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からだの動きを探るラボ始動

イントロダクション① 「なめらかに動く」ための身体論

からだの動きを探るラボ始動の画像
写真:YokohamaMarino

岡山弁で「もとーる」とは、「からだの動きがなめらか」なことだと岡山出身の知覚・身体科学研究者の柏野牧夫さんは言う。どうやら語源は、ぐるぐるまわる、めぐる、おもうようにはこぶことを意味する古語、「もとほる(廻る)」のようだ。趣味で野球を楽しむ柏野さんにとって、もとーることは長年の目標であり、好きが高じて始めたスポーツ脳科学研究の核となるテーマでもある。

どうやったらうまくからだを操ることができるようになるのか、どうすれば熟達するのか、どう過ごせば調子のいい心身の状態を保てるのか――。この「もとーる・ラボ」では、脳科学や認知神経科学、発達心理学、運動生理学、バイオメカニクスなどの知見を踏まえつつも、閉じた実験室を飛び出し、実際の試合や演奏会など、リアルな場で動くからだに迫りながら、新しい身体論をひらきたい。

第1回目は、ラボ長を務める柏野さんに、「もとーる」とはどういうことか、ラボで何を探っていくのか聞いた。(イントロダクション②はこちら

取材・文:田井中麻都佳

Contents

    「もとーる」ってどういうこと?

    ――私は広島出身なのですが、「もとーる」という言葉は初めて聞きました。

    柏野 広島と岡山では、隣の県とはいえ文化圏が違いますからね。ネットで検索すると、「もとーる」は「口が達者」という意味だと出てくるのですが、私のネイティブ感覚からするとそれはあくまでも副次的。基本的な語感としては、「からだの動きがなめらか」という感じでしょうか。もっとも、私は備前の国の北の方で幼少期を過ごし、主に祖父母の言葉を学習したので、歳の割に古い岡山弁が染み付いています。高校を卒業すると岡山を離れていますから、いまこんな言葉が使われているかどうかは知りません(笑)。

    私自身、趣味で野球をやってきて、いまも昼休みはほぼ毎日練習をしているのですが、「もとーる」ことがいかに難しいかを、日々、痛感しています。速い球を投げようとすると力んでバランスを崩したりして、思い通りにできることはほとんどありません。

    一方で、トップアスリートはほんとにすごい。数年前、桑田真澄さん(現・讀賣巨人軍二軍監督)と初めてキャッチボールをさせていただいた時のことです。構えたグローブにスーッと入ってくる球筋とその精度にも驚きましたが、何よりも桑田さんの動きが美しい。無駄な力が一切入っておらず、流れるようになめらかに動くのです。まさに「もとーる」とはこのことです。動きの軽さ、楽さ加減とボールの強さとのギャップが段違いでした。筋力に頼って強く腕を振るのではなく、自然の摂理に適った動きをしているような印象です。その美しさに感動を禁じ得ませんでした。メンバー間でぴったり息の合った音楽の演奏を聴いたときに感じるものと同質の美しさですね。

    ――柏野さんは2015年頃からスポーツ脳科学の研究に参入され、アスリートの高度な身体技能の謎に切り込んでいます。その背後には、「もとーる」ことへの感動もあったということですか。

    柏野 その通りです。筋肉を鍛えてパワーを増大する、反復練習でよいフォームを身につけるというだけではない側面がスポーツにはあります。桑田さんもそうですが、身体のサイズ的に恵まれているとは言えない選手が素晴らしい活躍を見せることがあります。それは、自分の身体の隅々までを精妙にコントロールして、自然の摂理に適った動きを実現しているからこそなし得るわけです。

    そういう動き、つまり「もとーる」ことに感動するというのが、私がスポーツを見る楽しみの最上位に来るかもしれません。スポーツの楽しみ方は人それぞれで、どれが正しいとか偉いとかはありませんが、自分の場合、勝ち負けや背後の物語などのウェイトは低いですね。動きそのものをじっくり堪能したいし、素晴らしい動きには単純に感動してしまいます。

    ――わかります。サッカーで「ファンタジスタ」と呼ばれるようなプレイヤーの華麗なドリブルやシュートは、見るだけで興奮します。

    柏野 そう、見る者の想像を超えてくるからですよね。人間というものは、あるいはプロ選手というものは、このくらいのことができるだろう、という想像を、軽々と超えてくることがある。この問題をこういう解き方するのか、という創造性を感じさせるのがスーパースターですね。これも「もとーる」からこそなせる技です。

    一方で、そういう素晴らしい技の持ち主でも、突如として「もとーらんよーになる」ことがあります。アスリートで言えば「イップス[★01]」、ミュージシャンで言えば「局所性(職業性)ジストニア[★02]」と呼ばれる症状がそれです。これらは単に緊張してうまくいかないという一過性のものとは違い、いったん発症すると簡単には治りません。膨大な練習をして熟達した人だけが発症する、言わば熟達と表裏一体の運動障害です。このように「なめらかに動かなくなる」メカニズムも理解したいですし、その対策も探りたい。

    アスリートのような高度な動きは言うに及ばず、状況に合わせて、対象物をうまく操作するといった外界との力学的なインタラクションをするのは、日常のありふれた動作でも大変な情報処理です。ゴミ箱にティッシュを投げるとしても、ゴミ箱までの距離や入口の大きさを網膜像から把握し、そこにティッシュをちょうど届かせるにはどのくらいの力でどちらの方向に腕を動かせばよいかを計算し、そのためには腕や指の関節の角度をどのように組み合わせればよいかを計算し、動作の最中には計画と実際の動きがどのくらいずれているかをモニターして動きを補正し、といった具合に、膨大な計算が必要になります。これを瞬時にこなすわけですから、人間はすごい。

    ましてやアスリートのような高度な技を実現する、「もとーる」というのはすごいことで、全身400個を超える筋肉をどう組み合わせて動かすかというのは天文学的な計算です。スポーツ馬鹿とか脳筋(脳みそまで筋肉)などと言うのは、まったくもってナンセンスなんですよ(笑)。

    このように、どうやったら外界とうまくインタラクションできるかということは、まさにロボット研究のメインテーマですし、認知神経科学でも対象物に手を伸ばすといった要素的な運動制御について盛んに研究されています。もっとも、アスリートの技のような複雑なものの解明にはまだまだ遠いのですが。

    ★01
    スポーツの熟練者が、直接的な身体的原因がないのに、特定の動作の際に、思い通り身体を動かすことができなくなる症状。

    ★02
    不随意で持続的な筋肉の収縮を引き起こす神経疾患のこと。文字を書いたり、楽器を演奏するときなどに、指や手首などがこわばったり、曲がったりして、伸びたりして、所望の動きができなくなる。繰り返し、同じ動作を長期間、行い続けることで発症する。

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    からだを操るこころ、こころを動かすからだ

    ――「もとーる・ラボ」のテーマは、「どうやったらうまくからだを操れるか」ということですね?

    柏野 その通りですが、射程としてはいわゆる身体技能にとどまりません。「なめらかに動く」こと全般を対象としてみたいと思っています。たとえば、心理状態。スポーツでも、実戦に臨んだとき、緊張しすぎてうまく体が動かなかったとか、逆に、非常によい集中状態になってすばらしいパフォーマンスが発揮できたといったエピソードをよく耳にします。スポーツでなくても、ネガティブな考えに捉われて前に進めなくなったり、非常に調子よく物事が片付いたりといったことは誰しも経験するでしょう。

    ――楽器を人前で演奏するときに、緊張してしまって、まったく思い通りに弾けないこともあれば、びっくりするほどうまくいくこともあります。仕事も同じですね。

    柏野 つまり、心理状態も「もとーる」ことの重要な要素だし、心理状態そのものがうまく操るべき対象であるとも言えます。

    さらに、複数の人の関係。2人の間でも、以心伝心というように、なめらかにコミュニケーションができたり、どうもぎくしゃくしたりする。会社のような組織でも、全体として非常に生産的な場合もあれば、個々の人はものすごく頑張っているのに全体としては停滞しているということもある。岡山弁で、本来「からだの動きがなめらか」であった「もとーる」が、非身体的な「口が達者」の意味で使われている(らしい)というように、「もとーる」という概念はいろいろな対象に適用可能なのかもしれません。

    このとき、二つのケースが考えられます。一つは、アナロジーが成り立つということ。つまり、身体動作をなめらかにできるのと同様の原理で、心理状態の制御や、人間関係などがうまくいく。もう一つは、もう一歩進んで、心理状態や人間関係などにも、からだが重要な役割を果たしているということ。これらは排他的ではありませんが、後者の側面は無視できないだろうと考えています。

    ――世の中的には、こころとからだは別物で、こころのほうがからだより上位にある、という見方が根強くありますね。

    柏野 そう、精神と肉体と言うとき、精神は大脳が司っていて高尚なもの、肉体は動物的で下等なもの、と思われがちですが、認知神経科学の知見を踏まえれば、その見方は怪しくなってくる。そもそも、精神だと思っているものも、からだに根ざしているというか、隠然たる影響を受けている事実が、近年、いろいろと明らかになってきています。

    日常用語でも、「腹に落ちる」とか「腹に据えかねる」「胸騒ぎがする」「胸がいっぱいになる」「肝に銘じる」といったように、内臓を使って感情、意思決定、評価などを表現することがありますよね。人間というのはいつも論理的、合理的に考えているわけではなくて、身体を通して、その感覚から何かを判断したり決断したりしていることが意外に多い。さらには、あの政治家は信頼できそうだから投票しようとか、これはお得だから買っておこうといったように、政治的な価値判断や経済的な価値判断といった高次の価値判断ですら、身体の生理的状態によって規定されている部分がかなりあるのです。本人は必ずしもそうとは意識していないのですが。

    こういう考え方や実験的なエビデンスはたくさんありますが、なかでもアントニオ・ダマシオ(神経科学者)が1990年代に唱えた「ソマティック・マーカー(somatic marker:身体信号)」仮説は有名です。情動的な身体反応が脳内で意思決定に重要な信号を提供しているというわけですが、それによって意思決定が効率的になると考えている。

    ――考えすぎないで直感に従ったほうが、なんだかんだでうまくいくことも多い気がします。

    柏野 時々刻々と状況が変化する不確かな世界のなかでは、情報が足りなくて論理的に解を一つに決めることはできないかもしれないし、AIのように膨大な情報を得てから統計的に判断するわけにもいかない。初めて出くわす出来事に対しても、なんとか素早く振る舞い、うまく乗り切るには、身体に基づく感覚が非常に重要になるわけですね。それでつねにうまくいくとは限らないけれども、この感覚を磨いておくことは大事かもしれません。

    からだからテクノロジーを再考する

    ――「もとーる」というのは、なにもアスリートや演奏家に限った話ではなく、誰にとっても日常的に直面する問題なわけですね。

    柏野 テクノロジーについても、からだとの関係で捉えるべきだろうと思っています。コロナ禍ではオンラインによる会議や授業が当たり前になりましたが、やはりリアルに対面で話をするのとは何か違いますよね。交わす言葉や画面に映る表情などでそれなりにやり取りはできているけれど、からだが発信している情報というのはそういう明示的なもの以外にもさまざまにあって、それらも含めてちゃんと伝えきれているわけではありません。

    実際、目線が合わないのでアイコンタクトができないし、ジョイントアテンション(共同注意)、すなわち人が見ている視線に注意を向けて、情報を共有・伝達するということもできない。画面に映る人は原寸大でもない。当然、実際に触れたり、殴ったりという、力学的なインタラクションの可能性もありません。もちろん対面したからといって、殴ったりしませんけどね(笑)。

    そうしたオンラインと対面の違いのなかに、コミュニケーションの本質が含まれていないかというのは、よく検討したほうがいい。論理的な判断のための情報さえ伝わればいいというのであれば、確かに言葉が伝われば良いのかもしれませんが、納得感であったり、共感であったりという感覚を得るためには、もしかしたら、からだがリアルに厳然とそこに実在している、ということが重要かもしれません。逆に、リアルなからだがないほうが、からだの制約から離れた新たなコミュニケーションの可能性が拓けるかもしれない。

    また、発達心理学の観点から言えば、私たち世代のように、幼いときにリアルなからだのインタラクションを経験したうえでオンラインシステムを活用するのと、デジタルネイティブで、むしろオンラインが主という人たちとでは、受け取る情報が違ってくるかもしれません。これは単純に、良い/悪いの問題ではなく、人間の性質やコミュニケーション自体が、かつてとは大きく変わってきている可能性があります。それがどう変化してきているのか興味があります。

    さらには、AIとからだの関係も重要な観点です。ChatGPTの出現で、すでにシンギュラリティは間近だという人もいるけれど、現状のAIにはからだの観点が大きく欠けていると思うんですね。からだという実体を持たないということもそうですが、統計モデルとしても、からだに関する学習データが圧倒的に足りていない。もちろん、人間は人間でさまざまなバイアスがあって、その判断は合理的ではないことも多いわけですから、つねに人間の方が優れているなんてことはありません。良きにつけ悪しきにつけ、多くのAIが人間のからだの制約とは無縁に発展してきたことは、気に留めておく必要があると思います。

    入院して気づいたからだの特性

    ――ところで柏野さんは、最近1カ月以上も入院されていたんですよね。お変わりないように見えますが、いまはどのような状態なのでしょう?

    柏野 くも膜下出血で緊急搬送され、開頭手術を受けて、先日退院したところです。おかげさまで、見ての通り、言わなければ気づかれない程度に回復しました。寝たきりが長かったので筋力はかなり低下しましたが、認知機能、運動機能には後遺症はありません。一時はまっすぐ立てないくらい「もとーらん」状態になりましたが、そこからの回復過程が面白く、得難い経験になりました。

    ――それは大変でしたね……無事に復帰されて本当によかった。

    柏野 入院の経験から、「もとーる」ことの本質に関係するかもしれない話を、二つだけ紹介しましょう。

    一つ目は、あまり品の良い話でなくて恐縮ですが、便秘です。手術後2週間は後遺症のリスクを避けるため安静状態になるのですが、この間、人生初の便秘になりました。私は基本的には毎朝便通があるのですが、1週間経ってもまったく便意を催さない。食べる方は食べていますから、どんどん溜まる。下剤、坐薬、いろいろやって、無理やり排便しました。トラウマ級の苦しさ、「もとーらん」極致です。

    しかしトイレに行けるようになって、便器に座ると何の苦もなく出る。そのとき悟ったんですね。排便というのは、腸や肛門の問題ではない。日常動き回り、朝のルーティンをこなし、便器に座ることによって滞りなく進むものだということを。そういうことが影響するという知識はありました。が、せいぜい修飾的な効果だと思っていた。ところが、もうゼロイチというか、一連の行動をするかしないかが、完全に門を閉めるくらいに、強力な効果を持っていたのです。

    考えてみれば、排便していい状況というのはきわめて限られていて、そのときだけするように幼少時から強力な学習をしているわけです。これに逆らうのは並大抵のことではありません。きわめて原始的な、単純な自動的行為だと思っていたら、じつはきわめて文脈に依存するものであり、脳やからだの各部が連動する複雑なプロセスだったのです。この連動というのが、「もとーる」ことの一つのカギと言えます。直接関係しそうな要素だけを単独で見ても、うまくいくことの本質は見えてこないということを痛感しました。

    二つ目は、からだの動きです。手術後数日はさまざまな管を繋がれてじっと横たわっていたのですが、ある時期から、横たわったまま脚が勝手に動くようになりました。意味のある動きではないのですが、単なる震えのようなものでもない。自発的だが不随意的な筋収縮と言うべきでしょうか。止めようと思っても止まらず、しばらく続きました。意味のあるフットワークなどに含まれるプリミティブな動きの断片がランダムに出てきたような感じに近いかもしれません。普通はこういう勝手な動きは抑えられているけれど、それらを組織化する脳部位の機能が一時的に弱ったために、こういう動きが顕在化したのかもしれません。

    このとき、「人間は目的がなくても動く」という、ある意味当たり前のことに衝撃を受けたのです。人間を合目的的な機械、情報処理装置として見るなら、与えられた目的を達するための動きを計算し、そこから外れないように動きを制御すればいい。動く目的がないと、そもそも動く必要はありません。しかし実際は、ただ寝ているだけで、何の用もなくてもこれだけ動く。むしろ、何か目的が生じた時に、勝手に動くいくつものパーツが組織化されて、全体として意味のある動きが実現されるのではないか。そういうイメージが浮かびました。

    そこで思い出されたのが、「もとほる」という古語です。辞書を見ると、8世紀の古事記の用法とともに、「①まわる。めぐる。徘徊する。」とあります[精選版 日本国語大辞典]。近世になって、「③思うようにはこぶ。思うように自在に動く。自由になる。」という意味が現れたようですが、この「徘徊する」という一見ネガティブな言葉がずっとひっかかっていました。それが突然、腑に落ちたのです。

    「徘徊する」というのは、目的地もなく、ただぶらぶらすることを指します。人間は本来、目的がなくても、動き回るようにできているのではないか――。脳は動きを最適化する、つまり脳の内部にあるモデルの予測と感覚器官の観測とを照らし合わせて予測誤差を最小化し、最適な動きを選択する、といった方向の営みだけでなく、ただ動き回ることも含めてシステムのなかに相当の「ノイズ」を内包している。それゆえに局所解に陥らず、よりよい解を探索し続けることができる。これが「もとーる」ことの本質の一つかもしれない。そんな妄想が頭をよぎったのでした。国語学にはまったくの素人ですが。

    ――あぁ、なにかそれは生命の本質に関わる話だという気がします。この話の続きは、またおいおい聞かせてください。

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    すべてはステキなタイミング!?

    ――今後、このもとーる・ラボでは、研究者やアスリート、演奏家、アーティストなど、からだの研究をしている人、からだを使って何かを表現している人たちとの対話や実験などを通じて、なめらかなからだの動きについて探っていくということですが、柏野さんご自身は、病いの経験もされたいま、何に注目されているのですか?

    柏野 「タイミング」です。たとえば、何かすごく重い荷物を持ち上げようとしたとき、10人全員が「せーの」でパッと同時に力を出せば持ち上げられる。だけど、力を出すタイミングがバラバラだったら持ち上がりませんよね。それぞれの力の波形のピークが揃っていれば、10人分を足し合わせた高いピークになるけれど、これがズレていたらピークは低くなる。これって、一人の人間のからだでも同じなんですね。つまり、10個の筋肉があるとして、それらがぴったりタイミングを合わせて動作すれば10の力が出るけれど、バラバラだったらそうはいかない。場合によっては相殺することもある。だから、それぞれの筋肉を鍛えることも大事ですが、タイミングをきっちり制御しないと効果は出ないわけですね。

    これは心拍や呼吸でも同じです。全身を激しく動かすには、それに見合った心拍や呼吸が必要です。心拍数が高くなる、呼吸が速くなるといったことはもちろん、もっと細かい時間スケールで見ても、個々の心拍や呼吸のタイミングとからだの動き、力を入れるタイミングは連動している。

    脳機能も同じで、よく言われるように、この部位がこの機能を担っていますという単純なものではなくて、さまざまな部位がダイナミックに連携して動きを実現している。人の組織にたとえて言えば、あるプロジェクトに関わるAさん、Bさん、Cさんがいるとしたら、それらが連動して動くことで目的を達成できるし、次の瞬間にはAさんはDさんやEさんと別のプロジェクトに関わらないといけない、といった具合です。

    たとえば「注意」。外界で何か起こったら、それに合わせて「関係者、集合!」みたいな感じで、そのイベントの処理に関わる部位が呼び出されて、一緒に連携して処理をしていくんですね。それらがうまく連動するから、さまざまな音がある中で目下行動にとって重要な音だけを詳しく分析する、といったことができる。それをどう実現しているのかというと、ここにもタイミングが絡んでいて、脳の中の神経のオシレーション(振動、リズム)の同期が重要な役割を果たしているという説があります。

    結局、「もとーる」こと、なめらかに動けることというのは、そのときどきで必要とされる要素が、ちゃんとタイミングを合わせて関わることなんですね。先ほどお話しした排便の話がいい例です。外部のイベントに対応するなら、そのイベントをトリガーにして、からだのなかの関係者全員がきちんとそろって動かないといけない。リズムがズレていたら、うまくいかないわけです。逆に言えば、急に筋肉量が増えたり、心臓の性能が良くなったりしなくても、同じからだのまま、タイミングを合わせるだけで劇的にパフォーマンスを向上させる可能性がある、ということなんです。

    これは短いタイミングだけでなく、概日リズムや週、さらには四季、年のような長い周期にも当てはまります。朝起きて、活動して、夜寝て、というリズムのなかで、自律神経系や内分泌系、免疫系などの働きがうまく揃うことが健やかさやウェルビーイングにもつながっている。

    さらに言うと、タイミングって、先ほどもお話した対人関係にも関わっているんですよ。気が合う/合わないというのも、調べてみると、気が合う人とは、動作の同期現象が起こっていたりする。そういうことも、少しずつ明らかになってきています。★03

    ――でも、鼓動とか、そういう無意識に動いているもののタイミングって、自分では合わせられないように思うのですが……。

    柏野 意識的には合わせられないけれど、ある程度、整えるとか、トレーニングが可能な部分があるんじゃないかと思っています。その前提として、自分の状態を正確に把握しないといけない。意識的か無意識的かはわかりませんけど、いま、自分の心拍がどうなっているのか、呼吸はどうか、内臓はどんな感じがするかといったセンシング能力を高める必要はあります。これはある程度は訓練可能なはずです。いわゆる、「内受容感覚」ですね。つまり、熱があるとか、お腹が空いたとか、心臓がドキドキするといった、からだのなかの生理的な状態に関する感覚を高めること。そのうえで、外部の状態を把握して、そこに合うように状態を整えなければならないわけですが。

    これって、先ほどお話しした心理状態、メンタルに通じる話なんですね。逆に言えば、メンタルだと思っていることの多くは、じつはからだが整っていないだけという可能性がある。元陸上選手の為末大さんは、「決勝レースに自分の心身のピークをもっていけるかどうかで、メダルの色が全然変わってきます」とおっしゃっていましたが、まさに試合までに何をして、どう整えるかでパフォーマンスはまったく変わってくるんですね。

    さらに言うと、子どものうちにどんな経験を積むかということも非常に重要です。幼い頃から、特定の競技だけに特化して、むやみに訓練を積むのが、必ずしもいいかどうかわからない。むしろ、内受容感覚をはじめとしたからだのコントロールの基礎を身につけたうえで、特定競技の修練を重ねたほうがいいのかもしれません。

    いずれにせよ、「もとーる」ためには、からだを整え、動きのタイミングを揃えるということがきわめて重要だと思います。つまり、すべては「ステキなタイミング」なんです。

    ――それって、もしかして……?

    柏野 そう、坂本九の歌は正しいんですよ(笑)。「この世で一番かんじんなのはステキなタイミング」なんですね。蛇足ですが、「ステキなタイミング」は、元々B面の曲なので「上を向いて歩こう」のように皆様ご存知というわけではないと思いますが、マニアの間では非常に有名な曲です。1960年当時もよくテレビで流されたようです。

    いずれにせよ、タイミングを通してみると、技術の上達といったことだけでなく、スポーツの世界で問題となるイップスや、楽器演奏などで障害となる局所性ジストニアの問題にも迫れるかもしれない。さらには、ある種の精神疾患や発達障害などの原因を探ることにも役立つかもしれない。「上を向いて歩こう」に絡めると、「上向き」「前向き」ということも、私の研究の一つの重要なキーワードなんですよ。この話もまたいずれしましょう。

    次回は、実際にどのような研究のアプローチで進めていこうとしているのか、従来のサイエンスの営みも絡めて、お話ししたいと思います。

    (イントロダクション②はこちら

    ★03
    Kato, M., Kitagawa, N., Kimura, T., Takano, Y., Takagi, T., Hirose, H., Kashino, M. (2020). Implicit phase synchronization of steps between paired walkers promotes positive interpersonal impressions. Acta Psychologica, 210, 103172.

    柏野牧夫 かしの・まきお
    知覚・身体科学研究者。NTTフェロー、NTT コミュニケーション科学基礎研究所 柏野多様脳特別研究室長、東京大学大学院教育学研究科 客員教授。1964年生まれ。1989年東京大学大学院修士課程修了。博士(心理学)。著書に『音のイリュージョン~知覚を生み出す脳の戦略~』(岩波書店, 2010)、『空耳の科学-だまされる耳 聞き分ける脳』(ヤマハミュージックメディア 2012) 他。趣味は野球と歌謡曲(どちらも鑑賞と実践)。

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