F4-8-2
中村桂子さんが語る「人間は生き物である」#2:生命誌研究館を始めた理由
「生命誌」から見えてくる世界
地球環境の危機的状況を背景に、これまでの人間中心主義を問い直し、動物や植物など人間以外の視点から世界を眺めようという特集「ノンヒューマンからの眺め」。2024年10月にシビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]で開催された、中村桂子さんの講演の第二弾をお届けします。
中村さんはなぜ、「生命誌」という新しい知を切り拓き、その基盤となる施設を「生命誌研究館」と名付けたのでしょうか――。現代社会を覆う「機械論的世界観」が生物には当てはまらないと言い、生物学や地学などの新しい知見をベースに、学術の研究成果を演じる場の必要性を訴えかけます。
構成=田井中麻都佳
撮影:斉藤純平
-
Contents
-
思い通りにならないからこそ、思いがけないことが起こる
科学は17世紀に確立されましたが、その成り立ちに大きく貢献したのが、ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)、フランシス・ベーコン(1561-1626)、ルネ・デカルト(1596-1650)、アイザック・ニュートン(1642-1727)の4人です。
伊東俊太郎先生が『近代科学の源流』の中で書かれているように、中世キリスト教と近代科学の発展が、「機械論的非人間化」と「自然の操作的支配」という自然観を生み出しました。それまで「フュシス[★01]★01」という概念のもとで一体と見なされてきた神・人間・自然がそれぞれ、人間は神のために、自然は人間のために存在する、といったように階層的な役割と秩序を与えられることになったのだと、伊東先生はおっしゃっています。
機械論的非人間化とは、言うなれば、物質世界(自然)を機械論的に捉え、物理的に分析できるということ。この考えを推し進めたのがデカルトでした。そのうえで、自然を支配し、非人間化することによって、人間活動に役立てようとしたのがベーコンです。また、この機械論を強化していったのが、ガリレオであり、ニュートンであったと言えるでしょう。すなわち、こうした近代科学の自然観を形成するうえで、この4人は大きな役割を果たしたと言えます。
もちろん、この4人の功績はたいへん素晴らしいものですし、彼らがいなければ、いまの科学も人類の発展もなかったのは事実です。しかし、いま私たちが生態系を考えるうえで問題となるのが、彼らが唱えた「機械論的世界観」にあるということに気づかされます。つまり、彼らは世界を機械のように見ているということです。
機械は私たちの生活を便利にしてくれます。便利とは、「早くできて、手が抜けて、思い通りにできる」ということ。炊飯器を思い浮かべると、まさにその通りでしょう。スイッチを入れるだけで、竈に張り付いて火加減を見たりしなくても、思い通りのご飯が炊けます。それは素晴らしいことだと思います。
一方、人間の赤ちゃんはどうでしょうか? 1年前に生まれた子どもが、早く育っていきなり10歳になったりしないように、効率的に早く育てる方法はありません。しかも、赤ちゃんを育てるのは、非常に手のかかることです。夜泣きをすればあやすのに苦労しますし、授乳やおしめ替え、寝かしつけなどの世話もたいへんです。でも、その手をかけるやりとりにこそ、意味がある。
では手をかけた分だけ、思い通りに育つかというと、そうではありません。ただし、思い通りにならないからこそ、思いがけないことが起きるのです。
翻って、機械の世界では、けっして思いがけないことが起きてはいけません。福島第一原子力発電所の事故のとき、「想定外」という言葉が使われたように、本来、機械の世界では絶対に想定外のことは起きてはいけないのです。
でも反対に、生き物は決まりきったことをやるのでは意味がありません。思いがけないことをやるからこそ意味がある。機械はとても便利で、私自身、機械を否定するつもりはまったくありませんが、生き物には機械論は当てはまらない、ということです。
お米も子どもも、つくることはできない
また、機械は新しいものを求めて、古いものを捨てます。コンピュータにしろスマートフォンにしろ、まさにそうですよね。一方、バクテリアは約40億年前にできた祖先細胞から最初に生まれた生物です。そして、40億年前と同じ方法でいまも生きている。生き物は古いものを捨てたりはしないんですね。
翻って人間は、これほどの異常気象の中ですら、戦争をやめようとしない。こんなことをしていたら、人類は続いてはいけない、と私は思います。この先も人間を続けていきたいのであれば、生き物のやり方に学ぶのが一番ではないでしょうか。
そして、機械はすべて知っていなければなりません。一方、地球上に生き物が何種類いるかさえもわかっていない。知らないことだらけです。現代社会では、車がそうであるように、設計図と部品で同じものをつくり続け、世界中の人がそれを便利に使っています。
では同じようにお米をつくることはできるでしょうか? それはできません。私たちはイネを育てることしかできないのです。イネは生き物です。子どももつくるのではなく、生まれる、もしくは恵まれてできるものでしょう。ところが、私たちは日常的に「コメをつくる」「子どもをつくる」などと言ってしまうように、機械と同じようにつくることができると考えがちです。まさに機械論で物事を捉えてしまっている証拠でしょう。
物理と化学は機械論、地学と生物は複雑系
高校でみなさん理科を学んだと思いますが、その中には、物理、化学、地学、生物という四つの科目があります。いま、教科書を見てみると、物理と化学は60年くらい前に私が習ったときとまったく同じことが書いてあります。
なぜ、物理と化学は変わらないのか。それは、それらが部分や因果関係から法則性を見出し、数式ですべて計算できるという機械論の世界で成り立っている学問だからです。その結果として、私たちは科学技術をどんどん進めて、さまざまな機械や高層ビルや日用品、医療品などをつくって、社会を便利に豊かにしてきました。もっとも、その一方で、環境破壊や人々の心身の破壊ももたらしてもきました。これは20世紀型のやり方だったと言えます。
ところが、地学と生物は、私が習ったころとは全然違っています。地学と生物は、地球を、そして生き物を知ることであり、本当の自然を見ることです。それらは複雑系であり、全体システムとして理解する必要があります。
たとえば、プレートテクトニクス理論は1960年代後半以降に発展してきた研究であり、最近になってようやくさまざまなデータが集まってきて、そのメカニズムが解明されつつあります。DNAも同じです。これらの研究の発展により、ようやく私たちは本当の意味で自然を理解するためのデータを手に入れつつある状況です。
言うなればようやく、生態系全体を眺め、40億年という長い時間をかけて生き物が続いてきたこと、その中に人間がいるということを踏まえて、生態系を持続していくために、どんな技術を用いて、どんな社会を築いていくのか、ということが考えられる時代になったと言えます。まさに21世紀型のやり方へと変わってきているんですね。
ところが、実際はまだまだ20世紀型のやり方が続いています。このあたりの都心もそうですが、どんどん木が伐られて、高層ビルが建てられています。せっかく私たちは地学と生物学という新しい知見を手に入れてきたのに、それが生かされていないのは本当に残念なことです。
自然に親しみ、自然を愛する心情を育てるために
ちなみに、私たちが学校で理科を教わるようになったのは明治期以降です。ヨーロッパから入ってきた科学を子どもたちにも教え、科学技術を発展させて、良い国をつくろうとしたわけです。ただし、当時は「富国強兵」――つまり国を富ませ、軍事的に強い国をめざしていました。そのために理科(科学)は非常に重要だったんですね。
ところが面白いことに、指導要領に書かれた理科の目標には、「自然に親しむ」という言葉が最初に書かれているのです。さらに、四番目には「自然を愛する心情を育てる」とある。それ以外は、「観察・実験などを行う」「問題解決の能力を育てる」「自然の事物・現象についての理解を図る」「科学的な味方や考え方を養う」といったように、科学的な態度やものの見方を養うことを旨としているわけですが、その中に日本人的な自然観の要素が入っているのは非常に面白いことだと思います。じつはこれは、令和の指導要綱にもちゃんと入っています。
当然、先ほど言ったような21世紀型のやり方をしていくうえで、自然に親しみ、自然を愛する心は非常に重要です。それは、西欧の科学に憧れていた明治の頃から変わらず、日本人の中にはあり続けてきた精神なのです。
「生命誌研究館」は学術を演じるhall
そうしたなかで、私が提唱し、始めたのが「生命誌」という新しい科学のあり方です。1993年には「JT生命誌研究館」を創設し、ここで、40億年にわたり連綿と続いてきた生命の営みを調べながら、多くの人に伝える取り組みをしてきました。
じつはこの研究館をつくる前に、私自身は、「生命科学研究所」と冠した機関に所属していたのですが、「研究所」ではなく「研究館」と名付けたのには理由があります。研究館は英語で言えば、Research hall。Concert hallと同じホールですね。
なぜホールなのか。ベートーベンが第九交響曲を楽譜に記した時点で、確かに曲は完成していますが、ただ楽譜が置いてあるだけでは意味がありません。演奏して初めて世の中に認知されるようになったわけですね。
同様に、科学論文も楽譜と同じで、論文だけあっても、世の中にはないも同然です。ところが、これまでの科学は論文を書けばそこでおしまいでした。私はそれではダメだろう、第九と同じように、科学論文も演奏しなければ存在しないと考えてHallと名付けたというわけです。先に紹介した「生命誌絵巻」は、まさにその一つの表現なのです。
Future Ideations Camp Vol.4 |生態系をデータとしてとらえる/表現する
基調講演 04
「38億年の生命の歴史物語に学ぶー生命誌」
2024年10月15日(火)19:00~20:30
登壇:中村桂子(理学博士/JT生命誌研究館名誉館長)
https://ccbt.rekibun.or.jp/events/camp04-keynotelecture02-4
シビック・クリエイティブ・ベース東京[CCBT]
https://ccbt.rekibun.or.jp
https://x.com/ccb_tokyo
https://www.instagram.com/ccb_tokyo
https://www.youtube.com/@civiccreativebasetokyoccbt3744
(#3につづく)
中村桂子さんが語る「人間は生き物である」
#1「私たち生き物」の中の私として生きる
#2 生命誌研究館を始めた理由
#3「愛づる」ことは本質を見ること
★01 physisは、「生まれる」という言葉に由来するギリシア語。自然、ものの本来あるがままの姿を意味する。

- 中村桂子なかむら・けいこ
- 1936年東京生まれ。JT生命誌研究館名誉館長。東京大学大学院生物化学専攻博士課程修了。理学博士。国立予防衛生研究所を経て、1971年、三菱化学生命科学研究所に入り、日本における「生命科学」創出に関わる。生物を分子の機械ととらえ、その構造と機能の解明に終始する生命科学に疑問を持ち、独自の「生命誌」を構想。1993年に「JT生命誌研究館」創立に携わる。早稲田大学教授、東京大学客員教授、大阪大学連携大学院教授などを歴任。『自己創出する生命』(ちくま学芸文庫)、『生命誌とは何か』(講談社学術文庫)、『科学者が人間であること』(岩波新書)、『中村桂子コレクション・いのち愛づる生命誌(全8巻)』(藤原書店)、『老いを愛づる』『人類はどこで間違えたのか――土とヒトの生命誌』(中公新書ラクレ)など著書多数。




