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#5 天使たちのセカイ——北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』から考える

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『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』(太田出版)

インターネットがもたらした情報化社会の出現は、アート界の専門用語であった「キュレーション」という言葉に新たな意味を付与し、その概念を一般化してきました。と同時に、通俗化したキュレーションという行為が、アート界にも還流し、「キュレーション」という行為の根幹を揺るがしているのではないか。そんな問題意識をもった、アーティスト布施琳太郎さんの「キュレーション論」を、全8回の予定でお届けします。(連載リストはこちらより)

Contents

    「オペレーター」としての作者――装置を通じて生成するセカイ①

    2024年4月末。批評家の北出栞による著書『「世界の終わり」を紡ぐあなたへーーデジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』(太田出版)が刊行された。セカイ系について、装置(コンピューターのインターフェース、つまりテクノロジー)との接触から思考し、その接触を通じて作品や主体をつくることができるのだと論じる本書には多くの天使が登場する。そこで連載前回 、金沢21世紀美術館での展覧会「DXP」と関連書籍『デジタル・バイツ』における技術理解の分岐点として取り出した古い天使/新しい天使について、本書を通じて考えてみよう。

    かつてセカイ系について多く論じた批評家の東浩紀は「プレイヤー」と「主人公」が重なり合った物語表現を「ゲーム的リアリズム」と表現したが[★01]★01、本書において北出はそうした操作的なリアリズムを音楽、そして歌とそれに付随する視覚表現(アートワークやミュージックビデオ)へと展開させた。たしかに、これまでのセカイ系論の中心に置かれた文芸やアニメ/映画、ゲームだけでなく、浜崎あゆみからボーカロイド、Tohji、nyamuraまでの音楽作品群にセカイ系の類型を見出そうとしたことは興味深い。しかしだからこそ本書における前半(二章から四章)と後半(五章以降)は、それぞれ異なるセカイ系理解を示しているように思える。天使が論じられるのは後半部だ。

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    『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』目次内容(編集部作成)

    本書前半では庵野秀明、新海誠、麻枝准が論じられる。これまでもセカイ系の系譜に置かれてきた作り手である。そこで提示されるのは「オペレーター」としての作者である。

    オペレーターとは、〔著者注:コンピュータや多様なインターフェースという〕「道具」を用いて意図通りの世界を描き出す主体ではなく、「装置」と協働して世界の情報を取り込み、新たな形に組み替えて出力する主体である。[★02]★02

    セカイ系の作者=オペレーターは装置と協働する。オペレーターたちは、無数のカメラアイによって撮影された大量のカットやアングルを有限の時間のなかで選択して編集したり(庵野秀明『シン・エヴァンゲリオン劇場版』)、Adobe Photoshopなどの画像編集ソフト内でレイヤーを重ねるように、遠く隔てられた声と声、景色、人物などを重ね合わせたり(新海誠、ゲーム『ブルーアーカイブ』のプロモーション映像)、音や映像、画像などの様々なデータをプログラミングによって同期させながら展開させる(麻枝准によるゲーム制作)。北出によれば、オペレーターは、コンピュータのインターフェースに触れることで立ち上がる「半透明」な感覚を作品化する。それが第一のセカイ系の定義である。そこで技術は、たんに技術であり、人格化されない。

    「映画『天気の子』スペシャル予報」、多数の作品内の声と映像をコンピュータ(装置)によって接触させる操作によって「半透明な感覚」が表現されていると言えるだろう

    「セカイ系的主体」――装置を通じて生成するセカイ②

    これに対して、本書後半は、2007年の『VOCALOID2 初音ミク』発売によって今日にいたるまで隆盛を極め続けるボーカロイドカルチャーを起点として論じられる。重要なのは音楽制作ソフトについての記述を通じて明かされる「セカイ系的主体」という概念だ。

    「セカイ系的主体」を改めて定義すると、「エディタ」が「ライブラリ」に登録されたバラバラな音声データをひとつの「歌」という単位に統合する際に、ソフトウェアとともに「作る」人の中に立ち上がってくるイメージのことだと言えるだろう。[中略]「作る」ことのアシストをしてくれる〔著者注:初音ミクをはじめとした〕相棒のような存在が「セカイ系的主体」なのだ。[★03]★03

    作ることのアシストにおいて焦点化されるのは主体や実存の問題である。北出は、初音ミクを用いた楽曲『メルト』(2007年)で知られるsupercellのryoのインタビューを踏まえたうえで、作り手自身が「自分ではない何者か」へと成り代わり、「作曲家の主体性の移行を手助けする」のがセカイ系的主体なのだとまとめる[★04]★04。初音ミクをはじめとした歌う装置が当たり前になった「ポスト・ボカロ」と呼ばれる時代状況こそが、セカイ系的主体を浸透させたのだとされるが、それは結果としてソーシャルメディアのなかで「浮遊するセルフイメージ」を受け止める天使=キャラクターを要請したという[★05]★05。もはやキャラクターは「萌える」対象ではなく「自分自身の実存を受け止めてくれる対象として捉えられている」のだ[★06]★06。それはその後のnyamura、YOASOBI、Tohji、浜崎あゆみ、Telematic Visionsらについての議論へと展開する。つまりセカイ系的主体はボーカロイドそのものや、その使用によって条件づけられるのではない。

    セカイ系的主体とは、一方では初音ミクをはじめとした歌う装置であり、他方ではそうした天使=キャラクターに受け止められる浮遊するセルフイメージである。この重なり合いこそが再定義されたセカイ系的主体であり、そのときコンピューターは「装置」でありながら主体性の移行を手助けする。初音ミクに限らず、2019年に1stミックステープ『angel』をリリースしたTohjiなどのミュージシャンらが好んで使用するオートチューンという音声加工技術は、まさに天使的な、主体性の移行を手助けする技術だろう。

    Tohji『Phenomeno』(2024年)

    〈場〉としてのセカイを生みだすために

    装置を通じて生成する二つのセカイ。『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』の前半では「作品=世界」(セカイ)が、後半では「主体=私」(セカイ)が論じられた。それを無謀にも圧縮してみて「装置によって『自分ではない何者か』へと成り代わった私による生成」をセカイ系の定義として引くのなら、遠藤薫が書籍『デジタル・バイツ』で述べた「異質な思考が衝突しあう中から、何らかの共同性が生成されるかもしれない」という〈場〉=新しい天使とは、セカイである。その〈場〉は、古い天使のように人間的形態をしているのではなく、異質な思考の衝突プロセスであり、「非生命体(物質・機械)も含む、全惑星であり、全宇宙」の「はかなさ」なのだ。

    展覧会「DXP」や書籍『デジタル・バイツ』でなされたようなAIをはじめとした技術的対象や装置の人格化は、新しい天使という〈場〉を、コミュニケーションの交通経路ではなくしてしまう。そこに人間的形態というイリュージョンをチラつかせて、共犯可能な他者にしてしまう。そのとき、技術的対象は、私=始点に対する鏡像的な他者としての終点になる。そうではなく多様な終点に向けた私の発散と収束のための〈場〉として、ひとつの交通経路として、技術や装置は理解され用いられるべきだ。それが果たされるなら、キュレーションや編集は、作品と展覧会や書籍、あるいは社会と個人を区別しながら結びつけるための独立した営みとなるだろう。

    そうでなければリアクション主義の社会のなかで、私たちは、浮遊するセルフイメージにかたちを与えることができずにただ拡散して消滅してしまう。だが初音ミクやオートチューンという技術は、それに抗う〈場〉であり、つまり新しい天使である可能性があるのだ。私たちは新しい天使を通じて歌や文化、そして芸術を制作することもできるかもしれない。

    だが世界と私の短絡こそがセカイ系に対する批判の典型だったことも忘れてはならない。セカイ系という様式は、本来あるはずの中間項(社会や政治、経済)を無化するものだった、と批判されてきたのだ。しかし同時に、北出の議論を前提にしたとき、セカイ系を通じて、「私」と「あなた」が、そして「私」と「世界」がそれぞれにバラバラであることの根拠=交通経路としての経済について論じることも可能に思える。もちろん本書の北出はそんな話はしていないが、それでも、その方向に私は賭けてみたい。それがある瞬間に批判されるべきセカイ系へと反転する可能性を踏まえても。

    現代においてキュレーションとは何か? 時代を表象する以外のことは可能なのか? つまり……文脈操作による作品の猫化から離れてキュレーションすることはできるのか? それを知るためにこそ、私は、天使という〈場〉についてさらなる掘り下げをしたい。それは福尾匠が『眼がスクリーンになるとき』で示した概念「フッテージ」の輪郭を辿り直すことにもなるだろう。

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    ★01 東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2』講談社現代新書、2007年。例えば桜庭和樹の小説『All you need is kill』では、ゲームをプレイするように、ひとつの出来事を繰り返し「やり直す」ことで物語が展開する。 ★02 北出栞『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』太田出版、2024年、64頁。 ★03 同前『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』、138-139頁。「セカイ系的主体」という概念は中田健太郎の論考に由来する。中田健太郎「主体の消失と再生 セカイ系の詩学のために」『ユリイカ2008年12月臨時増刊号 総特集=初音ミク』青土社。 ★04 同前『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』、150頁。 ★05 同前『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』、171頁。 ★06 同前『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ』、173頁。

    布施琳太郎ふせ・りんたろう
    アーティスト。1994年生まれ。東京藝術大学美術学部絵画科(油画専攻)卒業。東京藝術大学大学院映像研究科(メディア映像専攻)修了。スマートフォンの発売以降の都市における「孤独」や「二人であること」の回復に向けて、社会を成立させる日本語やプログラム言語、会話などを操作的に生成し直すことで、映像作品やウェブサイト、絵画、ボードゲームなどの制作、詩や批評の執筆、展覧会のキュレーションなどを行っている。主な活動として個展「新しい死体」(2022/PARCO MUSEUM TOKYO)、廃印刷工場におけるキュレーション展「惑星ザムザ」(2022/小高製本工業跡地)、600ページのハンドアウトを片手に造船所跡地を巡る展覧会「沈黙のカテゴリー」(2021/名村造船所跡地〔クリエイティブセンター大阪〕)、ひとりずつしかアクセスできないウェブページを会場とした展覧会「隔離式濃厚接触室」(2020)など。主な書籍に、『ラブレターの書き方』(晶文社)、『涙のカタログ』(PARCO出版)など。

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