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建築史家・倉方俊輔の「大阪・関西万博を歩く」#2
《大屋根リング》は建築なのか?
ついに開幕した2025大阪・関西万博。開幕前からさまざまな報道がされてきたが、実際、そこではなにが起きているのか? まず目に飛び込んでくるのは、さまざまなパビリオン建築である。世代をまたぐ多くの建築家が参加し、つくりあげた建造物は、どんな価値を生みだすのか。大阪公立大学教授で、建築史家の倉方俊輔さんが、万博会場の建築を見て歩きながら、万博の意味を探る連載。第2回目は、《大屋根リング》という建築と広場が一体化した「場」に迫る。(#1はこちらより)
写真:倉方俊輔
編集:山田兼太郎
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Contents
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70年大阪万博における「大屋根」と「お祭り広場」の距離
「大屋根リングってさ」「大屋根リングに登ってみよう」。大阪・関西万博の会場を歩くと、「大屋根リング」という言葉が四方八方から聞こえてくる。それは今回の万博で初めて耳にする言葉にも関わらず、まるで昔からの一般名詞であるかのように使われている。そうでありながら、地球上で他にない、この構造物だけを指し示している。
1970年の大阪万博と、状況はだいぶ異なるようだ。その節には建築家の丹下健三[★01]★01が会場の中心に「大屋根」をデザインした。しかし、さらに形容詞を加えなければ、対象を特定することは難しい。それを固有名詞にする際に前に付け足された単語が「お祭り広場」で、《お祭り広場大屋根》と建築界隈では呼ばれることになった。しかし、一般的に流布したのは「お祭り広場」のほうで、こちらのほうが「大屋根リング」に似ていることに気づく。一方は「お祭り」+「広場」、もう一方は「大屋根」+「リング」。単独では馴染み深い単語が、日常的でない形で結合されている。それによって、万博とともに記憶される独自の概念の創出に成功した点で「大屋根リング」と「お祭り広場」には、ある種の共通性が見られる。
ここから《大屋根リング》が、1970年にはあった「お祭り広場」と「大屋根」の隔たりを埋めた存在であることが分かる。大阪万博における「お祭り広場」と「大屋根」は分離していた。「お祭り広場」は形にとらわれない概念であり、「大屋根」は当時における技術の可能性が示された構造物を指している。
隔たりは、作者の側にもあった。「お祭り広場」を提案したのは、京都大学の建築学の教授だった西山夘三[★02]★02とされる。東の丹下、西の西山と称された、力を持った人物だった。西山の研究室は東京大学の丹下の研究室と協働で、大阪万博の会場基本計画を作成した。しかし、基本計画が提出されると、万博協会は会場基本計画委員会を解散、丹下を基幹施設プロデューサーに任命する。西山らは以後の設計に関わることができなくなり、基本計画に記載された「お祭り広場」の概念は、丹下とその門下生によって形態化されて《お祭り広場大屋根》という結果になった。
前回に述べたように、この連載で行うのは、実際に立ち現れた大阪・関西万博という現象を注視し、そこから未来を見据えることである。すなわち、さらさらした官僚主義やどろどろした人間関係は別の論考で扱われるべきものであるし、実際、今回の《大屋根リング》の存在は、1970年の「お祭り広場」+「大屋根」とは異なり、万博誘致から会場計画、設計までの経緯に触れなくても、現象を分析可能だというのが私の見立てである。
「建築」と「広場」が境なくゆるく連続する
少しまとめよう。まず「大屋根リング」という言葉は、それを否定するにせよ肯定するにせよ、すっかり私たちの口に馴染んでいる。この現象は、先鋭性と大衆性を併せ持つという、万国博覧会のそもそもの性格と一致している。前回、「公的な性格」と述べたものである。
存在として重要なのは、無形の広場と有形の構造物とが切り離せないことだ。木造の柱と梁が組み合わされたその姿は、一般に建築として理解されるような恣意性を感じさせず、まさに構造物といった趣である。しかし、それがしっかりと空間を規定しているかというと、そうでもない。《お祭り広場大屋根》も、《大屋根リング》と同様に内部空間を持たなかった。だが、それは見えない広場を見えるものに変えようとしていた。技術による秩序、部材構成のヒエラルキーを通じて、空間を囲い込もうと努めている《お祭り広場大屋根》に接して、私たちは人間の意志を感じざるを得ず、それを安心して建築とみなすことができるのだ。
ひるがえって《大屋根リング》はどうだろうか。それが場をつくり出していることは確かだ。大屋根によって、幅が約30mの軒下ができ、それがなかった時とは異なる音や熱や光の環境が発生して、知覚としても水平方向や垂直方向の距離感を変容させている。また、リングによって、内径が約615mの囲いが生まれ、内と外に領域を分けていることも指摘できる。だが、それを空間と呼ぶのに少し躊躇してしまう理由は、意志を持った毅然とした区分といった英雄的な空間の用法と不釣り合いだからにほかならない。
《大屋根リング》は、もっとぼんやりしている。部材構成は上意下達の緊張感をまとっておらず、覆っているといっても領域の境目はあいまいで、囲っているといっても広すぎるので風景のようなのどかさがある。《大屋根リング》が成立させているのは、目に見えず、ぼんやりと浸透していく場なのである。それを私たちは境界を厳密に規定することができず、広がっていく場、広場と呼ぶだろう。英語のplazaやplace、squareやcircle、open spaceなどに重なり、どれにも代替できない概念。西山夘三が当初思い描いたのも、そのような「広場」だったのではないだろうか。

- 撮影:高橋宗正
「建築であること」を超え、歩くことをうながす「建築'」
ここまでで《大屋根リング》が、旧来の建築らしからぬ構造物であることによって、狭義の空間ではなくて、人間と関わる広場を形成していることが分かった。果たしてこれは「建築」と呼べるのだろうか? ただし、何か指し示す言葉は要るだろう。これは「広場」であり「構造物」なのだから、指示語はそのどちらでもない上位概念の必要がある。その時に「建築」という言葉が、再び召喚されることになる。大屋根リングは、先鋭性と大衆性を併せ持った「建築'」である。
このように《大屋根リング》は前回、大阪・関西万博が「亜日常」の万博であると定義した内容そのものとなる。「大屋根リングが亜日常の万博の象徴である」という言い方は、ヒエラルキー的な理解の残滓であり、今回のそうではない万博の実態にもそぐわないので採らないが、他の小さな細部と同様、この大屋根リングの中にも確かに「亜日常」の精神が息づいている。「大屋根」「リング」といった日常的な単語の意味をずらし、構造物や建築の概念をゆさぶる。そして、日常を外から捉え、その良い部分にも改善可能な部分にも気づかせてくれる。では、どのように?
歩くことを通じてである。《大屋根リング》は、2018年の万博誘致成功後、2020年に万博協会から大阪・関西万博の会場デザインプロデューサーに任命された建築家・藤本壮介[★03]★03の基本設計・実施設計・工事監理によって完成した。基本設計には組織設計事務所である東畑・梓設計共同企業体が加わり、実施設計・施工・監理は大手ゼネコンの大林組、清水建設、竹中工務店をはじめとしたゼネコンや組織設計事務所によって行われた。
クレジットが基本設計から工事監理までに付されていることから、《大屋根リング》を藤本壮介の作品とみなして構わないだろう。記名は自らの責任の下になされたという署名であり、その公的な記載は関係者がそれを承認したことを示す。
設計が会場デザインプロデューサーによって行われている通りに、《大屋根リング》は会場デザインと不可分の関係にある。会場の広さは誘致時とほぼ変わらないが、《大屋根リング》が出現し、それ以外のすべてのパビリオンの高さが抑えられた。大きな円の内側に海外パビリオンやシグネチャーパビリオン、外側に国内パビリオンを置くといった会場の計画全体も《大屋根リング》と一体で決定されたと言えるだろう。
円の1周が約2kmと聞くと、スケールアウトした、非日常的な構築物を連想するかもしれない。けれど、実際にはそうではない。歩きたくなるものになっている。
大屋根の上は、止まって眺める展望台ではなかった。弧がこれだけのスケールに拡大すると、人は流動するのである。来場者が歩くことができるスカイウォークの高さが内側の約12mから外側の約20mまでスロープを通じて変わっていること、下部に光を落とす膜や植栽に変化が付けられていることの効果も大きい。
人々が思い思いに過ごすことのできる「広場」は《大屋根リング》の上にもある。下にも、うちにも、茫漠と鮮やかに広がっている。そんな広場らしさは、会場中央付近の「静けさの森」をはじめ、随所に見られるランドスケープと共鳴している。このことは丹下健三の時代とは異なる、建築家の現在地を示すことにもなるだろう。
《大屋根リング》は藤本壮介の作品であると先ほど述べた。では、そのどこに藤本壮介らしさがあり、現代性が潜んでいるのだろうか。(続く)
建築史家・倉方俊輔の「大阪・関西万博を歩く」
#1 「亜日常」の博覧会
#2 《大屋根リング》は建築なのか?
#3 万博そのものを体現する《大屋根リング》
#4 若手建築家による20の施設をめぐる①
#5 若手建築家による20の施設をめぐる②
#6 若手建築家による20の施設をめぐる③
★01 丹下健三(1913–2005)は、日本の建築家・都市計画家。《広島平和記念公園》や《代々木第一体育館》などを設計し、日本の伝統とモダニズムを融合させた建築で世界的に評価された。1987年に日本人初のプリツカー賞を受賞。「世界のタンゲ」と称された。 ★02 西山夘三(1911–1994)は、日本の建築学者・都市計画家。「食寝分離論」を提唱し、戦後の住宅計画におけるnLDK(リビング、ダイニング、キッチン)という基本構造に大きな影響を与えた。京都大学名誉教授で、古都の景観保存にも尽力した。 ★03 藤本壮介(1971- )は、日本の建築家で、2000年に藤本壮介建築設計事務所を設立。自然と建築の融合をテーマに、透明感と軽やかさを持つ独自のデザインで国内外から高い評価を受けている。代表作に《武蔵野美術大学 美術館・図書館》や《House N》などがある。

- 倉方俊輔くらかた・しゅんすけ
- 1971年東京都生まれ。大阪公立大学大学院工学研究科教授。日本近現代の建築史の研究と並行して、建築の価値を社会に広く伝える活動を行っている。著書に『東京モダン建築さんぽ』『京都 近現代建築ものがたり』『伊東忠太著作集』『吉阪隆正とル・コルビュジエ』など多数。建築公開イベント「東京建築祭」の実行委員長、「イケフェス大阪」「京都モダン建築祭」の実行委員を務める。日本建築学会賞(業績)、日本建築学会教育賞(教育貢献)ほか受賞。

