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あなたをこれまで最も遠くへ誘ってくれたもの(こと)はなんですか?

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ベタに聞こえるかも知れないが、旅行ガイドブックをあげておきたい。コロナ以前は月に一回程度のペースで海外に出張しており、おそらく多い方だろう。さて、その際に必ずもっていくのが旅行ガイドブックである(ただ、大抵はホテルに置きっぱなしであるが)。仕事のために観光ができないこともあるが、私にとって旅行ガイドブックは現地におけるリスク情報を知る手段だからだ。

さて最古の旅行ガイドブックには諸説があるが、未知の地域へ向かう読者に対する情報提供という観点では、紀元前一世紀のロドス島の学者、ポセイドニオスが書いた旅行ガイドブックが最古とされる。しかし、当時は交通機関が未発達であり、旅行は死と隣り合わせの冒険・探検というべき活動であった。

19世紀になり、鉄道網の広がりとともに人々は容易に遠くに行けるようになり、トーマス・クックによる鉄道を使った団体旅行が生まれ、さらに現地への行き方や名所旧跡の説明を含む、現在の旅行ガイドブックの原型が誕生する。旅行ガイドブックを見れば、旅行をする前に現地の状況、どのように移動するのか、どこに泊まれるのかが、事前にわかる。その結果、旅行の計画が立てられない、あるいは移動できずに途方に暮れるといった事態も減らせる。

つまり、旅行ガイドブックの誕生により、旅行は、生きて帰ってこれるともわからない冒険や探検と呼ぶべき行為から、事前に予定を立て、安全に行って帰ってくることのできる行為に変わったのだ。

一方、遠方の見知らぬ場所であっても、観光ガイドブックに紹介された時点で、その場所は未知の場所ではなくなる。観光ガイドブックに従って名所旧跡に行くことは、観光ガイドブックの内容確認行為となり、知らない場所に行ってみたいという好奇心を満たせなくなってくる。天の邪鬼な私は、旅行先でガイドブックを開いたとしても、あえて紹介されていない場所を探して、そこに行きたがる。たとえ、その場所が安全かどうかわからない場所であっても。

最後に、松尾芭蕉の「奥の細道」の序文にある、「古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」という一節を紹介したい。この意味は、「これまで旅行中に死ぬ人も多かったが、ちぎれ雲に誘われると、旅への思いが高まる」ということになる。旅行ガイドブックのおかげで旅行中のリスクが減っているのだから、現代人はもっと旅行すべきなのだろう。

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既存のウェブメディアに不満を感じること、またこれからのウェブメディアに期待することはなんですか?

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不満に感じていることは、大半のウェブメディアのビジネスモデルがコンテンツ課金ではなく、ネット広告に依存していることだ。

現在、ウェブメディアの大半は無料で見ることができる。さらにSNSやブログという消費者が情報を発信する手段も無料で利用できる。その仕掛けをいまさら説明する必要もないが、無料ウェブメディアはネット広告を表示することで、ネット広告の代理店から、その表示回数に応じて収益を得ている。その結果、ウェブメディアでは表示回数を増やすために過激なタイトルが横行し、ネット広告もその広告効果を上げるため、消費者ひとり一人のウェブ観覧履歴に基づいて広告内容を変える、つまりターゲティング広告が広がった。ターゲティング広告では、各消費者のウェブ閲覧履歴が事業者間で利用されている。言い換えればウェブ閲覧履歴という「消費者の興味や関心というプライバシーに関わる情報」が、商品として売り買いされているのに等しい。

欧州ではウェブ閲覧履歴を集める手段、とりわけサードパーティークッキーの規制が強まっている。しかし、ネット広告に関わる事業者は抜け道を模索しており、その抜け道ができつつある状況だ。ちなみに当方は、総務省「プラットフォームサービスに係る利用者情報の取扱いに関するWG」構成員として、日本国内でのサードパーティークッキーの規制に関わってきたが、事業者の反発があり、法改正案のとりまとめ直前に大きく後退することとなった。さらにウェブメディアそのものも、ターゲティング広告のようにコンテンツを消費者ごとに変えつつある。消費者にとっては心地よい空間を作ることになるかもしれないが、フィルターバブルと呼ばれる現象を生み出し、情報の分断を生み出している。

さて、いまChatGPTに代表される対話型AIが話題を集めている。対話型AIは利便性は高いものの、ウェブメディアを収縮させてしまう可能性がある。ウェブ検索は消費者が知りたい情報を載せているウェブメディアを教えてくれたが、対話型AIでは消費者が知りたい情報そのものを出力してくれる。多くの消費者は対話型AIが出力した情報に満足して、その元となったウェブメディアを見なくなるだろう。そしてウェブメディアが見られなくなれば、ウェブメディアに掲載されているウェブ広告の効果も落ちる。そうなるとネット広告料は下がり、Googleに代表されるネット広告代理店はもちろん、ウェブメディア上に広告を掲載している業者も、広告に関わる収入が減る。その結果、広告掲載の収入を前提にした、SNSやブログサービスを含めて、無料ウェブメディアは事業の継続が困難になり、そうしたウェブメディアに載っていた情報は多くは残らないだろう。また、消費者にとっても情報発信の機会が減っていくことになる。つまりウェブメディアは収縮していく。

結局、ウェブメディアにおいてネット広告は悪魔との取引だったのであろう。ゲーテ版の「ファウスト」では、ファウストは悪魔と取引したものの、最後は彼の魂は地獄に落ちずに済むが、ウェブメディアも救済の道はあると信じている。そのひとつは消費者側がウェブメディアそのものに対価を払うビジネスモデルに移行することだろう。我々はウェブメディアを諦めてはいけない。希望を持ち続けることが救済への一歩となるはずだ。

佐藤一郎 コンピュータサイエンス研究者

国立情報学研究所教授。分散システムやOSを専門とするかたわら、個人情報保護法他の改正作業に関わる。2019年には、テレビシリーズ「仮面ライダーゼロワン」にAI技術アドバイザーとして参加している。