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髙木裕貴『カントの道徳的人間学』 #1

スランプからの大逆転! カントの「社交論」を切り拓く

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写真:YokohamaMarino

「博論本」とは、博士論文を書籍化したもののこと。連載「『博論本』を聴く」では、人文ライターの斎藤哲也さんが、刺激的な博論本の著者インタビューを通じて、その面白さを読み解きながら、研究の一端を紹介していく。

今回登場するのは、『カントの道徳的人間学――性格と社交の倫理学』を著した髙木裕貴さん。高校時代にカントと出会い、大学に入学してからは、カント一筋。レポートもほとんどカントで書いていたという高木さんだが、修士時代に大きなスランプに陥った。博士課程に進み、指導教員の講義をきっかけに、「これなら一旗揚げられるんちゃうか」というテーマを発見したという。

Contents

    「無目的では頑張れない」――哲学に惹かれた高校時代

    斎藤 最初に、哲学との出会いについてお聞きしたいと思います。これまでも何度も質問されたかもしれませんが、髙木さんが哲学に関心を持つようになったきっかけは何だったんでしょうか。

    髙木 いくつかきっかけと言えそうな候補はあるんですが、中学3年で陸上競技部の部長をやっていたころから、物事をよく考えるようになったんですね。人を動かすにはどうしたらいいんだろうとか、どうやって自分のメンタルをコントロールできるんだろうといったレベルの話ですけど。

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    髙木裕貴さん

    高校に入ってからは、学校の勉強をそれほど楽しめずにいました。それから人間関係に関する「危機」があって、周囲との違和感を強く感じるようにもなりました。周りは受験に向かって一生懸命勉強していましたが、僕には「目的も将来の夢もわからないのに頑張れる」という姿勢が理解できなかった。親が敷いたレールだからとか、それが普通だからという理由でなんで頑張れるんやろうと。ぼくは無目的だったら頑張れないと思ったんです。

    その頃から、いろんな本を読むようになりました。といっても、買えるのは新書くらいの安い本でしたが、特に覚えているのは、京セラの稲盛和夫さんの人生論的な本です。そこに仏教の話が出てきて、それがきっかけで仏教にハマりましたね。同時にキリスト教にも興味が出てきて、教会に行って何度か礼拝に参加したこともあります。教会のお姉さんたちに「学校の成績を気にしていないなんて、この子偉いわ」なんて言われたりして(笑)。

    そこから教育学や心理学にも触れるようになりました。学問的にはまだ浅いレベルでしたけど、そうしているうちに、たまたま哲学の本を手に取る機会があり、「これや!」と思って。

    斎藤 たとえばどんな本ですか。

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    斎藤哲也さん

    髙木 たまたま本屋で中島義道さんの『どうせ死んでしまう』(角川書店、2004年)という本が平積みされているのを見つけたんです。タイトルがすごく直球で、「僕が普段考えていることをこんなにストレートに書いている人がいるんや」と思って手に取りました。

    当時、宗教学や教育学には何となくしっくり来ていなかった時期だったので、この本のタイトルに引き寄せられたんです。副題には「私は哲学病」と書かれていて、「一体どんな内容なんやろう?」と思って読んでみたら、途中からカントの話が出てきたんです。それが、もしかしたらカントとの最初の出会いだったかもしれません。

    特に記憶に残っているのは、カントの倫理学の話ですね。善と悪の問題、そして有名な、いわゆる「嘘論文」[★01]★01です。それを読んで、「これが倫理なんや」と感じたんです。

    カントの倫理学に触れて、人間の都合で道徳や倫理が変わるべきではない、という考えに強く共感しました。高校生の頃の僕は、世の中の大人たちが倫理やマナーを自分たちの都合で変えているように感じて、「これは所詮、人間中心主義やないか」と思っていました。その欺瞞性に対する苛立ちが、自分の中にあったんです。

    そういう背景があったからこそ、カントの「道徳とは絶対的なものであり、それが自分の幸福につながるかどうかに関係なく守るべきものだ」という考え方に惹かれました。

    「これが哲学なんや」――カントとの出会い

    斎藤 じゃあ、高校のころから哲学の本をいろいろ読んでいたわけですか。

    髙木 高校3年生のときは、ニーチェの本をこっそり読んでいましたね。当然カントも読みました。盲腸で入院していたとき、親に『純粋理性批判』[★02]★02を持ってきてもらったんです。当時の僕には内容はほとんどわからなかった。でも、わからないなりに、自分なりの解釈で切り取って読んでいたし、それでよかったと思います。

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    『純粋理性批判』初版の序文なんて響きましたね。「人間の理性のある種の認識には、特別な宿命のようなものがある。理性は拒むことのできない問いに悩まされ続けているのである。この問いは、理性の本性そのものから課された問いでありながら、理性はそれに答えることができない。それが人間の理性のすべての能力を超えた問いだからである」(カント『純粋理性批判 1』中山元訳、光文社古典新訳文庫、2010年)

    この一節を読んで「これが哲学なんや」と。数学のように明確な答えが出るわけではない。でもだからといって、その問いを退けることもできない。それこそが人生の目的や「なぜ生きるのか」「なぜ生まれてきたのか」という問いの本質だと感じたんですね。「答えが出ないとわかっていても、考えざるを得ないんやから、自分も考えてええんや」と思いました。この冒頭の一段落に感動した記憶が、いまでも鮮明に残っています。これが哲学にのめり込むきっかけの一つになりました。

    斎藤 カントを学びたいという気持ちもすでにあったんですか。

    髙木 いや、そういうわけでもないんです。高校時代や浪人時代の僕にとって、カントは特別な哲学者だったわけでもなくて。

    浪人時代に通っていた塾で、個別指導をしてくれた先生がいらっしゃって、その方が神戸大学の大学院生だったんです。とても賢くて優秀な先生で、僕は古典を教わりながら、「君は大学で何をしたいんや」と問われました。そのとき僕は「善悪の問題をやりたい」と答えたんです。それが当時の僕の問題意識だったんだと思います。だから大学に入る前は、特にカントに集中していたわけではなく、もっと漠然とした「善悪の問題」に関心があったわけです。

    「これ、めっちゃおもろいやん?」――レポートはカント尽くし

    斎藤 大学の学部時代はどんなふうに哲学を学んでいたんですか。

    髙木 正確には覚えていないんですが、いろいろ興味を持ちながらも、結局カントばかり読んでいたという記憶があります。レポートはほとんどカントで書いていましたね(笑)。一度だけ例外があって、ミルの『自由論』と『功利主義』[★03]★03について書いたことがありましたが、それ以外はすべてカントで書きました。

    斎藤 カントどっぷりじゃないですか(笑)。

    髙木 学部に入るときはカントをやると決めていたわけではなかったんですが、いざ大学でじっくり読んでみると、読めば読むほど味が出るというか、本当に面白かったんです。退屈な授業があると、カントを読んでいて、隣の人に「これ、めっちゃおもろいやん?」と言いたくなるくらいで。

    たぶん、性格的にカントが合っていたんでしょうね。もちろん、最初から「これが自分に合う」と確信していたわけではなくて、大学に来てから読んでみて「やっぱりこれや」と。他にもベルクソンやライプニッツ、アリストテレスなんかも読みましたが、どれも面白いと思いつつ、結局カントに戻っていきました。

    斎藤 学部時代に読んでいたのは、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』[★04]★04という有名な三批判書が中心ですか。

    髙木 そうですね。特に『道徳形而上学の基礎づけ』[★05]★05と、第二批判書である『実践理性批判』を読んだときの記憶が強く残っています。夏休みが終わると、友達同士で「何読んだ?」「俺は第二批判を読んだ」「俺も」なんて話をしてました。当時からカントの倫理学に関心があったんやなと、いま振り返っても思いますね。

    その延長で、カントが晩年に書いた『道徳の形而上学』[★06]★06にも興味を持ちました。「これを読まなきゃカントの倫理学は始まらんちゃうか」という気持ちがもたげてきて、それでついにカント全集のうちの『道徳の形而上学』が入っている巻を買うことを決意しました。

    でも、一巻とはいえ全集って高いじゃないですか。8000円ですよ。

    斎藤 学部生にとってはかなりの高額ですよね。

    髙木 8000円の本を買うなんて冒険ですよ。それで一人で買いに行くのが怖くて、京都のジュンク堂に友達を連れて行きました(笑)。

    「この先、やっていけるんやろか」――二次文献シンドローム

    斎藤 卒論はどういうテーマで書かれたんですか。

    髙木 カントが提示した定言命法の一つである「目的自体の定式」について書きました。念のため、引用しましょう。

    汝自身の人格および他のすべての人の人格における人間性を、決して単に手段としてではなく、いつでも同時に目的として扱うように行為せよ

    当時の僕の問題意識として、カント倫理学の中でも「人間の尊厳」や「人を手段として扱うな」というテーマに特に強い関心がありました。高校生の頃は、そうじゃなかったわけですよ。先ほど話したように、あの頃はむしろ、カントの「嘘論文」の厳格さや道徳の絶対主義的な側面に興味を持っていました。でも、大学に入って本格的にカントを読んでみると、思いがけず「目的自体の尊厳」というテーマが面白いと感じた。「こんな直球の話を何百年も前に、カントのおっさんが言ってたんか」と驚きました。

    このテーマは、現代社会でも重要ですよね。人を単なる手段や物のように扱うことって、いまでも普通にありますから。極端な例だとブラック企業でしょう。でも、もっと日常的なところでも「人を人として見ない」という態度を取る人間ってあちこちにいます。そういうことに敏感だったこともあり、「目的自体の尊厳」というテーマに惹かれました。修士論文も、基本的には同じテーマで書きました。

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    斎藤 いま引用していただいた一節は、高校倫理の教科書にも載っているくらい有名ですよね。「目的自体の尊厳」って、カントの『道徳形而上学の基礎づけ』で主に論じられていることで、ここでいう目的自体とは人格のことですね。つまり、自分や他人の人格は、目的それ自体なのだと。

    修士論文の段階でも、博論本のテーマである「性格」や「社交」、あるいは「道徳的人間学」というテーマは姿を見せてないんですね。ということは、これらのテーマに目を向けたのは、博士課程に進んでからですか。

    髙木 そうなんですよ。修士課程までは、自分でもダメダメだったなと思います。卒論も修論もあまり良い出来ではなくて、正直「この先、やっていけるんやろか」と不安になるくらいでした。論文も思うように書けなかったですし、指導教員だった水谷雅彦先生も、「こいつ大丈夫やろか」と心配されていたと思います。

    斎藤 修士論文の段階でスランプになった?

    髙木 焦りがあったんですね。修士課程って短期間で結果を出さなければならないので、「二次文献シンドローム」に陥ってしまったんです。

    学生にもよく言うんですが、二次文献を追いすぎると、自分の問題意識を見失ってしまうんですよ。特にカントの場合、二次文献が無数にあります。どんどん新しい論文が出るので、それを追うだけで手一杯になってしまう。それでも、できる人は二次文献をキャッチアップしながら、自分の理論を構築するところまでたどり着けるんですが、僕は溺れてしまった。いまではそれを「二次文献シンドローム」と呼んでいます。

    そういう学生には、「二次文献も大事やけど、まずはカントのテキストそのものを日本語でいいから読んでみ」とアドバイスしてます。僕の場合は、学部生のときに書いた自分のレポートを読んだんですね。そうすると素直に書いてるんですよ。これでええやんと思って。そうやって一度、初心に帰った方がいいだろうと思いつつも、なかなか吹っ切れなくて、なんとか修士論文は通ったという具合でした。

    「これは一旗揚げられる!」――カントの社交論に見出した可能性

    髙木 テーマを変えたのは、博士課程に入ってしばらくしてからのことです。最初の発表はたしか『道徳形而上学の基礎づけ』に関するものでしたが、その後で心変わりしたんです。

    うろ覚えですけど、きっかけは、博士に進んでから受けた水谷先生の講義でした。実は修士のときにも、水谷先生が長年取り組まれていた社交論には触れていたんですけど、正直に言うと、当時はほとんど共感できなかったんですね(笑)。

    でも博士課程に進んで、カントの社交論を扱う講義を受けていたときに、「これはひょっとすると講義で扱われている以上に、大きな鉱脈があるかもしれない」と思ったんです。

    斎藤 おおっ、来ましたね!

    髙木 そこで、先生が参考文献として挙げていた、晩年の『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)[★07]★07や、三批判書と同時期に書いた『世界市民的見地における普遍史の理念』(以下『普遍史の理念』)[★08]★08をはじめ、いろいろ読んでみると、カントの『教育学』というテキストにも社交についての話がある。講義録を調べてみたら、「社交」に関する言及が意外とある。もしかしたら「カントの社交論」と呼べるような体系が抽出できるかもしれない。「これなら一旗揚げられるんちゃうか」と思い、博士課程に進んでしばらくしてからテーマを変えて取り組むことにしたわけです。

    しかも、幸いなことにと言っていいかわかりませんけど、カントの社交論って、ほとんど二次文献がなかったんですよ。そこで「これはやるしかない」と吹っ切れましたね。

    斎藤 海外でもカントの社交については、あまり論じられていなかったわけですか。

    髙木 そうなんです。カントの社交論というと、もっぱら『普遍史の理念』に出てくる「非社交的社交性」[★09]★09という概念ばかりが取り上げられています。でも、カントの社交論はそれだけじゃないんですよ。「なんで非社交的社交性の話しかせえへんの」って不思議に思いましたね。

    海外の有名な研究者に「『道徳の形而上学』第二部「徳論」の終わりに社交についての話がありますよね」と話しても、「ああ、それ友情論のこと?」とか返されるんです。「いやいや、友情論の後に補遺として社交の徳について書かれているでしょう?」と言っても「そんなの知らない」と言われる始末です。

    社交について論じている『人間学』もあまり真剣に扱われていなかったし、多少知っている人からも、「カントがちょっと思いついたことを書いただけで、倫理学や哲学の体系の中で重要な位置を占めるものではない」と思われていたんです。

    でも、それってほんまかと。よくよく読んでみると、カントは社交を「道徳的な陶冶」として位置づけているし、さらには哲学者が一人で食事をするのは不健康だ、なんてことまで言っているわけです(笑)。

    だからカントにとって、経験的な人間学は思いつきを書きつけたものじゃない。それどころか、三批判書を書いている時期から、「道徳形而上学だけでは不十分だ」と経験的部門の必要性を繰り返し述べていました。

    じゃあ、その「経験的な部門」はどこにあるのか? その部分を掘り下げる研究があってもいいんじゃないか。そう考えて僕は、「社交」や「性格」に注目したんです。

    斎藤 未開拓の地を探り当てたんですね。

    髙木 手つかずのところを研究するわけですから、後から見たら議論が不十分だと言われるかもしれませんが、それでも構わへんと。とにかく切り込み隊長として道を切り開くつもりで挑みました。

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    (#2につづく)


    斎藤哲也の博論本を聴く:髙木裕貴『カントの道徳的人間学』

    #1 スランプからの大逆転! カントの「社交論」を切り拓く
    #2 カントが社交を大真面目に論じた哲学的理由

    ★01 1797年に発表されたカントの哲学論文。正式名称は『人間愛から嘘をつく権利という、誤った考えについて』。厳格主義的なカント倫理学の代表例として知られており、多くの議論を呼んできた。同論文でカントは、嘘をつくことは、いかなる状況でも道徳的に許されないこと、人間愛や友人を救うためであっても、嘘をつくことは誠実の義務に反すること、真実を語ることは無条件的な義務であることを論じている。★02 1781年に出版されたカントの代表的著作。主に認識の問題を扱い、理性が認識できることの限界を画定することを目的としている。★03 19世紀イギリスを代表する哲学者ジョン・スチュアート・ミルの主要著作。『自由論』は1859年に出版され、個人の自由が許容される範囲や個人の自由が重要な理由について論じた書。『功利主義』は1863年に単行本として出版。ベンサムの功利主義を発展的に継承している。★04 『実践理性批判』はカント倫理学の代表的著作。1788年刊。「第二批判」と呼ばれる。『判断力批判』は、美的判断力や目的論的判断力について論じた書で、1790年刊。「第三批判」と呼ばれる。近代美学の基礎を確立した。★05 『実践理性批判』と並ぶカント倫理学の主著。1785年刊。★06 カント最晩年に書かれた倫理学の大著。1797年刊行。『人倫の形而上学』とも訳される。★07 1798年刊。日常的・実用的な人間理解を目指して書かれた経験的人間学の著。★08 1784年に発表された歴史哲学的な論文。★09 『世界市民的見地における普遍史の理念』に登場する概念。人間は一方では、自己を社会化する社交性が備わっているが、他方では自己を孤立させる非社交的性質が備わっている。これをカントは「非社交的社交性」と呼んだ。

    髙木裕貴たかき・ゆうき
    1990年兵庫県生まれ。2022年、京都大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、信州大学人文学部研究員(日本学術振興会特別研究員-PD)。また、関西を中心に複数の大学などで非常勤講師を務める。専門は近世ドイツ哲学、倫理学など。主要業績に、『カントの道徳的人間学――性格と社交の倫理学』(京都大学学術出版会、2023年)、「ライプツィヒ期トマジウスの啓蒙思想――『フランス人の模倣論』を中心に」(『倫理学研究』54号、2024年、pp. 62-72)などがある。
    斎藤哲也さいとう・てつや
    1971年生まれ。人文ライターとして人文思想系、社会科学系の編集・取材・構成を数多く手がける。編著・著書に『哲学史入門Ⅰ~Ⅲ』(NHK出版、2024年)、『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK出版、2018年)、『読解 評論文キーワード 改訂版』(筑摩書房、2020年)など。編集・構成に『哲学用語図鑑』(田中正人著、プレジデント社、2015年)、『ものがわかるということ』(養老孟司著、祥伝社、2023年)ほか多数。

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