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#1 アダム・タカハシ『哲学者たちの天球』(後篇)

読書としての哲学史ー〈註解〉から浮かび上がる中世の自然哲学

読書としての哲学史の画像
人物写真:佐藤祐介

「博論本」とは、博士論文を書籍化したもののこと。新連載「『博論本』を聴く」では、人文ライターの斎藤哲也さんが、刺激的な博論本の著者インタビューを通じて、その面白さを読み解くとともに、研究の一端を紹介していく企画だ。発行部数も少なく、高価で、専門的な内容ゆえに埋もれがちだが、「未知のテーマや問題を探求した成果をまとめた博論本は、新たな知にアクセスできる格好の媒体」と斎藤さんは言う。

第一回目は、『哲学者たちの天球――スコラ自然哲学の形成と展開』(名古屋大学出版会、2022年)の著者である哲学史家のアダム・タカハシさんにご登場いただいた。古代ギリシアの哲学者アリストテレスによって残された書物が、複数の言語や文化圏、そしてさまざまな解釈者を経て読みつがれることで、どのように西欧の知的風土をかたちづくったのか――。〈読書としての哲学史〉という、新しいジャンルを切り拓いた本作誕生の秘話に迫る。(前篇はこちら

Contents

    世界の統治の諸原理をめぐる争い

    斎藤 「天体の魂」というアイディアを世界の統治の点から理解しなければならないというのは、驚きの展開ですね。ひらめくきっかけは何かあったんですか。

    タカハシ 糸口になったのは、ここまで以上に専門的な話になって恐縮ですが、アフロディシアスのアレクサンドロス[★07]という古代末期のアリストテレス註解者の解釈でした。彼はキリスト教徒ではなかったので、創造し救済する唯一神という考えと無関係に、アリストテレスを読み解くことができた。すると、アリストテレスが示唆している程度の「魂を有する天体」という考えに理論的な重心をおいて解釈できたのです。アヴェロエスはその読みを受け継いだということになります。

    ちょうど私が研究を開始した時期にアレクサンドロスについての研究も本格化してきていました。それも非常に幸運でした。ただ、アレクサンドロスの影響をラテン語の中世哲学の文脈で考えていくというのは、魂論や論理学の一部の著作以外では、正直未開拓な状況でした。中世のアリストテレス受容というと、どうしてもトマス・アクィナスの影響などからか、キリスト教の神学と調和的なものとしてアリストテレスの思想をとらえてしまう傾向があります。でもそれとはまったく違う理解の体系をアレクサンドロスは提示していたんですね。

    そうやって振り返ると、ふつう修論というのは出発点で、博論はそれを発展させていくものだと思うんですけど、私の場合は修論が終着点なのです(笑)。というのも、修論ではアルベルトゥス、その後、アヴェロエスを研究して、行き詰まったところで古代末期のアレクサンドロスというふうに、結末からどんどん時代を遡っているからです。

    斎藤 雑誌『現代思想』の2021年1月号にアダムさんが寄稿されていた「神なる天体——中世における自然哲学」を読んで、非常に印象的だった一節があります。

    中世における「哲学」と「神学」との対立は、単に理性的な学知と信仰との対立といった表面的な水準で争われていたのではない。この世界を治めるものは何者なのか、そしてその支配は個人と人間という種のどちらの次元に及ぶのかをめぐる、この世界の統治の諸原理をめぐる争いだったのである。

    まさにアダムさんの博論は、アリストテレスへの註解を通じて、「この世界の統治の諸原理をめぐる争い」にメスを入れるものだったわけですよね。

    タカハシ そこに注目していただいて本当にありがたいです。中世のスコラ学って、結局、アリストテレスの哲学とアウグスティヌス[★08]の神学を組み合わせたところで成立していました。ただ、トマス・アクィナスとかを読んでいると、良く言えば偉大な「総合」と見ることもできますが、別の側面からすると、両者が調和されすぎているために本来持っていた対立点が見えにくくなってしまいます。

    当時の文書を見ると、アリストテレス主義者たちの天体をめぐる話が神学者たちの批判の的となっていたことがわかる。でも、その理由は哲学者たちの宇宙論が理論的に間違っているとか、そういう水準の話ではないわけです。じゃあ、どうして神学者たちは執拗にアリストテレス的な哲学を批判したのか。探っていくと、この世の統治の原理をめぐる争いにあったのではないかということが徐々に見えてきました。そういう視点を自然と思いついたのは、学部で政治思想のゼミに出ていたせいかもしれません。

    斎藤 天体には魂があるという考えを、教会は危険思想と見なしたということですよね。

    タカハシ そうです。神学の立場で言えば、唯一神がこの世界の真の統治者です。その代理が教会やそこに所属する聖職者、そしてその教会によって正統性を付与されるのが世俗の君主ということになる。もちろん、これは非常に簡略的な説明ですが。でも、アレクサンドロスやアヴェロエスといった「哲学者」たちが考えたように、もしこの世界の実際の統治が唯一神ではなく、魂を有する天体が担っていたらどうなるでしょうか。そういう教会のロジックが崩れることになります。当時の神学側からの哲学批判を読むと、どうしてこんなに天体の話ばかりしているのかと思うのですが、そう読み解くと筋が通るのではないかというのが私の議論になります。

    ★07 アフロディシアスのアレクサンドロス
    2世紀後半から3世紀前半にかけて特にギリシアのアテナイで活動した哲学者。アリストテレスの主要な著作に対するギリシア語の註解を残したが、その多くは現存していない。

    ★08 アウグスティヌス(354ー430)
    古代末期のキリスト教を代表する神学者。その後のラテン語文化圏における神学的伝統の基礎を築いた。著書に『告白』『神の国』など。

    註解を読むことの醍醐味

    斎藤 『哲学者たちの天球』では、註解を読み解くことの面白さも堪能しました。アリストテレスのような大物でも、まだまだ未発掘の註解がたくさんあるんですね。

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    タカハシ とくに自然学関係について言えば、実際に読める資料は現在でも手薄です。たとえばアヴェロエスにしても、彼の自然哲学の基本となる『自然学』の註解書(『大註解』)は、まだ全体の校訂本も、もちろん現代語訳もないのです。そうなると読む人も限られているし、そもそも註解書に対して「結局、アリストテレスの単なる解説書でしょ」といった先入観もまだまだ根強くありますから。

    斎藤 そういう先入観のある人ほど、『哲学者たちの天球』を読んでほしいですよね。本のなかに「曖昧かつ多義的なテクストを整合的に説明しようとした註解者たちは、本来のテクストで明示されている以上のことを促され、結果的に彼らが信じる世界像を告げてしまうことになる」と書かれているように、註解書のなかで、単なる解説以上のことが語られてしまうわけですよね。

    タカハシ この本を出版して、読むことに定位した哲学研究という点を評価してくださった方が予想外に多かったんです。大変嬉しい誤算でした。註解や解釈というのは、単なる説明でありつつ、全然違う議論に繋がっていくわけです。しかもアリストテレスの場合、ギリシア語からアラビア語で訳され、註解されたものがラテン語に訳されていきますから、その過程で変化していくこともあります。

    読書論的な研究は文学研究ではずっと以前から行われてきたと思いますが、〈読書としての哲学史〉はまだ十分に注目を集めていないかもしれません。テクストが読まれる過程で、議論がどのように変化するのか。私の博論はまさにそこに焦点を当てたものになっています。現代思想とかだとテクストの多義性のような話になるかもしれませんが、そういう話をしたいわけでもありませんでした。現実的に無限の読みがあったわけでもなく、慎重に複数の解釈が提示されていた。では、その複数の解釈はどういう理由で決定されていたのか。先ほどから申し上げているように、ヘゲモニーをめぐる衝突としても読み解くことができます。

    そういう読みの経験自体は、私たちも一人の当事者として追体験できるところがいいんです。専門的な訓練を受けたわけではないので次のような表現は妥当ではないかもしれませんが、私は中世の哲学者たちの読みの行為を「参与観察」しているような気がしています。自分も現場に居合わせて、そこで起きていることを記述しようとしているということです。テクストの論理的な筋というのは、その中では一部の構成要素でしかないわけです。

    斎藤 伺っていると、やっぱり画期的ですね。アヴェロエスの自然哲学という研究の空白地帯があり、それが中世哲学のクリティカルな問題に直結しているというのは、本を読むまでまったく知りませんでした。

    タカハシ ありがとうございます。本当に運が良かったのと、ここまで名前をあげた多くの方からのサポートのおかげでしかないです。もちろん妻や両親、そして義理の両親の支えもありました。で、さらに幸いなことに、ラドバウド大学にいたときに、アヴェロエスの自然哲学をテーマにした2日間の会議を企画して開くこともできました。非常に充実した会議で、その会議がなければ博論の内容もだいぶ違うものになっていたと思います。

    ただ、博論がなかなか完成しなくて精神状況がやばかった時期に、指導教授の一人が編者となってその会議の論集が出されることになってしまって……。いまでもそのことは正直恨みに思ってます、それ僕の企画ですよね?と(苦笑)。

    その論集はオンラインで読める「スタンフォード哲学百科事典(Stanford Encyclopedia of Philosophy)」で、「イブン・ルシュドの自然哲学」という項目で本文と参考文献表でも言及されています。ですので『哲学者たちの天球』で論じた内容は、この四半世紀の国際的な研究史の文脈でも重要な問題を扱っているつもりなのです。

    斎藤 これからさらに研究は進展しそうなんですか。

    タカハシ ドイツ・ケルンのトマス研究所というところで、アヴェロエスの著作の校訂本をつくるというプロジェクトが一応進行しているんですが、全然人力が足りていない状況のようです。私の本との関連でいうと『天球という実体について』という著作があるんですが、その校訂はいつからはじめるのかと尋ねたら2030年代半ば以降というんですよ。10年以上先って、そんなの本当にどうなるかなんてわからないじゃないですか(笑)。しかも現在進行中の『自然学』の註解書の類の校訂も計画通りという感じではない様子なので、私も少し参加させてもらうことにしました。校訂というのは現実的に大変な作業なので、どうなるかはちょっと未知数な部分もあるんですけど。

    「序章だけは本当にうまく書けました(笑)」

    斎藤 博士論文は英語で書かれていますが、書籍化するにあたって大きな加筆や修正はあったんでしょうか。

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    タカハシ 本論の内容は、そのままに近いですね。ただ博論では、先行研究の整理や批判が本文に入っていますが、それは専門的なので、単行本にするときはあらかた注に持っていきました。

    本にするときに一番避けたかったのは、冒頭から膨大な人物や概念が目まぐるしく登場して、読者がその関係性を追えなくなってしまうことでした。それを避けるために、まず序章では、多すぎず少なすぎない程度に必要十分な情報を段階的に出していくことを心がけました。まず歴史状況や制度の説明があって、それで何人かの人物が出てきてという叙述の工夫をしたつもりです。本論はともかく、この序章だけは本当にうまく書けたと自分でも思っています(笑)。皆さん褒めてくださるのは、その序章だけ読んでいるのではないかと……

    斎藤 いやいや(笑)。序章だけでなく、各章の冒頭やそれ以外でも随所に要約を差し込んでいるじゃないですか。読者を迷子にさせない気遣いがすごく感じられました。

    タカハシ 幸い多くの方からそうおっしゃっていただいたんですが、特別に意識していたわけでもないのです。ただ本論に入ると、「誰が何をどう読んだか」ということの連続なので、けっこうついていくのがしんどい議論が続きますよね。そこは読者目線に立って、議論が見失われないないようにできるだけの工夫をしました。

    そもそも私自身、「要は何なのか」と簡潔に示すことができるところでは示すのが大事だと思っています。そういう好みもあって、議論の要点を適宜示していくことで、可能な限り理解してもらうというスタイルは貫いたつもりです。

    斎藤 全体の構成もあまり博論から変わってないんですか。

    タカハシ そうです。ただ最終章は『世界哲学史5』(ちくま新書、2020年)に寄稿した「近世スコラ哲学」を加筆した内容になっています。イブン・ルシュドやアルベルトゥスの議論を通じて浮かび上がってきたアリストテレス主義が、近世に入ってどのように持続すると同時に変容していったのかを論じているのですが、これを最後にもってこれたおかげで、うまく締めくくることができました。

    あと、本の出版に関していうと、これは絶対強調しなければならないことですが、名古屋大学出版会の編集者の橘宗吾さんと校閲を担当してくださった堤亮介さんの非常に丁寧なお仕事がなければ、このような形では出版されることはなかったということです。名古屋大学出版会の学問的な貢献についてはご存知の方も多いと思いますけれど、本当に素晴らしいお仕事をしていただきました。

    斎藤 『哲学者たちの天球』は、内容的には決して入門書ではないんですが、中世哲学に対する興味がかきたてられます。その意味では、中世哲学入門としても読めるんじゃないかと思いました。

    タカハシ ありがとうございます。中世哲学の入門書は国内外でいろいろ出ていますが、正直なところこの分野の入門書って不可能なんです(笑)。というのも考えてみていただきたいのですが、時間幅だけ見ても、短く見積もって、5、6世紀のボエティウス[★09]から宗教改革までの約1000年がオーソドックスな西洋中世哲学の範囲になります。でも、これも別にあらかじめ定まっているわけではありません。より後の時代の、たとえば18世紀末に活躍したカントにしても、中世哲学やラテン語的な教養を背景にものを考えていました。出発点だって、アリストテレスからと考えたら2000年くらいは中世哲学の対象になってしまうわけです。

    これだけの長大な期間にわたる哲学の営みを一冊で概観するなんてどんな人でもできません。無理に概観しようとすると、結局多くの人物と込み入った概念の洪水のようなことになって、読者はどこかで溺れてしまう。

    ただ、その点で言うと、山内志朗先生[★10]はやはり凄くて、たしかに新しい『中世哲学入門』(ちくま新書)にしても結構難しいのですが、中世哲学の話を単に概念的にまとめるのではなく、現代の私たちのリアリティに訴えかえるような形で議論をされています。だから読者の何人もが中世哲学の門を実際くぐるわけです(笑)。「入門書」は実際読者が門の内側へと入ってくれないと意味がないわけですから、そういう意味では山内先生の貢献は本当に大きい。そこまではいかなくても、私自身の著作でも中世哲学の新しい景色に興味をもっていただけたら、それは大変嬉しいことだとは思っていますが。

    ★09 ボエティウス(480頃ー524頃)
    古代ローマ末期のキリスト教哲学者。「最後のローマ人哲学者にして最初のスコラ哲学者」と称される。東ゴート王テオドリックに仕えたが、王の不興をかって処刑された。獄中で著した『哲学の慰め』は、アウグスティヌスの『告白』と並んで、中世で最も読まれた著作として知られる。

    ★10 山内志朗(1957ー)
    山形県生まれ。慶應義塾大学文学部名誉教授。専攻は中世倫理学、スコラ哲学。その他、現代思想、修験道など幅広く研究・執筆活動を行う。著書に『普遍論争——近代の源流としての』(平凡社ライブラリー、2008年)、『中世哲学入門』(ちくま新書、2023年)など多数。

    「魂の不死性」という問題

    斎藤 今後はどういうテーマで研究を進めていこうとお考えですか。

    タカハシ 専門的には、先ほど触れたアヴェロエスの著作の校訂というのを今後10年くらいの軸にしたいとは考えています。より一般的には自然哲学史の再考というのをしていきたいです。何度も申し上げましたが、かつての哲学は、現代でいう物理学、生物学、化学も含んでいたんですよね。だけど現代はそういう意識がほとんど消えかかっているように感じます。

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    たとえばカントにしても、彼が『純粋理性批判』[★11]に始まる三批判書を書いたのは50代後半から60代のことで、若い頃はずっと自然哲学を教えていたわけです。彼はガリレオやニュートンから非常に強い影響を受けています。だから哲学史を見るにしても、自然哲学という基盤が見えていないと、当時、何が本当に問題になっていたのかという点がわからなくなるのではないか。また、2024年がちょうど「カント生誕300年」の年にあたるので、逆に科学者の人たちとカントを読むみたいな企画もしてみたいと本気で考えています(笑)。

    もう一つは、「魂の不死性」というテーマで、これまでもいくつかの原稿を書いています。魂の不死は、18世紀末まではリアルな問題として受け止められていたんですが、19世紀になって突如そのリアリティが失われるんです。19世紀の文学には亡霊がよく登場しますよね。またベルクソンやユングなども降霊術にハマったりしていた。つまり不死なる魂や霊という考えは、18世紀までは人間の人格の核のようなものだったのが、19世紀以降になると、ある種の技法をもたないと接近できない亡霊的な対象に変わっていくわけです。

    じゃあ古代から近代まで、哲学者たちは魂の不死をどのように問い続けたのか。そしてなぜ魂の不死という考えが突然現実味を失ったのか。それをプラトンから辿って考えてみたいと思っているんです。

    斎藤 そこにも中世哲学の問題が関わってくるわけですか。

    タカハシ そうなんです。プラトンだと、人が死ぬと魂がイデア界に還っていきます。でもキリスト教では魂も身体も復活する必要がある。つまり魂の不死だけでなく身体の不死性も重要になってくるのです。カントーロヴィッチの名著『王の二つの身体』(ちくま学芸文庫、2003年)[★12]にしても、王の「身体の不死性」ですよね、単に「魂の不死性」ではない。その辺を理解するにしても「不死性」というテーマは古代ギリシアの系譜だけではなく、中世の哲学や神学の観点からも考えていく必要があります。

    『哲学者たちの天球』は、アリストテレスの自然哲学の系譜をたどっていくものですが、中世哲学を見るときのもう一つの大きな軸はアウグスティヌスです。大学のときの指導教授だった中川先生がアウグスティヌス研究者だったこともあってか、私はアウグスティヌスに対しては敬して遠ざかっていたのです。でも、この数年はアウグスティヌスを読み、その影響の大きさについてあらためて考えるようになりました。

    歴史を考えても、アウグスティヌスは何度も蘇ってくるわけです。宗教改革でトマス・アクィナスやスコラ神学は批判されるけれども、アウグスティヌスは否定されるどころか、彼の思想に還るところから宗教改革が始まる。17世紀のパスカルやデカルトにしてもそうですし、20世紀のハイデガーにも明確な影響を看取できます。いますぐにはできないかもしれませんが、将来的にはアウグスティヌスについても本を書ければと思っています。

    ★11 『純粋理性批判』
    ドイツの哲学者カント(1724ー1804)の主著。1781年刊。『実践理性批判』『判断力批判』とともに「三批判書」と呼ばれる。

    ★12 『王の二つの身体 中世政治神学研究』
    ドイツ出身の歴史家エルンスト・H・カントーロヴィチ(1895ー1963)の代表的な著作。君主が可死的な「自然的な身体」と不死なる「政治的な身体」を有するという近世国家論の思想を、中世神学の展開として論じている。



    [インタビュー後記]

    斎藤哲也

    「博論本」についてのインタビュー連載をしたい! 当企画の構想段階で、最初にインタビューをしたいと思ったのが、今回登場いただいたアダム・タカハシさんでした。そのぐらいタカハシさんの博論本『哲学者たちの天球』は衝撃の一冊だったのです。

    こんなことを言うと怒られそうですが、タカハシさんの研究対象である中世哲学は、他の時代の哲学に比べて近寄りがたい。たとえば古代ギリシア哲学なら『ソクラテスの弁明』をはじめとしたプラトンの対話篇が、近世・近代ならデカルトの『方法序説』という短いテクストが、入門者の定番の入り口となっています。でも中世哲学はどうか。有名なトマス・アクィナスの『神学大全』は、全訳は注や解説を含めると1万3千ページ超! 入門するにはハードルが高すぎる……。ならばと入門書を手にとっても、耳慣れない概念が続出して勘所がつかめない。

    そんな迷えるサイトーの前に、綺羅星のごとく現れたのが『哲学者たちの天球』です。なんという明快さ! 中世の自然哲学という、前提知識が皆無なテーマの本なのに、するする読める。「註解」を読み解くことの面白さも堪能できる。この研究者はタダ者ではない、いつかインタビューをしてみたいと思っていたのでした。

    そして念願かなってのご対面。大学入学から『哲学者たちの天球』までの足跡だけでもスケール外の歩みでしたが、話はいつしか中世哲学の枠を超え、哲学論、学問論にまで転がっていきました。

    タカハシさんがお書きになった論文の多くは、検索すれば読むことができるようになっています。お薦めは、インタビュー終盤で話題にした「魂の不死の哲学」という連載。プラトンから始まり、現在アウグスティヌスまでの4回分が書かれていますが、古代哲学入門としても出色です。いまから次著が楽しみでなりません。


    アダム・タカハシ
    1979年、宮城県生まれ。哲学史家。2007年、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。2012年オランダ・ラドバウド大学大学院博士課程満期退学(同大学より2017年博士号取得)。東洋大学助教等を経て、現在複数の大学で哲学・哲学史を講じている。著書に、『哲学者たちの天球 スコラ自然哲学の形成と展開』(名古屋大学出版会、2022年)、共著に、『世界哲学史5―中世3 バロックの哲学』(ちくま新書、2020年)などがある。
    斎藤哲也(さいとう・てつや)
    1971年生まれ。人文ライターとして人文思想系、社会科学系の編集・取材・構成を数多く手がける。著書に『試験に出る哲学――「センター試験」で西洋思想に入門する』(NHK出版、2018年)、『読解 評論文キーワード 改訂版』(筑摩書房、2020年)など。編集・構成に『哲学用語図鑑』(田中正人著、プレジデント社、2015年)、『ものがわかるということ』(養老孟司著、祥伝社、2023年)ほか多数。



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