IC47-9
民主的に支えられる資本主義
『CODE』と『コモンズ』とクリエイティヴ
[掲載日:]
ネット上におけるクリエイティヴ活動
ネット上におけるクリエイティヴな活動が盛り上がっているのか、と問われると、現在はなかなかうなずけない状況にある。インターネットとクリエイティヴな作品の関係は、前者が後者に対して正当な対価を払うことなく流通することを許している、という認識のみが先行しており、そもそもネットを通じてクリエイティヴな作品の創造・流通を促進しようという動きはほとんど注目されない。
そんな中、インターネットとクリエイティヴというテーマを理論面から考察し、クリエイターの実践を後押ししようとしているのが、サイバー法学者ローレンス・レッシグである。『CODE――インターネットの合法・違法・プライバシー』『コモンズ――ネット上の所有権強化は技術革新を殺す』(ともに翔泳社刊)という二冊の著作と、「クリエイティヴ・コモンズ」という実践活動がその具体的なかたちなのだが、では実際にネット上のクリエイターたちにこの概念や活動が理解されているかというと、まったく知られてもいないというのが現状だろう。
インターネットとクリエイターの関係が悪い、というのならそれもしょうがないだろう。しかしながら実際にはCGやFlash動画の作家の多くが自身のホームページを持ち、作品の発表の場としているし、直接に作品を公開していなくても、例えばバンドを組めばライヴのスケジュールやメンバーのプロフィールなどをネットに掲載するのはもはや特別なことでもなんでもない。むしろパソコンを持っていないファンが多いライヴ・バンドなら、携帯用サイトを用意するといったマルチ・プラットフォ—ムな戦略を採らざるをえない。
全体として見ると、インターネットはクリエイターにとっていまだ「単なる場所」か「必要に迫られて利用しているもの」だと言える。レッシグの主張は、クリエイターとネットの関係をよりポジティヴなものにするために役立つ。彼のこれまでの主張を追いながら、ネット上のクリエイターにとって今必要なものとは何かを考えてみよう。
設計を設計する
そもそも、レッシグは法学者だ。なぜ法学者がインターネットやクリエイティヴという、一見無関係な領域に口出しができるのか? それは彼が法律の中でも特に憲法を扱ってきたことが関係する。憲法とは普通の人からすると「法律の一番偉いもの」的な位置づけかもしれないが、実際にはもう少し違った意味合いがある。
憲法の果たす役割とは、どのような価値を選ぶべきか、どのような法律を作るべきかといった「設計を設計する」ところにある。憲法に「表現の自由は誰にも侵害できない」と書いてあれば、政府は検閲制度や表現の内容を規制する法律を作ることができない。憲法が統治権力に対する命令だといわれるのは、個人に対して直接このようにしろと命令するのではなく、個人がどのようにふるまうのかを設計する、その設計の仕方や価値について記述されたものだからだ。
重要なのは、この「設計の設計」がある種のコントロ—ルだということだ。「表現の自由」を謳う憲法の下では、反政府的な内容を書いた書物や、子供に悪影響を与える(と見なされる)ポルノの出版を禁止することは許されない。そのとき私たちは、何かの秩序を脅かす可能性を温存してまでも「表現の自由」は大切だという「価値」を選択したことになる。
四つのコントロール方法
憲法のような、ある価値に基づいた「設計の設計」によるコントロールをレッシグは「アーキテクチャ」と呼んでいる。彼によるとコントロールには「規範」「法」「市場」「アーキテクチャ」の四種類がある。例えば喫煙についてコントロールしたいと望むとき、「喫煙マナーを周知する」(規範)、「法律で規制する」(法)、「たばこの価格を上げる」(市場)というコントロールの他に「フィルターやニコチンの量を規制する」というアーキテクチャによるコントロールが考えられる。
アーキテクチャによるコントロールは他の三つと異なり、個人に直接命令するのではなく個人の周囲の環境を調整する。するとその個人があたかも自分の意志で選んだかのようにコントロールに従わされてしまうという事態が生じるのだ。フィルター無しのたばこしか売ってはならないとたばこ会社に命令すると、多くの喫煙者が自主的に たばこを吸うことをやめるだろう。
レッシグによると、こうしたアーキテクチャによるコントロールは、現実世界よりもインターネットの世界のほうがはるかに設置しやすい。ネットが生まれた当初は「ネット=自由な世界」だと見なされ、政府の規制が入るなんてとんでもない!という人たちが多かった。ネットの世界は、放っておくのが一番なのだと。
ところが、ネット上を横行する著作権侵害に対する各種規制が強まってくるにつれ、自由にしておけばうまくいく、といったネット観はもはや通用しなくなってきた。このままではアーキテクチャによって完全にコントロールされてしまうネットの自由を守る必要がある、そのためには、私たちがそもそも「設計の設計」の段階でどのような価値を選択したのかをもう一度思い返す必要がある――これが『CODE』におけるレッシグの主張だ。
コモンズの保護と市場の保護
言ってみれば『CODE』は民主主義についての本である。それに対して、民主制を前提にした資本主義のあり方について論じているのが『コモンズ』だ。「コモンズ」とは共有地という意味だが、経済学などでこの言葉が用いられるときは、誰もが自由に利用可能な資源のことを指す。例えば牛を放し飼いにする共有牧地の草は、誰かの所有物ではなく「みんなのもの」だ。
しかし「みんなが自由に使える」ことを盾に、みんなが自分の利益を最大にしようと牛の数を増やすと、自然に草が生えてくるよりも早く牧草がすべてなくなってしまう。そこでみんなが資源を使い切らないように、何らかの規制が導入される必要がある――というのが「コモンズの悲劇」を例に引いて導かれる規制の必要性だ。
ネットをめぐる著作物の違法コピーにも同じような論理は適用できる。みんなが「自分さえよければいい」と思ってCDを買わずにダウンロードばかりしていると、レコード会社が儲からなくなってCDがリリースできなくなるという話だ。
だから規制は必要。これはレッシグ自身も認めるところだ。しかし、と彼は問う。ネットで著作権が侵害されているからといって、あらゆる場面で未来永劫にわたる著作権の保護が必要なのか?
例えば、映画を一本作るのに、たまたま映り込んだビルのデザイナーが「あれは私の著作物だ、勝手に映画に登場させることは許さん」と怒鳴り込んできたとする。彼の著作権を最大限保護しようと思えば、映画という別の著作物を創作する妨げになってしまう。これは今、アメリカで実際に起こっている事態だ。
問題は、著作権が保護されるべき期間にある。著作物や発明の特許などは、それを生み出すまでに時間とコストがかかるにもかかわらず、公表されてしまうと誰もが利用可能になってしまう性格が強い。そこで開発者や作者のコストを回収するまでの一定期間は、独占的にお金を儲ける権利を認めておくのだ。そのかわり、その期間が過ぎれば著作物は人類の共有財産になり、誰もが自由に使っていいものになる。
逆に著作権をいたずらに保護すると、いつまでたっても著作物が人類のものにならない。著作権を適切に保護しないと市場は成り立たないが、規制しすぎてもやはり市場が成り立たなくなってしまう。重要なのは保護されるべき著作物と、誰でもが自由に利用可能な著作物(コモンズ)のバランスを取ることだ。
そこでレッシグは再び、私たち(アメリカ人)が「設計の設計」の段階でどのような価値を選択したのかを思い出せと言う。アメリカ憲法の起草者たちは著作権を未来永劫にわたって保護されるべきものだとは捉えていなかったはずだ、と。
クリエイターにできること
資本主義は民主主義によって支えられなければ存続できないし、民主主義はその「設計の設計」段階において選択した価値を覚えていないと存続できない。レッシグがネット上のクリエイティヴに関わる理由は、まさにそこに政治が存在するからだ。
ではクリエイターの側は具体的に何をすればいいのか? レッシグは著作権の保護とコモンズの存続のバランスを、クリエイター自身の働きによって維持するための提案を行なっている。それが「クリエイティヴ・コモンズ(CC)」というライセンスだ。これは、クリエイターがネット上に掲載した作品に対し、お金儲けをしたいので著作権を保護して欲しいのか、他のクリエイターの創作活動に貢献したいので自由に利用していいと考えているのかを表明することのできるマークだ。CCが健全に機能すると、例えば動画作品のクリエイターが自分の作品に使用するBGMを、「自由に利用してよい」と表明された作品の中から検索することが容易になる。
とはいえ、CCにはまだ「マシン・リーダブル」な機能は実装されていないし、CCのライセンスに同意する人間も、日本に限って言えばごく少数、それもクリエイターではなく著作権問題に一定の関心を持っている人たちが主だ。これではせっかくのライセンスも、「私はCCに同意します」というバナーを貼っているだけに過ぎなくなる。
CCのようなライセンスはクリエイターが利用してこそ意味があるのだが、日本の場合、いわゆる「プロ」は著作権の保護についてはレコード会社などに任せきりで、結局利益を得るためのロジックに回収されることになり、アマチュアの場合は同人誌文化がそうであるように、多少の著作権侵害については「お目こぼし」でやり過ごしてきたという経緯があるため、要するにフリーに利用できる作品であるという表明に対するニーズがない。
これは単に文化の問題だが、CCCD(コピー・コントロールCD)などの状況を見れば、今後も自由利用に対するニーズが生じないとは考えにくい。CCCDには音質面などの問題から反対するアーティストはいても、ということはそれは音質の改善された「完璧な」コピー・コントロールのできるCD規格ができれば解決する問題でしかないからだ。
アーキテクチャについてよく理解しているレッシグだからこそ、それを民主的な価値によってハンドリングするという主張が導出できる。翻ってみれば、ネットにおける著作権侵害については「法規制の強化が必要」(法)、「違法コピーは悪だと教育せよ」(規範)、「そもそもCDの値段が高いのが問題だ」(市場)といった議論ばかり。アーキテクチャをどのように設計するか、その価値を問う議論こそが、今まさに必要なのだ。
すずき・けんすけ――1976年生まれ。東京都立大学大学院博士課程在学中。専攻は理論社会学。著書に『暴走するインターネット』(イーストプレス)、主な論文に「アンソニー・ギデンズのactive概念と市民社会」「政治理論に対するグローバリゼーションの二局面」などがある。http://www.socion.net/papers/