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建築史家・倉方俊輔の「大阪・関西万博を歩く」#1

「亜日常」の博覧会

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ついに開幕した2025大阪・関西万博。開幕前からさまざまな報道がされてきたが、実際、そこではなにが起きているのか? まず目に飛び込んでくるのは、さまざまなパビリオン建築である。世代をまたぐ多くの建築家が参加し、つくりあげた建造物は、どんな価値を生みだすのか。大阪公立大学教授で、建築史家の倉方俊輔さんが、万博会場の建築を見て歩きながら、万博の意味を探る連載。第1回目は、万博で感じた空気について。

写真:倉方俊輔
編集:山田兼太郎

Contents

    日常でもなく、非日常でもなく、「亜日常」としての万博

    4月13日に始まった大阪・関西万博は「歩く」万博だ。閉じこもって新奇なものを眺めるだけでも、あわただしくパビリオン間を走り回るだけでもない、見て、歩いて、語りたくなる万博なのである。

    だから、ゆっくりと会場を巡るようにして連載を続けたい。特定の観念に染まった不動の定点から見るのではなく、身体を動かし、五感を働かせ、時にはよそ見もしながら、自分の中に浮かんできたものを捉える態度が今回の万博には適しているだろう。結論を急ぐようなものではない。

    と、書いてはみたのだが、実は大阪・関西万博の総体を表す言葉は、すでに自分の中で明瞭である。それは「非日常」ではなく、今回は「亜日常」の万博であるということだ。もし、今ある日常と切り離された「非日常」を万博会場に期待していたとしたら、それは裏切られる。未来であれ、外国であれ、想像だにしなかった刺激に満ち溢れた空間ではない。このことは今、未来だ!と皆が一斉に感じるものがあったり、私もあなたも知らなかった!と共にときめく国や組織が存在しないという現在を照らし返している。逆説的にいえば、この状況は何と豊かなことか。

    では、単なる「日常」の延長かというと、まったく違う。催し物に慣れた人ほど、会場に入れば、日常的なイベントやテーマパークとは別種の空気を感じ取れるだろう。経済原理だけが支配する空間でないことは明らかだ。単一の目的に収斂したり、消費が最優先であったりするのではない「穏やかさ」が漂っている。最大の体験は、官製のイベントでも、民製のテーマパークでもない、この雰囲気にある。決して一つの観念や、商売っ気たっぷりな呼び込みに染め抜かれてはいない。そんな時空に身体を置くことで、ひるがえって、私たちが「日常」と呼んでいるものが、いかにイベント化し、テーマパーク化してしまっているかに気付かされるかもしれない。会場の中に入ることで、日常を外から眺められる機会を手にできる。それが半年間のみ出現する価値だ。のっぺりした日常では、こうはならない。

    そもそも万博とはなんなのか?

    この空気感は、どこから来るのか。考えて最初に気づくのは、それが共通して万国博覧会というものが持つ特有の性格に由来することだ。今回の万博は、国内では2005年の愛・地球博以来、20年ぶりの開催になる。全国的な経験でいうと、1970年の大阪万博まで記憶を遡る必要があるかもしれない。過去を人はつい忘れる。それで今回の万博も日常的な催し物の延長にあるものと、早合点してしまう。けれど、万博というものはそれらと異なる基盤の上にある。

    周知のように、万国博覧会(国際博覧会)は1851年にロンドンで初めて開かれた。1928年には国際博覧会条約が成立し、条約に基づく博覧会国際事務局が開催のルールを定めるようになった。万博は国際社会の一員として開催される。よって、国威発揚の意識があったとしても、それは一国の中のものではありえない。目的に経済効果が掲げられたとしても、当然にそれは一国の中で算出できるものでない。それに、未来の文化を日常の金銭で換算することは不可能だ。換言すれば、万博は公的な性格を有している。久しぶりの開催は、膨大な文字よりも一瞬の体験で、万博がそのようなものだったと思い出させてくれる。

    そして、もう少し考えて気づくのは、この穏やかな空気感は、2025年の世界の中の日本の反映であることだ。今回の大阪・関西万博を、1970年の大阪万博と直接に比較して語る行為が無意味であることは、もっと普通に議論の前提になってほしい。あれは55年も前の話である。私たちの日常の頑張りを通じて、約半世紀の間で人類は不完全ながらも着実に進歩した、といえないだろうか。

    日本ももちろん、その例外でない。日本だけスゴイなんてこともないし、日本だけ衰退していることもありえない。どちらも一国に閉じたナショナリズムがもたらす感情であって、当然そこまで日本は特殊ではないだろう。

    「技術」でもなく、「環境」でもなく、「人間」という謎に迫る万博

    先ほど記したように、万博は公的な性格を持っている。したがって、万博は当時における公共とは何かを映すことになる。かつては列強が技術という同じ言語で発展を競い合えることが、公的だった時代があるかもしれない。ある時には全人類の調和のとれた発展が、またある時には人類共通の課題である地球環境問題がそうだったかもしれない。

    では、今回の公的な性格、言い換えれば人類に共通したテーマは、何だろうか? 一言で言えば、それは「人間」である。1970年の大阪万博のように「技術」が主題ではないし、2005年のように愛・地球博のように「環境」が主題でもない。もちろん、調和のとれた技術や地球環境の問題は、今回の万博の至るところで考慮されている。特に循環型社会への取り組みは一見すると、今回の万博のメインテーマに思えてしまう。《大屋根リング》を巡って、再利用するのかどうか、無駄ではないかといった議論が、一般になされていたのは、そんな世相を映しているのだろう。しかし、このように人口に膾炙しているということは、それがもはや最先端の主題ではないことを示している。

    調和のとれた技術も、地球環境の問題も、引き続き重要事項であることは言うまでもない。だが、2025年の現在、それらは1970年や2005年のように、意味を掘り下げるべきメインテーマではない。今、謎めいているのはむしろ「人間」だ。かつての技術や地球環境のように、創造的に利用できる可能性と、対処を誤れば破滅に至る可能性を併せ持ち、付き合い方を模索している。現在のシヴァ神は人間なのである。そのことが「いのち輝く未来社会のデザイン」という大阪・関西万博のテーマや各パビリオンに内包されているのに気づくと、先端性と通俗性を併せ持ってきた独特のイベントである万博の歴史は、今も新たなページを刻んでいるのだと思う。

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    「亜日常」を体現する建築たちに誘われて

    人間は日常の中にしかいない。AIが人間の存在を急速に再考させているのも、それが日常の中にあるからである。技術のようにここでない世界を探求するのでも、地球環境のように外部にあるのでもない。ゆえに大阪・関西万博は「非日常」の空間でもなければ、「日常」でもない。「亜日常」という言葉を掲げたのは、そのためである。万博という期間限定の空間だから可能な設えによって、私たちの身体や心理や関係性が、普段から少しずらされる。それが少し先の未来を見せたり、どのように変えていったらよいかを考えさせるかもしれない。大阪・関西万博は、Aから離れたBではなく、「A'」なのだ。

    「A'」の最大の効用は、Aを再検討させることにある。日常の異なる力学が働いた万博という空間の中で、あなたは日常の中にあった素晴らしさにも目を開かされるだろう。普段とは違った人の集まり方があり、動き方があり、心揺さぶられる景色があり、自分がなぜそう感じるのだろうと記憶を思い起こすかもしれない。もはや外国は新奇の場所ではなくなったから、私たちと関連して考えることができ、日常の中にある外国に気づく契機にもなりえる。日常を外から捉え、その良い部分にも改善可能な部分にも気づかせるのが、今回の「亜日常」の万博である。

    だから「歩く」万博なのだ。誰がつくったのかも分からない目標が掲げられたり、目的に追われがちだったりする日常から切り離されて、非目的的に歩くこと。それが日常の中で見失いがちだった良さを発見させ、本当に目標にしたいと思えることに出会わせるかもしれない。歩くことが、一瞬の非日常よりも遠くへと、人間の身体と心理と関係性を運ぶだろう。

    そんな「亜日常」を支えているのが、大阪・関西万博の建築である。それは1970年の大阪万博のように「非日常」を競うものではない。かといって、2005年の愛・地球博のように規格化され「自然の叡智」にひれ伏すばかりでもない。以前の万博とは異なる類の建築であり、したがって、建築の面から見ても日常を照らし出す。会場の中に入り、日常を外から眺めることで、建築の現在がどこにあるかも見えやすくなるに違いない。

    では、どこから歩こうか。まずは、今回の万博の象徴的な存在ともいえる、《大屋根リング》に登ってみよう。円形をした全長約2kmもある木造建築の意味を、次回は思考していきたい。

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    建築史家・倉方俊輔の「大阪・関西万博を歩く」

    #1 「亜日常」の博覧会
    #2 《大屋根リング》は建築なのか?
    #3 万博そのものを体現する《大屋根リング》
    #4 若手建築家による20の施設をめぐる①
    #5 若手建築家による20の施設をめぐる②
    #6 若手建築家による20の施設をめぐる③

    倉方俊輔くらかた・しゅんすけ
    1971年東京都生まれ。大阪公立大学大学院工学研究科教授。日本近現代の建築史の研究と並行して、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。著書に『東京モダン建築さんぽ』『京都 近現代建築ものがたり』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』など多数。建築公開イベント「東京建築祭」の実行委員長、「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」の実行委員を務める。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

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