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#2 適用のキュレーション——福尾匠『眼がスクリーンになるとき』から考える

- 『眼がスクリーンになるときーーゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』フィルムアート社、2018年
インターネットがもたらした情報化社会の出現は、アート界の専門用語であった「キュレーション」という言葉に新たな意味を付与し、その概念を一般化してきました。と同時に、通俗化したキュレーションという行為が、アート界にも還流し、「キュレーション」という行為の根幹を揺るがしているのではないか。そんな問題意識をもった、アーティスト布施琳太郎さんの「キュレーション論」を、全8回の予定でお届けします。(連載リストはこちらより)
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Contents
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切り張りされる猫=作品
「遠距離現在」は、国立新美術館だけでなく、熊本市現代美術館や広島市現代美術館でも開催された。私が足を運ぶことができたのは国立新美術館だけだが、そこでは第1部(Pan-)と第2部(リモート)にあたる作家/作品が、展示動線上で、前後に入り混じりながら展示されていた。そのため私自身は二つの軸を区別して経験することはできなかった。
だが国立新美術館は、「遠距離現在」全体のキュレーターの尹志慧が勤務する美術館でもあるので、付随的な「巡回先」ということでもないだろう。カタログを読んでみると、Pan-とリモートが「対立概念ではない」とされ、「それぞれがお互いを映し出す、合わせ鏡のような存在」だと述べられているが、そうした循環構造を会場から読み取ることは困難だ。なぜなら第1部と第2部に属する作品が展示動線上で前後しながら展示されているからである。尹によれば、2部構成の試みは「見えないものを可視化する努力」だというが、こうして前後に断片化しながら渾然一体となったPan-とリモートにおいて、何が可視化されたのだろうか?
しかも社会状況から抽出された本展の2軸に対して、キュレーションの素材=作品は、当の社会状況(コロナ禍)と来歴的には無関係な作品群である。ここにおいて作品は、猫ミームにおける猫になる。作品を猫にするのが、猫ミーム化するキュレーションなのだ。そこではキュレーション=エピソードの枠組みが一方的に作品=猫に適用される。
適用主義とはなにか?
こうした適用について、批評や哲学研究などを行う福尾匠による議論から考えたい。福尾は2018年に『眼がスクリーンになるとき――ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』(フィルムアート社)[★01]★01を刊行した。本書はフランスの哲学者ジル・ドゥルーズの著作『シネマ1――運動イメージ』と『シネマ2――時間イメージ』(法政大学出版会)を論じたものだが、その冒頭では「この本の読み方」を示すようなスタイルで、先人たちの『シネマ』の扱いに対する批判がなされる。それは適用主義への批判だ。
映画を〔著者注:哲学の〕反省あるいは適用の対象とすること、つまり「映画についての哲学」をするということは、哲学の理論的な枠組みがあらかじめ完成しており、その枠組みを当てはめることによって映画という実践を説明するということを意味する。とうぜんこの場合、映画について何がしかの新しいことが言えたとしても、哲学の側に跳ね返ってくるものは何もない。哲学はあくまで堅牢な〈理論〉として、そして映画は理論が降ってくるのを待つ未規定な〈実践〉として想定されるからだ。[★02]★02
ここで批判されるような〈哲学〉が「実践に適用され、実践を反省するための理論的な枠組み」とまとめられるのなら、それは猫ミーム化するキュレーションと方法的に同義に思える。既存作品=猫の文脈の変更が可能なのは、それが理論(猫ミームであれば投稿主のエピソード/「遠距離現在」であればPan-とリモートの二軸)が降ってくるのを待つ未規定な対象だからである。その生の来歴が無視されながら一方的に切り貼りされる猫たちのように、理論が作品へと適用されること。実践への理論の「当てはめ」や「適用」において「哲学の側に跳ね返ってくるものは何もない」。それは作品制作とキュレーションの関係においても同じである。
そのうえで福尾がドゥルーズから導き出す哲学の定義とは、理論であると同時に、それ自体が概念を創造する実践でもあるというものだ。哲学の適用主義的な運用は、その実践的側面を失わせ、概念創造をおざなりにして、ただの普遍的な枠組みへと哲学を乏しめるのだ(念の為に言い添えておけば哲学だけでなく、映画をはじめとした芸術もまた実践であると同時に理論である)。適用主義的な哲学運用と同じように、猫ミーム化するキュレーションもまた、作品を未規定な実践=猫として説明しようとするとき、自分自身が変化したり、なにかを創造する実践である可能性を捨て去ってしまうのだ。
さらに福尾は以下のように述べる。
適用主義的な言説、理論と実践を截然と分割したうえで理論を実践に適用するタイプの言説においては、用いられる理論が堅固であればあるほど、対象に対して一見した印象から離れた主張を付与することができる[★03]★03
まるで猫ミームを説明したかのような一節だ。そうした前提から書かれた『眼がスクリーンになるとき』では個別の映画作品や監督、映画史に触れることはほとんどない。それでも映画を通じて哲学を行うために導入されるのが「フッテージ」(footage、素材=足場)という概念である。福尾は映画史から『シネマ』を切り離しながら、哲学を、フッテージ(映画の素材/映画という足場)のリテラリティ(見たまま、文字通りの性質)へと結びつけ直す。
だがフッテージという概念には、あまりに多くのものが期待され過ぎているように思えてしまうのも事実である。この点については連載全体で論じるが、ひとまずフッテージを前提することで、互いに独立した領域同士——理論と実践を各自内包する映画と哲学——が関係する『シネマ』を「ゼロから読む」こと。それが『眼がスクリーンになるとき』における福尾の態度である。
理論と実践は切り分けられない
ここで見逃していけないことは、適用主義への批判が、理論と実践の関係付けそのものに向けられたものではないことだ。本書で批判されるのは「哲学と映画」を「理論と実践」として区別したうえで、歴史的断絶(『シネマ』であれば戦前/戦後)を定位しながらなされる哲学から映画への適用である。そうではなく、哲学と映画が、互いに理論と実践を内包しているからこそ、それらが関係するときに、別なる生成を開始する可能性。ここにこそ『眼がスクリーンになるとき』の賭けは集中している。
一方から他方へと枠組みを当てはめること。その緊張感のなさを展示芸術における「キュレーションの暴力性」と言ってもいいのだが、やはりいったんは「猫ミーム化するキュレーション」と言うにとどめよう。理論から切り離された実践とは猫ミームの猫なのだ。だからこそ「猫ミーム化する哲学」や「猫ミーム化する編集」を想定することもできる。
「遠距離現在」に展示された作品群が、コロナ禍を経て、これまでとは違って感じられるのだと信じること(キュレーション)ができるのはなぜだろう? ここではキュレーションが、芸術作品によって、分裂しながら再統合されるような危機こそが回避されている。Pan-(全世界規模)のリモート化という歴史的断絶を根拠に、作品を別の文脈に置き直すことで、作品の実践的側面を強調すること。それこそが猫ミーム化するキュレーションの条件である。
しかし芸術作品はそれぞれに思想や理論を内包している。そのことを踏まえてキュレーションを行うために必要なことはなんなのだろうか? それが連載全体の問いだが、次回はいったん現代社会の状況を整理したい。
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★01 河出書房新社より2024年文庫化予定。 ★02 福尾匠『眼がスクリーンになるとき――ゼロから読むドゥルーズ『シネマ』』2018年、フィルムアート社、20頁。 ★03 同前、25頁。

- 布施琳太郎ふせ・りんたろう
- アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画、ボードゲームなどの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。主な活動として個展「新しい死体」(2022/PARCO MUSEUM TOKYO)、廃印刷工場におけるキュレーション展「惑星ザムザ」(2022/小高製本工業跡地)、600ページのハンドアウトを片手に造船所跡地を巡る展覧会「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地〔クリエイティブセンター大阪〕)、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とした展覧会「隔離式濃厚接触室」(2020)など。主な書籍に、『ラブレターの書き方』(晶文社)、『涙のカタログ』(PARCO出版)など。