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#4 人工知能というイリュージョン——「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット)」展と書籍『デジタル・バイツ』をめぐって

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『デジタル・バイツーーアート&テクノロジーの摂り方』BNN、2024年

インターネットがもたらした情報化社会の出現は、アート界の専門用語であった「キュレーション」という言葉に新たな意味を付与し、その概念を一般化してきました。と同時に、通俗化したキュレーションという行為が、アート界にも還流し、「キュレーション」という行為の根幹を揺るがしているのではないか。そんな問題意識をもった、アーティスト布施琳太郎さんの「キュレーション論」を、全8回の予定でお届けします。(連載リストはこちらより)

Contents

    乖離する理論と実践——前回までのおさらい

    ここまで展覧会「遠距離現在 Universal / Remote」と福尾匠の著作『眼がスクリーンになるとき』の二つを足場として「猫ミーム化するキュレーション」について論じてきた。そして私は、ポストコロナの社会を、ソーシャルメディアをはじめとしたサービスによって、すべてのアクションがリアクション化した社会として説明した。それは個人と社会の区別が困難になることを意味する。猫ミーム化するキュレーションは、ポストコロナの社会において、世相を正しく反映したキュレーションのあり方なのだ。しかし時代の反映だけが芸術の役割ではないし、そうして社会的な歪みが増幅されることもある。

    猫ミーム化するキュレーションは、実践としての作品を未規定な対象として、理論によって外から枠付ける。ゆえに、猫ミームのように作品を猫にする。しかし哲学や映画、キュレーション、そしてあらゆる制作は、理論と実践を内包する相互に独立した思考だ。そうして自律し合う領域が関係するときにこそ、異なる文脈のなかで、相互に新しい生成がはじまるはずである。しかし猫ミーム化するキュレーションにおける文脈操作には、そのような緊張はない。

    これ以降は、金沢21世紀美術館で開催された「DXP(デジタル・トランスフォーメーション・プラネット) ——次のインターフェースへ」(以下、「DXP」)展から枝葉を伸ばしながら、いくつかの展覧会や書籍を行き来することで、キュレーションのあり方を考えたい。

    「DXP」展は、テクノロジーと生物の関係を、アーティストだけでなく建築家から科学者、プログラマーなどが問い直しながら、展覧会をひとつの惑星に見立てながらつくられた展覧会である。本展においてなされたキュレーションについて問うことは、ここまで論じてきた問題をより広い視野で捉える機会となるだろう。

    能登半島地震によって中止を余儀なくされた「DXP」展

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    金沢21世紀美術館ホームページより

    2024年1月1日16時10分。石川県能登半島の地下16 kmで地震が発生した。輪島朝市では揺れだけでなく火災が生じた影響で200棟ほどの家屋が焼け落ちた。6カ月が経った現在も被災家屋の解体は遅々としている[★01]★01

    さらに能登半島地震によって、金沢21世紀美術館の展示室天井に取り付けられていたガラス板の一部が損傷、落下。被害が出た展示室のガラス板は約70枚にもなるという。美術館全体で使用されていた800枚以上の天井のガラス板のすべてが安全確保のために撤去されることとなった[★02]★02

    5月時点での『日経クロステック』の取材によれば「原因究明は行われない可能性が高い」とのことで、しばらくは天井を剥き出しのままで運営するという[★03]★03。損傷原因の究明は、今後の日本で、類似した建築の仕上げ——展示施設における光源を天井部のガラス板などによって拡散させることで空間を均一に照らす仕上げ——を用いるためにも必要だ。大量のガラス板の行方についても目を離すことはできないし、作品の破損被害の有無についての詳細な情報も待たれる。

    金沢21世紀美術館では、展示設備の損傷だけでなく、開催中だった企画展「DXP」とコレクション展「電気-音」が会期途中で中止になった。見にいくことを楽しみにしていたのだが、筆者も鑑賞が叶わなかった。だが「展覧会を訪れることができない人たちも、身の回りの変化に気づいてほしい」[★04]★04として、2024年1月には関連書籍『デジタル・バイツ——アート&テクノロジーの摂り方』(BNN)が刊行されている。たんなる展覧会記録を超えて、もはや独立した書籍としても読むことができる本書[★05]★05から「DXP」展について掘り下げたい[★06]★06

    AIとその人格化が生みだすイリュージョン

    『デジタル・バイツ』の「本書のプロンプト/はじめにに代えて」と「終わりにに代えて」は、ChatGPTをはじめとしたチャット型の生成系AIサービスを子ども向けにチューニングしたような架空の人格「チャッピー」との対話形式でつづられている。「DXP」展中止後に京都で開催された関連トークが「AIくんと共に創る世界」と題されているように、本展=本書においてAIをはじめとしたテクノロジーは、人格化され人称を与えることで、理解されている[★07]★07

    さらに目次を見てみると、『デジタル・バイツ』の掲載テクストが「セオリー」(理論)と「プラクティス」(実践)に二分されていることに気がつく。セオリーは美術館外部の研究者や批評家などによって書かれており、それに対してプラクティスは「DXP」展のキュレーターたちによって書かれている。作品については、これらテクスト群へと引用されながら図版掲載がなされた。

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    『デジタル・バイツ』の目次内容(編集部作成)

    ここから問いたいのは、AIなどの技術的対象の人格化の正当性だ。それは最終的に「猫ミーム化するキュレーション」とは異なる文脈操作が可能であるのかを問うことにつながるだろう。

    AIの人格化について、例えば『デジタル・バイツ』の「③受肉するデジタル」と題されたパートは、まず「ロボットやAIを、アイデンティティをもった他者として認識できるか否か、まさにいま人間の側に突きつけられている」と提起している。これに対して批評家の太田充胤は「セオリー『人間でも機械でもない他者』」において、ビジネスの文脈で道具化された AIと、終末論的な文脈で怪物的に他者化されたAIを対立させながら、機械やAIを人間の規範に従わせることなく(むしろ逸脱において、あらためて)他者として認める可能性を示す。本展アシスタント・キュレーターの原田美緒は、これに対応する「プラクティス『AIを通して自分を見る』」において、人間の「鏡」としてAIをはじめとした技術を論じた。原田は、自身は専門家ではないのだと断りつつ、「AIを使った出展作品を鑑賞しながら、筆者自らが発見した『人間らしさ』を描写する」のだと述べる。こうしたセオリーとプラクティスの循環において、AIは再度人格化され、理解される。そのとき、「展覧会を訪れることができない人たちも、身の回りの変化に気づいてほしい」とされた私たち鑑賞者は、テキスト上で人格化されたAIを通じて、作品との関係から疎外されてしまうのも事実である。つまりキュレーターを通じてのみ私たちは作品へとアクセスできるのだ。

    展覧会「DXP」と書籍『デジタル・バイツ』は、惑星というメタファーによって、相互に矛盾した複数の立場を許容するという。そこには多様な理論と実践がある。たしかに『デジタル・バイツ』は「身の回りの変化」についての思考をうながす。だがキュレーションの実践的側面の強調のなかで、AIが鏡の比喩を介して人格化されるとき、作品は、人々の思考を直接に触発する自律性を失うのだ。

    「DXP」展には震災によって鑑賞が不可能になった作品群が存在しており、さらに少なくない数の展示物が本展のためにつくられた新作であり、その作品が書籍におけるセオリー/プラクティスというテクストの循環から切り離されていることを無視することはできない。まさに「DXP」展の鑑賞が叶わなかった者からの意見ではあるが、震災がアクシデントだとしても、こうした作品からの疎外は「遠距離現在」展について「猫ミーム化するキュレーション」として批判した枠組みの、より複雑化された状況ではないだろうか? 

    人格化される「古い天使」/場を生成する「新しい天使」

    問題はAIの人格化だ。人格化されたAIとキュレーターの共犯関係こそが『デジタル・バイツ』における特異な語りの理由となっているのだから。

    ここで書籍『デジタル・バイツ』の冒頭に「コンパス」(指針)としておかれたテクスト「DXP――惑星たちがデジタルテクノロジーと遊戯するとき」における、社会学者の遠藤薫の記述に目を止めたい。「私たちがいま対峙するのは、非生命体(物質・機械)も含む、全惑星であり、全宇宙である」と述べる遠藤の言葉は、AIをはじめとした技術的対象を人格化せず、リテラルに捉え直す契機に思える[★08]★08。見逃せないのは「天使」についての記述だ。

    天使とは、神を媒介するもの(Medium)である。ベンヤミンは、『新しい天使』という雑誌(メディア)を構想していた。しかしそれは、古い天使のように神の声を一方向的に伝達するものではなく、異質な思考が衝突しあう中から、何らかの共同性が生成されるかもしれない、その実験を触媒する〈場〉であった。[★09]★09

    古い天使/新しい天使という区分は、思想家のヴァルター・ベンヤミン[★10]★10が述べた二種類の技術とゆるやかにつながっているという。第一の技術とは「自然の制御や生産の増大に向かって突き進む技術」であり、第二の技術は「やり直し、修正、改編を許す技術であり、その根源が遊戯」である[★11]★11。新しい天使、つまり第二の技術とは、唯一の正解や目的性によって生じるのではなく、むしろ遊戯的に拡散する触媒の〈場〉なのだ。そうした技術的対象は、古い天使のように人間的形態をしてはいないだろうし、人格化されえない存在だろう。

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    パウル・クレー《新しい天使》(1920)、イスラエル博物館蔵
    出典: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Paul_Klee_~_Angelus_Novus_~_1920.jpg#/media/File:Paul_Klee_~_Angelus_Novus_~_1920.jpg

    ベンヤミンが『新しい天使』という雑誌を構想したのは、パウル・クレーの同名作品からの触発だ。本作は現在エルサレムのイスラエル博物館に収蔵されている。左方を見つめる天使のアウトライン(線描)は、気持ちが赴くままに一筆描きされたようでありつつ、多層的に空間を横断しながら、背景と天使の区別を——花柄の紙コースターのなかの珈琲のシミのように——ギリギリのところで成立させている(両手の表現を見てみてほしい)。たしかにそこにいるのだが、なぜか不在であるようにも感じられる存在。こうして感受される天使は身体であるというよりも異質な思考が衝突する〈場〉なのだ。

    そしてベンヤミンの雑誌『新しい天使』が「猫ミーム化するキュレーション」にとって重要なのは、雑誌編集が、まさに複数の書き手によるテキストを集めることで制作されるからだ。それは「DXP」展の後でつくられた『デジタル・バイツ』においても事情は同じである。キュレーションと編集は、経済的にも物理的にも異なる成立条件を持つが、それでもひとつの文脈において複数の要素(作品やテキストなど)を集める点では方法的に比較できる。ベンヤミンは『新しい天使』の予告で、本誌の「はかなさ」を強調しながら次のように述べている。

    というのも、真のアクチュアリティーを手に入れようとする以上、はかなさは当然の、正当な報いなのだから。じじつ、そればかりか、タルムードの伝えるところによるならば、天使は——毎瞬に新しく無数のむれをなして——創出され、神のまえで讃歌をうたいおえると、存在をやめて、無のなかへ溶け込んでゆく。そのようなアクチュアリティーこそが唯一の真実なものであり、この雑誌がそれをおびていることを、その名が意味してほしいと思う。[★12]★12

    おそらくAIをはじめとした技術的対象にかたちが与えられるのだとしたら、それは『新しい天使』のような、はかなさであろう。それはイリュージョンではない。新しい天使としての技術とは「異質な思考が衝突しあう中から、何らかの共同性が生成されるかもしれない、その実験を触媒する〈場〉」なのだ。言ってしまえば、AIとは他者ではなく惑星そのものとして捉える方が適切に思える。発散と収束を繰り返しながら歌う天使としての技術を通じて編集やキュレーションをすることができるのなら、そこにある作品や鑑賞者は、各々の自律性を保つことができるかもしれない。(だからこそ、本稿執筆後、金沢21世紀美術館のアシスタント・キュレーターである髙木遊によって「Everything is a Museum」[★13]★13が 開催されることで、震災によって鑑賞不可能になった作品の一部が再展示されたことは明記しておく。この点については別の場所で述べたい)

    そこで私たちが技術と共に生きる今日においてキュレーションについて考えるために、次回は「古い天使/新しい天使」について掘り下げたい。そのために辿るのはセカイ系だ。

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    ★01 「「人手不足は予想されていた」能登半島地震5カ月、いまだ1%台にとどまる建物の公費解体…立ちはだかる難題とは」『東京新聞』、2024年5月31日、https://www.tokyo-np.co.jp/article/330574 ★02 「21美、6月下旬全館再開 800枚超のガラス天井撤去 館20周年展は秋以降」『北國新聞』、2024年2月18日、https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1320673 ★03 中東壮史「ガラス800枚撤去の金沢21美、安全とデザインの両立が課題に」『日経クロステック』、2024年5月9日、https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/mag/na/18/00238/042600002/ ★04 この文言は、おそらく震災以前に書かれたものである。 ★05 金沢21世紀美術館のホームページには、以下のような企図が書かれている。「展覧会を記録した図録を超え、書籍ならではの構成で、アートとデザインの実践を紹介しながら、デジタルテクノロジーがもたらした〈人間〉の変化に迫ります」。 ★06 本展覧会にかんしては、DISTANCEの編集委員の山本貴光が進行役をつとめた展覧会紹介動画があるので、あわせてご参照ください。 https://www.youtube.com/watch?v=KzBahcRr_Ec (*2024/7/5現在、公開停止中) ★07 「AIくんと共に創る世界 in 京都」2024年2月4日にメディアショップで開催。髙木遊、本橋仁、砂山太一が登壇した。https://www.kanazawa21.jp/data_list.php?g=25&d=2070 ★08 遠藤薫「DXP——惑星たちがデジタルテクノロジーと遊戯するとき」『デジタル・バイツーーアート&テクノロジーの摂り方』BNN、2024年、30頁。 ★09 同前『デジタル・バイツ』、34頁。 ★10 1892-1940。ドイツの哲学者、文芸批評家、翻訳家。マルクス主義とユダヤ神秘主義の影響を受け、社会批評、文学批評、美学を含む多岐にわたり執筆し、後の文化理論に大きな影響を与えた。代表作には「複製技術時代の芸術作品」や「歴史の概念について」などがある。1933年、ヒトラー政権樹立とともにパリに亡命。1940年、ナチスの迫害から逃れる途中にピレネー山脈で服毒自殺。 ★11 前掲『デジタル・バイツ』、36頁。 ★12 ヴァルター・ベンヤミン「雑誌『新しい天使』の予告」『暴力批判論』野村修編訳、岩波書店、1994年、103頁。 ★13 2024年元日に発生した能登半島地震を受け、有事の際における美術館や芸術の意味を問い直す試みとして企画され、6月8日から21日にかけて、金沢市内11カ所のスペースで、同時多発的にさまざまな展覧会やイベントが開催された。

    布施琳太郎ふせ・りんたろう
    アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画、ボードゲームなどの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。主な活動として個展「新しい死体」(2022/PARCO MUSEUM TOKYO)、廃印刷工場におけるキュレーション展「惑星ザムザ」(2022/小高製本工業跡地)、600ページのハンドアウトを片手に造船所跡地を巡る展覧会「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地〔クリエイティブセンター大阪〕)、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とした展覧会「隔離式濃厚接触室」(2020)など。主な書籍に、『ラブレターの書き方』(晶文社)、『涙のカタログ』(PARCO出版)など。

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