T3-6
阪神・淡路大震災30年の言葉 #6:発症する「声」の記憶、分有される私たち
手記を書く、手記を読む

- KIITO:〈災間スタディーズ:震災30年目の“分有”をさぐる〉分有資料室(デザイン・クリエイティブセンター神戸)
「がんばろう神戸(KOBE)」という掛け声とともに復興を推し進めてきた阪神淡路大震災から30年。被災地に溢れざるを得なかった「前向き」な言葉の陰にどんな思いや沈黙があったでしょうか。10歳で震災を経験した社会心理学者・高森順子さんは、「阪神大震災を記録しつづける会」の事務局を引き継ぎ、それぞれの「震災後」を語る人々の言葉に出会ってきました。震災30年の今年、新たに募った「30年目の手記」を手に取り、自らの「復興」の日々も振り返りながら、「前向き」な言葉とは違う、もう一つの「震災後」の語り方を探ります。連載全6回、最終回。(連載リストはこちらより)
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Contents
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私はなぜ、手記を読むのか──蓋をしてきた記憶が疼くとき
この連載では、デザイン・クリエイティブセンター神戸[KIITO]と阪神大震災を記録しつづける会が協働して実施した震災体験の手記募集プログラム「30年目の手記」に寄せられた手記186篇の手記から、手記の一部と、それらを綴った執筆者のふるまいを紹介してきた。
震災によって突然に娘を亡くすという理不尽な「別れ」を、30年かけて、まるで「親離れ」「子離れ」のような「別れ」としてやり直していく様子をつぶさに綴った人(第2回)。30年、蓋をしてきた記憶にはじめて「こころの傷」と名付け、傷とともに生きることを静かに心に留めた人(第3回)。何度も手記を綴ることを繰り返すことで、自らの体験を「未完」の物語として読み手に引き継がれることを待つ人(第4回)。手記に書けなかったことを、取材者につぶやいて託す人(第5回)。
連載で紹介した手記も、その他の手記も、それぞれ固有の「震災後」の書きぶりがある。いうならば、かれらは「震災後」を生き延びていくために、自らの体験を表現する固有の「文体」を獲得していったのである。だからこそ、すべての手記から全体的な「傾向」や「共通点」を分析して見出すのは難しい。ただ、そうはいっても、人間の「わかりたい」「知りたい」欲望は抑えられない。私にたいして「186篇の手記に共通することはありますか?」であるとか、「186篇の手記から感じられる、いま伝えるべき教訓とはなんでしょうか?」と質問してくる人は多い。そのように問う人の気持ちはとてもよくわかる。だから、私はこの問いを無碍にすることはできない。ただ、私はそこにあまり関心を持つことができないでいる。もっと正直にいうと、私は、「震災後」を生き延びるために書いた手記を、社会的な「震災」という現象をわかるための「素材」として使うという感覚に抵抗を感じてしまう。
では、私はなぜ、手記を読むのか。震災をわかるための「素材」として読まないのであれば、何のために手記を読むのか。連載の最後となる今回は、そのひとつの応答として、2025年1月17日に体験した、私が長らく蓋をしてきた記憶が疼いた出来事を書くことからはじめてみたい。
「声」の記憶──「なめらかな声」と「詰まってしまう声」
前回の連載でも触れた、NHKラジオ深夜便「阪神・淡路大震災 分かち合いたい30年──語り継ぐ、語り直す」。2025年1月16日23時から翌17日5時まで、約6時間にわたり放送されたこの番組は、震災報道を長年実践してこられた住田功一さんと、住田さんの言葉をキャッチアップする役回りとして兼清麻美さんが対話するかたちで進行していった。震災から30年のアーカイブ音源、神戸市東遊園地の追悼行事の準備が進む様子の中継、「30年目の手記」の朗読、執筆者へのインタビューなど、さまざまな「声」が交錯するなかで、私はゲストとして参加し、自らも「声」を出していた。深夜の長丁場の生放送は、ラジオブースでの落ち着いた雰囲気と、バックヤードのてきぱきとした動きのコントラストが際立っていた。
「声」のプロフェッショナルの人たちに支えられたこの現場で、私は、緊張することなく「声」を出せることに静かに驚いた。なぜなら、私は長らく、吃音を抱えてきたからだ。
私の幼少期から青春期は、吃音を隠すこととともにあった。言葉が詰まって出てこない。自分の名前がいえない。電話をかけることができない。いつかばれるかもしれない。いや、もうばれている。そんな疑心暗鬼の日々は、本当の自分の「声」を誰にもわかってもらえない疎外感と、本当の自分の「声」を知ってほしい渇望で引き裂かれていた。調子の良いときに、なぜかすらすらと話せることもあった。喜んだのも束の間、翌日には言葉が詰まって出てこないこともあった。吃音を治すための教室に通っても、劇的に改善することはなかった。そんな悩みを抱えていた私が10歳のころに遭ったのが、阪神・淡路大震災だった。学校という「声」を出すことが当たり前の場所が一時的に機能しなくなったことは、私を心底ほっとさせた。一方、愛するものを失った人びとや、亡くなった人びとは、言葉を詰まらせていった。言葉が詰まってしまうことの痛みを、私とは別のかたちで引き受けなければならなかった人がたくさんいる。震災によって、「詰まってしまう声」を隠すことができた私と、「なめらかな声」を失ってしまった人びと。この理不尽な事実に見て見ぬふりをしながら、日常が戻っていく中で、ふたたび「詰まってしまう声」が暴露されることを恐れつづけた。こうして、言葉というものに絶望するようになった。
ただ、いつの頃からか、「詰まってしまう声」も、ときおりでる「なめらかな声」も、どちらも私の「声」ではないかという思いに至るようになった。いまでも言葉がどうにも出てこないこともある。詰まりそうな予期があるときは、代わりとなる言葉のカードを頭のなかで繰りながら、つぎにあらわれる文節のリズムと韻に乗りながら、声帯を振るわせていく。言葉がつんのめったり、乗り切れなかったりすることもある。私の「声」は、41年間で培った吃音を乗りこなす職人的な技芸と、ある種のなげやりな態度が撚り合わされた、オリジナルの「声」になった。そんなわけで、私はいま、吃音をほとんど気にしていない。私が能天気なだけかもしれないが、私が吃音だと気づかない人も多い。ただ、それでも「声」を出そうとするあの瞬間、喉の手前で跳ね返されるあの感覚は、いまもずっと身体の奥に響いている。
アナウンサーのみなさんのつぶの立った「声」と、詰まることを予期させる私の「声」が、同じように「声」として重なり合う。そして、ラジオ番組というひとつの音源として流れていく。私はそのことに、えも言えぬ清々しさを感じていた。それは言葉に絶望した子ども時代の私を労ってくれているような時間だった。
私は、紹介されていく手記のひとつひとつに、豊かな世界があることを語っていった。そして、「手記を読むことは、書かれたことを引き受けたうえで、書かれていないことを想像する営み」だと語った。それはまるで、「なめらかな声」を発しながら、「詰まってしまう声」も予期している、いまの自分自身の声の出し方と重なっていた。
私の身体に沈澱していた「声」の記憶が、番組内で交わされるあらゆる「声」と共振する。この時間が、私に静かな確信をもたらしていった。それは、私のトラウマティックな「声」の記憶が、誰かの「声」の確かさに触れる力をもたらしているのではないかという、いささか身勝手な希望だった。こんなふうに、私の「声」の記憶は、小さな痛みと誇らしさとともに思い出された。
疼きと共振、記憶の分有
手記を読むことをつうじて、読み手の思いもよらない過去の記憶が疼く。一見すると書かれていることと関係のないような傷が疼き、書き手と読み手が共振する。これこそが、手記を読むことの本質的な意味だと、私は考えている。理解による共感というよりも、固有な記憶に触れることによる共振。この「共振」という現象の解像度を上げるために、原初的なあり方としての共同体を問い直し、その核となる概念としての「分有」(partage)を生涯にわたり研究してきた哲学者ジャン=リュック・ナンシーの『侵入者』[★01]★01を引きながら考えてみたい。
『侵入者』は、移民問題や外国人排除の風潮を念頭に組まれた「よそ者の訪れ」と題する雑誌特集号(2000年)に寄稿されたエッセイだ。ナンシーは1991年、50歳のときに心臓移植を受けた。エッセイでは、移植から10年を迎えようとするナンシーが、他者の心臓とともに生き延びていくさまを、移民や外国人という「侵入者」として扱われつづける人々と重ねながら、私的かつ詩的に描いている。
ナンシーは、心臓移植という医療を受ける患者として、あらゆるものが「他者性」を帯びていくことを冷静な筆致で触れていく。弱っていく自らの心臓は、健康であったころには意識することのなかった自らの内側にある異物=「他者性」を剥き出しにする。新たに交換される心臓はまさしく他者のものである。また、心臓移植という先端医療もまた、彼にとっては不確実さや不穏さをともなう「他者性」を帯びている。そのような心臓移植という体験を、ナンシーは「移民問題」や「外国人問題」という共同体をめぐる政治的な議論と引きつけて議論していく。「移民問題」や「外国人問題」は、排除するか包摂するか、ともに生きるか否か、といったような二者択一の議論に帰結することがしばしばある。だが、ナンシーは、他者とは「ともに生きるかどうか」を問うものでなく「そもそもともにある」ものだという。「侵入者」は、「外からやってくる者」ではなく、「すでにうちにある者」だ。そしてそれは、自らの内部にありながら見えなくなっていたものが、ある日ふたたび疼き出すという出来事によって知らされる。ナンシーはそのことを、心臓移植後の非常に具体的な臨床体験から引き出している。
心臓移植をすると、移植された他者の心臓を異物とみなして攻撃したり、排除したりする、いわゆる「免疫機能」がはたらく。ただそれでは、移植した心臓がうまく馴染まない。他者の心臓を自らの心臓の代わりとして機能させるためには、免疫機能を下げなければならない。ナンシーももれなく、新しい心臓を機能させるために、免疫抑制剤を投与された。すると、他者の心臓が馴染む代わりに、別の問題が起こる。すでにナンシーの体に侵入し、潜伏しているウイルスが再活性化してしまうのだ。彼の場合、帯状ヘルペスやサイトメガロウイルスが再活性化し、発症した。
ナンシーはこの体験を、以下のように抽象化して述べる。「わたしのうちに侵入者がおり、わたしは自分自身にとってのよそ者となる」のだと[★02]★02。つまり、彼がいう「侵入者」とは、いままさに他者としてやってくるものではなく、すでにやってきていて、かつ、気づかぬほどに私のうちに馴染んでいたものが、ふたたび「他者性」を帯びたものとして再来することなのである。
ナンシーのこの感覚は、特別なことをいっているわけではない。生き延びるために自己の防衛を解き、社会にひらいていくことが、同時に、忘れていた過去を呼び覚まし、傷が疼くような感覚を生む。ナンシーは、人が社会のなかで生きるうえでの普遍的な苦悩を、心臓移植の体験から描いたのだ。
手記を読むとき、書き手の語る固有の記憶に触れて、読み手自身の固有の記憶が疼くように思い出される。その疼きは、読み手に、書き手の存在と、書き手が読み手にゆだねた記憶の重みをたしかに感じとる回路をひらく。書かれた出来事を理解したからではない。その重みの一部を受けとるだけなのだが、なぜか、ある手記が頭から離れない。ふと、あの手記のあのフレーズを思い出してしまう。そういう体験が、読み手が手記を読んだ後に起こりはじめる。
なぜ、手記を読むのか。このことへの答えをあえて言葉にするならば、手記を書くこと読むことを通じて、理解不可能なもの同士が互いに敬意を払いつつ、わかりあえぬままにともにあることができるから、といえるだろう。
うしろむきの〈復興〉論──ともに「居られる」ために
手記を読むことで、長らく蓋をしてきた記憶が疼く。私の場合は、吃音の記憶を思い出したが、それはトラウマティックな体験の再現というよりも、自分の来し方を祝福するような小さな痛みと誇りをもたらすものだった。
とはいえ、手記を読むことは、安全な営みというわけではない。他者の記憶を受け入れることで自己の記憶がかき乱されるといったような、きわめて身体的かつ倫理的な揺れをともなう事態が引き起こされることも予期しなければならない。だからこそ、私たちはまるで「免疫反応」のように事前に身を守ったうえで手記を読むことがしばしばある。たとえばそれは、震災をわかるための「素材」として手記を取り扱ったり、「美談」や「哀話」といったスタンダードな型にはめてみたり、普遍的な「教訓」を見出す視点で読むということかもしれない。共感をもたらす物語として手記を読むことで、記憶が不意に疼くことを避けられるかもしれない。
しかし、それでは、書き手の記憶に触発され、自らの奥深くにしまっていたものが疼きはじめるような、思いがけない共振が起こる可能性を閉ざしてしまう。「教訓」となった「前向き」な物語は、書き手固有の記憶を置いてきぼりにする。書き手固有の記憶を、「前向き」な物語の「素材」にすぎないものにする。書き手と読み手は、「物語」という大きなかたまりの外へ出ることはできず、「体験者」と「非体験者」という壁に隔てられたままである。だからこそ手記は「素材」としての読み方を一旦保留して、手記の世界に没入し、「痛みの伝染」と「生の充溢」が同時に引き起こされるような時間を過ごすように読むことも大切なのではないかと考えている。
そこでの書き手と読み手は、「体験者」と「非体験者」といった目の粗いレッテルを超えて、互いの固有性がまるで地下水脈のようにひそやかにつながってしまう。「分有」の概念に照らしあわせていうならば、それは、書き手と読み手が「書く」「読む」という行為に先立って、「すでにつねにともにある」(être-en-commun)ことが露わになるような体験である。言い換えれば、「分有」とは「存在」を分かち合うことではなく、分かつということが「存在する」ということである[★03]★03。そのような、ふだんはほとんど意識にのぼらない存在のありように、手記を読むという行為は、アクチュアルな感覚をともなったものとして触れさせてくれる。
このような感覚が生まれるのは、書き手と読み手に共通項があるといったことによってのみで決まるのではない。自らに差し出された他者の存在と体験の重みを感じて、自らの存在と体験の重みを思わず差し出したくなる。思い出すことを撥ねつけてしまうような過去を、むしろ引き寄せられるようにして想起し、これまでとは別のかたちで出会い直すことを余儀なくされてしまう。このような、書き手と読み手のあいだで起こる記憶のダイナミクスは、「前向き」に人びとを「たばねる」ことはしない。そうではなく、「うしろむき」に人びとと「居られる」ための土台をつくる。
「居られる」関係は、他者は「すでにつねにともにある」ことをまざまざと知り、安堵するような感覚をもたらす。誰かと直接に触れ合ったり、声を交わしたりしていなくとも、自分のリズムがこの世界のどこかとふれていると感じられる、そんな関係を手ごたえをもって信じられることだ。たとえ互いに声が届かなくても、たとえ互いの輪郭がぼんやりとしか伝わっていなくとも、互いの存在を差し出している。それは、言葉にならない記憶を無闇に問わず、わかりあえない存在のまま、その重みを互いに了解しあう姿勢だといえるかもしれない。
私はこれまでの連載で、いわゆる復興論においてはネガティブに捉えられる「うしろむき」という態度を出発点に、もうひとつの復興のあり方を探ってきた。災害から立ち直り、復興していくためには、言葉によって人びとをたばね、「前向き」な物語を生み出すことが求められる。
一方、その「前向き」な物語のなかに「居られない」人もいる。当然、かれらもまた、復興というプロセスのただなかにいる。そうであるならば、かれらの言葉にならない思いにふれ、かれらもまた、いまここに「居られる」ための足場を用意することが必要ではないか。ただし、それは、理解や共感を前提とする「前向き」な物語にくらべて、見えにくく、伝わりにくい。
手記には、書き手が編み出してきた震災後に「居られる」ための技が書き留められている。そこには、「前向き」な復興論では読み飛ばされ、聞き流される言葉がある。そして、その余白には、言葉にならない記憶の重みがある。「うしろむき」な復興論とは、「居られる」ための「声」に出会い、そこに自らの「声」を重ねていくことからはじまる。手記の向こう側にいる書き手の声に、読み手が呼吸を合わせるとき、読み手の記憶が浮かび上がる。書き手と読み手は互いを知らぬまま、互いが「居られる」ための根拠になってしまう。何かを取り戻そうとか、新たな何かを勝ち取ろうとか、そういった明瞭な連帯のための言葉をもっていないとしても、自らのふるまいが他者と共振し、自らの存在が過剰に問い直されることなく「居られる」ようになる。
過去に沈んでしまった体験を媒介に、いまここで、互いの存在の重みを認めあい、互いが「居られる」ようになる。言葉を失うような体験を掬い取ろうと試みた人びとを、表現の余白ごと受け止める。手記を通じた記憶の分有とは、このようなことではないだろうか。そのようなふるまいを手放さずにいることが、災間を生きる私たちの「もう一つのメディアリテラシー」を育てるのではないだろうか。
震災後の「前向き」な「声」に黙した人が、「声」を出しやすい社会に。
「声」が出なかった人が「声」を出せるその日まで、待ちつづけられる社会に。
痛みに黙した人の「声」を、想像することをやめない社会に。
そんな社会の到来を願って、焦らず、あきらめず、私はこれからも「声」のそばで、「声」を重ねていきたい。「声」は一人きりで発せられるものではないのだから。
(了)
阪神・淡路大震災から「30年目の手記」:
https://kiito.jp/saikanshuki/shuki_asc

- 阪神・淡路大震災から「30年目の手記」
- 阪神・淡路大震災から「30年目の手記」は、1995年から現在まで震災体験の手記集の出版を行う「阪神大震災を記録しつづける会」の取り組みをもとに、2021年に東日本大震災の震災手記を集めるプロジェクト「10年目の手記」の方法を援用し、発展させた手記募集プロジェクトです。
★01 ジャン=リュック・ナンシー、西谷修(訳編)「侵入者 いま〈生命〉はどこに?」、2000年、以文社★02 前掲書、28頁。★03 ジャン=リュック・ナンシー、西谷修・安原伸一郎(訳編)『無為の共同体 哲学を問い直す分有の思考』、2001年、以文社、287頁。

- 高森順子たかもり・じゅんこ
- 社会心理学者。1984年兵庫県神戸市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。現在、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]産業文化研究センター研究員。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。著書に『10年目の手記―震災体験を書く、よむ、編みなおす』(共著、生きのびるブックス、2022年)、『震災後のエスノグラフィ―「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)、『残らなかったものを想起する―「あの日」の災害アーカイブ論』(編著、堀之内出版、2024年)など。