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田村美由紀『口述筆記する文学』#2
〈ケア・ライティング〉というフィールドを拓く

- 写真:YokohamaMarino
「博論本」とは、博士論文を書籍化したもののこと。連載「『博論本』を聴く」では、人文ライターの斎藤哲也さんが、刺激的な博論本の著者インタビューを通じて、その面白さを読み解きながら、研究の一端を紹介していく。
第2回目となる今回ご登場いただくのは、『口述筆記する文学――書くことの代行とジェンダー』を記した田村美由紀さん。谷崎潤一郎をはじめ、身体的な理由などによって書くことが困難となったのちに、口述筆記により創作活動を続けてきた作家たちがいる。田村さんは、こうした作家の傍らで筆記を担ってきた(主に)女性たちに焦点を当てながら、口述筆記の現場から浮かび上がるジェンダーの問題、ケアの視点について考察してきた。なかでも田村さんが提唱する〈ケア・ライティング〉という着眼は、これまで創造的な書く行為だけに価値を見いだしてきた文学に一石を投じるとともに、書くことをめぐるあらゆる行為に光を当てようとしている。
(#1はこちら)
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Contents
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〈ケア・ライティング〉というフィールドを切り拓く
斎藤 書籍にするにあたって、具体的にどういうテコ入れをしたんですか。
田村 口述筆記をしている作家はたくさんいるものの、それを網羅的に扱うのは自分の力量的に無理だと思ったんです。ただ博論の段階では、谷崎潤一郎と伊吹和子、武田泰淳と武田百合子(夫婦)という二組しか取り上げてなかったので、それだけでは他にもこんな作家がいる、あんな作家がいるという指摘が出るだろうと。そこで、他の事例もいくつか取り上げる必要があったんですけど、一方で単なる事例研究にしたくないという気持ちもあり……。そこで上林暁と徳廣睦子(兄妹)、三浦綾子と三浦光世(夫婦)、大庭みな子と大庭利雄(夫婦)という三組の事例を「ケアとしての口述筆記」という枠組みでまとめました。

- 田村美由紀さん
斎藤 なるほど。ケアという論点は、書籍化するところで前景に出てきたんですね。
田村 そうですね。博論をまとめるあたりから、ケアの問題への関心も高まっていきました。2021年に小川公代さんの『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)が話題になり、その前後くらいからケアに関する書籍も次々に刊行されましたよね。これまで日本語に翻訳されていなかった海外の文献も続々と訳されて、理論的な内容も読みやすくなってきました。そういう中で、口述筆記とケアを組み合わせて考えてみたいという思いが、博士論文をまとめている時期から徐々に芽生えていったんです。
斎藤 作家と筆記者の関係をケア関係として捉える先行研究ってあるんですか。
田村 そもそも口述筆記に特化した研究がほとんどない状態なので、それをケアの視点から捉える研究もないと思います。ただ、本の中でも触れている、新田啓子さんの「家内労働者という種族――生の境界とヘンリー・ジェイムズ」(日比野啓、下河辺美知子編著、『アメリカン・レイバー――合衆国における労働の文化表象』彩流社、2017、229-251頁)という論文は参考になりました。これはヘンリー・ジェイムズと彼の口述筆記創作に関わった女性秘書との関係を検討したもので、議論に納得もしたし、読んでとても勉強になりました。
斎藤 終章にはこんな一節があります。
口述筆記だけにとどまらず、文字を書くことから疎外されてきた人々の声を掬い取る聞き書きや、他者の草稿を読みやすい形で書き直す浄書などは、書く行為が複数の主体のあいだで代行されたり、委託されたりする書記形態であり、いずれも介助的な性格を備えている。創造性という価値に収斂しないこうした書く行為を、ここでは〈ケア・ライティング〉と呼んでみたい。
〈ケア・ライティング〉ってすごいパワーのある概念だなと思って。これは天から降ってきたんでしょうか。

- 斎藤哲也さん
田村 正直なところ、思いつきなんです。でも、自分の問題関心を言葉にするときに、何かキーワードがあった方がいいかもしれないという気持ちはありました。自分のフィールドを表現する際に、研究の軸になるようなキーワードを持っていると役立つと思ったんですね。たとえば、「谷崎をやっています」や「漱石をやっています」と作家名を言えば、自己紹介がスムーズに進むんですけど、「口述筆記」と言うと……
斎藤 ポカンとされそうですね。
田村 だから、自分が何を研究しているのかを紹介するのが難しくて。かといって〈ケア・ライティング〉と言ってもなかなか伝わりづらいと思うんですけど(笑)、自分のフィールドをつくりたいという気持ちがあって考えた言葉です。
斎藤 引用箇所に示されているように、とても拡張性のある概念だと思いました。それこそ私のようなライターがやっていることも、部分的にはケア・ライティングだなと。
田村 「ライティング」という言葉には、「創造的なものにこそ価値がある」という固定化されたイメージが強くありますよね。私は、それとは違う視点に目を向けたいし、創造的な書く行為だけに価値を見いだしてきた文学という場も問い直したいと思っているんです。〈ケア・ライティング〉は、そのための糸口になる概念にしていきたいですね。
『口述筆記する文学』の構成意図
斎藤 『口述筆記する文学』は、前半では作家と筆記者の関係を考察し、後半では作品批評を通じて書くことの代理・代補というより大きなテーマへと展開させていくという構成になっています。書籍の構想段階から、こういう構成でまとめようと考えていたんでしょうか。
田村 その通りです。前半部分で実際の作家たちが行っていた口述筆記を考察する際に、私が避けたいと思っていた論じ方があるんです。それはたとえば、筆記者のアドバイスや加筆などが、作品の成立にどう関わっていたのかを実証するような論じ方です。完成した作品への貢献度合いによって筆記者の営為を評価するような論じ方と言えばいいのでしょうか。草稿類や資料が残っていれば、そちらのほうが文学研究として面白いかもしれませんが、完成した作品にすべてを還元させていくような論じ方は、私がめざす方向性にはあまり馴染まないアプローチでした。
やはり私には、テクストそのものをしっかり読みたいという気持ちが強くありました。だから口述筆記の現場における口述者と筆記者との関係性を周辺資料から掘り起こして考えることと、テクストを深く読むことの両方を繋ぎ合わせるような構成にしたかったんです。
斎藤 見事な構成だと思いました。前半と後半が有機的に結びついて、「書くこと」が脱構築されていくような建て付けになっているじゃないですか。具体的なケア・ライティングの関係、具体的なテクストの読み解き双方を通じて、書くことのさまざまな相貌が見えてくるというか。後半ではとくに、多和田葉子さんの「無精卵」の読解から〈書き写す〉という行為を考察するくだりにしびれました。
田村 ありがとうございます。いま指摘していただいたようなことを、これからも考えたいと思っています。これまでの文学研究では、完成された作品や、それを成り立たせる書く行為が評価され、研究の対象になりがちでした。でもその裏には、これまであまり顧みられてこなかったたくさんの「書く行為」が存在していて、そういう部分に目を向けた研究をしていければと思っています。
多和田さんの章については、彼女が物語で書かれていることと、私が口述筆記を通して考えたいと思っていた、異性愛主義にも結びつきかねない「書くこと」の権力性の問題がけっこう重なっていて、そこを取り出すような形で書きました。
斎藤 テクストを理論的に分析していくときって、どういう頭の働かせ方をしているんですか。
田村 私はあまり頭の回転が速くないので、一度読んだだけでは理論と結びつくことは少ないです。ただ、何か引っかかりのある一節があって、「ここから考えたい」というような部分がある小説を論じることが多いですね。だから完成度が高いとか名作とされているものであっても、自分の中で引っかかりがないと、あまりうまく論じられません。やっぱり引っかかりがあるかどうかが重要な気がします。
あと、私はあまり深く考えずに、「これとこれを結び付けたら面白いんじゃないか」という発想で動いてしまうこともよくあります。たとえば、ある理論書を読んでいる時に、「この議論をこの小説に持ってきたらどうなるんだろう」と、寝る前などにいろいろと考えを膨らませることがあります。それがうまくいくこともあれば、いかないこともありますけど。
〈書くこと〉のオルタナティブな相貌
斎藤 あとがきは口述筆記で書いたとあります。実際にやってみていかがでしたか。
田村 原型は残っているものの、かなり後から手直しをしています。最初に簡単なメモのようなものをつくって話しているんですけど、実際にやってみると難しいですね。書きたいことがまとまらない部分は飛ばすといったふうに、部分ごとにまとめていくような感じでした。
口述筆記って一見スラスラと淀みなく進むように思われるかもしれません。口述筆記の作家を扱う場合も、太宰治のように「最初から最後まで言い間違いも言い淀みもなく、口述筆記で完璧に仕上げた」という作家神話的な話になりがちです。だけど、実際にはそうではなく、筆記者の方も非常に大変だっただろうと思います。そういう筆記者の苦労や困難もこの本から読み取ってもらえるとうれしいです。
斎藤 今後はどういう方向で研究を展開していこうとお考えですか。
田村 さきほど引いていただいた〈ケア・ライティング〉はもっと掘り下げていきたいと思っています。これまでの文学研究で考えられてきた、作家が自分の創造性を駆使して書くというイメージとは異なる「書く行為」――今回は口述筆記をテーマにしましたが、〈ケア・ライティング〉には清書や聞き書きや、編集者が関わる過程、ライターが書く行為なども含まれます。そういった側面を考えていきたいというのが一つあります。
他方で、やっぱり私はテクストを深く読んで考えるのも楽しくて好きなので。だから物語の読解を通してジェンダーの問題を考える作業は続けていきたいし、それと関連してケアの問題もまだまだ掘り下げる余地はあると思っています。
ケアは現在、大きなブームのようになっていて、さまざまな場所で論じられていますが、その一方で、ケアを論じることの難しさも最近は感じています。ケア論ではケアを「善きもの」として捉えることが多いですが、それだけだと、現実のケア関係に見られるさまざまな葛藤や問題点を見過ごしてしまうかもしれません。文学作品においても、ケアの視点から読むことでさまざまな解釈が生まれますが、小説に描かれるケアの関係性は、理想的でポジティブなものとして捉えられがちです。だけど、こうした小説における理想的なケアと、現実のケアとのギャップが、ますます大きくなっているような感じもして。なので、ケアの問題を考える際には、このギャップを埋めるような視点を考えてみたいです。
口述筆記もそうですが、筆記者の貢献を単に「良いこと」として捉えるのではなく、その貢献が時に支配や搾取に転じる危うさもあります。状況によってそのパワーバランスはさまざまに変化するので、そういった視点を、ケア関係を分析する際にも忘れないようにしないといけないと思っています。
博士論文の構想発表ではボコボコに叩かれましたが、自分はやっぱり理論を補助線にしながら抽象的な問題を考えるのが好きなんですね。だから〈書くこと〉って何だろうかという問いは手放せないし、そこにはさまざまな規範や権力が絡み合っています。セクシュアリティやジェンダーの問題も、表面的には書くことと関係なさそうに見えるかもしれませんが、実際には書くことの評価やイメージに根深く入り込んでいます。そういった点をジェンダー批評やクィア批評といった形で捉え直していくことも続けていきたいですね。
【インタビュー後記】
斎藤哲也
こんなに「我がこと」のように感じさせられた博論本は初めてかもしれません。
ぼくは長らく、著者になりかわって書籍の原稿を書くライター仕事を続けてきました。ブックライティングと、本書のテーマである口述筆記を一緒くたにはできませんが、それでもその貢献が後景に退きがちである点は共通しています。
だから僕は、本書で詳細に論じられている、谷崎潤一郎の筆記者・伊吹和子さんの経験が、まったく他人事には思えませんでした。
本書を読むと、口述筆記という切り口から、ジェンダー・ポリティクス、ディスアビリティ、ケアワークへと議論を切り拓いていく筆さばきに圧倒されます。引用・参照される文献も周到で、脚注もついつい読み耽ってしまいました。
この着眼はいったいどこからやってきたのか。インタビューを読んでおわかりのとおり、修士はおろか、博士課程に進んでも迷走する期間が長かった。そしてタイムリミット寸前で、突破口が見つかったのでした。
ただ、こうして出来上がった博論本を読むと、場を炎上させたという構想があればこその着想だったようにも感じられます。一人の書き手が書くという神話を脱構築する〈ケア・ライティング〉というフィールドがこれからどのように拡がっていくのか。次なる著作を心待ちにしています。

- 田村美由紀たむら・みゆき
- 1990年、奈良県生まれ。2015年、奈良女子大学大学院人間文化研究科博士前期課程修了。2021年、総合研究大学院大学文化科学研究科博士後期課程修了。国際日本文化研究センターを経て、現在、神戸女学院大学専任講師。主な論文に「完結する物語、完結しない声――崎山多美「ピンギヒラ坂夜行」から考える」(坪井秀人編『戦後日本の傷跡』臨川書店、2022)、著書に『口述筆記する文学――書くことの代行とジェンダー』(名古屋大学出版会、2023)がある。

- 斎藤哲也さいとう・てつや
- 1971年生まれ。人文ライターとして人文思想系、社会科学系の編集・取材・構成を数多く手がける。編著・著書に『哲学史入門Ⅰ~Ⅲ』(NHK出版、2024年)、『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK出版、2018年)、『読解 評論文キーワード 改訂版』(筑摩書房、2020年)など。編集・構成に『哲学用語図鑑』(田中正人著、プレジデント社、2015年)、『ものがわかるということ』(養老孟司著、祥伝社、2023年)ほか多数。

