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阪神・淡路大震災30年の言葉 #5 書かれなかった言葉、波打ち際に立つ人

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「がんばろう神戸(KOBE)」という掛け声とともに復興を推し進めてきた阪神淡路大震災から30年。被災地に溢れざるを得なかった「前向き」な言葉の陰にどんな思いや沈黙があったでしょうか。10歳で震災を経験した社会心理学者・高森順子さんは、「阪神大震災を記録しつづける会」の事務局を引き継ぎ、それぞれの「震災後」を語る人々の言葉に出会ってきました。震災30年の今年、新たに募った「30年目の手記」を手に取り、自らの「復興」の日々も振り返りながら、「前向き」な言葉とは違う、もう一つの「震災後」の語り方を探ります。全6回連載予定。(連載リストはこちらより)

Contents

    書かれなかった声が言葉になるとき

    デザイン・クリエイティブセンター神戸と阪神大震災を記録しつづける会が協働して実施した震災体験の手記募集プログラム「30年目の手記」には、これまで自らの体験を手記として継続的に書いてきた人々、そして、30年という年月を経てはじめて筆をとった人々、計186人が参加した。

    186篇の手記は、それぞれの執筆者が自らの体験にかたちをあたえるべく、無数のあり得た言葉の選択肢を頭の中で探りながら、一つひとつ言葉を選び取り、ひとまとまりの「手記」として仕上げていったものだ。そうして生み出されたそれぞれの手記の背後には、当然ながら、無数の記されることのなかった出来事や、言葉にならなかった記憶が存在する。そのような手記を、私たちはどのように読むことができるのだろうか。執筆者の胸の内に留まった思いに、読み手である私たちが触れることはできるのか。あるいは、その思いに別のありかたでかたちを与えることはできるのだろうか。

    2025年1月16日23時から翌17日5時まで、6時間にわたり放送されたNHKラジオ深夜便「阪神・淡路大震災 分かち合いたい30年──語り継ぐ、語り直す」。番組では、震災報道を長年勤めてきたアンカーの住田功一さんがナビゲートしながら、震災から30年のあいだに放送された被災地の音源や、神戸市東遊園地での中継を織り込みながら、「30年目の手記」の朗読と、執筆者へのインタビューが紹介されていった[★01]★01。私は、この番組にゲストとして参加した。

    このとき、手記執筆者への取材を担ったひとりが、NHK大阪放送局アナウンサーの塩﨑実央さんだ。塩﨑さんは「30年目の手記」の複数の執筆者とやりとりをするなかで、「書き言葉」である手記と、「話し言葉」としてのインタビューを、番組のなかにどう織り込んでいくか、番組制作全体を担った同局アナウンサーの大山武人さんとともに検討を重ねていた。その過程で塩﨑さんは、書き言葉にならなかった執筆者たちのさまざまな思いに触れることとなった。

    ここからは、その中から塩﨑さんと二人の執筆者とのやりとりを紹介したい。

    「震災がなければ、青果店を、続けたかった」──書かれた言葉の外側

    「アルバイト人生」という手記がある。執筆者は玉置順三さん、84歳。震災に関する手記ははじめて書いたという。

    玉置さんは神戸中央卸売市場に野菜の仕入れに向かう途中で揺れに襲われた。彼は「もし15分遅く車庫から出発していなかったら死んでいた」と当時を振り返る。彼は震災で家業の八百屋と自宅を失った。当時55歳だった玉置さんは、多額の資金が必要となる店の再建をあきらめ、現在までアルバイトとして「小学校での体育補助。シヤトル船のロープの受け渡し。観光地でのコンシェルジュ」など、さまざまな仕事を経験してきた。

    塩﨑さんは、ラジオでの朗読許可をとる際に、玉置さんに、手記執筆に至るまでの話を聞いていた。そこで、塩﨑さんは「震災がなければ、青果店を、続けたかった」という言葉を聞く。この一言は、手記のどこにも書かれてはいなかった。

    手記のなかで、玉置さんは現在の生活を生き生きと語っている。

    現在84才になった僕は今もグリルでアルバイトをしている。僕が高齢ながら採用された、ただ一つの理由は、とても野菜に詳しいというだけだった。僕の調理台の上には多くの野菜が若いコックから持ち込まれる。そのほとんどが20代、30代の若いコックばかりだ。僕はそれらの野菜を水を得た魚のように、てきぱきと下処理してゆく。それを見たシェフは若いコック達に向かって言う。「おーい、お前ら84才に負けているぞ」と。僕は野菜の特長をて知り尽くしている。この野菜はどのように下処理すれば正確に早く出来るかという事を知っている。僕は野菜の下処理をしながら、いつも父と母に感謝している。八百屋に生まれて良かったと思っている。八百屋は神戸の大地震で失くしてしまったが、今は、その事を生かしてがんばっている。

    玉置さんは「自然災害で起こったものは仕方がない。人間はそんなに弱い者ではない。常に前を向いて生きてゆかねばならない。亡くなった人々のためにも生きてゆかねばならない。それが亡くなった人々への恩返しだ」と続けたうえで、手記をこう締めくくる。

    僕は毎朝午前5時半に起きる。僕の仕事は午前7時から午後12時迄だ。玉ねぎの皮むき、マッシュルームのスライス、メークインの皮むき、人参のカット、キャベツの千切り、アスパラのはかま取り、きのこ類のさばき、セルリの皮むきなど、ありとゆる野菜が下処理されてゆく。生きているという事は素晴らしい事だ。今改めて思う。

    「アルバイト人生」と題されたこの手記の玉置さんの生き生きとした筆致は、生きることの喜びを鮮やかに伝えている。締めくくりに並ぶ、さまざまな野菜とそれを扱う玉置さんの手つきを伝える言葉は、日々を慈しむ祈りのようだ。災害によってもっとも大切なものが失われたとしても、玉置さんの身体は、失われる前の記憶に満たされ、それによって失われたものがどれだけ豊かで、どれだけ誇らしいものであったかをも浮かびあがらせている。つまり、手記には書かなかったもうひとつの人生──八百屋を続けた人生──もまた、この語りの背後に差し込むように存在しているのだ。

    「震災がなければ、青果店を、続けたかった」という玉置さんの言葉を塩﨑さんが聞いたのは決して偶然ではない。またそれは手記の言葉と矛盾するものでもない。塩﨑さんは、ラジオ番組の取材担当として、手記に書かれていない余白に思いを馳せながら、玉置さんと声を交わし合った。だからこそ書かれた言葉の輪郭の外側にある、書かれなかった願いが掬いあげられたのだと思う。

    「お母さん、だっこして」──書かれた言葉の手前

    本連載の2回目で取り上げた小西眞希子さんの「私がやらなければならない事」という手記にも、書かれなかったことがあった。震災当時5歳だった娘の希さんを亡くした小西さんは、前日の夜の記憶と、そこからの年月を、震災直後、10年後、20年後と、何度も手記に認めてきた。「30年目の手記」で、小西さんが綴ったのは、日常のなかで震災の記憶をどのように伝えていくか、そして、いま自分が「やらなければならない事」として向き合っている課題ーー希さんの遺品を整理することだった。

    塩﨑さんは、小西さんの手記の朗読許可とあわせて、小西さんに手記を書くことへの思いをインタビューし、音声収録をしている。番組では塩﨑さん自ら「小西さんは、手記にどうしても書けなかったことがありました」と述べたうえで、その音声は流れた。

    希が亡くなる前の日に、「お母さん、だっこして」って言ったんですよ。でも、ばたばたしていて、「早く寝なさい」って言って。寝かしてしまって。本当にそれがすごく後悔で。なんであのときにだっこしてあげなかったんだろうって。でもね、それは書けなかったんです。手記に。辛すぎて。それだけはずっと、ずっと、心のなかにあって。

    その言葉が電波に乗ったとき、私は一瞬、声を失った。2023年に小西さんにお会いした際、「もし30年目の手記を書く機会があれば、書きたいことがあるの」といって、そっと教えてくれたのが、この話だった。しかし、受け取った手記に、この話は書かれていなかった。私は、小西さんが手記を書く過程には、無数の「書くかどうか」のせめぎあいがあり、そのすえに書くという決断があることをあらためて気付かされた。そして、小西さんの手記執筆という営みにより一層の敬意を抱いた。だからこそ、ラジオのブースで小西さんのこの声を聞いたとき、塩﨑さんがこの声を聞き届けてくれたことへの驚きと安堵が、同時に押し寄せてきた。私は目を丸くしながら、同じブースにいた塩﨑さんに、聞き届けてくれたことへの感謝を全身で表現していた。

    小西さんの音声の紹介が終わったあと、私は、このことを声にした。

    「このお話を2年ほど前に聞いていました。今日、インタビューで、書き言葉にならなかったことを、小西さんがこのことをこういうかたちで語られたと知らなかったので、こうして声にしてくださって、とても驚いています。この言葉もアーカイブとして、ご遺族の思いってどういうものなのだろうって、次のひとたちに引き継がれていく。驚きとともに聞いていました」。

    塩﨑さんは、この言葉が語られた経緯について、後日こう話してくれた。「インタビューの終盤、番組制作チームの北郷三穂子アナウンサーも交えて、三人で語らうような時間があったんです。その延長のように、小西さんがふと、この話をしてくださったんです」。こうして、小西さんの震災前日の出来事と、「だっこして」という希さんの言葉は、ラジオの放送として流れた。

    小西さんは手記において、希さんの暮らしの記憶が詰まった物を整理することを「やらなければならない事」として記している。一方で、インタビューにおいて、「だっこして」という希さんの言葉に応えられなかったことを、書けなかったこととして語っている。

    このふたつの出来事──「残された物を整理すること」と、「書けなかったことを語ること」──は、どちらも希さんの存在を、小西さんがいま一度、抱きとめる行為に他ならない。

    このふたつの出来事がラジオという媒体を通して、広く社会に届けられたとき、希さんの存在は、小西さんと希さんのあいだに留まらず、公共の空間のなかで受け取られるものとなった。それは、塩﨑さんという取材者と、小西さんという両者の語らいの力であり、塩﨑さんの「聞き届ける」という姿勢があってはじめて引き出されたものである。この「聞き届ける」姿勢は、小西さんが手記を書くプロセスにおいて、なんとか言葉にしようと取り組みながらも、書くことを諦めざるを得なかったものに、もう一度言葉にする機会をもたらす。言い換えれば、手記という言葉になる手前で沈んだ体験に、かたちを与えるということだ。塩﨑さんが聞き届けたことによって、小西さんは、希さんの喪失体験を、希さんの存在証明として語り直すことができた。それは、小西さんにとっても、それをメディアを通じて知る者にとっても、喪失体験とともに生き抜いていくための、お守りのような言葉になりうる。

    ただ、断っておきたいのは、この「聞き届ける」姿勢は、彼女にしかもちえない特異な能力ではないということだ。それは、手記を読む人すべてに託されている。朝日新聞の記者·島脇健史さんもまた、その一人として、小西さんの手記を掲載する記事の中で、次のようにこの出来事を記している。

    実は手記では書けなかったことがある。震災前夜のこと。「ママ、抱っこして」「もうおねえちゃんでしょ。早く寝なさい」。もしあのとき、「希を抱きしめてあげていれば、希は亡くなっていなかったかもしれない」と思うことが、今でもある。だから今は、保育園の子どもたちをぎゅっと抱きしめる。子どもたちはぬくもりを感じて安心してくれる[★02]★02

    この記事には、「ママ、抱っこして」という一言が、重みをもったものとして、そっと文中に置かれている。塩﨑さんがラジオ番組という音声メディアを通じてその言葉を伝えたように、島脇さんは新聞という活字メディアを通じて、同じ記憶の輪郭を掬いあげた。小西さんの声は、「聞き届けてくれる」と信じられる誰かの存在──メディアの記者たちの存在があってこそ、言葉というかたちになったのだ。

    沈んだ声の波打ち際に立ち、聞き届ける

    精神科医・宮地尚子が提唱する「環状島」というメタファーがある[★03]★03。これは、戦争や災害をはじめ、集合的にトラウマを抱える事態にたいするあらゆる関係者の心理的な立ち位置や力動を理解するために役立つ。海にぽっかりと浮かぶドーナツ状の島を想像してほしい。この想像上の島のジオラマは、以下のようなディテールをもっている。

    島の中央には内海が広がっている。内海の底には、災厄によって命を落とした死者や、語られなかった声が沈み、眠っている。内海に面した内斜面には被災者たちが、外斜面には支援者たちが立っている。外海には傍観者が広がる。2つの斜面に立つ人びとは、決して楽な状態ではない。トラウマ反応という「風」や、対人関係の摩擦という「重力」、社会の否認や無理解といった「水位」の変動に影響を受けながら、なんとかその場に留まっていたり、移動を試みたりしている。

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    環状島の構造(上)と断面図(下)
    (出典:宮地尚子『震災トラウマと復興ストレス』岩波書店、2011年)

    「環状島」というメタファーが示しているのは、災厄をめぐる語りは、語る者と聞く者との立ち位置が重要であるということだ。災害の語りを聞く取材者たちが、語られなかったまま内海に沈んでいる声を掬いあげようとするとき、内斜面と内海のあいだ──つまりは波打ち際──に立たなければならない。

    ただ、波打ち際に立つことは容易なことではない。そこに辿り着くには、取材者たちは内斜面という断崖絶壁を降りていかなくてはならない。「風」や「重力」に引きずられて、自ら内海に沈んでしまう可能性もある。また、「本当にこれを聞いていいのか」「聞くことが暴力になるのではないか」と体験を掘り下げることに躊躇うこともある。

    一方で、当事者たちも、内海に沈んでしまった声を一人で引きあげることは難しい。自ら、沈黙していた言葉を引きあげるためには、それを確かに受け取ってくれる人(取材者)がともに立っていられるような、おだやかな波打ち際のもとでなければならない。

    その意味で、「30年目の手記」というプログラムは、執筆者という当事者と、取材者が出会うためのおだやかな波打ち際になったのではないかと考えている。「30年目の手記」募集の呼びかけ文には「手記を書くほどのエピソードはもっていないと、書くことを悩まれている方にこそ、言葉をお寄せいただきたいと思っています」と記している[★04]★04。それは、「届いた言葉はすべて聞き届ける」という姿勢を示すものだ。

    取材者にとって「30年目の手記」は、ときに、内斜面を無理なく安全に降りるためのロープとなった。内斜面から滑り落ちる危険を冒したり、内海にたしかにあるはずの沈黙を見て見ぬ振りをしたりすることなく、安全ロープを伝って、ゆっくりと、おだやかな波打ち際へと近づくことができた。

    一方、執筆者にとっては、「30年目の手記」に投稿することは、ボトルメールを流すような行為だった。ただそれは、闇雲なものではなく、絶対に誰かのもとに届き、封を開けて読まれることが期待できた。だからこそ、安心して波打ち際に立ち、内海に沈んだ言葉を見つめることができた。自らの体験を「美談」や「哀話」といったわかりやすいストーリーに押し込めることなく、「教訓」や「防災」といった「目的」のための素材として使われることだけを求めるのでもなく、書かれていないことが滲む手記を書く。そのような思いを抱えた執筆者たちが集ったのが、「30年目の手記」というおだやかな波打ち際だったのだろう。

    手記という「書かれた言葉」を社会に届けるには、ただ視線を文字列に沿って落とし、そこから理解できたことだけを伝えるという方法はあまり意味がない。取材者は、執筆者の話を聞く際に、書かれていたことにだけでなく、行間に潜む、「書かれることなく、執筆者の胸のうちに留まった言葉」を想像することが求められる。それは、「あなたの話を必ず聞き届ける」という決意がにじむような態度であるといえるかもしれない。それは内海の波打ち際に立ち、「書かれたもの」の余白や、「話されたもの」の息継ぎに意識を向けつつ、当事者の沈黙とともにあることを恐れない態度であるかもしれない。

    いま、私たちはどんな沈黙を無かったことにしているだろうか。ひとつひとつの声に滲む、「声にならなさ」にどこまで向き合うことができているだろうか。当事者とともに、「うしろむき」であることを恥じずに、波打ち際でともに佇む。そのような態度は、災害体験を聞くことに限ったことではない。声にならぬ思いを抱える人びととともに震えながらあることは、社会にその声を届けるための強い足腰になるだろう。


    阪神・淡路大震災から「30年目の手記」

    玉置順三 アルバイト人生
    https://kiito.jp/saikanshuki/shuki/006/

    小西眞希子 私がやらなければならない事
    https://kiito.jp/saikanshuki/shuki/080/

    阪神・淡路大震災から「30年目の手記」
    阪神・淡路大震災から「30年目の手記」は、1995年から現在まで震災体験の手記集の出版を行う「阪神大震災を記録しつづける会」の取り組みをもとに、2021年に東日本大震災の震災手記を集めるプロジェクト「10年目の手記」の方法を援用し、発展させた手記募集プロジェクトです。

    ★01 NHKラジオ深夜便2025年1月16日「阪神・淡路大震災 分かち合いたい30年:語り継ぐ、語り直す」https://www.nhk.or.jp/osaka-blog/shinyabin/674216.html ★02 朝日新聞2025年1月17日「5歳の娘へ30年目の手記 それでも書けなかった、大震災前夜のこと」https://digital.asahi.com/articles/AST1J52D5T1JPIHB01JM.html ★03 宮地尚子『環状島=トラウマの地政学』、みすず書房、2018年。 ★04 阪神・淡路大震災から「30年目の手記」についてhttps://kiito.jp/saikanshuki/about/

    高森順子たかもり・じゅんこ
    社会心理学者。1984年兵庫県神戸市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。現在、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]産業文化研究センター研究員。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。著書に『10年目の手記―震災体験を書く、よむ、編みなおす』(共著、生きのびるブックス、2022年)、『震災後のエスノグラフィ―「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)、『残らなかったものを想起する―「あの日」の災害アーカイブ論』(編著、堀之内出版、2024年)など。

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