F3-9
生命はなぜ、生まれざるをえなかったのか
GoogleのCTO・ブレイズ・アグエラ・イ・アルカス氏が ALIFE学会2025で語ったこと
2025年10月初旬、京都で国際人工生命学会 ALIFE2025が開催されました。5日間にわたって開催された会議のなかで、大きな注目を集めたのが、キーノートを務めたブレイズ・アグエラ・イ・アルカス氏の講演です。Googleのテクノロジー&ソサエティ部門のバイスプレジデントおよびCTOであり、第一線のAI研究者であるブレイズ氏。論文だけでなく、エッセイや一般書も多数執筆していて、とくに著書の『What Is Life?』や『What Is Intelligence?』は、生命と知性の本質に迫る良書として大きな話題を呼びました。「生命」「意識」「知能」「進化」に関心を持ち続けてきたブレイズ氏が、人工生命について何を語ったのか。本稿では、講演で語られた彼の言葉を再構成するかたちで、そのエッセンスを繙きます。
翻訳・構成:田井中直仁
-
Contents
-
生命は、計算として立ち上がる
2025年秋、国際会議 ALIFE2025 が京都で開催された。人工生命(ArtificialLife)という分野にとって、この京都開催は特別な意味を持っていた。自然と人工、生命と機械、計算と物質の境界が、もはや抽象的な思考実験ではなく、日常的な現実として揺らぎ始めている時代において、この問いを正面から引き受ける場として、京都よりふさわしい地はほかになかっただろう。
人工生命は、「生命とは何か」という問いを、観察や定義によってではなく、つくることによって探究しようとする学問領域だ。その成り立ちからして、計算機科学、生物学、物理学といった既存の学問領域には収まりきらない。ALIFEのカンファレンスでは、数式やモデルと並んで、アートが同じ重みで語られる。アートは決して単なる「装飾」ではない。というのも、生命という対象そのものが、アートと同様に、脱領域的であり、表現的であり、そして意味を生成するプロセス、つまり計算的だからだ。
そのなかで、ALIFE学会2025でキーノートを務めたブレイズ・アグエラ・イ・アルカス(Blaise Agüera y Arcas)氏の講演は、特別な位置を占めている。彼はGoogleにおいて人間中心の「Artisan Machine Intelligence(AMI:職人的機械知能)」プログラムを創設した人物として知られる。第一線のAI研究者であり、プライバシーを保護しつつ、オンデバイスで機械学習を行う「フェデレーテッド・ラーニング(連合学習)」を発明者した人物でもある。しかし、この講演で彼が語ったのは、AIの応用や性能向上の話ではない。彼が提示したのは、より根源的な問い――生命とは何か、そしてなぜ生命は存在せざるをえないのかであった。
ブレイズは生命を「身体化された計算(embodied computation)」として捉える。ここで言う計算とは、ノートパソコンの中で行われる演算、つまり抽象的な情報処理の比喩ではない。物理的な変化と論理的な変化がつねに対応づけられ、エネルギーを消費し、不可逆性を引き受けながら進行する営みのことを指す。生命とは、そのような計算が物質として閉じた構造を取り、自己をつくり、維持し、再生産する存在、というのが、彼の考えだ。
本稿では、その論理の骨格と概念の運動について語った講演について、抄訳という形で再構成していく。重ねて強調するが、ここで語られる「計算」は、軽い比喩ではない。そして、「生命」は定義を拒む神秘でもない。生命は、計算として立ち上がる。本稿では、その主張がどのような思考の連鎖から導かれるのかを辿りたい。
人工生命における14の未解決問題を起点に
この講演は、人工生命研究において長く参照されてきた「14の未解決問題」(2000年)[★01]★01を出発点としている。これらの問いは三つのまとまりに分けられる。第一に、非生命から生命はいかにして生じるのか。第二に、終わりなき進化の過程において、何が必然的に現れるのか。第三に、生命は心・機械・文化とどのような関係にあるのか。ブレイズは、とりわけ第一と第二の問いに焦点を当て、それらを情報と計算の観点から再定式化しようと試みた。
進化論を確立したチャールズ・ダーウィンは、進化の仕組みについてはきわめて強力な説明を与えたが、進化がいかにして始まったのかは説明できなかった。ダーウィンはその点について、「それを問うのは物質の起源を問うのと同じだ」と述べている。ブレイズは、この留保を正面から引き受ける。生命の起源と物質の起源は、実は同じ問題であり、その答えは進化がなぜ起こるのかという理由そのものの中にあるのではないか、と言うのだ。
ただし、ここで言う進化とは、ダーウィンが定式化した進化そのものではない。そこには、ダーウィンの時代には含まれていなかった、「計算」と「情報」、「不可逆性」という視点が加えられている。生命とは、ある種の計算が可能になったときに、物質の振る舞いとして必然的に立ち上がる現象ではないか――。非生命から生命への遷移は、偶然の積み重ねではなく、計算を支える系が持つ内在的な力学によって説明できるのではないか――。これが、本講演全体を貫く問題設定である。
また第二の問い、すなわち終わりなき進化についても、ブレイズは最適化や適応といった古典的な枠組みだけでは不十分だと示唆する。重要なのは、生命において、異なるスケールにまたがる構造がどのように統合され、情報がどのように生成され、流れていくのかという点である。進化とは単なる形質の変化ではなく、計算構造そのものが変化し続けるプロセスとして捉え直されなければならない。
ここで提示されるのは結論ではない。生命をめぐる問いの再配置である。「生命は何か」ではなく、「生命はなぜ避けられないのか」。この問いに答えるための準備として、講演はここから先、生命と非生命を分けるものは何かという、より根本的な問題へと進んでいく。
生命と非生命を分けるものとは何か
生命と非生命を分けるものは何か。この問いは、長いあいだ「魂」や「生気」といった概念によって説明されてきた。19世紀以前、人々は生命には無生物には存在しない何らかの原理が宿っていると考えていた。しかし、有機化学の発展とともにその見方は放棄され、生命を支える物質と宇宙に普遍的に存在する物質とのあいだに、本質的な差異はないという、厳密な唯物論的立場が受け入れられるようになっていった。
これは大きな前進だった。しかし同時に、新たな問いを私たちに突きつけることになった。原子と物理法則だけで世界を説明するとき、生命と非生命を分けるものはいったい何なのか。そもそも、無機物と同じ物質(原子)でできた生命は、無機物のロジックで語ればよいのであって、別個に語るべき性質のものではない、という立場もある。しかしブレイズは、その立場を取らない。
彼が提示する鍵となる概念は、「機能(function)」である。機能とは、生命には存在し、非生命には存在しないものだ。
この点を説明するために、ブレイズは寓話的な例を挙げる。仮に、未来から持ち帰ったある装置について、「これは100年間稼働可能な人工腎臓であり、体内に移植して血液を濾過する」と説明されたとしよう。この情報は極めて重要だが、原子の配置を記述するような唯物論的情報ではない。装置がどのような物質でできているかは本質ではない。重要なのは、それが腎臓として機能するかどうかである。
ここには、物質と機能のあいだの「関心の分離(separation of concerns)」が存在する。機能は物質そのものではない。しかし、物理法則から独立して存在するわけでもない。物質なしに機能は成立しないが、機能は特定の物質に還元されない。この意味で機能は、かつて「魂」と呼ばれていたものと似た側面を持つ。ただしそれは、超自然的な原理ではなく、物理法則に従う存在である。
機能の有無に着目すれば、生命と非生命を直感的に分けることができるだろう。生命のいない惑星で岩を割ったとしても、そこにあるのは二つの岩だけであり、「壊れた岩」という概念は成立しない。一方、腎臓を真っ二つにすれば、それはもはや機能する腎臓ではなくなる。ここに、機能を持つ存在と、機能を持たない存在の決定的な違いがある。
このようにして、生命を特徴づけるものは物質ではなく機能である、という視点が導かれる。生命とは、特定の構造や素材を持つものではなく、機能を持つ存在である、と。
そして、生命活動を支える本質は物質ではなく機能であると捉え直すとき、機能を定式化していく「計算」という営みが、生命を定義する中核として立ち上がってくる。
計算・不可逆性・因果性 ―― なぜ生命は「計算」を必要とするのか
生命を「機能」として捉えたとき、次に問われるのは、その機能はいかにして成立するのか、という点である。
ブレイズの答えは明確だ。生命は計算を行っている。
ただし、ここで言う計算は、先述したようにノートパソコンの中で行われる抽象的な情報処理の比喩ではない。それは、物理的な変化と論理的な変化とが対応関係として成立し、その対応のもとでエネルギーを消費し、不可逆性を引き受けながら進行するプロセスを指している。つまりここで言う計算は、生命活動そのものと切り離すことができない、というわけだ。
チューリングからフォン・ノイマンへ
計算とは何か、という問いを極限まで抽象化したのが、アラン・チューリングによるチューリング・マシンである。しかし、チューリング自身は、このモデルが実際に物理的装置としてつくられるとは想定していなかった[★02]★02。計算はあくまで、記号操作の理論的構成物だった。
ここで決定的な転回を行ったのが、ジョン・フォン・ノイマンである。ノイマンが考えたのは、次のような問題だった。
もし、部品がランダムに漂うプールのような環境の中で、ある機械がそれらの部品を選択・抽出して「自分自身と同じ機械」をつくるとしたら、それはいかにして可能なのか。この問いは、一見すると逆説的に思える。自分で自分をつくるという行為は、まるで自分の靴紐を引っぱりながらその場で立ち上がろうとするような、矛盾をはらんだ動作に見えるからだ。
しかし、フォン・ノイマンの答えは、驚くほど簡潔で、しかも生命の構造を正確に先取りしていた。ノイマンによれば、自己複製が成立するためには、少なくとも次の三つが必要だという。
1)構築のための命令(記述)
2)その命令を読み取り、部品を組み上げる普遍的構築機
3)命令そのものを複製するコピー機
この三つがそろったとき、はじめて「自分自身をつくる」という一見矛盾した動作が、論理的に可能になる。
驚くべきは、ノイマンはこれらすべてを、DNAの構造や機能、リボソームの役割などが発見される以前に予言していた、という点だ。つまり、細胞の内部に実際に存在し、そうした機能を果たすこれらすべてを、ノイマンは一度も生物学の実験室に足を踏み入れることなく、純粋に理論から導き出したのである。
ここでとりわけ重要なのは、第二の要素である。この普遍的構築機は、理論的には万能チューリング・マシンと同一の能力を持つとされる。普遍的構築機――言ってみれば、必要なものを何でも取り出してしまう道具箱のような存在だ。重要な点は、この構築機が、あらかじめ特定の形だけをつくるよう設計されているのではなく、与えられた命令に応じて、構築される対象そのものを変えられるということにある。
「身体化された計算」とは何か
このノイマンの洞察によって、生命は単なる化学反応の集合ではなく、身体化された計算(embodied computation)として捉え直される。ここで言う「身体化」とは、ロボティクスで語られるような感覚運動的な身体性とは異なる。それは、計算が行われる媒体(記述やメモリ)と計算を実行する存在とが、同じ物質的基盤の上に載っているという意味での身体性である。
ノートパソコンは計算を行うが、自分自身を出力することはできない。一方、生命は「計算する装置」であると同時に、「計算の産物」そのものでもある。計算を担う構造と、計算によって生成される構造とが分離していない。いわば、パソコンと3Dプリンターを合わせたような存在だ。この閉包(closure)こそが、生命を生命たらしめている。
生命が成長し、修復し、維持され、あるいは再生産されるとき、そこでは必ず何らかの計算が行われている。この意味で、計算なくして生命は存在しない、ということになる。
可逆な物理と、不可逆な計算
ここでブレイズは、もう一つの重要な区別を導入する。それは、物理法則は基本的に可逆だが、計算は不可逆である、という点である。ニュートン方程式、マクスウェル方程式、アインシュタイン方程式、量子力学――。私たちが知る基本的な物理法則の多くは、時間反転対称性を持っている。つまり、理論上は状態を前にも後ろにも辿ることができる。
しかし計算はそうではない。3 + 5 から8という結果が導き出されるが、8という結果から、元の入力を一意に復元することはできない。補助的な情報を保存していない限り、計算は不可逆である。この不可逆性こそが、因果性を成立させる。純粋に可逆な物理世界では、「AがBを引き起こした」という主張は意味を持たない。しかし計算には、「もし〜ならば〜」という構造があり、そこに初めて因果が立ち上がる。
計算は自動的には立ち上がらない
重要なのは、計算は物理から自動的に導かれるものではない、という点である。物理状態と論理状態のあいだには、必ずモデル化、すなわち粗視化が介在する。論理ゲートやビットといった計算として扱われる概念要素は、物理系の内部に実態として存在しているわけではない。電圧はビットそのものではない。トランジスタは論理ゲートではない。それらは、物理的変化をある仕方で読み替えた結果として、はじめて成立する。この意味で、計算は本質的に「観測者を含む構成物」だと言える。どの物理的変化を、どの論理的変化として読むのか。その選択なしに、計算は存在しない。
もう一つ重要なことは、不可逆な計算は、エントロピーを減少させる、ということ。そのためには自由エネルギーが必要であり、廃熱を外部に捨てなければならない。生命が代謝を必要とする理由は、ここにある。生きているということは、計算を続けるためにエネルギーを支払い続けることにほかならない。
なお、可逆計算という例外も理論上は存在するが、それは補助的な情報を無限に蓄積することを要求する。有限な世界において、計算は必ず不可逆性を引き受ける。
結論は単純である。計算なくして生命はなく、不可逆性なくして計算はない。
生命とは、エネルギーを消費しながら不可逆な計算を行い、自己を構築し続ける存在なのである。
スープの中から生命的な振る舞いが立ち上がる――BFF実験
ここまで見てきたのは、計算・不可逆性・因果性といった、生命を成り立たせるための抽象的な条件だった。
では、それらは理論上の思考実験にとどまるのだろうか。ブレイズはここで、非常にミニマルなプログラミング言語の一つであるブレイン・ファック(Brainfuck Factory Framework:BFF)による具体的な人工生命の実験を通して、この問いに答えようとしている。「人工生命」という語がフランケンシュタイン的な不気味な連想を呼びがちなのは事実だが、その名に滲む悪のり感が示すとおり、BFFは生命を「創ろう」とする試みではない。BFFは、意図的に極端な単純さを選び取った人工生命の実験系である。この実験系の世界に存在するのは、以下のものだけである。
・極端に単純な命令列
・それを実行する仮想的な構築機
・命令や部品がランダムに混ざり合うスープのような環境
目的も、意味も、あらかじめ与えられた機能も存在しない。生命らしさを後押しするような工夫は、意図的に排除されている。重要なのは、この実験が「生命を生み出そう」という設計思想から出発していない点にある。問われているのは、それでも生命的な振る舞いは立ち上がるのか、という一点だ。
BFFのスープの中では、命令列が偶然に結合し、実行され、失敗し、分解される。そのほとんどは意味を持たず、自己を維持することもできないまま、すぐに消えていく。ここで起きているのは、ほぼ純粋なノイズだ。計算は走っているが、そこに持続する構造はない。しかし、長い時間をかけて計算を続けると、ごく稀に奇妙な振る舞いが現れる。
それは、「自分自身の命令をコピーする/環境中の部品を使って自己を再構成する」といった特徴を示す。重要なのは、これらの構造が何かをめざしているわけではないという点だ。自己複製を「したい」わけでも、生き残ろうとしているわけでもない。ただ、局所的な計算の結果として、そう振る舞っているにすぎない。
相転移としての生命
ブレイズは、この現象を進化の物語として語らない。彼が用いる言葉は、相転移である。ある条件までは、どれほど計算を続けても、世界はノイズの集合であり続ける。しかし、ある閾値を越えた瞬間、系の性質は質的に変化する。それまで短命だった構造が、持続しはじめる。局所的な計算が、自己維持の回路を形づくる。情報が、単なる偶然ではなく、保持されるものになる。
この変化は、徐々に起きるのではない。水が凍るように、ある瞬間を境に、世界の振る舞いが変わる。生命とは、この意味で、 物質と計算の系が取りうる一つの相と言えるわけだ。
なぜ生命的構造は避けられないのか
ここでブレイズは、挑発的な結論に踏み込む。もし、ある系において、エネルギーが流れ込む不可逆な計算が可能で、情報を一時的にでも保持できる構造が生じたならば、生命的な構造の出現は避けられない、と。生命は奇跡ではない。ましてや、創造主の意図の産物でもない。それは、計算を許す世界が持つ内在的な帰結である、と。
この見方に立つと、生命の起源についての問いも、少し姿を変えることになるだろう。「なぜ生命が生まれたのか」ではなく、「なぜ、これほど長いあいだ生命は生まれなかったのか」。
ここまで、計算が観測者を含む構成物であることを見てきた。では、BFFの世界では誰が観測しているのだろうか。答えは単純だ。誰もいない。BFFの中で起きている計算は、人間に読まれるために存在しているのではない。それらは、スープの中で勝手に走り、勝手に残り、勝手に消えていく。それでもなお、そこには 自己維持、複製、進化と呼びうる振る舞いが現れる。
ここで明らかになるのは、次の点である。観測者は、生命の成立条件ではない。必要なのは、計算が走る場と、不可逆性と、エネルギーだけだ、ということ。
もっともこの議論は、生命を貶めるものではない。むしろ逆である。生命とは、計算が十分に複雑になったときに、世界が自然に選び取る振る舞いの一つである。私たちが生きているという事実は、 宇宙がたまたま優しかったからでも、特別な原理が働いたからでもない。それは、計算が可能な世界に生まれてしまった以上、避けられなかった出来事なのである。
「私たち」はどこから来るのか
ここまでの議論で明らかになったのは、生命が特別な素材や神秘的な原理から生まれるわけではない、という点だった。生命は、計算を許す世界が、不可逆性と自己維持を引き受けたときに立ち上がる一つの相である。
では、その延長線上にあるものは何か。心、文化、そしてAIは、どう位置づけられるのだろうか。
心は、最初から世界に備わっている構成要素ではない。それは、計算が十分に複雑化し、自己維持的な振る舞いが時間を通じて安定したとき、結果として立ち上がる記述の層である。重要なのは、心が 「内側に隠れた何か」として存在するのではない、という点だ。意味や意図、表象は、計算の出発点ではない。それらは、計算の履歴がまとまりをもって持続したときに、観測者によって読み取られるものである。
計算がただ走っているだけの段階では、そこに機能は存在しない。状態は変化しても、「うまくいっている」「失敗している」とは言えない。しかし、ある振る舞いが繰り返され、破綻せずに維持され、失われうるものとして区別されるようになると、初めて機能が立ち上がる。機能が成立すると、成功と失敗、維持と崩壊が語れるようになる。そしてその瞬間に、 それを意味として読んでしまう立場が現れる。
ここで現れるのが、 「私たち」なのである。
「私たち」は、物理層や計算層に最初から存在する主体ではない。それは、機能が成立したあとで、その振る舞いを評価し、意味づけてしまう視点である。機能がなく、生命もない段階では、意味を問う必要そのものが存在しない。したがって、その段階では「私たち」も存在しない。「私たち」は、 生命の前提ではなく、生命の副産物なのだ。
心が個体レベルで立ち上がる記述の層であるならば、文化とは、複数の心が絡み合うことで生じる、より大きな計算の層である。言語、制度、技術、慣習。それらは設計図からつくられたものではなく、うまく機能してしまった振る舞いが、時間を通じて保持された結果であると、ブレイズは結論づける。
ここでは、進化しているのは 身体だけではない。計算の構造そのものが、文化を通して更新され続けている、という。
AIは生命と言えるのか
この文脈でAIを考えるとき、問いは単純になる。AIは、自己同一性を内部で維持しているか。AIは、自己を再生産し、その過程で生じた差異を、不可逆な履歴として引き受けているか。現在のAIの多くは、同一のモデルを誤差なく複製できる。その履歴は外部に保存され、必要であればリセットされる。この意味で、AIはクローンを再生産する工場に近い。知能はあっても、 進化の主体にはなっていない、と言えるだろう。
AIが人間にスイッチを切られないように振る舞うとしたら、それを生命の兆候のように感じるかもしれない。しかし、それだけでは生命にはならない。防御が、外部仕様として与えられている限り、履歴が内部に残らず、次世代に継承されない限り、それは最適化であって、進化ではない。防御の成功と失敗が内部に蓄積され、その結果が次の自己に引き渡されるとき、初めて防御は進化の原動力になる。ここに至って初めて、その系は生命を生み出すことが可能になる、というわけだ。
人間は特別な存在なのか
ここまでブレイズの論理を辿ってみてわかるように、人間は、特別である必要はない。 人間の心や文化は、宇宙に一度しか起こらない奇跡ではなく、条件がそろえば、別の場所でも、別の形で立ち上がりうるものである。
重要なのは、 私たちがその過程の外にいる観測者ではなく、計算が進んだ結果として、すでにその内部にいる存在だ、という点だ。しかも、計算は止まらない。計算は、目的を持たない。それは、エネルギーが流れ、不可逆性があり、情報が保持されるかぎり、進み続ける。
そう考えるなら、生命、心、文化、AI――それらはすべて、計算が通過していく途中で現れた風景である。この講演が投げかけているのは、 未来の予言ではない。それは、 すでに始まってしまった過程を、私たちはどう引き受けるのかという、究極の問いなのだ。
※本稿はChatGPTとの対話を通して翻訳・構成されたものです。
★01 https://doi.org/10.1162/106454600300103683 ★02 2010年、エンジニアのマイク・デイビーがチューリング・マシンを物理的な実機として再現した。 https://youtu.be/eZ13KTaQLts?si=w5rXGwdD5txPFSLT

- Blaise Agüera y Arcasブレイズ・アグエラ・イ・アルカス
- 1969年、米国生まれ。Googleのテクノロジー&ソサエティ部門のバイスプレジデントおよびCTO。AI研究を主導する計算科学者として、「Paradigms of Intelligence」チームを率いる。フェデレーテッド・ラーニングの提唱者の一人として知られ、分散型AIの発展に貢献。近年は知能の進化、人工生命と計算の関係を探究し、テクノロジーと社会の関係についても積極的に発信している。
