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この偶然性に一緒に身をゆだねること

記憶と引用について

この偶然性に一緒に身をゆだねることの画像
写真:高橋宗正

インターネットは、かつて図書館や博物館のメタファーで語られていました。記録メディアの飛躍的な向上、さらにはオープンで集合知的なその性質によって、無限に記録と記憶が可能な開かれた情報環境が実現し、世界の共通のインフラが生まれる、かつてそんな夢が描かれていました。

しかしながら、めまぐるしく押し寄せる情報の波は、過去をまたたくまに押し流し、私たちの足場を時々刻々と組み替えています。さらには、精度の低い情報、偏った情報、誤った情報が流通し、情報環境の劣化、タコツボ化、汚染にもさらされています。いわば、記録も記憶もおぼつかない情報環境のなかで、私たちはこれからどのように、記憶を共有し、共同体を形成してゆけばいいのでしょうか?

本シリーズでは、「記憶のケア」というテーマのもと、わたしたちの情報環境を見つめ直します。哲学者の谷川嘉浩さんは、ドミニク・チェンさんとのトークで話し忘れたことから、記憶の共同性と、その共同性を活性化するバグや引用の役割へと思索をめぐらします。

Contents

    子どもの前で日本語を忘れるドミニク・チェン

    トークイベントでドミニクさんと対談したとき、とりあげ忘れていたエピソードがあった。『未来をつくる言葉』(新潮社)の中で、ドミニクさんが子どもに対して「日本語を忘れた」という虚構を演じた話だ。

    娘はいま、幼少期のわたしと同様に、東京で生まれ育ち、フランス語の学校に通っている。日本の保育園で過ごしてきたので、日本語を先に習得し、フランス語は3歳になってから覚え始めた。2年ほどが経ち、フランス語で話しかけると大体のことは理解する。しかし、なかなか自分からフランス語を話そうとはしない。[★01]★01

    だから意識的にフランス語で話しかけたとしても、子どもの方はドミニクさんが日本語を理解していることを知っているので、日本語で返答してくる。嫌々フランス語を強制することなく、日本語による返答という「無限ループ」を脱するにはどうすればよいだろうか。

    娘の言語環境をどう育むかに悩んだドミニクさんが出したのは、「娘の前では日本語を忘れたふりをする」というユーモアある回答だった。

    帰宅と同時に、娘にフランス語で「パパはさっき転んで、電柱に激しく頭をぶつけちゃったから、日本語が話せなくなった」と真顔で伝えた。それを聞いた娘は呆気に取られたが、すぐにいたずらっぽい笑みを浮かべて「パパ、嘘ついてるんでしょ?」と日本語で聞き返してきた。それでもひたすら「え、日本語だと何を言っているのか全然わからないよ」とフランス語で答え続けた。[★02]★02

    その姿を想像すると滑稽に思えるが、実際的な効果を発揮した対応だったようだ。自分の状況について家族や学校の関係者に目配せして伝えつつ、「頭を打って日本語を忘れた」という虚構を演じ続けた結果、子どものフランス語表現は急速に豊かになっていった。

    フランス語での表現能力をすばやく身につけていった娘の姿をみて、「言葉を発する能力はすでに潜在していたが、文法を間違えることへの恐れや慣れない言葉を口にする恥ずかしさが、その開花を妨げていた」とドミニクさんは推理している[★03]★03。疑似的な失語症生活という事故によって、子どもの自由な発話習慣を育み、新しい言語を自分の身体に馴染ませる環境を構築できたのだ、と。

    こうした解釈は十分妥当するだろうが、これとは別の「記憶」(あるいは「記憶の推定」)という観点からも、このエピソードを掘り下げることはできるはずだ。記憶の観点から見れば、この話題はどう見えるだろうか。そうドミニクさんに話題を振ろうと思っていたのだが、話の流れに身を任せるうちに、すっかり忘れてしまっていた。落穂拾いのように、イベントでは語り落してしまった論点をすくって、ここに示すことにしたい。

    会話のコンテクストは、相互の「記憶の推定」によって編まれている

    子どもは最初、父親が嘘をついているのではないかと疑っている。電柱に強く頭をぶつけたとしても、それで言語を忘れるなどとは信じがたい(マンガやアニメじゃあるまいし)。それでも、ドミニクさんが粘り強く日本語を理解しないふりを続け、フランス語にだけ反応していると、ついに彼女は「頭を強く打てば、言語上のトラブルが起こることもあるのかもしれない」と考えるようになった。

    このエピソードから読み取れるのは、相手が何を知っていて、何を知らないかを人は自然に推定しているということだ。そうした「記憶の推定」に基づいて、私たちは相手の言動や考えについての予測を立て、コミュニケーションという複雑な作業をやりおおせている。つまるところ、記憶が一人の人間の中だけで完結することはない。相手の記憶を察しながら相手の言動の予測を組み立て、それによって自分の行動を絶えず調整するような、相互参照的な性質を持つものなのだ。

    これは、いくらか意外な印象を生むだろう。大抵の場合、記憶はごく個人的なものだと思われているからだ。私が日本語と英語がそれなりに使えるという記憶や、夜中にチャットモンチーの「染まるよ」を聴きながら地元の高架下をとぼとぼ歩いた記憶、そして、学部生の頃、初夏に小ぶりなスイカを一玉買ってきて、一人で少しずつ食べきった記憶は、私(谷川)個人に属するものだ。これを誰かの記憶と取り違えることはない。これを他の誰かに帰属させることはない。そういう意味では、記憶を「私的」とか「個人的」だと考えるのもやむをえないように思える。

    しかし、コミュニケーションという文脈に「記憶」という言葉を持ち込めば事情は変わってくる。ドミニクさんと子どものやりとりを眺めればわかるように、その人が何を知っていて、何を知らないかという「記憶の推定」がコミュニケーションの前提として存在している。相手の記憶を察して、相手の言動や思考を予期するという相互参照的な作業は、実のところ、どんな会話でも必要とされる。

    「コンテクスト」と呼ばれるものは、こうした記憶の相互参照によって織り上げられている。相手が何を知っていて、何を知らないかを推定し合うことで、私たちは、相手が何を考えていて、どう行動しそうかを予期している。記憶をめぐる相互参照的な作業が滞りのない会話を生み出すとき、「私たちはコンテクストを共有している」と言うことができる。滑らかな会話の背景には、「記憶」という論点が隠れている。

    逆から見れば、コミュニケーションの滑らかさは、こうした「記憶の推定」が相互に首尾よく遂行されているときに生じている。コンテクストが問題なく共有されているとき、あるいは、その共有にトラブルがほとんどないか、無視できる程度であるとき、私たちは滑らかに話すことができる。

    ドミニクさんとの会話の中で、子どもが戸惑った理由もここにある。父親とのあいだで滞りなくできていた記憶の相互参照が、「パパはさっき転んで、電柱に激しく頭をぶつけちゃったから、日本語が話せなくなった」のひと言で滞った。コンテクストの共有が綻びを見せる。一緒にコンテクストを織っていて、「相手の記憶はこんな感じ」と推定するルーティンがうまく機能していたはずなのに、急にはしごを外されて、従来通りの記憶の推定ではうまくいかず、相手の言動が予測できなくなる。

    会話のバグが、コンテクストを編み直すきっかけに

    トラブルでコンテクストが共有できなくなるとき、会話の滑らかさは失われる。しかし、私たちはその状態に甘んじず、コンテクストを編み直そうと試みるはずだ。この滑らかさの喪失や滞りを、「バグ」と呼んでみよう。そうすると、この事態は「記憶の相互参照の作業に少しだけバグが混じるとき、コンテクストは別の仕方で編み直されうる」と表現できる。つまりは、バグは会話を新しくする。

    そういえば、ドミニクさんの『未来をつくる言葉』の主題の一つは、「バグに対応する中で、会話に別のテーマが差し込まれる」という出来事だった[★04]★04。それと同じことだ。バグはコンテクストを編み直す。今あるコンテクストにバグが生まれるとき、会話はレールを外れて、別の方へと向かっていく力を帯びる。

    冒頭で示した会話を思い出そう。ドミニクさんが子どもにフランス語を話すとき、ただ単にフランス語を話しているわけではない。むしろ、これを「状況の創出」と捉えた方がいい。つまり、子どもが父親についての従来通りの記憶を参照しても、うまく会話ができない状況を創出しているのだ。それは、子どもにとってバグや事故にも似た状況だ。ルーティン通りの予想では対応できない。記憶の推定がバグってうまくいかない以上、父親と会話を続けたいなら、新たにコンテクストを編み直さねばならない。

    これまで通りのコンテクスト——父親は日本語を話すことができる——を反故にして新たな状況を創出する虚構的な演技は、こうした記憶の相互参照的な作業に「バグ」を生じさせ、結果的に、二人は会話のボキャブラリーを変えてしまった。会話に新たな展開を望むのなら、「これまでの流れで行ける」と思っている会話相手が少しつまずくようなノイズを仕込むことだ。これまでのコンテクストが部分的にバグった状況を創出する。要するに、会話のバグは、「これまでのコンテクストを編み直したい」という提案と捉えられるのである。

    「引用」は、会話のリズムをダイナミックにする

    やや唐突に思えるかもしれないが、「引用」もコンテクストの故障を引き起こす格好のツールだ。たとえば、押井守監督の映画『イノセンス』には、「『個体が作り上げたものもまた、その個体と同様に遺伝子の表現形だ』って言葉を思い出すな」という引用が出てくる。元々は、リチャード・ドーキンスの言葉であり、バトーという人物が、トグサとの会話それをに持ち込んでいる[★05]★05

    少し前後を引用してみよう。

    バトー かつて、極東最大の情報集約型の都市として建設され、栄華を極めた択捉経済特区、その成れの果てが、この巨大な卒塔婆の群れだ。国家主権が曖昧なところに漬け込まれて、今じゃ多国籍企業やそのおこぼれに与る犯罪組織の巣窟。国連のネットポリスやASEANの電警も手が出せない無法地帯になっちまった。「個体が作り上げたものもまた、その個体と同様に遺伝子の表現形だ」って言葉を思い出すな。

    トグサ それってビーバーのダムや、クモの巣の話だろ。

    バトー 珊瑚虫の生み出すサンゴ礁といってほしいな。ま、それほど美しくはねえが。生命の本質が遺伝子を介して伝播する情報だとすると、社会や文化もまた膨大な記憶システムに他ならないし、都市が巨大な外部記憶装置ってわけだ。

    こうしてよく知られた名句を引用することもまた、今共有しているコンテクストを少し故障させる。二人の眼前には、人間が作った都市(択捉経済特区)が広がっており、それについて会話しているのであって、ドーキンスについて話しているわけではない。だから、バトーによるドーキンスの引用は、会話における小さなバグのようなものだ。実際、トグサの返答は、バトーの引用がコンテクストをバグらせたことを皮肉るものだった。その皮肉を受け流しながら、バトーはドーキンスの視点で都市を見つめるようにと再びバグを導入している。

    ここで生じている会話のリズムはとても複雑だ。ある人物がコンテクストをバグらせ、もう一人が皮肉によって修復するが、バグが再導入される。引用が、会話の流れを少しだけ波立たせている。引用によって、滑らかな会話はダイナミックなリズムを刻む。片方が会話の新たな流れを提案し、他方がそれを退けるが、もう一度新たな流れが差し込まれる。

    考えてみれば、「パパはさっき転んで、電柱に激しく頭をぶつけちゃったから、日本語が話せなくなった」と子どもに告げることは、子どもの知らない過去を「引用」する行為だったと言える。だから、これまでの事例はすべて「引用」という論点を中心にまわっていたと考えてもいいかもしれない。

    本来のコンテクストから視点や話題を記号として切り離し、現在のコンテクストに差し込むことを何であれ「引用」と呼ぶとすれば、引用には流れを少しだけ波立たせ、バグらせる働きがある。つまり、引用は、今ここにあるコンテクストを超えたものを持ち込むことで、会話のリズムを複雑な変拍子にしてしまう。そうしたバグのおかげで、同じ会話のリズムで踊り続けることなく、いつでも違ったリズムで会話のダンスをすることができるのだ[★06]★06

    引用は、偶然性に身をゆだねようという提案

    科学哲学者のイアン・ハッキング[★07]★07は、多重人格が流行していた頃の文章で、「過去についての物語を組み立てることによって、われわれが記憶と呼ぶものによって、われわれは魂を構成する」と記している[★08]★08。多重人格の話は脇に置いて、この命題をこれまでの話に持ち込むことにしたい。

    ドミニクさんは事故による記憶喪失の演技を通して、記憶の編成が書き換わった状態であると子どもに示した。記憶にバグが生じたと語る父親に接し、子どもの側は、戸惑いとともに、彼が部分的には別の人間になったことを了承していった。ハッキングが言うように、記憶が書き換わることは自分そのものを書き換えることにつながるのだが、記憶の書き換えは、その記憶を参照しながらコンテクストを編んでいる他者にも影響するのである。

    この話は、記憶喪失の演技だけでなく、引用全般にまで一般化できる。これまでの会話を超越した何かを持ち込む「引用」という行為は、会話の流れにバグを持ち込むことなので、記憶の相互参照のあり方に影響しうる。言い換えると、引用は「これまでとは違うリズムで、あなたとのこの会話を継続したい」と提案することであり、「あなたと私の関係をほんの少し変えたい」と提案することに等しいのである。

    引用は、これまで編んできたコンテクストに含まれていないものを会話に持ち込む。そのバグが会話を変える可能性を持っていることは確かだが、会話の流れがどう展開していくかは、誰にも予想しきれない。それを「偶然性」という短い言葉で表現することもできる。つまるところ、引用とは、そういう偶然性に一緒に身をゆだねたいという提案なのである。ドミニクさんと子どもの会話と、「イノセンス」の会話を頭の中で反芻しながら、そんなことを私は考えていた。

    ★01 ドミニク・チェン『未来をつくる言葉——わかりあえなさをつなぐために』新潮文庫、2022年、pp.168-9 ★02 前掲『未来をつくる言葉』、p. 170 ★03 前掲『未来をつくる言葉』、p. 171 ★04 前掲『未来をつくる言葉』、p. 48。 身体のバグとしての吃音(難発)について、「なにかを言おうとして難発が生じそうになると、別の言葉を使うのだが、そうすると別のテーマが会話に差し込まれることになり、脱線しやすくなる」とドミニクさんは記している。 ★05 この会話は、トークイベントに登壇した山本貴光さんが『記憶のデザイン』(筑摩書房)の中で引用している。 ★06 小説家の柴崎友香が『あらゆることは今起こる』(医学書院、2024年)で扱っている、余談や脇道、連想などのテーマは、「引用」がもたらす「バグ」の話として読み解くことができる。 ★07 (1936-2023)。カナダの哲学者。科学哲学および分析哲学の分野で大きな影響力をもち、「社会的構成主義」をめぐるサイエンス・ウォーズで独自の見解を示した。スタンフォード大学、トロント大学、コレージュ・ド・フランス、などさまざまな大学で教鞭をとった。主な著書に、『マッドトラベラーズ』、『何が社会的に構成されるのか』(ともに、岩波書店)、『偶然を飼いならす』(木鐸社)など。 ★08 イアン・ハッキング『記憶を書きかえる——多重人格と心のメカニズム』 北沢格訳、早川書房、1998年、p. 311

    谷川嘉浩たにがわ・よしひろ
    哲学者。1990年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(筑摩書房)、『スマホ時代の哲学』(ディスカバートゥエンティワン)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎、共著)など。

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