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#3 リアクション化する世界——「遠距離現在」展とソーシャルメディア

#3 リアクション化する世界——「遠距離現在」展とソーシャルメディアの画像

インターネットがもたらした情報化社会の出現は、アート界の専門用語であった「キュレーション」という言葉に新たな意味を付与し、その概念を一般化してきました。と同時に、通俗化したキュレーションという行為が、アート界にも還流し、「キュレーション」という行為の根幹を揺るがしているのではないか。そんな問題意識をもった、アーティスト布施琳太郎さんの「キュレーション論」を、全8回の予定でお届けします。(連載リストはこちらより)

Contents

    リアクション化するアクション

     ここまで「猫ミーム化するキュレーション」という言葉のもとで、福尾匠の著作『眼がスクリーンになるとき』を踏まえて論じてきた。それは理論的側面から切り離されて実践的側面が強調された作品=猫たちについての論である。あえて理論と実践を切り分けて、私なりに表現し直せば、前者は普遍に、後者は特殊に対応する。複数の特殊=実践を未規定な対象として、普遍=理論によって外から枠付けることは批判されるべき適用主義である。しかし哲学や映画、キュレーション、そしてあらゆる制作は、理論と実践を内包する相互に独立した思考なのだ。そうして自律し合う領域が関係するとき、異なる文脈のなかで相互に新しい生成がはじまるはずだ。しかし猫ミームの制作と同じように、猫ミーム化するキュレーションにおける文脈の置き直しに、そのような緊張はない。

     そのうえで展覧会「遠距離現在」が新型コロナウイルスの感染拡大を歴史的断絶として前提したことの意味を考えたい。

     新型コロナウイルスによるパンデミックは、政治的にも経済的にも思想的にも対立する人々の境界を超えて、すべての人間に対して一元的に感染リスクという恐怖をもたらした。そのバックラッシュとして反ワクチン運動やコロナウイルス不在論なども叫ばれたが、それも感染リスクに対するリアクションである(このパンデミックがなければそのような運動や論もありえない)。パンデミックは感染嫌悪文化圏とでも言えるかたちで、ありとあらゆる行動を感染に対するリアクションへと変化させたのだ。できるだけ外出しないことも、集まって飲み会をすることも、ワクチンの接種も、非接種も、すべてが感染症に対する反動(リアクション)として社会のなかに再配置されていく。逸脱はありえない。「感染リスクなんて気にしない」ということもまた感染リスクへのリアクションだ。唯一の逸脱は本当に「新型コロナウイルスを知らない」ことだけだろう(知らないフリをするということではない)。こうして形成された感染嫌悪文化圏としての世界こそが「Pan- の規模で拡大し続ける社会」だと言える。

     感染嫌悪文化圏において、すべてのアクションはリアクションになる。行動は反応になる。それはソーシャルメディアをはじめとした投稿空間との相性が良い。ソーシャルメディアとはインターネットから情報を受け取るプロセスのなかにリアクションの可能性を埋め込む技術である。誰かが発信した情報の傍にある「いいね」「リポスト」「共有する」「フォロー」などのボタンは、情報の受信をリアルタイムのリアクションへと置き換えていく。その最たる例は、コロナ禍を経て利用者が急増したというマッチングアプリだ。相手の顔やプロフィールが表示された瞬間に、その人物が好ましいか否かを判断して左右にスワイプすることで他人を評価する「Tinder」や「タップル」のインターフェイスは、私たちが恋愛や性愛に対して能動的なアクションを起こすことなくリアクションするだけで良いところまでコミュニケーションを効率化する。

    すべてがリアクションとなる世界

     こうして導き出されるポスト・コロナの世界像とは、インターフェイスを通じてリアクション可能な範囲のことである。出社や登校、打ち合わせや授業、さらには入院中の親族や知人との面会、恋愛のはじまり、映画や音楽の鑑賞までがリアクションボタンが備えられたインターフェイス(Zoom、Google Meet、Classroom、マッチングアプリ、LINE、TikTok、NETFLIX、Amazon、note、Apple music、Instagram、YouTubeなど)を通じて行われるとき、世界の輪郭は、リアクション可能性の空間として囲い込まれる。そうした世界においては嘘と真実といった観念上の差異は消滅する。私たちが世界のなかに居場所を作ろうとするなら、自分が実在しようとするのなら、リアクションし、リアクションされ続けるしかない。それが今日の世界の条件だ。

     そして手元で行ったリアクションが、その瞬間に相手に伝達されること。相手の画面に通知がポップアップすること。それがコロナ禍を前提として用いられる「リモート化する個人」の意味だ。同じ場所に集まらなくても、これまでと同じように仕事をして、学業を納め、共に思考する可能性において「リモート〇〇」という言葉は使われる。

     しかるに「遠距離現在」のキュレーションにおける「Pan- 」と「リモート」の二軸は常に一体化している。現代のメディア環境にアクセスできる人々(コロナ禍を知っている人々)はすべからく「リモート化する個人」であり、そこでなされるリアクションこそが「Pan- の規模で拡大し続ける社会」そのものだ。もはや「社会」と「個人」に時間的な系列、概念上の区別を設けることはできない。

     「Pan-」と「リモート」を区別して2部構成にしようとしながら、各作品の並びのレベルで2軸が破綻して一体化した「遠距離現在」の会場構成は、あまりに正しく世相を反映し過ぎている。キュレーターが用いる「合わせ鏡」という言葉は、比喩としてでなく、錯乱した2部構成として現実化している。合わせ鏡をつくり出すキュレーションによって「遠距離現在」に展示された作品たちは——そのほとんどが2019年以前に制作されたにもかかわらず——リアクション可能性に規定されたポストコロナの世界へと繰り込まれてしまうのだ。ひとつだけ例を挙げれば、「遠距離現在」に展示された徐冰(シュ・ビン)の映画『とんぼの眼』(2017年)はネット上に公開されている1万台以上の監視カメラの映像を収集して、つなぎ合わせることでつくられた恋愛映画である。徐による問題意識と鑑賞者の映画的錯覚は、その達成の来歴を離れて、社会と個人の区別が困難なポスト・コロナの文脈へと置き直されることで、リアクション主義的な理解へと閉じ込められてしまうのだ。

     言い換えれば、ポストコロナの、遠距離現在化された世界の問題とは、すべてがリアクションへと還元されることで作品に内在する理論と実践の関係が無化されることである。すべての作品は新たなリアクションを生じさせるためのトリガーでしかない(それは時として「コンテンツ」と言われる)。こうして理論、つまり各領域の思想が完全に蒸発する。すべてがリアクションという実践になる。

    文脈からの自由という名のディストピア

     その無化や蒸発は、あらゆる実践に対して好きな枠組み=理論を適用する自由によって生じるものだ。猫ミーム化するキュレーションは、美術館のなかで理論や思想を蒸発させるのに役立つ。すべては理論と実践の区別からはじまる……だから消極的に「『遠距離現在』展は時代を象徴している」と言うこともできよう。

     こうした状況は「遠距離現在」展に展示する作家たち自身がこれまで取り扱ってきた政治思想、情報社会論、監視社会論、様々な接頭辞や修飾を加えられた資本主義論とその批判、ポスト・インターネットアート、リサーチ=ベースド・アート……などの理論を無化する。むしろそれらの理論を相互に適用する〈自由〉という名の荒野がひろがっている。この自由によって芸術や思想、哲学、あるいは制作やキュレーション、鑑賞の価値は完膚なきまでに蒸発する。それぞれの領域の自律性は消滅し、理論と実践の自由な適用というユートピアが到来した(正直に述べて近年の現代美術、キュレーションはこうした地獄を正しく実行している。これに抗するために私は書籍『ラブレターの書き方』(晶文社)において制作の自律可能性を論じた。だが「制作」に対して「キュレーション」から思考するために本連載は執筆されている)。

     猫ミーム化するキュレーションは、ポストコロナの、リアクション主義の社会を正しく表象する。そこにある文脈は「ポスト〇〇」あるいは「〇〇以後」という文脈のみである。それにもはや「シーンの中心」と呼べるような場(雑誌からSNS、展示施設に至るまで)は存在しない。現代にいたってなお、次なるシーンの中心を探すことは、ただひたすらにリアクション主義の迷宮に閉じこもることを意味する。そうした思考こそが猫ミーム化するキュレーションを誘発し、制作における理論や作品の来歴を消去して、正しく時代を表象するのだ。

     しかし「正しく表象しているから良いのだ」という開き直りに到達しないために、まだできることはあるだろうか? 

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    布施琳太郎ふせ・りんたろう
    アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画、ボードゲームなどの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。主な活動として個展「新しい死体」(2022/PARCO MUSEUM TOKYO)、廃印刷工場におけるキュレーション展「惑星ザムザ」(2022/小高製本工業跡地)、600ページのハンドアウトを片手に造船所跡地を巡る展覧会「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地〔クリエイティブセンター大阪〕)、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とした展覧会「隔離式濃厚接触室」(2020)など。主な書籍に、『ラブレターの書き方』(晶文社)、『涙のカタログ』(PARCO出版)など。

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