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髙木裕貴『カントの道徳的人間学』#2
カントが社交を大真面目に論じた哲学的理由

- 写真:YokohamaMarino
「博論本」とは、博士論文を書籍化したもののこと。連載「『博論本』を聴く」では、人文ライターの斎藤哲也さんが、刺激的な博論本の著者インタビューを通じて、その面白さを読み解きながら、研究の一端を紹介していく。
これまでほとんど研究されてこなかった未踏領域、「カントの社交論」に踏み込んだ髙木裕貴さん。別々に研究していたカントの社交論と性格論を結びつけることで、活路を見出したという。では実際に、カントの社交論とはどのようなものなのか。これを紐解いていくと、実践的で機知に富んだ言葉が並ぶ。髙木さんはまさに、人間の理想像を追い求めながらも人間の弱さを熟知していたカントの、人間味溢れる一面をあぶり出したのだった。
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Contents
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性格論と社交論をつなげる道筋
斎藤 博論本の『カントの道徳的人間学』では、カントの社交論と性格論を道徳的人間学として位置づけることが目的だと書かれています。研究の順序としては、社交論が先で、そのあとに性格論に進まれたんですか。
髙木 はっきりとは覚えてないんですが、性格論に関しては、学部時代から漠然とした興味はありました。ただ、研究テーマになりうるという感触を得たのは、博士課程に進んで『第二批判(実践理性批判)』を読んでいたときです。そこに性格という概念が出てきて、「これって一体何やろう?」と気になったんです。カント倫理学の中で、性格は理性や意志、心術、格率[★01]★01とも異なる概念なんですよね。

- 髙木裕貴さん
その後、他のテキストを読んでいるうちに、また性格に関する記述がちらほら出てきたんです。そこで「これも一旗揚げられるかもしれない」と(笑)。社交論を考えついた時期とほぼ同じタイミングだったと思います。ただ、そのときは性格論と社交論が結びつくとはまったく思っていませんでした。
他の研究を見ても、性格論と社交論は別々に研究されてきたし、それらを結びつけて論じている研究は見当たりません。だから僕も当初は、「性格おもろいな」「社交おもろいな」と思って、それぞれ原稿を書いていました。ところがある日、『教育学』の中に、社交性は性格を形成するために必要であるという主張を見つけたんです。
「え? ほんまに?」って当然思うわけですね。カントは、それ以上説明してないんですよ。でも、ビビッときまくりです(笑)。性格論と社交論がつなげられるんやないかって。
斎藤 これまでバラバラに研究されていた二つをつなげる道筋が見えたわけですね。
髙木 はい。そこから性格という概念がカントの倫理学とどう関係するのかを明確にするために、性格に関するカントの記述をすべて洗い出しました。その結果、カントの倫理学のなかでも特殊な概念であることがわかってきたんです。
斎藤 本で書かれていたように、カントの言う「性格」は、いわゆる生来の気質といった常識的なイメージとはだいぶ違いますよね。
髙木 通俗的にいうと、「一本筋の通った人」とか「原理原則の人」が、性格を持つ人です。カントは『教育学』のなかで「道徳的教育における第一の努力は、性格の確立である」と述べています。そして性格を確立するためには、社交が必要だという建てつけになっているわけです。
社交を面白くするには、信頼が必要――カント流会話の心得
斎藤 社交論のパートは、「カントがこんなこと書いてたの?」と驚きの連続でした。とくに談話の規則なんてめちゃくちゃ具体的で面白いですね。
すべての人に興味をもたせる題材を選択すること。
沈黙ではなく、瞬間的な休止だけが起こるようにすること。
不必要に話題を変えないこと。
論争における頑固さは真面目さでもあるが、談話においてはなるべく避けること。談話はあくまで労働ではなく、遊びである。
それでも真面目に論争しなければならない場合には、相互の尊敬と好意が常に現れるようにすること。大事なのは、会話の内容ではなく、語調である。

- 斎藤哲也さん
髙木 こういうことをカントは真面目な顔で書いていたんでしょうね(笑)。一見、しょうもない自分の社交の趣味を書いているようにしか見えないから、哲学的に取り上げる必要はないと思われていたんです。
でも、そうじゃないんですね。食卓を囲んで談話することは快楽と結びついています。だから成熟した理性を持っていなくても、社交に参加できる。そこでいろんな意見を交換することを通じて、人間は自分で物事を考えられるようになる。社交は、カントの「道徳的人間学」の一部として位置づけられるべきものなんですね。
斎藤 博論本では、信頼論で幕を閉じていますね。
髙木 指導教員の水谷先生から指摘を受けたことですが、信頼論は、現代で言えば、プライバシーの問題とも重なる部分です。社交の場では、心を開くことが求められます。スコットランドの哲学者ヒュームも言っていることですが、社交の場って、自分について少し恥ずかしいことなんかを言うことで成り立つんです。つまり社交の醍醐味は、普段言わないようなことを話せることにある。ただ、その話が社交の場を出て広まってしまうと、信頼が損なわれます。それがカントの「秘密を守るべきだ」という主張につながっているんです。
結局、社交を面白くするには、信頼が必要だという話です。信頼がないと社交は成り立たない。たとえば、知らない人と会話をするのに、最低限の信頼がなければ始まらない。知らないおっさんやお姉さんといきなり打ち解けて話すのは難しいものです。やっぱりミニマムな信頼がないと、社交や会話って成り立たないんですよ。
ただ、信頼論の章を書くのは苦労しました。カントのテキスト自体が極端に少ないなかで、信頼やプライバシーに関する記述を掘り起こしていく必要がありました。筆が滑って書いたのではなく、カントが信頼やプライバシー、秘密の保持について真剣に考えていたということを明らかにする必要がありました。その点は慎重に説明しています。「ここだけではなく、カントは他の箇所でも言及している」ということを示しながら構築しました。
倫理学は理想ばかり語っている?――カントは人間の弱さを熟知していた
斎藤 カントのテキストのなかでも、非常に人間くさいテーマを研究したわけですが、カントに対する印象は変わりましたか。
髙木 これはぜひ説明したいところなんですが、カントという哲学者は、実は理想と現実のバランス感覚に非常に優れているんです。そして僕自身、予想外でしたが、そのバランス感覚が個人的にしっくり来たんですね。
倫理学という学問は、「あるべき社会や世界」という理想を語ることに本質があります。一方、現実を分析するのは道徳心理学や実証的な学問の役割とされています。だから外部からは「倫理学は理想ばかり語っている」と見られがちです。その批判をカントも理解していました。そのうえで、「理想は現実から一度完全に離陸させて基礎づけるべきだ」と考えた。中途半端に現実に足を引っ張られた状態では、本当にあるべき姿を描くことはできない。現実に引っ張られると、「人間だもの、嘘ぐらいつくさ」といった、単なる現状追認になってしまうわけです。
そこでカントは、まず現実から離れて純粋に道徳の原理を基礎づけるというアプローチを取りました。これが理想論であることは、カント自身もよくわかっています。というより、人間の不完全さを誰よりもよく理解していた。カント自身、自分が聖人だとは思っていなかったでしょうし、人間くささを否定するわけでもありません。
だからこそ、カントは教育学や人間学といった経験的なアプローチも重視しました。これらを通じて、「では、その理想をどうやって実現するのか?」と理想に近づくための方法を探ろうとしたんです。ただし、ここがポイントなのですが、カントの「基礎づけ」のレベルでは人間学は採用されません。この点を勘違いして、「カントの人間学は経験的に道徳を基礎づけている」と解釈されることがありますが、それは誤解なんです。
僕自身も、道徳の基礎づけにおいては人間学を採用しません。この点では、かなり「ゴリゴリのカント主義者」です。ただ、理想を実現するためには、人間の未熟さを認めたうえで、社会をより良くしていく努力が必要だと考えています。理性をしっかりと使えるように、互いに啓蒙し合う必要がある、というスタンスですね。
斎藤 いまの話と関連しますが、博論本では「自己を道徳化するにはすでにある程度道徳的である必要がある」という「道徳のパラドックス」をいかに回避するかが、重要な論点として繰り返し登場します。この論点は、最初から意識されていたんですか。
髙木 実は、その問題意識が芽生えたのは後になってからです。最初からパラドックスを回避しようと思って性格や社交に注目したわけではなく、まずは単純に「性格や社交って面白いな」と感じたところから始まりました。
ただ、道徳のパラドックス自体は、指導教員の水谷先生が授業や著書で触れていた「啓蒙のパラドックス」と同型です。これは、啓蒙されている人でないと会話や社交にうまく参加できないけれど、啓蒙されるためには会話や社交に参加する必要があるという矛盾です。つまり、啓蒙される前提がないと社交が成り立たないが、社交に参加することで啓蒙されるという循環的な問題ですね。
カントの道徳的人間学に注目すると、根底にあるのは「人間の弱さ」の認識です。人間は現実的に弱い存在であり、その弱さを前提にしないといけない。強さを前提にして、「理性をもっと使え」と言われても、それが簡単にできないからこそ人間なんですよね。
カントはそうした人間の現実を踏まえて人間学を構築した。だから、カントの問題意識からしても、このパラドックスを回避することは必須です。形而上学では理性的存在者一般を対象にしていて、人間の弱さには注目していませんが、人間学ではその弱さを前提にしているわけです。
つまり、人間の弱さを無視して「強い理性で弱さを乗り越えろ」というのは矛盾しています。この視点を水谷先生からの問題意識として受け取り、それをカントの道徳的人間学で引き受ける形にしました。
その結果、性格論と社交論の両方を「パラドックスを回避する形で論じる」という方向性が見えてきたんです。それをどうにか形にしようと頑張ったという感じですね。
「出版社を見つけなきゃ」――書籍化の舞台裏
斎藤 博論を書籍化する際には、結構手を加えたんですか。
髙木 博士号を取ったのが2022年の3月で、その直後の4月頃に、京都大学の出版助成に応募しました。応募までの間に一応書き直せる時間はありましたけど、主にタイトルを少しわかりやすく変える程度の修正でした。そして6月に助成が決まったので、そこから出版社を探し始めました。助成金のルールで「翌年3月までに出版しなければならない」という期限があったので、実質的にかなり短期間で進めなければならなかったんです。
斎藤 そんなに短いんですか。
髙木 そうなんですよ。「出版社を見つけなきゃ」と焦りましたが、京都大学学術出版会に引き受けてもらえました。結局、出版したのが3月31日と、ギリギリでした(笑)。
そんな経緯なので、大幅に書き直す時間は正直ありませんでしたが、博士論文よりもわかりやすくすることは心がけました。完全に一般読者向けの本にはできないけれど、カント研究者以外にも、心理学や社会学の研究者が興味を持って手に取ることがあるだろうし。性格や社交というテーマですからね。
斎藤 章の間に挟まっている4つのコラムは?
髙木 コラムは書籍化の際に加筆しました。編集者の方とのミーティングで「カントが意外に社交的だったという部分が面白いので、それを膨らませてコラムにしたらどうですか?」と提案されたんです。僕も「それなら、社交家カントについて1つ書こう」と思いました。さらに、コラムが1つだけだとバランスが悪いということで、他にも社交論の歴史(イギリス編、ドイツ編)や、ショーペンハウアーの社交嫌いについて書きました。
コラム自体を書いたことがなかったので、新鮮で楽しい経験ではありましたが、正直、張り切りすぎましたね(笑)。コラムは長めで、しかもカント以外の文献もたくさん使ったので、形にするのにかなり苦労しました。
カント研究者からドイツ社交論研究者へ
斎藤 本が完成してどうでしたか。
髙木 お恥ずかしい話ですが、ほとんど開いてないんです。
斎藤 あ、読み返さないタイプですか?
髙木 いや、怖くて……。本にするとき、一番苦労したのはやっぱり校正ですね。これほど長い分量を校正するのは初めてだったので。本当に自分のダメなところがたくさん見つかるんですよ。誤字や脱字、細かいミスがどんどん出てきて、赤字だらけになる。最初の校正では、引用箇所のページ数をすべて調べ直しました。誰でもそうだと思いますが、引用のページ数って意外と間違えるんですよね。
内容や日本語の表現も含めて、誤字脱字レベルのものがないように徹底的に校正しました。それが本当に大変で、ノイローゼになるくらいでしたね。だから本ができあがった後も、出版された後に誤字脱字を後輩に指摘される夢を5回くらい見たんです(笑)。後輩に「あとがきのところに間違いがあります」とか言われる夢で……。深夜にその夢で目が覚めて、「本当に間違ってるんやないか」と不安になり、送った原稿と本を確認したこともありました。
もちろん、家にダンボールで本が届いたときは、本当に感動しました。僕は紙の本を読むのが好きな人間なので、こうして自分の本がフィジカルな形で存在するのがすごく嬉しくて。カバーに自分の名前が載り、本が直立するのを見て、単純に感激しました。お世話になった方々に本を手渡しできて、喜んでもらえたときも嬉しかったですね。
斎藤 今後はどのような研究をしていく予定ですか?
髙木 実はいま、カント研究者という看板は下ろしています。
斎藤 えっ、そうなんですか?
髙木 はい。これまでやりたかったことは、今回の研究で一区切りついたので、これからはカントを離れて、社交論を掘り起こしていこうと思っています。
イギリスの社交論は結構研究されていますが、ドイツはほとんど手つかずなんですよ。本当に研究者が少ない領域です。たとえば、カントの社交論は知っていても、トマジウスやガルヴェやクルジウスといった思想家の社交論を知っている人は、ほとんどいないと思います。「誰それ?」というレベルです。
でも、18世紀は「社交の世紀」と言われるほど、社交が重要なテーマになっていた時代です。実際、カント自身も若いころの論文で「この社交的な時代」という表現を使っています。それだけ当時は社交が盛んだったんです。
啓蒙君主フリードリヒ大王の存在や、フリーメイソンの活動、さらには読書会や読書層といった文化的な交流の場が広がり、社交が啓蒙の重要な役割を果たしていました。つまり、18世紀ヨーロッパは「啓蒙と社交の時代」だったんですね。そういった時代背景をふまえながら、しばらくの間は、ドイツ系の思想家の社交論を片っ端から調べていくつもりです。
【インタビュー後記】
斎藤哲也
このインタビューを実施した2024年はカント生誕300年に当たります。せっかくの記念すべき年だから、カントを扱った博論本を取り上げたい。そう思っていた矢先に手にしたのが、髙木さんの『カントの道徳的人間学』でした。
読み始めるやいなや、「カントってそんなことまで論じてたの?」の連続です。社交の談話の場で、みんなの知らない話題を出してはいけないとか、マナー講師が言いそうなことまで、大真面目に論じています。読み進むにつれ、ぼくのカント像は大きく修正されていきました。
一般に、カントの道徳哲学(倫理学)といえば、人間くささを取っ払った普遍主義や形式主義が特徴とされます。いついかなるときであろうと、嘘をついてはいけない――従来理解されていたカントの道徳哲学からすれば、嘘も方便なんてもってのほかなのです。
その厳格さに魅せられる人もいれば、堅物な議論に辟易する人もいます。ただ、どちらにしても、カント倫理学がきわめて形式主義的に構築されていることは共有されていました。
髙木さんの博論本は、こうした従来のカント理解に大きな変更を迫る一冊です。インタビューで話していたように、その契機は博士課程に進んでからやってきました。これまでほとんどまとまって論じられることのなかった、カントの社交論や性格論で「一旗揚げられるんちゃうか」と。
高校生時代に中島義道氏の著作に触れ、カント倫理学の厳格さに惹かれた髙木少年が、博士論文では形而上学から離れ、社交や礼儀作法といった人間学に行き着きました。そして博論本の結論パートでは、「少なくとも人間にとって、道徳的人間学なき道徳形而上学は空虚である」とまで言い放ちます。インタビューでも、カントは人間の弱さや未熟さを誰よりもわかっていたことを力説していました。
髙木さんは、これからしばらくはカントを離れて、ドイツ哲学における社交論に没頭すると言います。「新たな一旗を揚げられるんちゃうか」という野望を秘めて。
斎藤哲也の博論本を聴く:髙木裕貴『カントの道徳的人間学』
#1 スランプからの大逆転! カントの「社交論」を切り拓く
#2 カントが社交を大真面目に論じた哲学的理由
★01 自分が自分に課す規則のこと。カントは、性格と格率との関係について、『教育学』で「性格とは、諸格率に従って行為することに熟達していることに存する」と述べている。

- 髙木裕貴たかき・ゆうき
- 1990年兵庫県生まれ。2022年、京都大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。現在、信州大学人文学部研究員(日本学術振興会特別研究員-PD)。また、関西を中心に複数の大学などで非常勤講師を務める。専門は近世ドイツ哲学、倫理学など。主要業績に、『カントの道徳的人間学――性格と社交の倫理学』(京都大学学術出版会、2023年)、「ライプツィヒ期トマジウスの啓蒙思想――『フランス人の模倣論』を中心に」(『倫理学研究』54号、2024年、pp. 62-72)などがある。

- 斎藤哲也さいとう・てつや
- 1971年生まれ。人文ライターとして人文思想系、社会科学系の編集・取材・構成を数多く手がける。編著・著書に『哲学史入門Ⅰ~Ⅲ』(NHK出版、2024年)、『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK出版、2018年)、『読解 評論文キーワード 改訂版』(筑摩書房、2020年)など。編集・構成に『哲学用語図鑑』(田中正人著、プレジデント社、2015年)、『ものがわかるということ』(養老孟司著、祥伝社、2023年)ほか多数。


