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鍋倉咲希『止まり木としてのゲストハウス』 #2
ゲストハウスで生まれる「時限的つながり」
「博論本」とは、博士論文を書籍化したもののこと。連載「『博論本』を聴く」では、人文ライターの斎藤哲也さんが、刺激的な博論本の著者インタビューを通じて、その面白さを読み解きながら、研究の一端を紹介していきます。
これまでほとんど重視されてこなかった観光や出張などの「短期的で日常的な移動」に目を向け、肯定的な意味を見出した鍋倉さん。ゲストハウスでの時限的つながりを、「外に向かいたいけど、かといって内にこもりたいわけでもない」と語り、現代社会のリアリティと重ね合わせます。その探究は、社会学の枠を超えて、人類学や哲学、人文地理学にも広がろうとしています。
写真:高橋宗正
編集:田井中麻都佳
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Contents
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「2010年代の景色」を記録する
斎藤 フィールドワークの期間とコロナは被らなかったんですか。
鍋倉 2020年3月30日にギリギリで日本に帰国できました。データはすでにある程度集まっていたので、帰国後は論文執筆に専念できたんです。そういう意味で、とても運が良かったと思います。ゲストハウスのほうは、本来なら繁忙期のはずだった3月の時点で、すでに観光客が全然いなくなっていました。
もし特別進学生の制度を使っていなかったら、調査そのものがコロナでできなかったかもしれません。ほんとに間一髪でした。

- 鍋倉咲希さん
斎藤 もともと3月末で帰国する予定だったんですか。
鍋倉 はい。4月から復学予定だったので、ちょうどそのタイミングで帰国するつもりでした。ただ、あの頃はタイとカンボジアの国境が閉じるかどうかという瀬戸際で。成田空港も本当に人がいなくて、異様な雰囲気でした。
本当はもう少し補足調査をしたかったんですけど、それは叶いませんでした。その後、この本を現地に届けるタイミングで、オーナーの方に改めてインタビューを追加で行った、という形です。
斎藤 コロナで閉じてしまったゲストハウスもあったんでしょうか。
鍋倉 実際に調査した8軒のうち半分はもうなくなっています。さらに、日本人のバックパッカーは東南アジアにほとんど戻ってきていないという印象です。現在でも回復は3割程度と聞いています。観光客やビジネス客は戻っているんですが、調査で出会ったような若者の姿はまだ少ないですね。円安の影響も大きいと思います。
その意味では、あの調査で見えていたのは「2010年代の景色」だったのかもしれません。「時限的つながり」というコンセプト自体は、時代を超えて存在するものだと思うんですけど、あのときのような調査ができたのは、2010年代という時代の条件があったからでしょうね。
「移動論的転回」との出会い
斎藤 博論本である『止まり木としてのゲストハウス』第1章では、先行研究をレビューしていますが、非常に充実していて勉強になりました。そもそも「移動論的転回」ということすら知らなくて。
鍋倉 ありがとうございます(笑)。「移動論的転回」は、今の観光研究やモビリティ研究の中ではすごく重要な理論的潮流なんです。
移動とつながりの研究でいうと、移民・移住の研究が思い浮かびますけど、基本的には「移民した人がどこかに定住する」ということを前提にして書かれていることが多かった。
でも実際には、私たちってもっと日常的に移動していますよね。観光にも行くし、出張だってある。そういった「短期的で日常的な移動」の影響について、あまり社会学が捉えてこなかったのは面白いなと、私自身も思っていました。
斎藤 日本で「移動論的な視点」が注目され始めたのは、いつ頃からですか。
鍋倉 本当にごく最近ですね。2010年代後半くらいから、日本語で読める関連書籍が出てくるようになりました。
斎藤 鍋倉さんはリアルタイムでその潮流に触れていたわけですね。
鍋倉 はい。観光学は、いわゆる「狭い意味での観光」だけを研究しているだけではなかなか生き延びられないところがあって、常に他分野の論点を参照して、観光とそのほかの領域を往還しながら研究している学問なんです。その中で、「移動」というもうひとつ大きなレイヤーを取り込むことで延命した、というと少し言いすぎかもしれませんが、より広く物事を考えられるようになったという面はあると思います。
社会学の中でも、観光研究の文脈で言えば、立命館大学の遠藤英樹先生がイギリスの社会学者であるジョン・アーリの本を翻訳されたり、吉原直樹先生が翻訳に加えて、地域社会学の立場から「移動」を取り入れた研究や編著を出されたりしていて、このお二人が日本の「移動論」の流れを牽引する二大巨頭だと思います。
その勢いが2010年代後半から一気に強くなって、今でも「移動」に関する研究や本はたくさん出ています。
斎藤 ある意味「移動バブル」みたいな。
鍋倉 ほんとに(笑)。私の博士論文は2023年1月に提出したので、タイミングとしてちょうどよかったかもしれません。2年間しか経っていませんが、もし今だったら、「ああ、また移動の話ね」と流されていたかもしれないですね。
斎藤 これも第1章から教えてもらったことですが、移動論的なパラダイムでは、ネットワーク資本的な視点――つまり、遠くの人とつながることが自分の資本を増やす、というような考え方が強かった一方で、一時的なかりそめの関係性はあまり重視されなかった。鍋倉さんの博論本は、そういった従来の見方に一石を投じているわけですよね。こうした構想は、ゲストハウスをテーマにした当初からお持ちだったんですか。
鍋倉 正直、ゲストハウスをテーマにできるかもと思った段階では、社会学については十分に勉強できていなかったんです。でも、D1の段階でうっすらと「社会学ってたぶん安定的で長期的な関係性ばかりを見ているんじゃないかな」という予感がありました。
それに対して、ゲストハウスに見られる、毎日メンバーやそこでのノリが変わっていくような関係性は、いけるんじゃないかと。あくまで直感ですが、そういう観点は当初から持ってました。
斎藤 これまでどちらかといえばネガティブに見られていた、その場かぎりの限定的な関係性の意味を問い直し、肯定的に捉えているところが面白いです。
鍋倉 たとえば『カーニバル化する社会』を書いた鈴木謙介先生[★01]★01や、フェス研究をされている永井純一先生[★02]★02など、これまでも萌芽的にそうした関係性に注目する試みはありました。でも、それを本格的に正面から研究している例はまだ少ないと思うんです。
私は、その「蒔かれた種」を少しだけ育てることができたのかな、という感覚があります。その意味で、問題意識の出発点は、まさに鈴木先生が2005年に出された新書の頃からあったものです。
斎藤 たしかにすごくリアリティがあります。ずっと付き合いたいわけじゃないけど、1人の夜は寂しい。日中の観光は1人でよくても、夜は誰かと一緒にご飯を食べて感想を共有したり、お酒を飲んでどうでもいい話をしたい――そういう感覚ですよね。研究の対象はゲストハウスですけど、そのリアリティ自体は普遍的です。少なくとも日本では、多くの人が共有している感覚のように思います。
鍋倉 すごく現代的な感覚ですよね。旅先だけでなく、日常生活の中にもけっこうあると思います。外に向かいたいけど、出過ぎたくはない。かといって内にこもりたいわけでもない。ちょうどその中間にいるような、そういう感情やリアリティなんだと思います。
ただ、先行研究のレビューには苦戦しました。特に、「どういう順序で議論を構成すれば、社会学の中にこのテーマをうまく位置づけられるのか」というのは、博士論文を書きながらずっと考えていました。
斎藤 もともと「一時的なつながり/継続的なつながり」という構図は自分の中にあったけれど、それを社会学的な理論のなかに位置づけたのは後からということですか。
鍋倉 そうです。その対比については、ゲストハウスの現場を見ている段階から自然に意識していたんですけど、たとえば「ネットワーク資本」という概念そのものは、最初はそれほど重視していませんでした。
でも、ジョン・アーリの議論をレビューする中で、やっぱりそうした枠組みを避けて通れないなと。アーリを読み解くことで、全体の見取り図が少しずつ自分の中にできてきたという感じです。
「時限的つながり」という言葉
斎藤 元々、博士論文のタイトルは「モビリティが生む時限的つながりに関する社会学的研究――東南アジアの日本人向けゲストハウスにおける観光者の経験を事例として」でした。「時限的つながり」は、鍋倉さん独自の用語ですね。
鍋倉 はい。本当にシンプルなところから考えた言葉なんです。時間と場所が限定されたつながりを、どうやってうまく名指すことができるか。そこから「時限的つながり」という言葉が出てきました。
「一時的つながり」という表現でもいいかもしれないんですけど、「一時的って具体的にどれくらいの時間?」とか、「それって継続的ではないの?」「中期的とはどう違うの?」など、定義の曖昧さへのツッコミが生まれやすい。だったら最初から「時間が限定されている」という言い方の方が明確だし、説明しやすいなと。そういう理由で選んだ言葉です。
斎藤 その言葉を選ぶまでには、けっこう悩まれた?
鍋倉 はい、かなり悩みました。実は、博士論文以前の論文ではずっと「一時的つながり」と書いていたんです。でも、レビューや指導の中で考えを深めていく中で、「これはもうちょっと言い換えた方がいいな」と感じて。最終的には、慶應義塾大学で都市社会学を研究されている近森高明先生のアドバイスもあって、「時限的つながり」という言葉に決めました。
斎藤 博士論文では、第5章「共在と無為によるつながり――「何もしない」観光から考える」が書き下ろしですね。
鍋倉 時限的つながりの社会的意味とは、を問う博士論文の問いにシンプルに答えるなら、第4章までで答えていると思うのですが、「なんか物足りないな」と感じたんです。それで思い出したのが、ゲストハウスで長期滞在しているのに何もしない人たちの存在でした。観光に出かけるわけでもなく、漫画を読んだり、スマホゲームをずっとしていたり。そういう人たちって、研究者目線から見ると「この人たちはここで何をしているんだろう?」と、とても興味深い存在だったんです。
私はどちらかというと、ずっと掃除とか片付けをしているような性格で、“ぼーっとする”ことが苦手なんですね。「する」ことがないとたまらなくなってしまう。だからこそ、彼らがあそこにただ「いる」という状態の意味を、どうにか言葉にしてみたいと思いました。
ちょうどその頃、『失踪の社会学』(慶應義塾大学出版会、2017)を書いた中森弘樹さんと、福尾匠さん、黒嵜想さんの鼎談[★03]★03をウェブで読んだんです。鼎談のタイトル「いてもいなくてもよくなることについて」がすごく印象的で、「ゲストハウスってまさにそれだな」と思って。いてもいなくても、場はまわっていく。
この鼎談がきっかけで東畑開人さんの『居るのはつらいよ』(医学書院、2019)も知り、実際に読んでみると、沖縄のデイケアの話の中に、自分がゲストハウスで感じていたことと似た感覚を見つけたんです。
たとえば、ゲストは毎日入れ替わるのに、オーナーたちの生活はずっと同じ。変化しているのに、変化がない。私自身もフィールドワークをしていて、「これ、毎日同じだな……」という感覚がすごく強かった。そう思ったときに、「これは東畑さんが書いていたケアの話と、文脈は違っても通じるものがあるかもしれない」と感じたんです。
「酔拳」のような第5章
斎藤 5章でギアが変わる感じがありますね。
鍋倉 4章までで終わっていたら、端正な論文になっていたと思います。でも、第5章を入れたことで、博士論文の外部副査も担当してくださった近森先生から「酔拳みたいですね」と言われたんです(笑)
斎藤 酔拳(笑)
鍋倉 「第1章はすごくガードが固くて、まるでボクシングみたいに構えがしっかりしてるのに、後半に行くにつれてどんどん酔拳のようにゆるくなっていく」って。第1章のレビューは、他の方にも「すごく勉強になった」と言っていただいたんですが、5章は逆に「ゆるふわ」になってると。
斎藤 たしかに第5章は、冒険的な議論に感じました。
鍋倉 博士論文としてのクオリティや厳密さという意味では、そこが評価を下げる要因になる可能性もあるかもしれません。でも、「当たり前のことをしても面白くならない」という気持ちがどこかにあり、あえて少しリスクを取ったという感覚はあります。
斎藤 5章には、いろんなジャンルの引用や着想が混ざっていますよね。東畑開人さんだけでなく、津村記久子さんの小説『ポースケ』[★04]★04(中公文庫)や、藤原辰史さんの「縁食」[★05]★05に関する議論もあったり。異種格闘技的な議論が刺激的でした。
鍋倉 社会学どっぷりの中で書いていたら、絶対にああはならなかったと思います。学際的な領域に身を置いてきたからこそ、ああいう小説やエッセイ、哲学などの方向に開いていくような構成を取れた。
斎藤 結果としては、社会学ではこれまで言語化できていなかったタイプの「つながり」に、言葉を与えた章になったんじゃないでしょうか。
鍋倉 そう言っていただけるなら、嬉しいですね。ただ正直なところ、社会学会とかで評価されるような内容ではないんじゃないかなとは思っています。
以前、私の博士論文について合評会を開いていただいたことがあって、そこに出席していた立教大学観光学部でフランス文学を専門にされている石橋正孝先生が、こんなことをおっしゃってくださったんです。「鍋倉さんは〈早さ〉の人という印象があるけれど、そこには讃嘆と危うさの両面がある」と。讃嘆というのは、即時的つながりの形成と切断の「速さ」を「早さ」のうちに捉える動体視力、つまり動きながら調査するモバイル・エスノグラフィの巧みさについておっしゃってくださったようです。一方、危うさというのは、学部から大学院への過程でもわかるように、無駄なく、生き急いでいるように見えること。「すること」への早さ/速さへの感度の一方で、「いること」への耐性のなさを評しての言葉でした。
私自身も、自分がぼーっとできない人間だということを、ずっと自覚していたんです。だからこそ、第5章を書けてよかったなと思っていて。これは、自分を相対化するために書いた部分でもあるんです。
終章は難しい
斎藤 終章では、ゲストハウスの時限的つながりとカントの「非社交的社交」[★06]★06を重ね合わせています。これも思い切った議論ですね。
鍋倉 これを書いた後、自分は結論を書くのが苦手なことに気付かされました(笑)。終章をどう書けばよかったのか、いまだによくわかっていません。
終章をどう終わらせるか、ずっと悩んでいたんです。そのときに「非社交的社交」というカントの概念を、近森先生のゼミで話題にしたことがあって、「これでオチをつけられるかな」と思ったのがきっかけでした。正直、入れなくても成立したとは思います。でも「社交」だけの話で終わると新しさに欠ける気がしたし、社会学ではあまり聞かない概念だったので、「これは面白いな」と思って採用しました。
一方では、社会的につながりを求めるけれど、他方では一人になろうとする。実際、カントも社交の時間を大事にしながら、決まった時間になると、ひとりの時間に戻っていった。現代人は、海外に移動して同じような実践をしているのが面白いですよね。
斎藤 終章の難しさというのは?
鍋倉 友人の社会学者から「結局この本ってどういう本なの?」と聞かれて、「いや、終章に書いてあるじゃん」と思ったんですけど(笑)、その人が言いたかったのは「終章って、本来は理論や引用に頼らず、自分の言葉でまとめる場所なんじゃないか」ということだったんです。
それを聞いて、たしかにそうかもしれないと思いました。だから、もし後輩に伝えられることがあるとすれば、「終章をどう書くかは本当に難しい」「自分の言葉で『結局なんなのか』をまとめられるとよい」ということですね。
斎藤 単なる要約では、面白くならないですしね。
鍋倉 そうなんです。博士論文の終章をどう書くべきか、結局最後までつかめませんでした。他の博士論文もいろいろ読みましたけど、あまりピンとくるものがなくて。
序章や第1章は得意なんですよ。先行研究をレビューしたり、理論を整理したりするのは性に合っているんですけど、研究をひとつにまとめるとはどういうことか。周りの研究者の方たちはどう考えているのか、いまも気になっています。
ゲストハウスからみかんアルバイターへ
斎藤 博士論文を書いてから単行本になるまで、どれくらいの期間だったんですか。
鍋倉 博士論文を提出したのが2023年1月末で、5月にこの本の原稿としてほぼ博論のままの初稿を出し、10月に改めて出版用に改稿した原稿を提出しました。
斎藤 かなりスピーディな展開ですね。本にする段階で修正は?
鍋倉 正直、ほとんど修正していません(笑)。構成やデータそのものは、博士論文の段階から大きく変わってはいないですね。序章と第1章は、博論ではもっと重かったんです。モビリティ研究の限界などを詳しく書いていたんですが、そういう部分は脚注に回しました。一般の方が読んだときに、「早く本題に入ってほしい」と思われないように、できるだけ話の立ち上がりを軽くする工夫はしました。
ただ、第1章の先行研究のレビューについては、自分でもよく書けたなと評価している部分だったので、削りたくなかったんです。出版社の晃洋書房さんからは「ページ数を少し減らしてください」と言われたので、ゲストハウスの先行研究に関するレビューや、補論、一部の事例の分析パートを削ることで対応しました。
それから、立教大学の助成金をいただく際に査読のようなプロセスがあり、そのときに「時限的なつながりが成立する条件をもっと書くと、社会学的に面白いのでは」というコメントをいただきました。その指摘を受けて、終章に少しだけ加えました。とはいえ、その部分も十分に展開できていないと感じています。
ちなみにカバーのイラストについては、最初はもっと人の数が多かったんですが、「もう少し減らしてください」とお願いしました。あと、カバー裏には1人だけ入れてほしいというリクエストもしました。「1人だけぽつんといる」というのが、第5章にも書いた、ゲストハウスのにぎやかな交流だけではない側面をイメージさせると思ったし、それがゲストハウス自体の重要な機能であることを表現したかったので。
斎藤 今後はどういう研究を進めていく予定でしょうか。
鍋倉 いま、みかんアルバイターの研究を少しずつ始めています。若い人が愛媛の農村部に一時的に入るんですけど、みかんを摘んだら次は沖縄に行ってさとうきびを獲る。夏と秋は全国で山小屋や野菜収穫の仕事に従事したり、北海道で昆布や鮭のバイトをしたりして、冬になったらまたみかんを摘みに帰ってくるという。ほんとに日本中を周遊してアルバイトしているんですね。
斎藤 面白そうじゃないですか!
鍋倉 東京に暮らしていたら、あんまり見えない光景ですよね。みかん摘みの期間は、ホームステイで農家と暮らす人も多く家族みたいな関係になるんですけど、でも40日間ぐらいしかいない。これも時限的つながりです。
斎藤 今回の博論本のように、今後も研究や執筆をしていく上で、学際的な知見を積極的に取り込んでいこうとお考えですか。
鍋倉 はい。社会学のなかだけで考えられることには限界があると思います。私は人類学に近いところにいるので、人類学的な知見もすごく面白いし、さらにその隣には哲学や人文地理学もある。自分の出自が社会学研究科のプロパーではないからこそ、他分野に手を伸ばせることを強みにしたいと思っています。戦略的な意味もありますし、単純に他分野を勉強するのが楽しいというのもあります。あまり閉じこもらず、開いて研究を進めていきたいですね。
[インタビュー後記]
斎藤哲也
博士論文あるいは博論本には、もれなく先行研究レビューが重要な要素として位置づけられています。これは文字通り、自身の研究が学術的にどのような文脈に位置するのかを明示するものです。
鍋倉さんの博論本『止まり木としてのゲストハウス』を読み始めて、この先行研究レビューの出来栄えに感嘆しました。ここを読むだけでも、社会学やモビリティ研究が「つながり」をどのように捉え、どのように理論化してきたのか、その歩みと射程を概観することができます。しかも、めっちゃ読みやすい。恥ずかしながら、社会学のなかで移動論ってそんなにアツいことになってるのかと、目を開かされました。
そして本編――。鍋倉さんは、先行研究が十分に光を当ててこなかった、「その場かぎりのゆるやかなつながり」が生まれる場であるゲストハウスをフィールドに選び、そこに現れる関係性の繊細なありように丁寧に目を凝らしていきます。
インタビューを読んでいただくとおわかりにように、鍋倉さんの研究の出発点は、ゲストハウスに対するモヤモヤとした違和感でした。出会って数分しか経ってないのに、ファーストネームで呼び合う親しげな関係が一時的にできあがる。これはいったい何なんだと。
博士論文執筆の段になって、鍋倉さんはこうしたつながりを「時限的つながり」と名付けました。一見、その場かぎりの都合のいい関係に見える時限的つながりには、どのような現代的意味があるのか。この問いは、ゲストハウスだけに限らず、現代社会の人間関係のあり方そのものを問い直すものだと思います。
現在は、「みかんアルバイター」という新たな時限的つながりに着手されているとのこと。その収穫とともに、「時限的つながり」という概念がどのように理論的に熟成していくのか。新たな研究成果を楽しみにお待ちしています。
★01 1976年生まれ。関西学院大学社会学部教授。研究対象は、若者文化やサブカルチャー、消費行動から国際関係まで多岐にわたる。著書に『カーニヴァル化する社会』 (講談社現代新書)、『ウェブ社会の思想――〈遍在する私〉をどう生きるか』 (NHKブックス)など。 ★02 1977年生まれ。関西国際大学社会学部准教授。専門は音楽社会学、メディア研究。著『ロックフェスの社会学――個人化社会における祝祭をめぐって』(ミネルヴァ書房)など。 ★03 https://note.com/kurosoo/n/n25f57e2346e5 ★04 2013年刊。奈良の商店街にある「食事・喫茶 ハタナカ」というカフェに集う7人の女性たちの日常を描いた小説。 ★05 「孤食(一人で食べること)」と「共食(誰かと一緒に食べること)」のあいだにある、新しい食事のかたちを指す言葉。『縁食論――孤食と共食のあいだ』(ミシマ社)で詳細に論じられている。 ★06 カントの『世界市民的見地における普遍史の理念』に登場する概念。人間は一方では、自己を社会化する社交性が備わっているが、他方では自己を孤立させる非社交的性質が備わっている。これをカントは「非社交的社交性」と呼んだ。

- 鍋倉咲希なべくら・さき
- 1993年、神奈川県生まれ。立教大学観光学部卒業、同大学院観光学研究科博士課程後期課程修了。博士(観光学)。現在、和歌山大学観光学部講師、立教大学観光学部兼任講師。博論をまとめた『止まり木としてのゲストハウス――モビリティと時限的つながりの社会学』(晃洋書房、2024年)のほか、共著として『社会学で読み解く文化遺産』(新曜社、2020年)、『〈みる/みられる〉のメディア論』(ナカニシヤ出版、2021年)、『観光人類学のフィールドワーク』(ミネルヴァ書房、2021年)、『観光が世界をつくる』(明石書房、2023年)、『モビリティーズ研究のはじめかた』(明石書店、2025年)などがある。

- 斎藤哲也さいとう・てつや
- 1971年生まれ。人文ライターとして人文思想系、社会科学系の編集・取材・構成を数多く手がける。編著・著書に『哲学史入門Ⅰ~Ⅳ』(NHK出版、2024〜2025年)、『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK出版、2018年)、『読解 評論文キーワード 改訂版』(筑摩書房、2020年)など。編集・構成に『哲学用語図鑑』(田中正人著、プレジデント社、2015年)、『ものがわかるということ』(養老孟司著、祥伝社、2023年)ほか多数。





