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阪神・淡路大震災30年の言葉 #2 奪われた「別れ」を取り戻し、やり直す

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「がんばろう神戸(KOBE)」という掛け声とともに復興を推し進めてきた阪神淡路大震災から30年。被災地に溢れざるを得なかった「前向き」な言葉の陰にどんな思いや沈黙があったでしょうか。10歳で震災を経験した社会心理学者・高森順子さんは、「阪神大震災を記録しつづける会」の事務局を引き継ぎ、それぞれの「震災後」を語る人々の言葉に出会ってきました。震災30年の今年、新たに募った「30年目の手記」を手に取り、自らの「復興」の日々も振り返りながら、「前向き」な言葉とは違う、もう一つの「震災後」の語り方を探ります。2025年3月まで全6回連載予定。(連載リストはこちらより)

Contents

    夢から醒めて、「前向き」な風に乗る

    1995年当時、私は〈夢〉の中を彷徨っていた。地震が起きて数カ月後に再開した小学校は、「ユートピア」の予感に満ちていた。

    震災前の小学校5年生の教室は、いつも「男子」と「女子」に分かれて行動していて、その下に小さなグループがいくつもあり、みなで一緒になって遊ぶことはなかった。もっといろんな友達と話したい。でも、仲良くすれば冷やかされるかもしれない。体も小さく、子どもっぽいままだった私は、一足先に思春期を迎え、独特の緊張感に満ちているこの教室に居場所をもてずにいた。

    震災後、学校が再開されてまもなくのあいだ、クラスには私を含め、たった6人しか登校してこなかった。大阪や京都に疎開した友達が帰ってくるのはもう少し先のことだった。やけに広い教室で、誰かがダンボールでつくったブーメランを投げた。それは私の前でぽとりと落ちた。私はそれを拾って、投げ返した。そこから、少し前の、もっと子どもだった頃みたいな日々がはじまった。

    液状化現象で泥だらけになった街は、石畳とコンクリートしかない人工島で暮らしてきた私たちにとって、大きな砂場のようだった。泥団子をいくつも作って、道路に走った深い亀裂に放り投げた。子どもだった私たちは、もっと子どもに戻って、遊んだ。そうやって遊ぶことが大人たちを安心させる大事な役割になることも頭の片隅でわかってもいた。

    この夢のような時間が長くは続かないこともわかっていた。災害という悪夢の次にあらわれたユートピアが次第に消えていくことを、私はひしひしと感じていた。

    橋桁が落ちたモノレール、全壊した塾、花束がいくつも手向けられた街。私はそれらを横目で見ながら、ニュースで聞いた地震学者の言葉を思い出す。「地震が起きた時間は、ほんとうにわずかな違いでしかありません」。もし地震が昼間に起きていたら、夕方に起きていたら、死んでいたかもしれない。〈夢〉から醒めていくなかで、私はいくつもの「もし」を思い浮かべては、なんとか頭からそれを追い出した。

    「阪神地区の小学6年生は中学受験が免除され、行きたい学校に行けるらしい」。ちょうどその頃、そんな噂がまことしやかに囁かれた。一年上だったらよかったのに。得したかもしれないのに。花束が点々と置かれた街を歩き、塾に通いはじめるなかで、湧き上がるこの気持ちはなんなのか。自分のなかの暗いものと出会った気がした。実際、それは噂にすぎず、当時の中学受験は日程変更といった配慮がなされていた程度だった。

    インフラが整っていくにつれて、学校も元通りに戻っていく。ダンボールのブーメランを投げ合った6人は、3人の「男子」と、3人の「女子」に戻り、特段の会話を交わすこともなくなった。私は、受験勉強を再開した。合格さえすればすべてが報われるという希望を持とうとした。それは、新規巻き返しの「世直し」や、「つつがない右肩上がり」をめざす「立て直し」といった、復興のベクトルに合わせるようなふるまいだったと、いまになって振り返って思う。

    復興の「前向き」な風に煽られて、吹き飛ばされてしまうのであれば、いっそのこと、その風に乗って上へ上へと飛んでしまおう。それは、被災のただなかにいることを見なかったことにしようとした結果かもしれない。じっさい、私は墜落した。一年後、希望する中学校に合格を果たした私は、不登校になった。この話のつづきは、またいずれ書こう。

    災害という「醒めてほしい夢」のあと、みなが助け合う「災害ユートピア」として「醒めてほしくない夢」があらわれる。巨大な喪失を経験した人びとが互いを気遣い、助けあう、理想的なコミュニティ。それが仮初めのものだと気づいていたとしても、私たちはその夢のような連帯の感覚が、これからも続いていくことを願う。

    ただ、その夢は泡のように儚く消えてしまう。連帯の夢から醒める頃、私たちはそのときの感覚を忘れることができずに、別の夢を追いかけようとする。復旧・復興において「世直し」「立て直し」という2つの「前向き」なベクトルが強烈にはたらくのは、災害ユートピアという「醒めてほしくない夢」をみたあとだからかもしれない。

    夢から醒めて、いまここで「やり直す」:小西真希子さんの手記

    「世直し」や「立て直し」といった「前向き」の風に乗ろうとして墜落した私は、震災から15年が経った2010年、喪失体験を書くひとと出会った。かれらは、震災を「やり直し」する志向をもっていた。そのなかでも、切実に「やり直し」をしてきたひとがいる。

    小西眞希子さんは、私の伯父の高森一徳が代表を務めていた「阪神大震災を記録しつづける会」の執筆者として、手記を書いてきた。小西さんは震災で5歳の娘、希さんを亡くした。小西さんは震災から2カ月後、10年後、20年後、そして、30年を迎える今年の4回、手記を書いてきた。

    小西さんは5歳の娘の希さんを亡くしたときに、どうか夢なら醒めて、と何度も何度も願ったという。

    小西さんは希さんを亡くしてから2カ月後に、手記募集を呼びかける小さな新聞広告を見つけて、手記を書くことにした。手記を書いたのは、住民票や保険証に至るまで、希さんの名前が消えていくことに耐えられなかったからだという。希さんのことを手記に書き残すことで、生きた証を残したい。これが、最初の手記を書くに至った動機だった。

    小西さんは、手記を書くことで、希さんを亡くしたことを認めることができたという。これは夢ではなく現実に起こったことである。そう受け止めてから、小西さんは毎日、希さんの食事を作り、仏壇の前に供えるようになった。震災から10年目の手記には、次のように書いている。

    2人の娘に支えられ、出会いを大切に、これからも家族4人で頑張っていこうと思っています。

    2人の娘のうちの1人はもちろん希さんのことだ。そこには、目には見えないが確かに存在する、希さんとの日々が描かれている。

    希さんに毎食の陰膳をする日々は、希さんが20歳を超えたころに変化が訪れる。20年目の手記には、次のように書いた。

    友達もたくさんいるでしょう。ひょっとしたら彼氏もいるのかもしれません。もう毎日家で食事をすることもないのでしょう。私はずっと続けてきた陰膳をやめました。今は、希の好きなものをつくった時と、特別な時だけお供えしています。

    小西さんはそれについて問われると、「だって、友達と遊びに行ったり、彼氏もいるかもしれないじゃないですか。希も困っちゃいますよね、必ず帰ってこいって言ってるみたいだし。だからこれは、親離れというより、私が子離れしなきゃいけないのよ」とほほえむ。

    希さんの4つ下の妹の理菜さんについては、「あの子にとっては生まれたときから、目に見えないお姉ちゃんがいるわけで。周りの人たちは、あの子は賢かったわ、とか、あの子のぶんまでがんばってねと、善意の気持ちでいうわけです。でも、そういう言葉をかけられるから、理菜は見えないお姉ちゃんとずっと戦っていかなきゃいけなかった」と振り返る。

    見えない家族がいることの心強さを感じてきた小西さんと、見えない家族と比べられ、つねに精一杯頑張ってきた理菜さん。理菜さんは東日本大震災が起きたとき、被災した人びとに、このようなメッセージを送ったという。「自分を責めないでください。皆さんは一人ではありません。遠いけれど私はいつも皆さんに寄り添っています」。希さんの死にたいして自分を責め続けた母を見てきた理菜さんにとって、この言葉は小西さんにも投げかけられているようだった。

    いま、小西さんは、希さんとの関係をこのように語る。「希は35歳。孫もいるかもしれないし、私も後が見えてきた。だから、私は希にかかわる物を片付けなきゃいけないと思っているんです。これは私が亡くなったときに棺にいれてもらう、とか、これはお焚き上げしてもらう、とか。理菜に任せるようにして残してしまうのは、負担をかけてしまう。だから、私にとってこれが、希にしてあげられる最後のことかなと思っているんです」

    小西さんは腹を括って、希さんの写真や、希さんが使っていたものを眺めているという。片付けはうまく進まない。ただ、30年目の手記に「捨てることのできなかった希の物の処分」を「最後に私が希にしてあげられる事」と書いたことで、少し前に進んだ気がしているという。そんななかで見つけたのが、希さんがプリントゴッコで作った1995年元日の年賀状だった。

    「たまたま今回見つかったの」と小西さんは嬉しそうにいった。私はそれを見てわっと泣いた。小西さんは笑って「あなたが泣いてどうするの」という。私は涙を拭きながら、年賀状をまじまじと見つめて思わずつぶやく。「このイノシシ、なかなか躍動感ありますね」。

    小西さんは希さんの写真を見せてくれた。たくさんの絵本が屏風のように立ち、ぐるりと円状に並んでいる。まるで絵本でできた要塞のようだ。その真ん中に希さんがいた。希さんは誇らしそうにこちらを見ている。「希は絵本を読むのも好きだったし、絵を描くのも好きだったからね」と小西さん。

    私は、小西さんのことも、希さんのことも、15年にわたって話を伺ってきたこともあって、他人とは思えない気持ちを抱いていた。しかし、私はこのときはじめて、希さんにようやく出会えたと思えた。

    奪われた「別れ」をやり直す

    前回、私は、この連載で、災害研究者の矢守克也が「復興のパラダイムシフト」を問う論考の中で「第3の復興」として提起する「やり直し」とはどういうことかを考えたいと述べた。精神医学者の中井久夫は、災害後の復興に向かう社会に「世直し」と「立て直し」という2つの対照的な反応があることを独自の精神医学論の中で見出した[★01]★01。「世直し」は災害を機に過去にはなかった新しい未来を見出す、「立て直し」は過去の「つつがない延長」(中井、前掲)としての未来を求める。未来に新しさを求めるのであれ、過去の延長を求めるのであれ、2つの態度はいずれも「前を向いている」。これに対して、矢守のいう「やり直し」の復興とは、「被災前の『なんでもない日常』、『穏やかな暮らし』を被災者が回顧・想起」すること、また、その日常を「被災地に回復するための作業」だという。それは「擬似的な」被災前の日常の「やり直し」とされる[★02]★02

    私は、矢守がいう「やり直し」の本質は、擬似的に被災前の日常を回顧し、回復することにあるわけではない、と考えている。それは、あくまで本題のための準備である。では、本題はなにか。それは、奪われた「別れ」を自分の手で「やり直す」ということだ。

    災害で愛するひとを失うことは、突然かつ非情な事態である。到底納得できることもなく、完全に腑に落ちることも一生無い。引き裂かれるような「別れ」は、手を振ったり、さよならの言葉を交わし合うような「別れ」のていを成していない。そう考えると、災害における「別れ」とは、愛するひととの「別れ」すらも奪うもの、と言い表せるのではないか。そのようにして奪われた「別れ」を、自らの手に取り戻し、あらためて「別れ」をやり直す。それが、「やり直し」の復興の核心ではないか。

    小西さんの30年は、震災によって突然に引き裂かれ奪われた「別れ」を、「親離れ」「子離れ」として、また自らの寿命による「別れ」として、「やり直す」ために必要な時間だった。

    小西さんにとっては、「別れ」をやり直す準備として、被災前の「なんでもない日常」、「穏やかな暮らし」の回復作業が必要だった。だからこそ、毎日、陰膳をすることで、亡くなった希さんと「いまここ」にある日常をともにすごしてきた。それは、別れをやり直すための創意工夫に満ちた切実な技の一つだ。そして、その技を使いこなし、亡くなった娘とこの世界でともにすごすことをやり遂げた。

    いまここに「居られる」ために

    小西さんが亡くなった希さんとこの世界に「居られる」ための技――それは小西さんが「いまここ」に居続けるための切実な手段だった。言い換えれば、編み出した技なくしては、小西さんは「いまここ」にいられなかった。

    小西さんにとって、「いまここ」に居るための最初の取り組みは、希さんの死を受け入れるために、手記を書くことだった。希さんの死を受け入れられなければ、自らも死の淵に立つことになりかねない。そういうぎりぎりのところで、小西さんは、手記を書いた。そうして、災害によって奪われた「別れ」を取り戻し、自らの手で「別れ」をやり直すまで、30年の年月がかかった。

    私たちは災害という悪夢と吉夢をみる。巨大な喪失に絶望し、仮初めの連帯に歓喜する。2つの夢から醒めた私たちは、現実を生きることになる。そのとき、私たちは、夢の続きをみるように、「世直し」と「立て直し」の2つのベクトルの復興の風に煽られる。それは、よくも悪くも風圧が強く、「いまここ」にとどまることができない。復興の第3のベクトルとしての「やり直し」の復興は、醒めない夢を求めるのではなく、平凡な1日の朝に目覚めるように「いまここ」を慈しみ暮らすことではないか。

    小西さんは、最初の手記に「今、お母さんもお父さんも死ぬことを怖いと思いません」と書いた。死にゆく希さんの状況を刻々と綴った手記にある、私は、少し違和感のあるこの一文がずっと引っかかっていた。私は、「今もその気持ちはありますか」と聞いた。「ずっと変わらないよ」と小西さんは言った。「変わらないですか、そっか、でもいま小西さんがいてくれて嬉しいです」。そのとき私は笑っているのか泣いているのか、よくわからない歪んだ顔をしていたと思う。そんな私を見て、小西さんは「ごめんね」とほほえむ。

    彼女はいま、ここにいる。これからも、ここにいる。彼女が編み出した創意工夫に満ちた技が、彼女をここに引き留めた。彼女は娘の死を受けとめ、生きることの喜びと悲しみに浸りながら、暮らしを続けていく。それが、震災後を生きるために「やり直す」ということなのかもしれない。


    特設サイト[ 阪神・淡路大震災から30年目の手記 ]

    私がやらなければならない事
    https://kiito.jp/saikanshuki/shuki/080/

    小西眞希子

    阪神・淡路大震災から「30年目の手記」
    阪神・淡路大震災から「30年目の手記」は、1995年から現在まで震災体験の手記集の出版を行う「阪神大震災を記録しつづける会」の取り組みをもとに、2021年に東日本大震災の震災手記を集めるプロジェクト「10年目の手記」の方法を援用し、発展させた手記募集プロジェクトです。

    ★01 中井久夫『分裂病と人類』東京大学出版会、1982 ★02 矢守克也「災害復興のパラダイム・シフト」日本災害復興学会論文集No.15、2020年、pp.37-44.https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsdrr/15/0/15_37/_pdf/-char/ja

    高森順子たかもり・じゅんこ
    社会心理学者。1984年兵庫県神戸市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。現在、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]産業文化研究センター研究員。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。著書に『10年目の手記―震災体験を書く、よむ、編みなおす』(共著、生きのびるブックス、2022年)、『震災後のエスノグラフィ―「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)、『残らなかったものを想起する―「あの日」の災害アーカイブ論』(編著、堀之内出版、2024年)など。

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