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アンゼルムは、ここにいる。
【展評】アンゼルム・キーファー「ソラリス」展
d Reviewでは、DISTANCE.mediaが注目している、本や映画、展覧会、プロジェクトなどをピックアップして、レビューします。
今回取り上げるのは、京都・二条城で開かれている、戦後ドイツを代表するアーティスト、アンゼルム・キーファーの大規模個展「ソラリス展」(2025年6月22日まで)。鉛、灰、藁といった素材に歴史と神話の記憶を刻む作品群は、戦争の世紀であった20世紀の悲劇を寓意的に語ることで高い評価を得ている。
哲学史家のアダム・タカハシさんが、本展で表出する〈崇高〉と〈滑稽〉の緊張関係を読み解きながら、キーファー作品が21世紀を生きる私たちにどのような芸術や哲学の問いを突きつけているかに迫る。
写真:著者本人
編集:田井中麻都佳
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Contents
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芸術における〈崇高〉と〈滑稽〉——ナチス式敬礼をするキーファー
現代ドイツを代表する美術家の一人アンゼルム・キーファーは、1945年3月8日、ドイツ南部の街ドナウエッシンゲンに生まれた。生誕の日付を見れば明らかなように、この美術家の成長は彼の祖国が戦争による荒廃から回復する過程と正確にかさなっていた。
日本では約30年ぶりとなるキーファーの個展「ソラリス」が、いま京都の二条城でひらかれている。この歴史的遺産におかれた作品群は、その場所にとって異物であるはずなのに、元からそこに存在したかのような雰囲気もあわせもっている。その理由は、今回室内で展示されている絵画作品の多くが、青や緑の基調とした色彩のうえに金地がほどこされるなど、狩野派の障壁画や尾形光琳の《燕子花図》のような屏風絵を見る者に彷彿とさせるからだろう。でも、作品を注視すると、イメージの自然な溶け込み方は、描かれている途方もない現実にひとが直面するのを少しでも遅らせてあげようとする作家の配慮のようにも感じられてくる。
哲学者のフリードリヒ・ニーチェは、『悲劇の誕生』のなかで、芸術には〈崇高〉と〈滑稽〉という二つの要素が存在すると述べた[★01]★01。いま私たちの目の前にある現実には残酷さや不条理さが溢れており、そこでの個々人の生を描写するときには運命や宿命といった言葉を欠かすことはできない[★02]★02。世界自体とそれに直面する者たちの精神双方の殺伐さ。ニーチェが正しければ、芸術はそのような事態が生じるところでこそ大きな役割を演じるのである。彼によれば「芸術だけが、生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることを可能ならしめる表象に変えることができる」という[★03]★03。ニーチェの言う「芸術」とは、世界の不条理さをイメージの〈崇高さ〉によってコントロールし、かつそのような現実に対峙したときにわき起こる嘔吐を発散させるための〈滑稽さ〉を備えた装置なのである。

- 《占領》(1969年)(『図録』、23頁より引用)
崇高と滑稽という芸術の二つの契機は、キーファーの初期のパフォーマンス作品《占領》においてすでに顕著に現れていた。この《占領》シリーズは、波が押し寄せる海辺などを背景としつつ、キーファーがナチス式敬礼を孤独におこなう姿を撮った作品群である。それらの作品の構図は、多くの場合、ドイツ・ロマン派の画家カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ(1774-1840)の絵画《雲海の上の旅人》あるいは《夕日の前に立つ女性》を想起させる。キーファーの《占領》でも、荒波が押し寄せる海辺とその上に広がる空は、崇高な自然として現れる。だが、その自然をまえにしてひとり立っているのは、「ハイル・ヒトラー」のポーズをする道化的な作家自身なのだ。
《占領》で示されたモチーフは、彼のその後の作品群において形を変えて変奏されることになるだろう。一方の崇高な自然のモチーフは、海辺の光景だけでなく、いっけん農地と思われるがそこかしこで戦火の煙が立ちのぼる荒涼とした大地の風景としても描かれる。また、彼自身のそれ自体フィクショナルな自画像は、その後寓意的な「パレット」(絵具を混合するための板)へと形をかえて何度も反復されることになる。
《オクタビオ・パスのために》と署名としての「パレット」
以上を簡単な前置きとして、ここから今回の「ソラリス」展の作品を見ていくことにしよう。メインの会場となっている建物内に足を踏みいれると《オクタビオ・パスのために》(2024)という巨大な新作絵画が眼のまえに現れる。この巨大な絵画では、青や緑の色彩が広がるなか、フランシス・ベーコンの絵画を思わせるような叫んだ顔の表情が中央に描かれている。たしかに、今回の展覧会の『図録』でも解説されているように、この絵画の意味は「かつて戦場であった大地が何世紀にもわたって耐え忍んできた悲劇とトラウマに対する厳しく辛い瞑想であり、人類の殺戮という果てしないサイクルのなかで露と消えた何百万人もの兵士たちと市井の人々に対する追悼」であると考えることもできるだろう[★04]★04。

- 《オクタビオ・パスのために》
だが、絵画のそのような意味よりも前に、この作品を現場で見てなによりも圧倒されるのは、この絵画全体とそのキャンバス全面に塗られた絵具の物質的な重量感である。会場となっている二条城の建物は、入り口が大きく開けはなたれ空気も適宜出入りしているものの、絵画の置かれた空間では絵具の臭いが部屋全体に漂っている。
《オクタビオ・パスのために》で、そのキャンバス上の緑や青の絵具は、まるで大地の畦道や河岸の土手のように大きな凹凸をなしている。そのような絵画表面の重量感は、この美術家がフィンセント・ファン・ゴッホから学んだことの一つである。キーファーが若かった頃、ゴッホの作品を見るためにヨーロッパ中の美術館を訪ね歩いたことはよく知られている。
とはいえ、キーファーにとって、物質的な重量感は単なる絵画の技法の問題ではなかった。その点で考慮すべきは、彼がとくに金属の「鉛」に与えた芸術上の使命である。彼によれば「鉛は人類の歴史の重みを支えるのに十分な重量を持つ唯一の素材である」という[★05]★05。実際、鉛やそれに類した灰色の金属は今回展示されている作品でも用いられている。「ソラリス」展の会場で私たちをまず迎えてくれる作品《ラー》(2019)も大きな両翼をもつが、その翼は鉛でできておりこの太陽の化身は地上から飛び立つことができないように見える。ただし、そのような「重量」を体現しているのは鉛だけではない。たしかに鉛は特権的な素材だが、キャンヴァスの表面でも「人類の歴史の重みを支える」ために十分な量の絵具が同様に塗られる必要があるのである。

- 《ラー》(左)、《月のきるかさの雫や落つらん》
そのような物質的重量感を備えた絵画の自律性は、展示されているものが他の何ものでもなく一つの芸術作品であることを自ら告げている。であるならば、そこには芸術のもう一つの条件である〈滑稽さ〉も然るべきかたちで配される必要がある。事実、この《オクタビオ・パスのために》の横には、道化的な作家自身の寓意である「パレット」を主題とする作品《月のきるかさの雫や落つらん》(2018-24)が並べられている。この作品は、日本近世の和歌から着想されているという。ガラスケースの中には、大きな「パレット」が上から吊り下げられ、その下には古いキャンバスや鉛からできた枕が重ねられる形で置かれている。
寓意的なモチーフとしての「パレット」は、1970年代の半ばからキーファーの作品に登場してきたが、80年代以降は自律的な主題として彼の作品において反復されるようになった[★06]★06。このように作家自身が「パレット」として寓意化されることは、美学者のアーサー・ダントーが述べたように、——二十世紀後半の美術の革新者の一人でありキーファーの師でもあったヨーゼフ・ボイスが、第二次世界大戦で自分自身が飛行機事故に遭い、そして救済されたという個人的体験を持っていたのと対照的に——キーファーが有していた体験が「芸術以外に人生をもたなかった美術学生」のそれに過ぎなかったしるしだと批判的に考察することもできるだろう[★07]★07。
たしかに、パレットが異なる作品間でも弛緩気味に反復されることは批判されるべき点かもしれない。でも、私たちはそのパレットが海辺の光景でナチス式敬礼をしていた美術家の姿が変奏されたものであることを忘れるべきではない。滑稽な姿に自身がなること、そしてそれを私たちが見ることでしか、ひとは現実の不条理さを前にした時に生じる嘔吐から逃れる方法はないからである。
《アンゼルムはここにありき》
青や緑の色彩に溢れつつも本質的には荒廃した自然の光景と、その横に置かれた作者自身の署名でもある「パレット」という二つの要素は、屋内の会場をさらに進んだところに展示されている《アンゼルムはここにありき》(2024)と《ライン川》(2023-24)という作品においても変奏されている。
これらの連作は、キーファー自身が育ったドイツの黒い森とそこを流れる大河やその傍の小川を描いた作品であるように見える。そして、作品の上部に「アンゼルムはここにいた」を意味するラテン語の文言がある種の署名として記されている。
図録の解説でも指摘されているように、《アンゼルムはここにありき》や《ライン川》では「歴史的な出来事への言及」が見られず、青や緑を基調とした色彩によって「原生林と静かな水面を映す川や池」が描かれている[★08]★08。たしかに荒涼とした海や戦火の煙がまだ残存する索漠とした大地と異なり、《アンゼルムはここにありき》で表現されている風景は、より平穏な自然の姿と見えなくもない。
だが、荒々しい崇高な自然と《アンゼルムはここにありき》で見られるような平穏さの相違は、ことさらに強調されるべきではない。その点については、キーファーが頻繁に参照するユダヤ・カバラとの関連が意識されるべきであろう。というのも、美術評論家の多木浩二が的確に指摘していたように、打ち捨てられた土地の風景は一方では終末であると同時に、他方では創造の始原的な光景でもあるからである[★09]★09。殺伐とした大地や海は、キーファーにとって荒廃した戦後の風景であるだけでなく、むしろ創造の瞬間も意味していた。ユダヤ神秘主義の伝統が参照されることによって、荒廃した現実の背後に生命の動きを見出そうとする試みが、この美術家の作品においてはもともと問われていたのである。

- 《アンゼルムはここにありき》
キャリアの最初期には単なる殺伐とした風景でしかなかったものを、キーファーはその後一つの創造的な始原としてとらえ直していった。とすれば、荒涼とした海辺で一人道化を演じていたキーファーが、今度は生命を湛えた森や河の前に「いた」としても格別驚きはないのである。画面の中に崇高と滑稽とを一挙に収めていたキーファーの最初期の芸術の持続とその変奏を、《アンゼルムはここにありき》の作品で確認することができるのである。
《谷間に眠る男》と傷の受肉
崇高と滑稽、終末と創造、豊穣と略奪。そのような対立する二項が、キーファーの作品内では常に揺れ動きながら同時に存在している。そのことは、アルチュール・ランボーの詩「谷間に眠る男」から着想された極めて美しい作品群においても際立っている。この作品は、ランボーの詩的イメージにかなり忠実に従っているところが大きいので、参考までに小林秀雄による訳から部分的に引用しよう[★10]★10。
・・・・
うら若い兵士が一人、頭はあらはに、口をあけ、
裸身を青々と爽やかな水菜に潤して、
眠ってゐる。雲の下、草をしき、
光の雨と降りそそぐ緑のベッドに蒼ざめて。
・・・・
風は様々な香を送るが、彼の鼻孔はふるへもしない。
太陽を浴びて、彼は眠る、動かぬ胸に腕をのせ、
右の脇腹に赤い穴を二つもあけて。
谷間のうららかな草むらに、破れた制服を着た兵士が横たわっている。彼は微笑みながら眠っているようにも見える。だが、実際は脇腹を銃弾が貫通しており、風や太陽の光にも反応しないところを見ると兵士はすでに亡くなっているようだ。心地よい自然の光景の真っ只中に、傷つきながら亡くなった兵士の赤い血痕が露骨な形で付着しているのである。

- 《谷間に眠る男》

- 《ヨセフの夢》
今回の二条城の展示では、この《谷間に眠る男》(2016)とそして別の作品である《ヨセフの夢》(2013)の前に、《モーゲンソー計画》(2012)と題された麦畑を模した作品が部屋一面に広がっている。それゆえ、実際二条城の現場で見ると、私たちは黄金に輝いた麦畑の背後に《谷間に眠る男》や《ヨセフの夢》で描かれた風景が背景として広がっているような印象を覚える。

- 《モーゲンソー計画》(奥に見えるのは《ヨセフの夢》)
ただし、《モーゲンソー計画》にしても、それは単なる麗らかな麦畑ではない。麦同士のあいだには瓦礫が積まれ、そしてキーファーにとってもう一つの重要なモチーフである鉛の本も見え隠れしている。麦自体の造形にも、この美術家にとって常に創作の特権的な典拠となってきたパウル・ツェランの詩「死のフーガ」に見られるアンビヴァレントな意味が重ね合わされている。
そして、このツェランの詩から着想された麦畑の作品を見てから、背景となっている《谷間に眠る男》や《ヨセフの夢》に描かれた草木にあらためて眼をやると、その絵画の表面に描かれているのは草木というよりも、むしろ夥しい数の「傷」であるような印象を抱くことになる。私たちの現実自体が多くの「傷」を負っていること、あるいはこの世界そのものが「傷」を受肉することでしか生成しえないことが示されているようだ[★11]★11。
同じことは《オクタビオ・パスのために》や《アンゼルムはここにありき》でも指摘できるかもしれない。畦道や土手のように盛られたキャンバス表面の凹凸は、絵画そのものが傷を負った身体であることを示しているように見える。あるところはケロイド状になっており、また別のところは負傷したところが瘡蓋となって治りつつあるかのようだ。これらの作品では、世界や人間という存在が不条理な現実によって傷つけられた後に、そこから回復する(もしくは回復が不能となる)過程そのものが体現されていると感じられるのだ。
《ダナエ》と《デメーテル》——女性の身体
一つの現実が戦後の荒地であると同時に新たな創造の端緒でもあるという両義性は、キーファーの女神をめぐる彫刻群にも認めることができる。キーファーの作品群において最も反復される女性のイメージは、ユダヤの伝承において悪魔的な性的誘惑者として信じられていた「リリト(リリス)」である[★12]★12。この美術家にとって世の豊かさとその破壊とは同じ現実の二つの側面であった。今回の「ソラリス」展でも、ドレスを着た女性像の頭部が宇宙の模型や鉛の本になったオブジェが展示されている。
今回の展覧会でも一部の女性像に着せられた白いドレスは、もちろんアウシュビッツでのユダヤ人たちの経験を想起させるだろう。だが、その点については今回は立ち入らない。ここまで論じたこととの関連で、特に《ダナエ》および《デメーテル》と呼ばれる作品を取り上げることにしたい。
ギリシア神話のダナエは、神託を受けた親によって幽閉されていたところ、彼女を見そめたゼウスが黄金の雨となって降り注ぎ、それを浴びたことで身籠ることになった女性である。降り注ぐ美しい黄金の雨に身を晒したことで彼女は英雄ペルセウスの母となった。それは英雄の誕生であると同時に、彼女にとっては抵抗できないまま身体が略奪されたことも意味する。今回の個展では、ダナエをモチーフにした作品がいくつかあるが、そのいずれでも黄金の種子が地面に落ちている。一つの作品では、裸になった女性が描かれた紙が宙吊りになっている。キファーはそのような両義的な現実あるいは悲喜劇を淡々と描いていく。
また、デメーテルもそのような両義性を担う女神である。穀物や植物をつかさどっている大地の女神である一方、ゼウスやポセイドンといった神々に陵辱を受ける存在でもある。デメーテルの娘であるペルセポネは冥府の主人であるハデスによって冥界に連れ去られる。そのことをデメーテルが嘆き、彼女の嘆願をゼウスが聞き調停したことで、ペルセポネは一年の半分を夫とともに冥界で、もう残りの半分を母のデメーテルと共に過ごすことになった。そのことがこの世界の季節が別れる原因にもなったと言われる。
キーファーが注目して取り上げるのは、世界を豊かにする力を持つと同時に男によって性的に陵辱されることとが交錯する場所としての女性の身体である。崇高と滑稽、あるいは一つの荒廃した大地が他方で創造の始原でもあるというアンビヴァレントな現実の姿が、女性の身体をとおしても表現されている。

- 《ダナエ》
ただし、キーファーはそこに安易に救済の物語は持ち込んでいないように感じられる。不条理な現実において、それを端的に救済する神はいないし、神々自身もすでに負傷している。そのような荒地となっている世界をまえにして、それが創造の始原としてもありうることを示すかぎりで彼は一つの希望の可能性を指し示している。
おわりに、あるいは〈鉛〉の哲学に向けて
あらためて引用すると、キーファーは「鉛は人類の歴史の重みを支えるのに十分な重量を持つ唯一の素材である」と述べていた。キーファーの作品において、芸術の〈崇高〉と〈滑稽〉という二つの要素は圧倒的な物質的重量とともに展開されており、その重さこそが彼の作品がイメージの単なる戯れに陥ることを防いでいる。
多木浩二はここまでも何度か引用した『シジフォスの笑い』という「キーファー論」のなかで「哲学者の思考のなかには手で触れる物質がない。だが、芸術は物質を提示することに全てを賭ける」と述べた[★13]★13。多木がその著作を書いた二十世紀末はイメージの軽快さが何かと好まれた時代であった。その中にあって彼はキーファーの芸術に時代の哲学には欠落した何かを見出したのかもしれない。
私はいまあらためてキーファーの作品を見ることで、多木が芸術に見出したものを哲学そのものの可能性として再考することもできるのではないかと遅ればせながらに考えはじめている。芸術と同様に「物質を提示することに全てを賭ける」ような哲学があっても良いはずだ[★14]★14。単に認識する主観やそこに含まれる形而上学的な含意を分析するのではなく、「鉛」のような物質的な重さを背負ったこの世界とそこに留まらざるをえない人間の存在の意味を考える必要がある。今回の展覧会で見る前には、良くも悪くも現代美術の一つの古典であると感じていたキーファーの作品は、二条城という特別な場所に置かれることで新たな瑞々しさをまとって現れている。彼が提示する芸術を前にすることで、哲学的思考の始原(原理)にも私は触れたような気がした。
※ 注でも記したように、明示的に言及している箇所以外でも、故・多木浩二氏の著作『シジフォスの笑い』を踏まえて本稿の執筆を行なった。ドイツの思想や哲学の文脈については大林侑平氏からご教示を受けた。ここに記して両者に感謝を申し上げたい。また、本稿の議論では図録でのファーガス・マカフリー氏による詳細かつ丁寧な解説と相違する見解を示している部分が少なからずある。その点はキーファーの作品が持っている意味の豊かさに起因するものとして受け取っていただきたい。言うまでもなく、本稿のすべての誤りの責任は著者であるタカハシにある。
■展覧会概要
アンゼルム・キーファー:ソラリス
会期:2025年3月31日~6月22日
会場:二条城
住所:京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
開場時間:9:00〜16:30(二条城は8:45〜17:00)※入場は閉場の30分前まで
休館日:会期中無休
料金:一般 2200円 / 京都市民・大学生 1500円 / 高校生 1000円
★01 このニーチェの「芸術」にかんする考えは、多木浩二『シジフォスの笑い——アンセルム・キーファーの芸術』(岩波書店、1997年)の第三章から学んだ。本稿では、明示的に言及している箇所以外においても、多木氏の著作に多くを負っている。キーファーの作品を理解するにあたって、現在でも日本語で書かれた最良の文献であるように思われる。また、展覧会図録である『アンゼルム・キーファー ソラリス』(ファーガス・マカフリー、2025年)(以下の引用に際しては、単に『図録』と記す)の中のマカフリー氏による詳細な解説にも多くを負っている。★02 たとえば、須藤輝彦『たまたま、この世界に生まれて——ミラン・クンデラと運命』(晶文社、2024年)。★03 ニーチェ『悲劇の誕生』(秋山英夫訳、岩波文庫、1966年)、93頁。★04 前掲『図録』、34頁。★05 前掲『図録』、21頁。★06 前掲『シジフォスの笑い』、76頁。★07 Arthur C. Danto, Encounters & Reflections: Art in the Historical Present (Berkeley, LA: University of California Press, 1990), p. 239.★08 前掲『図録』、32頁。★09 前掲『シジフォスの笑い』、174頁。★10 前掲『図録』、61頁。★11 ジル・ドゥルーズ「内在—―一つの生」(『ドゥルーズ・コレクション1 哲学』(宇野邦一監修、河出文庫、2015年)を参照せよ。この点は山内志朗氏からのご教示による。★12 キーファーの作品における女性の問題については、前掲『シジフォスの笑い』第九章を参照せよ。★13 前掲『シジフォスの笑い』、245頁。★14 同様のことは、ルクレティウス『事物の本性について——宇宙論』(ちくま学芸文庫、2025年)の書評「摂理なく芽吹く、とルクレティウスは言った。」でも最近述べた。合わせてお読みいただきたい。https://www.webchikuma.com/n/nc65fab5e3479?gs=ae57196cc4cd

- アダム・タカハシ
- 1979年、宮城県生まれ。哲学史家。2007年、慶應義塾大学大学院文学研究科修士課程修了。2012年オランダ・ラドバウド大学大学院博士課程満期退学(同大学より2017年博士号取得)。東洋大学助教等を経て、現在、関西学院大学文学部准教授。著書=『哲学者たちの天球――スコラ自然哲学の形成と展開』(名古屋大学出版会、2022年)。共著=『世界哲学史5──中世III バロックの哲学』(ちくま新書、2020年)など。
