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コミュニケーションの現在2023

02 差異に向き合うプロトコル

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写真:原田教正

前回の編集委員会では、ネット社会のなかで顕わになった「差異」に向き合うために、改めて「人間らしさ」とは何かということを、「プロトコル」という概念を使って読み直すことが重要だと語り合った。さらに、アイデンティティへの問いをはじめ、コミュニケーションのためのヒントを探る。

構成:DISTANCE.media 編集部

Contents

    Theme 4)アイデンティティのありようを問いなおす

    塚田有那 最近、SNSなどを見ていて、若い人たちが固有のアイデンティティから逃れたがっているんじゃないかな、と感じることがよくあるんですね。日本には、皆が同じ服装、髪型で臨む就活生のスタイルに代表されるように、一律的、平均的な振る舞いを求める場面がありますよね。一方で、学校などでは、個性や自分らしさを大事にしなさい、と真逆のことを言われたりします。そうした社会構造の矛盾のなかで、若い人たちが一つのアイデンティティに縛られることをすごく嫌がっているように感じるのです。

    「分人」という言葉がありますよね。自己というのは分割可能で、対人関係ごとに異なった複数の自分がある、という考え方ですが、いまの若い人たちは、分人よりもさらにもっと自分のアイデンティティを軽くしたいと思っているように感じるというか……。差異が顕わになり、他者からの評価に晒されることに対して、すごく恐怖を抱いているように思えるんですね。そうした意味では、アイデンティティからの脱却というのも、これからのコミュニケーションにおける一つの重要なテーマになるのかな、と思っています。

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    塚田有那

    ドミニク・チェン それは大学にいても思い当たるところがありますね。僕のゼミでは、過去6年間ほど学生展示をやっていて、毎年テーマを学生たちが決めているのですが、コロナ禍以降、ある意味、いまの時代を象徴するようなテーマが続いている気がしています。昨年は、「ありのまま」「ままならなさ」ということがテーマになっていたのですが、その前年は「唯一性」がテーマでした。つまり根底には、「自分たちがありのままでいられない」「自分たち一人ひとりのアイデンティティが揺らいでいる」ということがあるんだろう、と。

    塚田 たとえば、《Uber Existence》という、人間の存在そのものが商品化されるという架空の「存在代行サービス」を提示した作品で、第25回文化庁メディア芸術祭 アート部門 新人賞を受賞した花形慎さんというクリエイターがいます。この作品は、利用者(ユーザー)がサイトにアクセスしてアクター(存在代行者)を選び、アプリを通じてユーザーが依頼した行動をアクターが実行し、その様子をアクターが取り付けたカメラを通してリアルタイムでユーザーに届けるというサービスです。花形さんの意図は、アルゴリズム分析で生活がコントロールされうる時代に生きている私たちに、「自己同一性」や「自由意志」についての問いを投げかける、というもの。こうした若い世代の作家の取り組みのなかに、従来のアイデンティティからの脱却を試みるヒントがあるように思います。DISTANCE.mediaのなかでも、こうした新しい世代の視点を取り込みながら、アイデンティティの問題を深掘りしてみたいですね。

    山本貴光 なんとも口幅ったい言い方ですが、若い人たちに聞くのはとても大事だと思います。ネット以前の世界で育ち、ネット以後の世界を生きている私たちの世代だと、なんとなくアイデンティティというものがあって、でもときどきネット上では複数のアカウントを使い分けながら、少しずつ違う自分を分人的に演じているようなところがあると思うんですね。デジタル・ネイティブの人たちの感覚は、もっと違うのかもしれない。

    こういう折に思い出すのは、ポルトガルの詩人、フェルナンド・ペソア(1888-1935)です。ペソアという人は、複数の異名(エテロニム)、別の人格のようなものをいくつもつくって、それぞれの異名者として詩や手紙を書いたりしています。それぞれの異名者について誕生日から職業、ホロスコープまでつくっていた。わかりやすく言うと、この異名者は古典主義的な詩を書く、別の異名者の場合は前衛的な詩を書くといった具合で、作風も分けていて単なるペンネームというものでもない。ペソア自身、自分のなかにすでに複数の人格があるのだ、こうやって話をしたり、何かをしたりしている間にも、時事刻々と違う人になっていく、と書いている。ペソアという人は、そもそも一つのアイデンティティというのとは対極のことを志向していた人だったわけです〔澤田直『フェルナンド・ペソア伝 異名者たちの迷路』(集英社、2023)という評伝が刊行されています〕。

    大学の講義でこの話をすると、受講した学生の中に「自分のことのように感じる」という反応をする人が現れるのですが、ひょっとすると、いま有那さんやドミニクさんがおっしゃったこととつながっているんじゃないかと。

    塚田 そんな気がしますね。

    山本 ちなみに、レバノン生まれのジャーナリストで作家のアミン・マアルーフは、『アイデンティティが人を殺す』(小野正嗣訳、ちくま学芸文庫、2019年)という本を書いています。彼自身、アラビア語を母語としながら、長年フランスに暮らし、フランス語で本を書くという生き方をしている人です。マアルーフはこの本のなかで、人間のアイデンティティは複数の要素から構成されていて、帰属先は一つではないことを幾重にも強調しています。そうであるにもかかわらず、あたかもアイデンティティには一つしか帰属先がないかのように考えて、多様な人びとを「私たち」と「それ以外」に分ける部族的な発想が根強くあって、時にはこうしたアイデンティティ観から民族浄化や排斥が起こりもする。アイデンティティが文字通り人を殺す危険性について指摘しています。アイデンティティについて、新しい考え方が必要だというわけですね。

    マアルーフ自身、人から「あなたは自分をレバノン人だと感じますか、それともフランス人だと感じますか」と尋ねられることがしばしばあったと言います。こうしたことは、私たちの身近なところでも多々ありますよね。本来、アイデンティティというものは複雑で複合的なもののはずなのに、何か一つに代表されてしまうことがある。そんなふうに、見た目や肩書き、性別でアイデンティティが思い描かれてしまうことに、私たちはどう抗えばいいのか。性スペクトラムという言い方を借りて、アイデンティティもスペクトラム、つまり多様で、連続体みたいなものだと思ったほうが健全なのかもしれませんね。

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    山本貴光

    ドミニク いまの議論を踏まえて思い出したのが、社会学者の岸政彦さんが編んだ『東京の生活史』(筑摩書房、2021年)という本のことです。これは東京に暮らす150人の語りを150人が聞いてまとめた1200頁にもおよぶ大作で、それこそ前回お話しした「剥き出しの差異」の断片に触れられる一つのかたちと言えるかもしれません。けっしてわかりやすくまとめられた文章ではないにもかかわらず、多くの人に受け入れられ、読まれているということに、僕はすごく希望を感じているんですね。

    山本 同感です。『東京の生活史』は、かつて東京に住んでいたとか、いまも住んでいる、あるいは東京生まれだという人たち、150人に対して、それとはまた別の150人が一人ひとりに聞き取り調査をして、その内容をなるべく加工せずに文字にした企画でした。読んでみると、当たり前なんだけど、東京という一語では到底まとめきれないような、非常に多種多様な差異を生み出してきた場所なんだということを否応なく実感します。でもそこに、何か共通するものも見えてくる。これまでの東京論では見えてこなかったような東京の姿、人びとの生きざま、さまざまなアイデンティティが浮かび上がってきて、非常に現代的な本だなと興味深く読みました。

    ドミニク あとがきを読んでびっくりしたのは、聞き手の応募自体は400人くらいあって、全部は本に載せられないからと抽選で150人にしぼったそうですね。

    山本 けっして簡単な仕事ではないはずですが、誰かの生活史を聞き取ることに、それだけの人が関心を持ったのはすごいことだと思いました。

    同書の試みをそのままこのメディアのなかで再現するということではないけれど、たとえば「ネットの生活史」をテーマに、いろんな人がネットという場所にどう住み着いて、暮らしてきたのか、いろんな世代やいろんな立場の人に、インタビューして掲載するということをやってみるのもいいですね。誰かの語りを通して、「あ、そんなふうに見えていたのね」と、これまで互いに認識してこなかったさまざまな人びとの状況、ネットの生態系が垣間見えるように思います。

    塚田 『東京の生活史』に似たコンテンツとして、2018年くらいに、ウェブマガジン『VICE Japan』のなかで「Who Are You?」という企画があったのを思い出しました。これは、日々の生活のなかですれ違った人たちに取材するというもので、それぞれの普段の生活に迫るインタビューなんですが、ゆるいしゃべり言葉のまま会話が進んでいくので、まさに『東京の生活史』に近い取り組みでした。人々の多様な姿が見えてきて興味深かったのをよく覚えています。

    ドミニク ネットメディアの功罪の「罪」の部分というのは、複雑な状況をなるべくわかりやすくコンパクトに伝えてきたことにあると思うんですね。そのわかりやすさを優先する思想と還元論的な伝え方、アクセス数を重視するPV至上主義といったものが混ざり合って、そこに複雑な現実に対する暴力性が生まれてきた。この状況を打ち破るために、たとえば『東京の生活史』のような膨大な情報をそのまま、アーカイブとしてインターネット上に載せるということが、メディアの一つの実践として有効かもしれませんね。その膨大な情報の密林を自分でさまよっていくうちに、人は多様なものである、ということを受け止めざるをえないですからね。

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    ドミニク・チェン

    Theme 5)「マッシブ・データ・フロー」の重要性を探る

    ドミニク 池上高志さんは「マッシヴ・データ・フロー」という考え方を提唱されていて、過剰かつきめの細かい膨大なデータからかつて見えなかった構造が見えるようになり、さらには生命的な振る舞いが立ち上がってくる、ということをおっしゃっています。ミニマリズムに対して、マキシマリズムこそが重要だと。僕はこの池上さんの考えに影響を受けているんだけど、いまのインターネットって、本当は情報量が足りていないのに、あたかも足りていると皆が錯覚しているから、喧嘩ばかりしてしまうっていう側面があると思うんですよね。

    山本 そうそう、まさにそうですね。

    ドミニク 1分でわかるっていうのを、30分、1時間と引き延ばして、情報を付け加えていくだけでも見える世界は大きく変わってくるし、ギスギスしたやり取りがだいぶ緩和されると思う。タイパ(タイムパフォーマンス)が重視されるいまこそ、社会学的な「分厚い記述」や、物理や認知科学におけるマッシブ・データ・フローの重要性を探ることはとても大事だと思っています。

    それをぜひ、研究者的な視点から探ってみたいな、と。前回、山本さんが「プロトコル・オブ・ヒューマニティ」の重要性を指摘されたときに共感したのは、そこにいい意味での研究者的な視点を感じたからなのです。「これをやったら絶対うまくいく」といった解決策を短絡的に示すのではなく、「人間っていったいどういう存在なんだろう」と、謙虚な目で観察し続けていくことって、研究者の視点に通ずるものがありますよね。そういう価値こそ、このメディアのDNAになっていくといいなと思っていて――。

    山本 前回、お話しした長谷川敏司さんの『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』(早川書房、2022年)についてちょっと補足すると、義足のAIには人が安全に歩けるようなアルゴリズムが組み込まれているわけですが、それだとダンサーは困るんですね。ダンサーというのは身体のバランスをあえて崩すことで、人が見て驚いたり、楽しくなったりするような、意外性のある動きを生み出さなければならないからです。だから主人公はことあるごとに身体のバランスを崩そうと試みるんだけど、義足がそれを許さない。つまり、ダンサーとして意外性のある動きを求める人間のプロトコルと、安全な歩行を確保しようとするAIのプロトコルのズレがあって、そこからどうやって創作、すなわち新しいダンスを生み出すかということが、あの本のテーマになっているのでした。結局、そのために不如意とつきあいながら、時間をかけて義足に学習させて、チューニングしていくことになる。「私はこんな動きでも安全なんだ」と、相棒であるAIとやり取りしながら、調整していくんですね。

    それはまさに、ドミニクさんが紹介してくださった池上さんのマッシブ・データ・フローに通じる話で、1分とか5分とかで簡潔にまとめるということへのアンチテーゼと言えます。互いに文脈を共有するにはとても時間と手間暇がかかるし、そこをすっ飛ばしちゃうと誤解が生じて喧嘩が起こる。逆に言えば、同じ分野の専門家同士で抽象的な議論ができるのは、同じ文脈を共有しているという前提があるからなんですね。経験と記憶の共有といってもよいかもしれません。

    同様に、普段の生活のなかでも、自分とまったく異なる人とやり取りをしようとするなら、せめて同じ文脈を共有していることが重要なはずです。かつてはその役割を教養と呼ばれたものがある程度担っていたわけですね。教養を備えている人同士であれば、専門とする分野が多少違っていても、お互いそれなりにコミュニケーションができていたけれど、いまや私たちはこのくらいのことはわきまえておきたいという共有知としての教養が崩壊した廃墟に生きている。じゃあ、どうするかといえば、めいめいがたまたま手にしている道具でなんとかやり取りするしかない。だからこそ、いっそうやり取りに時間がかかるのはあたりまえなんだ、ということをぜひ、強調しておきたいと思います。

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    Theme 6)不完全さを共有できる「ケア」のデザインを

    塚田 もう一つ、コミュニケーションを考えるうえで注意しなければならいと思うのが、マジョリティ側が「普通」と捉えるような一種のスタンダードを規定して、もう一方に強要していないかということです。少し前に、SF作家のキム・チョヨブさんと、弁護士であり著述家、舞台パフォーマーでもあるキム・ウォニョンさんという韓国人の二人の著者が書いた『サイボーグになる―テクノロジーと障害、わたしたちの不完全さについて』(牧野美加訳、岩波書店、2022年)という本を読んだんですね。一人は車椅子で、もう一人は補聴器をつけている障害の当事者なのですが、本著で二人が訴えているのは、完全さに到達するためのテクノロジーではなく、不完全さを抱えたまま、よりよく生きていくためのテクノロジーだというのです。

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    たとえば、補聴器であれば、「より良く聞こえるほうがいい」という、(開発者側の)善意が前提になっていたりします。その技術を追求した結果として、高性能の補聴器だと一つ100万円以上もするような、普通の人が簡単には手を出せない高額商品になってしまっている。この本のなかでは、障害者はそうしてテクノロジーの発展にずっと期待を抱かされ続け、「不可能を可能にした」という物語の語り部にされている事実を暴いているのですが、非常に考えさせられる内容でした。

    車椅子の人が歩けるようになったとか、障害を乗り越えるといったわかりやすい感動ストーリーが溢れるなかで、不完全であることを認めて共有し合えること、そこにどんな希望があるのかを、ちゃんと考えていけるといいなと思っています。

    山本 障害のある方を技術でどうサポートできるかというのは非常に重要で、かつ、それこそ生活史の視点も必要な話ですよね。誰かが標準と設定した状態に多様な人をなんとかして合わせようとするのではなく、人それぞれの状態をサポートするという発想ですね。

    翻って、私たちが日常的に使っている道具についてもまったく同じことが起きていると思っています。たとえば、私がずっと不満に思っているのが、電子書籍の設計なんですね。電子書籍の設計者の読書観にユーザーは閉じ込められているわけですよ。読書って、もっといろんな読み方ができるのに、なぜこれしかできないのか。設計者の読み方だけを押し付けられても、逆に不便だったりする。補聴器や義足の話と似て、「よく聞こえればいいでしょう」「安全に歩ければいいでしょう」といった設計者の発想、いわばバイアスを、ユーザーが背負わされるわけですね。少し強い言い方をすると、そうした「一方向性の暴力」とでもいうべきことが、日常的なテクノロジーとのつきあいのなかにもさまざまに含まれていると感じています。

    ドミニク テクノロジーの設計に関しては、まさに「できないことができるようになる」といったストーリーが掲げられて、無邪気な善意で非当事者である設計者が「できない人たちのためにつくってあげる」ということが起こりがちなんだけど、そうなると結局、当事者の声が反映されず中途半端なものができてしまう。そうならないためにも、開発者やデザイナーと研究者が手を組んで、ぜひケアや利他の議論を参照しながらデザインの範囲を深めたい、と思っています。

    電子書籍もそうですが、結局、デザインにおける「ケア」が足りてないわけですよ。デザインというのは、当事者と向き合い、当事者の声を聞いて、設計者自身の認識が変わっていくようなプロセスを経てはじめて可能だということ自体が認識されていない。そういったオルタナティブなテクノロジーの設計について、このメディアのラボ活動でも考えていきたいと思っているところです。

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    山本 そう、ステレオタイプな考えに基づいて、それを疑うことなく良かれと思って、これまたステレオタイプに想定した対象に対して何かをつくってしまうという無邪気な善意については、本当によくよく考える必要があると思っています。フェムテックの領域などは、まさにそれでしばしば炎上していますよね。

    塚田 医療現場でも同様のことは起きていると思います。医師と患者では明らかに権威勾配があって、それでなくても患者は声をあげにくいなかで、医師がよかれと思って言った言葉だとしても、受け止める側の患者にとってはものすごく暴力的に聞こえることもあります。

    山本 アメリカの内科医であるダニエル・オーフリの『患者の話は医師にどう聞こえるのか』(原井宏明・勝田さよ訳、みすず書房、2020年)には、自身の経験を踏まえて、まさにそのことが書かれています。じつは医師は患者の訴えをちゃんと聞きとれていないことが少なからずありうる。医療事故が起こった後に振り返ってみると、両者が同じプロトコルをもたないために、患者の訴えや発していたシグナルが医師の側に理解されずに見落とされてしまうことがあるわけですね。

    塚田 医師のパターナリズムや患者の意思決定について研究されている東京医療センターの尾藤誠司先生は、AI時代においては、診断はどんどんAIに任せればいいとおっしゃっています。では、医師に残された仕事は何かと言えば、「感情端末」になればいいという。これまでは感情に振り回されずに合理的な判断ができることが医師に求められていたけれど、むしろこれからは、ある種の技術と感情をもって患者の感情と向き合うことこそが、人間にできることなんじゃないか、と。

    テクノロジーが進展し続けるなか、人間にできる残されたことは何かと考えていくと、まさにコミュニケーションの問題に突き当たるわけですね。そのことをぜひ、今回の特集のなかで深掘りして考えていけたらと思っています。

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    塚田有那 つかだ・ありな
    編集者、キュレーター。1987年生まれ。一般社団法人 Whole Universe 代表理事。「Bound Baw」編集長。2021~22年、展覧会「END展 あなたの人生の物語」を主催(東急ラヴィエールと共催)。21年より、岩手県遠野市の民俗文化をめぐるカルチャーイベント「遠野巡灯籠木(トオノメグリトロゲ)」を主催。『ART SCIENCE is. アートサイエンスが導く世界の変容』、『RE-END死から問うテクノロジーと社会』(ビー・エヌ・エヌ)など多数。
    ドミニク・チェン Chen, Dominique
    情報学研究者。1981年生まれ。博士(学際情報学)。早稲田大学文学学術院教授(表象・メディア論系コース)。NTT ICC(Inter Communication Center)研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て現職。Ferment Media Researchを主宰し、人と技術と自然存在の関係性を研究している。著書に『未来をつくる言葉』(新潮社)、『電脳のレリギオ』(NTT出版)など多数。
    山本貴光 やまもと・たかみつ
    文筆家、ゲーム作家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。1971年生まれ。文筆家・ゲーム作家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。コーエー(現コーエーテクモゲームス)にてゲーム制作に携わり、在職中から執筆活動を開始。1997年より吉川浩満と「哲学の劇場」を主宰。著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『心脳問題』(吉川浩満と共著、朝日出版社)など多数。

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