いました。

    More Poetry, Less Demo 詩を紡ぐためのコンピュータ

    ドミニク お二人と話していて、いわゆるアカデミアの世界の「レビュー(査読)する」といった人類の知的な営みに関しても、このメディアで新しい方法を編み出していけるといいように思えてきました。たとえば、論理的に構築された論文に対して、ロジカルにコメントをするという従来のレビューだけでなく、詩を書いて応答するというレビューだってありえる。異なる表現様式を挿し込むだけで、まさにエイリアン同士のコミュニケーションじみてくる。そんなふうに古典的なアカデミアとは違った、多様性が内包された知的体験を構築できたら楽しいな、と思います。まさに、「火星の人類学者」だったり、「エイリアン」だったり、という設定にすることで、これまでとは全然異なる知の営みの作法をつくっていけるかもしれませんね。

    山本 「詩」もいいですね。詩というかたちを取ること自体が、言葉の「やり直し」にもつながると言いましょうか。しかも、別にいい詩である必要はなくて、言葉がぽつぽつ並べられるだけでいい。たとえば、「ハンバーガー」「ポテト」「コーヒー」「たべたい」だけでもいい。その数語からだけでも、いろいろな情景が想起されます。

    ドミニク ああ、まるで寺田寅彦の「好きなもの イチゴ 珈琲 花美人 懐手して宇宙見物」みたいですね。

    山本 そうそう。詩を書くことのハードルが高いというのであれば、そのウェブで調べたり読んだりしているキーワードから、勝手に詩が生まれてくる、という仕掛けがあってもいい。さらには、ユーザーのリアルタイムの行動をもとに、「いまこの惑星を探査しているエイリアンズの集合的無意識がこの詩を生成している」といったように、大勢の人の行動ログから詩が生まれてくる、とか。そして、その詩がどんどん変わっていく。みんなのサイト上での行動から何か創作物が生まれてきちゃうとしたら、面白いなぁ。

    塚田 そういう仕掛けがあるとマインドも行動も変わりますもんね。いまってなんでもウェブ上に答えがあると思ってしまえる怖い時代で、つねに「正解」が求められるような風潮もありますが、詩には正解も間違いもない。

    ドミニク 意外に、コメントよりも詩を書くほうがハードルは低いと感じる人もいるような気がしていて。最近、短歌を詠んだり興味をもつ若い人が増えている気がします。真面目にコメントをするよりも、詩のほうが気楽なのかもしれない。

    塚田 直接、詩を書くことを求めなくても、「詩的な想像力を育む」というメッセージがあるだけで、このメディアを訪れた人の考え方や振る舞いが変わるような気がします。

    そういえば、ニューヨークにSFPCというスクールがありますよね。School for Poetic Computation(詩的なコンピュテーションのための学校)の略で、若手のプログラマーやクリエイティブコーダー(プログラムを用いてアートやサウンドなどの表現活動をする人)、アーティスト、デザイナーのための学校です。まさに「コンピュテーションには詩が必要だ」という。

    ドミニク SFPCのモットーの「More Poetry, Less Demo」(もっと詩を、デモは減らして)というのは「有益な道具をつくるためにコンピュータを使うのではなく、詩的な表現を紡ぐためにコンピュータを使う」というコンセプトですよね。この表現は有用性にからめとられることが増えている昨今、ますます大事な視点になっていると思います。

    山本 いまのお話から勝手に連想しちゃうと、コンピュータでプログラムを書くこと自体が、詩を書くようなものだな、って思うんですね。プログラムって、要するに命令を書き並べているだけですからね。「これをプリントしろ」とか「このデータを保存しろ」とか「このデータをもってこい」とか。プログラマーにその気はなくても、彼らはコンピュータに向かって命令形で書かれた詩を紡いでいる、と見立てたくなりました。

    ドミニク そもそも、「アート思考」が大事という特集を組むメディアはたくさんあるけれど、その論評自体が、詩的な表現でなされるのではなく、論理的な文章で書かれていること自体に乖離があるとも言えます。詩的な思考、詩的な表現をきちんと扱っていけるメディアにしていきたいですね。

    塚田 そうそう、「アート思考」って何かものすごいクリエイティビティが発揮される発想法のように誤解されがちで、期待だけが上滑りしている感がありますよね。それよりもいまの社会に必要なのは、自分自身が何を感じて、どう考えたのか、それぞれの感受性が肯定される場だと思うんです。そういう意味で、詩には自分や他者の感性を交わらせる可能性がまだまだあると思います。

    04 ゆっくり考える、ゆっくり言葉にする

    弱いメディアを実験するの画像

    「感情の言語化」はゆっくりがいい

    ——前回、話題になった詩的な思考や詩的な表現というのもそうなのですが、このメディアの方向性として「弱いメディア」でありたい、というのが重要なメッセージになっていますね。

    山本 今年1月に日本語学者の今野真二さんが『「鬱屈」の時代をよむ』(集英社新書)という本を上梓されたのですが、この本で今野さんが「気持ち・感情・感覚の言語化」について、とくに不安な気持ちや憂鬱な気持ち、鬱屈とした気持ちや感情に焦点を絞って語っているんですね。何かモヤモヤしていて、それがすぐに「悲しい」とわかるときもありますが、そうではないときもありますよね。もしかしたら「悔しい」のかな、あるいは「切ない」のかな、といろんな言葉と照合していって、「これじゃない」「これでもない」と探っていく。そんなふうに、感情を言語化するときに、すぐにピタッと短い言葉で言い当てられないときってあるでしょう?

    塚田 すごくわかります。そもそも、感情というのは複数のレイヤーにまたがっているものですよね。楽しみと不安、悲しさと安堵、優越感と罪悪感といった相反する感情が共存することなんてざらにあります。

    山本 いま、パンデミックや戦争によって、世の中全体が「モヤモヤ」とした不安が蔓延した「鬱屈の状態」にあるわけですが、その渦中にいるとわれわれ自身、自分がどんな感情を抱いているのかよくわからなくなってきますよね。そこで、今野さんはこの本のなかで、関東大震災や第一次世界大戦、スペイン風邪の流行の時代まで遡って──現代から距離(ディスタンス)をとって──人々がそのときの感情をどう言葉にしたのかを調べているのです。つまり、「感じられたはずの感情」と「言語化された言葉」の対比をしている。すると、状況をよく言い表せている場合と、そうではない場合が見えてくるんですね。

    たとえば関東大震災の後に、東京市が市民から募った詩集を見てみると、ほぼ同じような言葉遣いが並んでいることに気づきます。「これから復興だ」とか「希望を胸に」とか、選ぶ言葉がステレオタイプになってしまっている。日常が大きく揺らぎ、自分のなかにある世界と現実が大きく乖離したときに、言葉でそれを埋めようとしても、なぜだか、絵空事のような大きな言葉を使いたくなっちゃう。たくさんの人が詩を詠んでいるのに、結果的に並ぶ作品が同じになってしまうのはなんでなのかな、と。

    ドミニク そもそも感情を言語化するのって難しいことのはずですよね。日常生活を送っていても、きちんと感情を言語化したり、他のかたちで表現できているかは怪しい。原理的に考えれば、私たちの一挙手一投足ごとで、異なるニュアンスの表現が生まれても良いのだけど、それは私たちの言語というツールでは網羅することはできない。

    山本 そうなんですよね。今野さんが言おうとしているのは、現代の人がSNSを使って、何かを見てカーッとなってそのまま書き込むことの危うさなんですね。この回路が非常に問題で、「感情の言語化」はもっと慎重にていねいにやらないといけない、と指摘しています。でも、いまは、瞬間湯沸かし器的にそのまま感情をテキスト化できてしまいますよね。そして他の人の感情が言語化されたものを見たときも、勝手に「こうだろう」と決めつけて反応してしまう。そんなふうに、インスタントなやりとりのなかで感情と言語の関係がひどく短絡されている。これをもう一度、見直す必要があると今野さんは指摘しているのです。そのために、100年前の日本語でどのように感情の言語化が行われていたのかを、ていねいに読み直し、他者の感情の言語化から学ぶという発想を示しているんですね。

    塚田 前回、お話した「詩」の話ととても共鳴しますね。まず自分が何を感じたのか、その感受性を肯定することが重要ですよね。

    山本 そう思います。詩はまさに、自分の感情をどう言語化するかということを嫌でも突き詰めて考える営みですからね。思いついたことをパッと書くのではなく、できるだけゆっくり考えて言葉を紡ぐことが大切なんだと思います。

    「書けなくて当たり前」から始める

    ドミニク 「ものを書く仕事」って、いかに湧いて出てくる紋切り型に抗うか、いかに自分の書いた文章の陳腐さと戦うか、という営みでもありますよね。

    山本 表現に飛びついちゃうんじゃなくてね。

    ドミニク 「こうじゃない」「なんだろう?」って思いながらひねり出すと、新しい表現が出てくる、みたいなことの繰り返し。そういうときにいつも優れた編集者が推敲して赤字を入れてくれるのって、本当にありがたいことだなと思うんですよ。そういうプロセスを経て、瞬間湯沸かし器的に書いた文章がだんだんこなれたものになって、やっと世の中に発信できる。炎上問題などもそうですが、SNSでしか発信したことのない子どもたちは、そうした推敲の機会を与えられていない、という見方もできるのかもしれない。

    先日、哲学者の古田徹也さんとお話する機会をいただいて、彼の『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ、2018)や『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書、2021)などを拝読していたのですが、そこで前世紀の前半に作家として活躍したカール・クラウスが、まさに紋切り型に抗う必要性を説いているところで膝を打ちました。

    ステレオタイプとの戦いは孤独に行うだけでなく、他者と協働することでもできるはずです。だから、もしこのメディアで、ユーザーが互いの文章を推敲し合って、瞬間湯沸かし器的ではない表現を探ることができるとしたら、参加する人にとって大事な価値になりえる、と思いました。

    塚田 いまの時代、「ものを書く」という行為の意味自体が変わりつつあると思います。TwitterやLINEでテキストを書く行為と、ここで話されている「書く」は重みが違うというか。テキストはいくらでも発信できるようになりましたが、「自分で文章をつくる」という意識は減っている気がします。

    山本 そう、ものを書いたり、編集したりする人が集まると、それが当たり前なので、つい見落としがちですよね。私は東工大で、論文を書くための授業を担当しているのですが、授業の最初のほうで学生たちに、「本や雑誌に載る文章は、じつは著者が書いたそのまんまじゃないんだよ」って話をするんです。著者が書いて、編集の人が読んで、コメントをつけて修正して、さらに校閲の人が読んで……というプロセスを経ている。仮に著者名としては一人しか載っていなくても、いわば「コレクティブ・ライティング(集合的執筆)」であって、複数人で書いているようなものなんですね。幾重ものフィルターをかけて、ようやく世の中に出る、という。

    でも、完成品しか見たことのない人には、その事情はまったくわからない。そこで「あれは著者が一人で書いているんだ」と勘違いしてしまう。無理もありません。私も自分がものを書く前は、そういうことを知りませんでした。そこで、私の授業では、「プロでもそうなんだから、みなさんも互いの力を借りあって自分一人では気がつけない、文章に潜む問題点を見つけてみましょう」と話すんです。で、学生のみなさんのコメントに「そんなふうに文章がつくられていたなんて知らなかった。著者が書いたものがそのまま出ていると思っていました」と書いてあったりします。人は必ずしも世に出る文章がそのようにつくられていることを知っているわけではない、という点は念頭に置いておきたいなと思います。

    ドミニク 書くことの障壁を下げるという意味でも重要なポイントですね。誰か作家を見て、「一人で30冊、全部書いているんだ、すごい!」なんて思うかもしれないけれど、その裏にはちゃんとその著者をバックアップするチームがあると知ることで、「それなら自分でもできるかもしれない」って思うかもしれませんね。

    山本 ほんとそうですよね。加えて言うと、「プロでもそうなんだから、みなさんのように書く経験の少ない人は、最初は書けなくて当たり前なんですよ。だからこそ練習したり、試行錯誤してみたりするわけです。うまくやろうと思わなくていいので、いったん書きましょう。書いてから誰かに読んでもらって、初めて自分が何を書いたのかわかったりもするものですよ」と。つまり、「うまくできない前提からやっていこう」ってことなんです。

    これは前回お話しした、「エイリアンズ」の話にも重なってくると思うんだけど、「エイリアンなんだから、うまくできないし、わからなくていいんだよ」という立場から、「じゃあ、試してみよう」とか「わからないけど読んでみよう」というふうにできるといいなと思っています。

    塚田 実際に、「私は文章が書けない」とか「読書が苦手」という意識がある若い人ってとても多いんですよね。若い人に限らずかな。そこにはもちろん個人差もあって、ビジュアル的な表現や身体的なコミュニケーションのほうが得意な人もいます。でも、本質的な問題はそうではなくて、国語の点数が低かったとか、長文を読んだことも書いたこともないとか、これまでの経験値で勝手に思い込んでしまっている状況が多いと思うんです。でもそれは、従来の採点型教育の問題であって、読み書きにまつわる感性の問題ではない。「書く」「読む」という行為を、もっと自由なものとして受け止めあえる場があればいいのに、といつも思っています。

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    コレクティブ・ライティングの場をつくる

    塚田 それから、山本さんのおっしゃった「コレクティブ・ライティング」ってすごくいいキーワードだと思いました。このメディア全体がコレクティブ・ライティングの場であり、詩を紡ぐように自由に書くことができたらとてもいいですね。

    以前、少人数のグループメッセージで「連歌」をする会に参加してみたんです。ほとんど知らない人同士でしたが、「その日の詩から、見知らぬ人の晩ご飯の景色を想像する」ということが次々と起きて、あれはいい時間だったなぁ。連歌のように、詩が連鎖していくようなプロジェクトをぜひやってみたいですね。

    ドミニク テッド・ネルソンの「ザナドゥ計画」(世界最初のハイパーテキストの開発プロジェクト)じゃないけどね(笑)

    そういえば、3年くらい前に、大学院のゼミで「書評」を扱うプロジェクトを実施したことを思い出しました。そもそも良い書評って、ウェブ上ではなかなかお目にかかれないという問題意識からスタートして、どうやったらウェブで面白い書評が書けるだろうかと、学生10人くらいで一緒に書評システムのデザインをしてみたのです。それでできあがったのが、まさに数珠つなぎで書いていくという試みだったんですね。たとえば、僕が最初に1000字ほどで寺田寅彦の本の書評を書く。それを山本さんが読んだとしたら、「この本を面白く読んだドミニクなら、こっちの本も面白いと思うよ」といったふうに、そのページに紐づけるかたちで別の本の書評を書くことができるのです。つまり、レビューが連鎖していくわけですね。

    ——松岡正剛さんの「千夜千冊」をみんなで書くみたいな感じですね。

    ドミニク そうそう。書評サイトとは別に、まさに松岡さんと一緒に、連詩ならぬ「連書ワークショップ」というのをやったこともあります。30人くらいで集まって、松岡さんの「本楼」(編集工学研究所内の、2万冊が収蔵されている本棚)から松岡さんと僕がまずは「発句」となる本を選んで、その本に「つながる」本をみんなで自由に探してください、というワークショップでした。みんなが選んだ本をテーブルにだーっと並べていくと、系統発生図みたいで面白いんですよ。

    山本 それなら書評を書くほどハードルは高くないわけですね。本をカードみたいにして並べていくだけで、本どうしのつながりや、それを選んだ人の思考が見えてくるように思います。

    ドミニク そう、Slackのコメントにスタンプをつけていくみたいに、本をつけていく感じですね。トランプのカードみたいにね。そんなふうに、文章を書くというだけでなく、もっといろんなやり方で感情や思考を表現できるといいなと思います。

    塚田 いまってレビュー至上主義で、映画にしてもマンガにしても、レビューを読んでから作品を見るかどうかを決める傾向が増えていますよね。他者の感想で参考になることも多々ありますが、一方ですべて人の意見の受け売りになってしまうこともある。ドミニクさんの話は、まず自分自身の感情や思考の発露としてのレビューがあり、それが連鎖していくという実感をもつ上でも重要な試みだと思いました。

    05 「正解」のない場の実験

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    「ジェスチャーゲームの言語モデル」で実験する

    山本 前回、話に出た「連歌」などの数珠つなぎのしくみについて、もう一つの補助線として、最近読んだ『言語はこうして生まれる──「即興する脳」とジェスチャーゲーム』(新潮社、2022)という二人の認知科学者(モーテン・H・クリスチャンセン、ニック・チェイター)の本の話をしてみます。その本で彼らは、情報理論の創始者であるクロード・シャノンが言い出した従来のコミュニケーションのモデルに異を唱えて、「言語とは、そもそもジェスチャーゲームなんじゃないか」と主張しているんですね。

    ドミニク シャノンの提示したコミュニケーション・モデルというのは、そもそも機械同士の「通信」の文脈であって、人の話ではなかったのに、いつのまにか人間のコミュニケーションにも当てはめる風潮が生まれたんですよね。つまり情報の伝達とはノイズを絞り落として、シグナルを高めることが大事だという考え方は、初期ユーザーインタフェイスの設計にも影響を及ぼしていますが、そのことは、のちにオートポイエーシス理論のフランシスコ・ヴァレラも批判していたし、シャノンと一緒にサイバネティクス会議に参加していた文化人類学者のグレゴリー・ベイトソンは、情報とは「差異を生み出す差異」という、シャノンとは全く違う定義を考えていた。それはともかく、シャノンのモデルでいえば、話者が何か伝えたいメッセージがあって、それを言語(信号)に変換し、その信号をデータとして相手に伝達して、受け取った人がそれを頭のなかで変換してメッセージ(意味)を正しく取り出すという形式ですよね。そういう伝送モデルではなく、ジェスチャーを見せあうこそが言語の起源だと?

    山本 そう、この本のなかで、キャプテン・クックが南米大陸の南東端、ティエラ・デル・フエゴに立ち寄った際のエピソードを例に挙げているのですが、クックたちと現地の人々とは言葉が違うから、当然ながらまったく話が通じないはずですよね。でも実際は身振り手振りで、なんとかコミュニケーションを取ることができた。たとえば、現地民の集団がクック一行に遭遇したとき、小さな棒をふりかざした後、その棒をぽいっと投げ捨てたんですね。それを見たクックたちは、「あれはたぶん敵意がないってことだ。だから交渉ができるんじゃないか」と言って、そこから物々交換を始めるのです。そうしてしばらく一緒に過ごすうちに、結局お互いの言語はわからないままに、やりとりができちゃった。

    塚田 まさに、前々回お話しした、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』で描かれたファースト・コンタクトの場面にも通じますね。

    山本 まさにそれですね。この本の著者たちは、ひょっとしたら母語間にしろ異言語間にしろ、言語の始まりはジェスチャーにあるんじゃないかと考えていくんですね。しかもヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」じゃないけれど、こうして話しているいまも、われわれはじつはお互いの言葉を完全にはわかりあえてなくて、それでも何とか「わかったこと」を材料にしながら、「こういうこと?」「それともああいうこと?」と探っていくゲームをやってる、と。そこからその場で共有される意味や理解が生まれてくる、と彼らは言っているのです。

    つまり、コミュニケーションというのは、その都度、ブリコラージュ、つまりありあわせの手段でやりくりして、一か八かでやり取りしているんじゃないかというのですが、これはすごく説得力があるなと思ったんですね。

    ドミニク すごくよくわかりますね。僕自身も日本語とフランス語が混ざる環境で育ったのですが、そこで一緒に過ごした仲間たちとはとりあえず使える日仏の言葉を寄せ集めながら、すごく奇妙なピジン語をブリコラージュしてました。世界中にあるクレオールとかピジン語の会話を聞いていると、論理以上に、言葉の質感が際立つ話法だと感じるのですが、ジェスチャー的な側面が内包されているのかもしれないですね。

    塚田 三木那由他さんの『会話を哲学する〜コミュニケーションとマニピュレーション』(光文社新書、2022)という本でも興味深い指摘がありました。私たちは会話というものを「A→B(またはB→A)への伝達」と捉えがちですが、実際に行っているのは「A⇄B間で発生する共通の約束事」を積み上げていく作業がほとんどなんだと。両者が互いにコミットメントしていくことで、会話は続いていく。飲み会で何時間も話していたのに、実際に何を話していたかなんてほとんど覚えていないのが良い例ですが(笑)、会話ってそんなものなんですよね。

    山本 そう、これはたぶん “エイリアンズ”にとってすごく大事なことで、最初はお互いわからないから、ジェスチャーゲームみたいに、その都度その都度、理解を深めていくことになるんじゃないかな、と。で、そうこうしているうちに、この場を共有する人たちの間に次第に「符号」が生まれ、「こうすれば伝わる」というような過程を経て、共通の言語が生まれてくる。家族とか、よく会う友人との間で、「山と言えば川」みたいな合言葉があるように、何がしかの「決まり文句」が共有されていくプロセスってありますよね。それと同じで、ジェスチャーゲームから始まって、ある言語の形が決まっていくというわけです。

    ドミニク それこそがコミュニケーションの原初の姿という気がしますね。体を使うジェスチャーや声には、その人に固有の動き方などの「味」があらわれるというのも、活字にはできない表現だと思います。コロナ禍の最中に大学院生たちと、Zoom漬けのままならないコミュニケーションを打破しようと、2次元アバターを自作したりメタバースで集まったり、いろいろ試したんです。3D空間で互いのアバターがただ動いているのを見合うだけで共在感覚(他者と同じ場所にいるという実感)を得たというのもありましたが、Zoomのホワイトボードで絵しりとりをした時に参加者のコミュニケーション充実度がすごく高まったということを思い出しました。

    山本 おっしゃるようにデジタル環境でも、そうしたやりとりの手段が多様になってきましたね。ひょっとしたらこのジェスチャーゲームのモデルを、このメディアで実験したら面白いんじゃないかな、と思ったんですね。「連歌」にしても、実際にどんな気持ちで書かれたかはわからないけど、「きっとこれは昨日の晩ご飯のことを書いているんだな」と想像して、「じゃあ私は今朝のご飯を続けよう」と手さぐりでやりとりをしますよね。でも、できあがったものを見るとまた違う意味が生じてくる、とかね。

    塚田 すごく面白そうですね。手さぐりで少しずつ共通の言語を手に入れていく――まさに火星の人類学者であり、エイリアンならではの楽しみ方だと思います。

    誤読を楽しむ設計

    ドミニク そこからゲーム性とか遊びというテーマにつなげていくと、「誤読」をむしろ慈しむことが、一つのカギになるのかもしれません。私たちはつねに正解を求めているわけではないし、誤読から新しい意味が生成されることもある。そうすることで、ベイトソンの言う「差異を生む差異」としての情報を交換するコミュニケーションを体現できるんじゃないか、と。どんどんずれていくことを楽しむ場にできたら面白いですよね。まさに、「連歌」ってそうでしょう? 

    現在のSNSの場合、「正解/不正解」という価値判断がつねに可視化されちゃって、それに恐れおののいてなかなか書けない人たちがけっこういるんじゃないかなって気がしています。

    塚田 わかります。たとえばメディアでマイノリティの問題を扱うとしますよね。そこで、たとえばある障がいの方の話をしたときに、似た障がいでも異なる苦しみを抱えた人からは「私たちのことが語られていない」と不満や悲しみを感じさせてしまうことは多々あります。もちろんすべてを一括りにはできないように、どこまでいっても、当事者の意識に近づけないということが起こりうる。もちろん、そこで適切な議論が起きて、異なる角度からの声に耳を傾けることも重要ですが、すべてできるわけではない。

    そうなってくると、「勉強して知れば知るほど、外で発言できなくなる」、と。そういうジレンマを、誰もが抱えていると思うんですよね。それでもなお「誤読を楽しみながら発信する」というのは、けっこう勇気のいることです。

    でも、「正しさ」を追求することだけでは問題の本質に迫れないし、何か発信することでしか打開できないとも思う。だからできるだけ配慮はしながらも、「間違ってもいい、間違ったら互いに考え合おう」という姿勢で発信していくことが重要なんだろうと思います。

    ウェブ上に安全地帯をつくることは可能か

    ドミニク 意見の発信という意味では、大学はまだ安全地帯と言えるかもしれませんね。一方で、「ウェブメディアが安全地帯になりえるか」と考えると難しいところもある。塚田さんが言うように、いわゆるソーシャル・マイノリティに対する「配慮」だけだと、言葉が足りなかったり、何か取ってつけたような表現になってしまったりすることもあります。そうではなく、自分とは異質な他者について、その苦しみも喜びも知ろうとする姿勢が大事だろうと思います。

    『Matters of Care』(University of Minnesota Press)という本を書いたマリア・プッチ・デ・ラ・ベラカーサという環境倫理学者が、フーコーの言説を辿って、「care(ケア)という言葉のなかにはcuriosity(好奇心)が含まれている」という議論を書いています。相手を傷つけるような稚拙な好奇心ではなく、ケアに満ちた(care-ful)好奇心とは、まず、相手がいまどういう状態にあるのかを知ろうとする問いかけから始まる、というんですね。

    塚田 誤解をおそれずに言えば、他者への想像力は好奇心から生まれるものですよね。「好奇」という言葉が誤解を与えるかもしれませんが、平たく言えば外部への「関心」がどこから発生するのか。その関心なくして、現代のお約束的にマイノリティを配慮しようとしても反発がきますよね。昨今言われる「ポリコレ疲れ」にはそうした背景もあると思います。まず「関心」の入り口をどう設計するかが重要ですよね。

    ドミニク はい。そういう意味では、ウェブメディアのコメント欄がなぜ荒れるのかということも考えておかなければならないですね。紋切り型が生まれやすいウェブの場では、ケアに欠けた好奇心はまだしも、相手への好奇心が欠落した表現が多く見られるからです。

    僕はかつて、「リグレト」というウェブコミュニティを設計して運営していたことがあるのですが、このとき、コメントが荒れないようにアルゴリズムを調整するという、泥臭い作業を裏でやっていたんですね。さらに、コミュニティを立ち上げたときに、「こういうコミュニケーションをみんなで楽しもうよ」と、運営メンバー総出でメッセージを書き込んだり。そうするとコミュニケーションのDNAというか、文化が伝播していって、他の人も真似るようになった。荒れている状況を事後処理するのではなく、望ましい文化を生み、育むことが大切なんですよね。

    新しい場=メディアの実験をしていきたい

    ——ここまでの編集会議では、DISTANCEをどういうメディアにしていくのか、さまざまなアイデアを出していただきました。まずどんなことから始めていきたいですか。

    ドミニク まず、この編集会議自体を新しいメディアでどんなコミュニケーションが可能かをワークインプログレスで実験していくラボにしてゆきたいですね。いろんなアイデアが出ましたけど、まず、どんな体験ができる場にしようか、とか、どんな機能を最初につくるのかなどを議論していきたいです。それから一つひとつ、うまくいったねとか、いかなかったね、じゃあこうしてみようというふうに実験して、時にはリアルに小さなイベントもやりながら、一緒に場を耕していくコミュニティを育てていきたいです。

    山本 ラボはいいですね。まずはこのメディアを楽しむためのチュートリアル的なラボがあってもいいし、理想のUX(ユーザー体験)のシナリオを考えるラボがあってもいい。そのときに最終的にどういう状態になったら、ユーザーが嬉しいのか、理想のいいシナリオになるか、ユーザーの自発的な参加と編集のバランスについて考えてみたい。

    ちなみにオールド・メディアの話だからあまり参考にはならないのですが、『TLS(Times Literary Supplement)』というイギリスの書評新聞のコメント欄が楽しいんですよ。前週の書評を読んだ読者が投書していくんですが、「先週こんなこと言ってたけど、これはどうなんですか」みたいな。最近はそうでもないですが、ていねいな口調で喧嘩してる場合もあったり(笑)。かつての『ファミコン通信』のお便りコーナーも、「他の読者をいかに笑わせるか」に命をかけてみんな投稿していましたね。それは、編集側がちゃんとフィルタリングして、編集をしていたからできたことでもある。その手間をかけずに、自発的に出てくるものをどうサイトの一部にしていくのか。

    ウェブという比較的自由度が高い場所で、どうしたら『TLS』や『ファミ通』のようなコミュニケーションの面白さが生まれるのか、あるいはそれらとは似て非なる面白さをつくれるのか、どんな状態になったら面白いと思えるのか、みんなでイメージを共有しながら考えていきたいですね。

    塚田 私はラボに関連して、「異星人たちのフィールドワーク」をやってみたいですね。フィールドワークとして実際に現地に行くのでもいいし、ある研究テーマについて、多様な人々と共にじっくりと思考を重ね、堀り出していくイメージです。たとえば、「地球人のための詩」があったとしたら、最初の1行を頼りに関わりのある地を訪ね、関連するものをいろいろ掘り起こしていく。そんなふうに、テーマとなる「詩」や「問い」のようなものがあると、具体的に何をするのがいいか見えてくるかと。

    いずれにしても、スタートが楽しみですね。遠くの景色を眺めるように、はるか昔や遠い未来にも目を向けつつ、いろいろなつながりを問いなおしながら、進めてまいりましょう。

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    ドミニク・チェン Chen,Dominique
    情報学研究者 1981年生まれ。博士(学際情報学)。早稲田大学文学学術院教授(表象・メディア論系コース)。NTT ICC(Inter Communication Center) 研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て現職。Ferment Media Researchを主宰し、人と技術と自然存在の関係性を研究している。著書に『未来をつくる言葉』(新潮社)、『電脳のレリギオ』(NTT出版)など多数。
    塚田有那 つかだ・ありな
    編集者・キュレーター 1987年生まれ。一般社団法人Whole Universe代表理事。「Bound Baw」編集長。2021〜22年、展覧会「END展 あなたの人生の物語」を主催(東急ラヴィエールと共催)。21年より、岩手県遠野市の民俗文化をめぐるカルチャーイベント「遠野巡灯籠木(トオノメグリトロゲ)」を主催。『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』、『RE--END 死から問うテクノロジーと社会』(ビー・エヌ・エヌ)など多数。
    山本貴光 やまもと・たかみつ
    文筆家・ゲーム作家 1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。コーエー(現コーエーテクモゲームス)にてゲーム制作に携わり、在職中から執筆活動を開始。1997年より吉川浩満と「哲学の劇場」を主宰。著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『心脳問題』(吉川浩満と共著、朝日出版社)など多数。

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