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競技用義足をつうじて、走ることの民主化をめざす #2

「表現とケアとテクノロジー」をめぐる4つの対話 ②

競技用義足をつうじて、走ることの民主化をめざす(中篇)の画像
ブラジルでのランニングクリニック

「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを通して表現の捉え方を再考する活動に取り組む田中みゆきさん。「アート」と「ケア」の視点からさまざまな先駆的事業を実施している奈良県の市民団体「たんぽぽの家」が主宰するプロジェクト「Art for Well-being」に全体監修として関わっている小林茂さん。

本連載インタビューでは、障害者支援とテクノロジー実装の最前線に立つ実践者たちにたいして、二人が行った4つの対話を掲載していきます。対話をつうじて、「誰のための技術か?」を多様な視点から深掘りしていきます。(本連載イントロはこちらより)

第2の対話では、研究者・エンジニア・起業家の遠藤謙さんにお話を聞きました。中篇では、アスリート以外の走れる環境をいかに用意するかという話から、アスリートと協働することからの気づきについて語っていただきました。(全3回)

ライティング:宮本裕人
編集:山田兼太郎
画像提供:株式会社Xiborg

Contents

    足がないすべての人が走れるようになったらいい

    田中 私は21_21 DESIGN SIGHTで「骨」展[★01]★01という展覧会を山中俊治さんと一緒に作らせていただいたときに、オスカー・ピストリウス(両足義足の南アフリカ人ランナー)のことを山中さんと見ていて、「めちゃくちゃかっこいいね」と話していました。そこから山中さんも義足のプロトタイプを作られたり、「骨」展でも義足の日本人アスリートを呼んで一緒に走るイベントをやったりしていたんですね。

    義足については そのときに「本当に速く走ることだけが人間のゴールなのか?」という議論をしたことがあるのですが、そのことについて遠藤さんはどう捉えられていますか?

    遠藤 足があるなし関係なしに「速くなることが正義だ」と思い込んでやっているのが競技の世界なんですよね。僕が接している人たちにとっては、速くなることが正義であり、速くなることが人生。それぐらい賭けないと、そこまでたどり着けない人たちなので。そういった人たちが対象だから競技用義足作りの事業が成り立っているんじゃないかなとは思いますが、もちろんそれがすべてだとは思わない。

    田中 ある意味アスリートって、すごく先鋭化された、特殊な世界だと思うんですよ。「ギソクの図書館」[★02]★02(義足で走る体験会などを行うNPO法人)を作られたのは、そうじゃないところにもXiborgの活動を広げていくという思いがあったからでしょうか?

    遠藤 そうですね。佐藤圭太と一緒に話していて感じたことなんですけども、競技人口のピラミッドが逆転している。普通ピラミッドって三角形じゃないですか。でも、パラリンピックは極端な砂時計みたいな感じなんですね。トップアスリートがいて、真ん中が抜け落ちていて、初心者たちがいっぱいいる。

    たとえば、健常者でいうと、小学校から選手に選ばれて「自分は足が速いんじゃないか」「自分は陸上が得意なんだ」と認識をして、陸上チームに入り、県や全国大会とレベルが上がっていくことによって自分の立ち位置を確認しながら、「競技を続けていくかいかないか」という人生における意思決定をする。

    でも足がない人はどうなっているかというと、ブレードを履いた瞬間に、横並びの人がほとんどいないんですよね。目に入るのがトップアスリートだけなんですよ。なのでその不均一というか、走ることが当たり前じゃないことが、ものすごいもったいないんです。ブレードはトップアスリートだけじゃなくて、いろんな人が使ってもいいものですし、「走る」というのは最も敷居が低いスポーツのひとつなので、みんなができたらいいなと思います。トップアスリートだけじゃなくて、足がない人でもすべての人が走れるような状況になって、「自分は走るのが好きだ」「走るのが速い」と思った人がアスリートになるという流れがあった方がいい。

    パラリンピック以降、ブレードへの認識も今少し変わってきているんですけども、昔は足を失ってブレードを履いた瞬間に、「パラリンピックをめざすかめざさないか?」という意志決定を求められることが結構あったんですよ。公園で走っているだけなのに、それを期待される。そこまで特別なものじゃないだろうな、という感覚で始めたのが「ギソクの図書館」です。

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    ギソクの図書館の展示風景

    田中 認識が変わってきているというのは、どういうふうに変わってきているんですか?

    遠藤 10年前は本当に、学校に講演に行っても、競技用義足を見たことがある人はほとんどいなかったんです。でも今学校に行ったら、ほとんどの人が見たことがある。認知はされているような感じですね。なのでブレードを履いて走っていたとしても、そこまで違和感を感じる人がいなくなってきたという状況になっています。

    ブレードのデザインは人間の足とは全然違う形なので、使われ始めた2000年くらいはまだまだ違和感先行型だったんですよ。でも2000年に入ってすぐに、シャーロン・マーリーというアメリカの選手が100mで11秒台を出したんです。その時から「ブレードは機能美だ」と言い出す人が出始めて。要は人間の足とは違う形であることの違和感よりも、機能的な部分が認識され始めて、「ブレードは速い、速いからかっこいい」と、一般的に認識され始めてきたのかなと思います。

    だからたぶん、パラリンピックでブレードを着けた選手を見ることがなかったら、「人間の足はこうだよね」という先入観に引っ張られての違和感があると思うんですけども、その機能をみんなが認識し始めて、それが社会的に受け入れられてきたことで、「これはかっこいいものだ」という認識が広がってきているのかなと感じています。

    田中 逆に、障害のある人を、そのままの姿ではなく健常者のように歩けるようにする、走れるようにする、それによって健常者の感動を呼ぶことは「感動ポルノ」と呼ばれますが、それについてはどう思われますか?

    遠藤 「感動ポルノ」という言葉には、対象へのまなざし自体が非常に攻撃的に響きます。この言葉の背景には、対象の見た目や行動だけでなく、その人の性格・人格や周辺環境といったコンテキスト全体に対する反感を、あたかも正当な批判であるかのようにすり替える側面があると感じています。

    『24時間テレビ』[★03]★03における視聴率や寄付金への反発から「感動ポルノ」と揶揄する気持ちも理解できますし、『バリバラ』[★04]★04のように「アンチ感動ポルノ」を前面に掲げるアプローチも理解できます。背景に資本主義の作り出した市場への執着や、それにあぶれた失望や嫉妬も感じます。なので、いずれも発信者のポジショニングの一種に過ぎないと、個人的には捉えています。いい悪いの話ではなく、そういう仕組みが生み出した自然の流れだという認識です。

    そのうえで、「乙武義足プロジェクト」[★05]★05は、科学・エンジニアリング・医療・障害者コミュニティといった複数の分野にまたがる課題を提示した、バランスの取れた問題提起だったと思います。それにもかかわらず、乙武さんや私のやり方に嫌悪感を抱く方々から「感動ポルノ」と見なされることがありましたが、そのときは逆に「なるほど、これが感動ポルノと呼ばれるのか」と学ぶ機会になりました。献身的な意見については謙虚に受け止めながら活動を続けていました。

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    ボキャブラリーを蓄積していくプロセス

    田中 これまで長く活動されてきて、いろいろ考え方も変わった部分もあるのかもしれないなと思って伺いたいんですけれど、遠藤さんにとって障害とは何でしょうか? 大きい質問ですけど、自分もやっていくなかで、あまりにも当たり前になりすぎて「障害」と言われることに逆に違和感があるようになってきました。皆さんがどのように捉えているのか聞きたいなと思っています。

    遠藤 僕はそれを考えるのはやめたんですよね。「健常って何ですか?」の質問に近い。

    田中 本当にそうですよね。

    遠藤 なので、「障害」とは人によって違うものなのかな。その違和感は田中さんしか感じていない違和感かもしれないし、もしかしたら他の人にとってはしっくりきているかもしれないし。それは誰が正しいというよりは、すべての人が納得するものってないと思うんですよね。だけれども、マスの人たちが納得できる言語をひとつ用意するとしたらこれだよねっていう妥協案はないとコミュニケーションに困ってしまう。

    違和感があったとしても、「障害」という言葉はないよりあった方がマシなんじゃないかな。文化的な意味付けとかコンテキストは後からついてくるので。それに、どっちみちコモディティ化するとダサくなるんですよね。だから、そこまで言葉に執着することはあんまり僕はしないようにしようと思って活動しています。

    田中 なるほど。そんななかで聞くのは無粋かもしれないんですけど、「アスリート」とはどういう人なんでしょう?

    遠藤 アスリートはなんだろうね。本当に言葉を選ばずに言ったら、いい意味で気が狂ってる人たちだと思うんですよ。

    田中 なるほど(笑)

    遠藤 やっぱり、ちょっとタガが外れていないとできないと思うんですよね。アスリートだけじゃなくて、勉強でも専門家でも、本当に突き詰めることを生業としている人はそれが備わっているんだろうなと思うんですけど。ひとつのことに執着して、「負けたくない」という気持ちが、人間本来持っている「怠けたい」という気持ちよりも上回ってしまう。理想感からそれをやってしまうとか、あるいはそれが楽しくてしょうがないとか。そっちの方が強い時点で、すごいなと思うんです。それプラス、アスリートには生まれ持ったものが絶対にあると感じています。さらに環境などにも恵まれた人が、やっとトップアスリートになれるというふうに思います。

    田中 これまで3人のアスリートと長く一緒に協働されているなかで、「こういうのは自分は絶対思いつかないな」と開発のなかで気づかされたことはありますか?

    遠藤 実は僕は、ブレードを軽くした方がいいんじゃないかとはずっと考えていたんですよ。でも軽くしたら逆に遅くなる人がいて。使い方や走り方、戦略によって違うと思うんですけど、だいたいそれぞれの選手には適切なバランスというのがあります。佐藤圭太選手は軽くしたらやっぱり使いづらい、それをちゃんと証明してくれた人です。

    田中 それはバランスが取れないからですか?

    遠藤 走ってて「スカッ」てなるような感覚を持つそうです。それはデータとしても見ることができて、床反力も落ちてて、タイムも落ちて、「確かにな」と思いました。エンジニアって軽くするのにすごい頑張るんですよ。軽量化って大変なんですよ、本当に。ものすごく頑張ったのに「これ要らないんだ」って肩透かしをくらったタイミングがありましたが、そこはすごく勉強になりましたね。

    田中 それは長くやられてきたからこその、いろんなエラーがあってわかることですよね。

    遠藤 たとえばコミュニケーションのなかで、「この一言を言ったら全部伝わる」という言語は、個人間では結構生まれるじゃないですか。我々で言うと、たとえば「プッシュ」っていうのは地面を押す行為を指すんですけど、押す行為における姿勢であったり、その前の予備動作であったり、あとはブレードのたわみ具合だとか、そういうのをひっくるめて「押す」という言葉に入っているんですよ。

    だから「押せてない」というのは、ただ押せてないだけじゃなくて、予備動作が悪いのか、ブレードの角度が悪いのか、すべてひっくるめているんですよね。そういった共通の認識が出来上がったうえでの「押せてない」と言うのと、ただ初めて会った人に「押せてない」と言うのは、全然意味合いが違うじゃないですか。そういったコミュニケーションが取れるような関係性が培われてきたのは、開発にとっても大きいです。

    田中 それはまた選手によってそれぞれ違うんですよね?

    遠藤 違いますね、はい。

    田中 そういうボキャブラリーも一緒に蓄積されていったということなんですね。

    遠藤 そう思いますね。

    田中 海外の選手ともそうしたボキャブラリーを培われているんでしょうか?

    遠藤 そこは違う感覚ですね。海外選手はもうアスリートとしての感覚。ジャリッド・ウォリスまでは密にコミュニケーションをとってきたけど、やはり距離感が全然違うんですよね。何でしょうね……いつも通訳を通してコミュニケーションをしている感覚なので、最低限のことしか伝わらないだろうなという期待値でそこまで伝えようとしていないです。

    田中 それよりはモノで見せることで理解をしてもらうイメージでしょうか?

    遠藤 使ってみて、その感覚で本人が理解してくれたらいいなと。やっぱり密の開発というのは、全員とできるかというとやっぱりできないし、共通の認識が持てて、なおかつコミュニケーション能力が高い選手とじゃないとできないんですよ。なので、密に付き合いながらやっていく選手を増やすかと言われると、増やしたいんですけど、そこはもうマストじゃないので、巡り合えたらやりましょうという感じです。

    田中 私はアートの領域ですけど、一緒にプロジェクトを行うにあたって当事者なら誰でもいいわけじゃないんですよね。やっぱり当事者のなかでも、本当に障害とか関係なく「作ること」の感覚を共有できる人、それを言語化して伝えてもらえる人って本当に少ないなと思う。それはたぶん、もう障害とかの問題じゃなく、本当に教育の問題。つまり障害があることによる教育機会の少なさにもアプローチしていく必要があると感じます。


    #2 競技用義足をつうじて、走ることの民主化をめざす(全3回)

    前篇 競技用義足をつうじて、走ることの民主化をめざす(前篇)
    中篇 競技用義足をつうじて、走ることの民主化をめざす(中篇)
    後篇 競技用義足をつうじて、走ることの民主化をめざす(後篇)

    ★01 「骨展」は、2009年に東京・六本木の21_21 DESIGN SIGHTで開催された企画展で、デザインエンジニアの山中俊治氏がディレクターを務めた。生物の骨格構造と工業製品の内部構造(いわば「人工の骨」)を対比し、自然と人工のデザインの共通点や未来の可能性を探った。 https://www.2121designsight.jp/program/bones/★02 スポーツ用義足(ブレード)を気軽に試せる環境を提供する、日本初の常設型体験施設。2017年、義足エンジニアの遠藤謙氏とパラ陸上選手の佐藤圭太氏の発案により設立された。 https://bladelibrary.jp/★03 正式名は、『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』。1978年より日本テレビが毎夏放送しているチャリティー番組。福祉や社会支援のためのメッセージを、マラソンやスペシャルドラマなど複数の企画を通じて放送する。★04 NHK Eテレで放送された障害者・セクシャル・マイノリティなど生きづらさを感じるすべてのマイノリティーをテーマにしたバラエティ番組・情報番組である。2012年4月から2025年3月13日まで放送された。★05 先天性四肢欠損で知られる乙武洋匡氏が、最新鋭の技術を搭載した義足を用いて歩行に挑戦するプロジェクト。科学技術振興機構の支援を受け、2018年から2022年にかけて、エンジニアやデザイナー、義肢装具士や理学療法士などが加わり、行われた。https://www.sonycsl.co.jp/projects/ototake-project/

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    遠藤謙えんどう・けん
    1978年生まれ。慶應義塾大学修士課程修了後、渡米。マサチューセッツ工科大学(MIT)メディアラボにて博士取得。現在、ソニーコンピュータサイエンス研究所上級研究員。ロボット技術を用いた身体能力の拡張に関する研究や途上国向けの義肢開発に携わる。 2014年には競技用義足開発を始め、すべての人に動く喜びを与えるための事業として株式会社Xiborg(サイボーグ)を起業し、代表取締役に就任。12年、MITが出版する科学雑誌TechnologyReviewが選ぶ35才以下のイノベーター35人(TR35)に選出された。14年にはダボス会議ヤング・グローバル・リーダーズに選ばれた。
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    田中みゆきたなか・みゆき
    キュレーター・プロデューサー。「障害は世界を捉え直す視点」をテーマに、カテゴリーにとらわれないプロジェクトを企画。表現の見方や捉え方を障害当事者含む鑑賞者とともに再考する。2022年7月から12月までACCのフェローシップを経てニューヨーク大学障害学センター客員研究員。2025大阪・関西万博 日本館基本構想クリエイター。主な仕事に、「ルール?展」(2021年、21_21 DESIGN SIGHT)、「語りの複数性」(2021、東京都公園通りギャラリー)、「オーディオゲームセンター+CCBT」(2024、シビック・クリエイティブ・ベース東京)など。主な書籍に、『誰のためのアクセシビリティ?』(リトルモア)など。
    障害は、テクノロジーによって、解決するべき「課題」なのか?
    小林茂こばやし・しげる
    情報科学芸術大学院大学[IAMAS]図書館長・教授。人工知能などのテクノロジーは、中立の単なる道具でもなければ不可避で抗えない決定論的なものでもなく自在に解釈できるものであると捉え、多様な人々が手触り感を持って議論に参加できるような手法を探求している。著書に『テクノロジーって何だろう?——〈未完了相〉で出会い直すための手引き』(ビー・エヌ・エヌ)、監訳書に『デザインと障害が出会うとき』(オライリー・ジャパン)など。岐阜県大垣市において隔年で開催されているメイカームーブメントの祭典「Ogaki Mini Maker Faire」では2014年より総合ディレクターを担当。撮影:丸尾隆一

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