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#7 エラー・パースペクティブ——岡﨑乾二郎『ルネサンス 経験の条件』から考える

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『ルネサンス 経験の条件』(初版、筑摩書房)の書影

インターネットがもたらした情報化社会の出現は、アート界の専門用語であった「キュレーション」という言葉に新たな意味を付与し、その概念を一般化してきました。と同時に、通俗化したキュレーションという行為が、アート界にも還流し、「キュレーション」という行為の根幹を揺るがしているのではないか。そんな問題意識をもった、アーティスト布施琳太郎さんの「キュレーション論」を、全8回の予定でお届けします。(連載リストはこちらより)

Contents

    エラーが生み出す新しいパースペクティブ

    この連載の目的は、「猫ミーム化するキュレーション」とは異なるかたちで、キュレーションにおける文脈の置き直しの可能性を考えることだった。議論を進めていくなかで、キュレーションに限らないコミュニケーションの媒介項を正しく設定することが求められることが分かった。それは貨幣のような交換のフッテージ(足場=素材)であるべきであり、それこそが、この連載で「新しい天使」と呼んできたものでもある。しかし天使を人格化してはいけない。私とあなた、そして私と世界の、その距離を刻印するものに、擬人的なメタファーを与えず、天使と出会わなければならない。それはAIをはじめとした技術的対象、装置についても同じである。

    そして私は、芸術は貨幣以外の仕方で、貨幣のような、コミュニケーションのフッテージをつくることができるはずだと考えている。しかしそれを諦めつつある芸術にはなんの価値もない。そうした媒介項の不可視化において、批判不可能な権力が生じ、キュレーションは猫ミーム化するのだ。

    今回まず議論の導きとしたいのは、本連載の#4で触れた、金沢21世紀美術館で開催された展覧会「DXP」の関連書籍『デジタル・バイツ』の「⑤種を残すデジタル」というパートで、アシスタント・キュレーターの髙木遊が執筆した「プラクティス『デジタル・パースペクティブーーエラーを受け入れること』」である。髙木は、キュレーションからリアルタイムの計算や演算に基づいた作品までが内包する予想外のエラーやバグによって、デジタルテクノロジーについての新たなパースペテクィブが生じることを夢見る。そこで重視されるのはエラーを失敗として扱わずに「ありのまま受け入れるという寛容な態度」である。「多様な視点をとおしてエラーを伴侶として受け入れる態度は、現代社会の複雑性に対応し、新たな意味や理解を生み出す役割を果たす」。

    エラーとは、まさにコンピュータと私たちのコミュニケーションの交通経路を可視化する新しい天使=貨幣、フッテージである。だがそれを「伴侶」と呼ぶことは、すでに私が批判した人格化へと接近しているように思える。ここでは髙木が述べた「別なるパースペクティブ」について、あえて逸脱的に、美術史のなかで考察することでフッテージの可能性を整理したい。

    ブランカッチ礼拝堂にみる、コミュニケーションの条件

    ここで触れたいのは、アースワークからメディアアート、絵画、彫刻までを手がける造形作家の岡﨑乾二郎[★01]★01の著書『ルネサンス 経験の条件』(文藝春秋)[★02]★02である。岡﨑は、透視図法(パースペクティブ)を完成させたとされるルネサンスのアルベルティ[★03]★03に対して、その理論の源になったブルネレスキ[★04]★04の建築や絵画、説話のなかに、まったく別のパースペクティブを見出す。前者は美術教育やイラスト作画入門書などで語られるのと同じ遠近法であり、消失点に基づいて、動的な世界を画面のなかに静的に固定するので絵画内空間は私たちの世界から独立して存在する。これに対してブルネレスキのパースペクティブは、描写された世界に観者が入り込んで画面のなかを自在に動き回るような視点が獲得される点で、私たちの世界と地続きである。そうした理解に基づいたブランカッチ礼拝堂[★05]★05の壁画分析は本書の白眉である。

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    ブランカッチ礼拝堂 写真:Anna_Pakutina

    ブランカッチ礼拝堂の壁画は、コの字型の壁のなかに聖書の複数のシーンが描かれたものだ。それぞれの壁面は上下左右に分割されているので全体を一望することは難しく、私が足を運んだ際は、まさに「聖書のなかに入ったみたいだ」と感じたのを記憶している。本作はトンマーゾ・ディ・ジョバンニ(通称マサッチオ)[★06]★06と、19歳年長のトンマーゾ・ディ・フィーニ(通称マゾリーノ)[★07]★07の二人によって制作が開始された。二人のトンマーゾによる共同制作として1422年にはじめられた壁画制作は、政治的な混乱による中断の後、フィリッピーノ・リッピ[★08]★08が1481年に再開して1485年に完成させることとなった。複数の絵画の表現様式が混在する壁画について、どの部分を誰が描いたのか、という問いが美術史家のあいだで交わされ続けることとなったというが、岡﨑が問題とするのは、二人のトンマーゾが互いの様式の違いを利用して、あえて相互に模倣しながら描いたことだ。

    岡﨑が重視するのは、複数の表現様式の違い、60年の時の差のなかでつくられた壁画の図像群が、そうであるにも関わらず、緊密に関係していることである。そこに描かれた聖書の複数のシーンは、描かれた人々は、別の壁面へと並行移動させたり鏡像反転させることで異なるシーンの人と一致する。たとえば手を空中に差し出すイエス・キリストの図像を、写真撮影してからコンピュータを用いて半透明にして別の壁へと反転して重ねると、その手が別の人物の肩や頭にそっと置かれているように見えるのだ。そのとき神話が振動し、別なる世界が胎動する。

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    「岡﨑乾二郎 視覚のカイソウ」展(豊田市美術館)におけるブランカッチ礼拝堂再現ARの記録映像
    https://yasuyuki-nakamura.com/works/brancacci

    コの字型の壁面上での移動と反転、重ね合わせを可能にするのは、マサッチオが用いた特殊な下絵(カルトーネ)に由来する。岡﨑によれば「マサッチオは原寸大の紙に下絵を精密に描き、それを壁に貼りつけ紙の素描に沿って針を通し、チョークの粉をタンポで叩いて漆喰〔著者注:壁面〕に絵柄を転写して行ったのである」[★09]★09。想像しやすく言ってしまえばトレーシングペーパーのようなものだ。この方法であれば、コンピュータを使用せずとも離れた壁面に図像を反転、転写可能であるし、さらに時間や身体を超えて様式を継承することができる。別作家の表現様式を自らの描画のなかに置き入れることもできる。

    注目されるのは、この手法の原理上、画像が通常もつ、裏と表の区別、つまり左右の位相差は消去されてしまうことである。画像は文字どおり針のような光によって裏と表を貫かれる。裏と表から、描いた図像を重ね合わせることも、壁にすでに描かれた画像をトレースし、左右逆転して他の壁に転写することも容易に行うことができる。[★10]★10

    このとき下絵という装置は、別の画家たちとの、過去と現在の自分とのコミュニケーションを可能にするメディア=新しい天使である。下絵は、貨幣のように、私(たち)の独立を許しながら、他なるものたちとのコミュニケーションを促進する。さらにそれは上下左右に分割された壁面における複数の画面のなかに、単一の対象を仮想的に同時に存在させることをも可能にする。しかしだからといって、その技術が人格として現れるわけではない。無数の穴をあけられた紙は、人格を持たないリテラルな装置なのだ。

    二重のエラーを誘発する媒介項

    ここで私見を挟みたい。まず下絵による転写は、壁画の完成状態を、無限のバリエーションへと拡散させてしまう。なぜなら図像群の自由な反転と移動は、キリストが空中に差し出す手があらゆる人物や事物と関係する可能性を示してしまうからだ。もしも私が本壁画の制作に携わることになったのなら、人物たちの無限の再配置可能性の前で、どのような角度でキリストの手を描けばいいのか分からなくなって混乱するだろう。だが現実にはただひとつの礼拝堂のなかに、ひとつの壁画があるのみだ。

    しかし「混乱するかもしれない」と考えてしまうのなら、それは具象画の制作における偶然性の軽視である。それは下絵から壁画へ、という順序を前提にし過ぎている。下絵が絵画制作を事前に準備するのではない。岡﨑の分析が重要なのは、下絵による転写によって「事後的に」下絵の意味が変化する可能性だと私は考えている。しかしそれは猫ミームにおける猫が、事後的に、動画投稿主のエピソードトークの素材とされるのとは異なる。むしろ猫ミームの猫によってエピソードトークの内容が完膚なきまでに変化しながら、いくつかの分裂したエピソードへと同時に人々を誘導するような地平において、ブランカッチ礼拝堂の壁画は書かれているのだ。

    いや、実際は、猫ミーム動画の制作において、猫たちによるエピソードの分裂が起きることもあるはずである。だがその分裂は抑圧されている。動画内に配置された猫の振る舞いによって、エピソードを説明する言葉は、記憶している限りの情景描写から離れて、繰り返し選ばれ直すはずだ。しかし猫が擬人化されて動画投稿主そのものとして見られるとき、そうした事後的な変化は不可視化される。なぜなら猫=動画投稿主の直接性において、猫と動画投稿主の媒介項が不可視化されているからだ。

    アメリカ留学中「Sorry」を多用していたら...【猫ミーム】【猫マニ】

    ブランカッチ礼拝堂において、複数の作家たちは、下絵を通じてコミュニケーションする。自分とは異なる表現様式を取り込みながら、人物たちの再配置可能性を前提として、各自の判断において分割された画面がつくられていく。そのとき作家たちの表現様式と下絵の意味は同時に変化していく。つまり下絵にとっては複数の作家による描画行為こそがエラーなのであり、それぞれの作家の描画行為にとっては下絵こそがエラーなのだ。予期せぬ現れとしてのエラーをありのままに受け入れることで壁画はつくられているのだし、こうした二重のエラーにおいて本作は経験される。そして下絵との相互エラー的関係においてこそ、複数の人々が、ひとつの壁画を通じてコミュニケーションすることができる。

    私は、キュレーションにおいて、そして芸術と技術との関係において、この下絵のような装置が要請される時代が到来していると捉えている。下絵における二重のエラーは、主体性の移行を手助けし、「異質な思考が衝突しあう中から、何らかの共同性が生成される」ような〈場〉、しかるに新しい天使なのだ。そこにあるエラーを、ありのまま受け入れることで事後的かつ偶然的な変化へと自らを晒すこと。そうして時間や空間を超えた他者とコミュニケーションすること。そのための非人格的な媒介項としての下絵は、もはや貨幣とも異なるものだと言える。そこにあるのは経済ではなく芸術なのだ。経済活動から芸術実践を区別するのなら、それは媒介項と人々が同時に変化する可能性に耐えることなのだと言える。そしてこの変化可能性の担保においてこそ、キュレーションは、悪しき猫ミーム化から離れることができる。

    なにがキュレーションを支えるのか?

    ここまでの議論を踏まえて、福尾匠が著作『眼がスクリーンになるとき』において、「フッテージ」(footage、映画の素材/映画という足場)という概念を必要とした理由を再度考えたい。ドゥルーズの著作『シネマ』を「ゼロから読む」ことを掲げる福尾は、未規定な実践とされた〈映画〉に、普遍的な理論とされた〈哲学〉を適用することを批判した。哲学と映画を理論と実践として区別することはできず、むしろそれぞれが互いに理論と実践を内包する。その前提において福尾は、フッテージにおいて、映画を哲学へと結びつけ直す。

    他方で私自身には、福尾とドゥルーズが、異なる哲学者として互いに独立し合うためにこそ、フッテージが必要なのだと思える。福尾とドゥルーズの媒介項として映画があるのであり、その哲学を理解するために映画作品や映画史、映画作家たちが存在しているのではない。しかるにここで映画というフッテージ(足場=素材)は、ブランカッチ礼拝堂における下絵に接近する。この一点において、私は、猫ミーム化するキュレーションを論じるために『眼がスクリーンになるとき』を取り上げたとも言えるだろう。

    福尾がフッテージと呼んだものは、こうした下絵のようなものだと言えるかもしれないし、そのように読む限りにおいて私は福尾の議論を引用した。そしてキュレーションにおける文脈から文脈への作品の移行と再展示は、そうしたフッテージ=下絵を通じてなされるべきだ。

    私たちが警戒すべきなのは、コミュニケーションの媒介項、交換の経路(貨幣、フッテージ、天使、下絵など)が、それ以上/以下にされたときに生じる中央集権化である。ここで私は直接性と間接性を対比しているのではないし、すべての権力を否定しているのでもない。一方的な押し付けではなく批判可能な権力を社会のなかに立ち上げて、その批判を通じて思考し、それを権力の方にフィードバックすることが必要なのだ。そのためには、まずは私たちの媒介項を発見して、ありのままに受け入れることが必要だ。ここで使用した「批判」とは、事後的に訪れる双方的な変化のための二重のエラーである。そして芸術作品の制作だけでなく、キュレーションは批判的でなければならない。自らを危機に晒しながら、相手を変化させなければならない。そこには媒介項が必要だ。そうでなければ、すべてが猫ミーム化してしまう。

    実際、ブランカッチ礼拝堂の壁画制作のなかで、下絵は繰り返し作家たちに批判的に検討されながら、それぞれの描画行為を活性化しただろう。こうして批判するためにこそ権力機制は要請される。下絵を通じて再発見された礼拝堂のなかに中央はない。礼拝堂で発見される、分散する描画が互いに独立しながら関係するエラーのパースペクティブは、私たちがめざすべきキュレーションの指針となりうる。

    (ここまで書いて私自身が驚いたが、今回論じたことは、日常的なコミュニケーションにおいては、まさにラブレターにおいて生じる。二者関係において、ラブレターは双方のあり方を変化させる。ラブレターの執筆において繰り返される言葉の選び直しを通じて、自分の想いは事後的に明確化するのだし、相手の想いも変化する。)[★11]★11

    最終回となる次回は、ここまでの連載を踏まえて、若手アーティストによる実践について論じる。それは現在の美術における状況論を要約しながら、次なる制作とキュレーションを行うための足場として、本連載をしめくくるための試みだ。

    ★01 1955年東京生まれ。造形作家、批評家。絵画、彫刻、映像、建築など、ジャンルを超えて作品を創造するとともに、美術批評を中心に執筆を続けてきた。1982年パリ・ビエンナーレに招聘されて以来、国際展を含む多くの展覧会に出品。セゾン現代美術館 (2002年)、豊田市美術館 (2019-20年)で大規模な個展を開催。主な著書に『近代芸術の解析 抽象の力』(亜紀書房)『ルネサンス 経験の条件』(文春学藝ライブラリー)、『絵画の準備を! 』(松浦寿夫との共著、朝日出版社)など。作品集に『TOPICA PICTUS とぴか ぴくたす』(urizen)、『視覚のカイソウ』(ナナロク社)など。 ★02 岡﨑乾二郎『ルネサンス 経験の条件』文春学藝ライブラリー、2014年。単行本は、2001年に筑摩書房より刊行。 ★03 レオン・バッティスタ・アルベルティ(1404-1472)。初期ルネサンスの人文主義者、建築理論家、建築家。レオナルド・ダ・ヴィンチとともに、万能の天才として名高く、古典学、音楽、絵画、建築、法学、数学、科学、運動のあらゆる分野で才能を発揮した。主な著書に、『建築論』『絵画論』(ともに、中央公論美術出版)などがある。 ★04 フィリッポ・ブルネレスキ (1377-1446)。初期ルネサンスの建築家・彫刻家。ルネサンス建築の創始者の一人で、フィレンツェのサンタ・マリア大聖堂のドームなど、革新的作品を残した。透視図法(遠近法)を発明するなど、美術史に大きな足跡を残した。 ★05 フィレンツェのサンタ・マリア・デル・カルミネ教会の右翼廊にある礼拝堂。「聖ペテロの生涯」をモチーフとしたフレスコ壁画によって、その後のルネサンス絵画に大きな影響を与えた。 ★06 (1401-1428)。 初期ルネサンスの画家。短命であったため、作品は少ないものの、透視図法を絵画に導入し、現実的な人物表現や空間把握、人物の自然な感情の表現などで、初期ルネサンスの画風を革新した。 ★07 (1383-1440?)。初期ルネサンスの画家。マサッチオより19歳年長で、その画風はゴシックからルネサンスへの過渡期にあり、静的かつ平面的で、柔和な色彩を特徴としている。 ★08 (1457-1504)。盛期ルネサンスの画家。遠近法を駆使した空間と、曲線と色彩を多用する装飾的な描写で、幻想的な画風を確立し、その後のマニエリスム絵画を先駆けた。 ★09 前掲『ルネサンス 経験の条件』230頁。 ★10 同前。 ★11 ご興味を覚えた方は、拙著『ラブレターの書き方』晶文社、2023年、ならびに、関連記事「いまなぜラブレターか? 『ラブレターの書き方』より」しんぶん堂https://book.asahi.com/jinbun/article/15112769をご参照ください。

    布施琳太郎ふせ・りんたろう
    アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画、ボードゲームなどの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。主な活動として個展「新しい死体」(2022/PARCO MUSEUM TOKYO)、廃印刷工場におけるキュレーション展「惑星ザムザ」(2022/小高製本工業跡地)、600ページのハンドアウトを片手に造船所跡地を巡る展覧会「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地〔クリエイティブセンター大阪〕)、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とした展覧会「隔離式濃厚接触室」(2020)など。主な書籍に、『ラブレターの書き方』(晶文社)、『涙のカタログ』(PARCO出版)など。

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