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阪神・淡路大震災30年の言葉 #4 「未完」という継続、手渡される記憶

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「がんばろう神戸(KOBE)」という掛け声とともに復興を推し進めてきた阪神淡路大震災から30年。被災地に溢れざるを得なかった「前向き」な言葉の陰にどんな思いや沈黙があったでしょうか。10歳で震災を経験した社会心理学者・高森順子さんは、「阪神大震災を記録しつづける会」の事務局を引き継ぎ、それぞれの「震災後」を語る人々の言葉に出会ってきました。震災30年の今年、新たに募った「30年目の手記」を手に取り、自らの「復興」の日々も振り返りながら、「前向き」な言葉とは違う、もう一つの「震災後」の語り方を探ります。全6回連載予定。(連載リストはこちらより)

Contents

    「継続という柔らかい事実そのものが、今の私を支えているのかも知れない」

    続けることに意味がある。続けてきたからこそ見える景色がある。継続という柔らかい事実そのものが、今の私を支えているのかも知れない。微力でも自分にしかできないことを探り続けていきたい。

    2024年10月、私は1篇の手記を受け取った。その手記の最後に書かれていたのが、この言葉だ。

    1995年3月。阪神・淡路大震災からまだ2ヶ月も経たない時期に、山中隆太さんは自らの震災体験を手記として綴り、設立したばかりの市民団体「阪神大震災を記録しつづける会」に送った。あれから30年。山中さんは手記執筆を自らのライフワークと位置づけて、節目を迎えるごとに手記を綴ることを試みてきた。30年、手記を書き続ける。なぜ、山中さんは、この行為を自身に課したのか、私はそのことが気になっていた。

    私が山中隆太さんにはじめて出会ったのは、震災から15年が経った2010年だ。その当時、私の伯父がはじめた「阪神大震災を記録しつづける会」は、休止状態だった。震災10年の節目である2005年1月に10巻目の手記集を出したことを最後に、手記の募集も、手記集の出版活動も止まっていた。前回の連載でも触れたが、活動休止の理由のひとつは、同会の代表を務めていた私の伯父の高森一徳が2004年12月に急逝したことだった。ただ、そもそも同会は設立当初から、震災10年をひとつのゴールとして掲げて活動していたこともあり、自然な流れでもあった。

    2010年1月に「手記執筆者で交流会をしませんか」と執筆者のおひとりから声がかかった。それから、かつて手記集の目次のなかで肩を並べたひとたちが、じっさいに会って親睦を深める機会が年1回続いた。2015年1月、同会として10年ぶりの手記集を出版し、14人の手記が寄せられた。それからさらに10年、2024年に一般にも門戸を広げて募集を行った「30年目の手記」に、186篇の手記が集まった。山中さんは、20年目も30年目も、手記を寄せてくれた。

    30年目の今回、私は、山中さんの手記を受け取り、読み終えたあと、冒頭で引用した段落の一文がいつまでも頭から離れなかった。「継続という柔らかい事実そのものが、今の私を支えているのかも知れない」。節目を迎えるごとに、うしろを向いて「あの日」を書き続ける。私は、山中さんのその姿に、芯の強さを感じていた。しかし、山中さんは、その行為の積み重なりを「柔らかい事実」と記した。この言葉遣いに、意表をつかれる思いがあった。

    書き続けた18年間、書かなくなった2年間、新たに書いた20年目

    山中さんは、35歳の時に神戸市東灘区の自宅マンションで被災した。青春時代を過ごした神戸に住みたいという願いを叶え、震災の前年の94年に神戸に引っ越した。地震によって、自宅はガラスや食器の破片が散乱したが、山中さん、妻、4歳の娘、6ヶ月の息子に怪我はなく、家も倒壊することはなかった。 

    山中さんが最初に投稿した手記「日常性の断絶」は、地震から1ヶ月半後に書き上げられ、「記録しつづける会」の手記集第1巻に収録された。そして、それから10年にわたり、手記を投稿し続けた。

    震災から10年の節目に同会が活動を休止した後も、山中さんは手記を書くことを続けていた。ただ、それは2013年、18年目で一度、途絶えてしまう。山中さんがふたたび手記を書いたのは、震災から20年目、2015年に「記録しつづける会」が10年ぶりに手記集を出版することになったときだった。

    山中さんの震災20年目の手記「そしてまた歩き出す」には、体験を書き続けることがいかに困難であるかが吐露されていた。

    続けるという行為は、得てして新しいことに取り組むよりもエネルギーのいることなのかもしれない。災害に備え続ける。体験を語り続ける。続けることはモチベーションが必要な根気のいる作業だ。まだ湯気の立っているスープを温め直すのは容易だが、冷え切ったスープを加熱するのに何倍もの熱量が必要なように、神戸で起きたことを伝え続けるのは時間が経つにつれ難しくなっていった。震災の手記は17年目まで書き続けたが、一時はそれも途切れてしまった。世間の引き潮に飲み込まれ、もがきあがく自分がいた[★01]★01

    山中さんは「記録しつづける会」の活動休止期間にも手記を書いていた当時のことを、後にこのように振り返っている。「記録しつづける会の活動がなくなってからも、毎年手記を書いて、友人らに送っていたんです。自分で読み手となる対象をつくっていたわけです。ただ、それも、次第に抵抗を感じるようになった。1月17日は、悲しんでも、振り返ってもいい。けれど、18日からは前を向いて歩かないといけない。この気持ちが年々濃くなっていったんです」。そして、同会が活動を再開させたことへの感謝を込めながら、こう続けている。「だから、20年目にお声を掛けていただかなかったら、書いていなかったと思います」[★02]★02

    「何もなくしていない。神戸をなくしたんです」

    それから10年が経った2024年、前述の「30年目の手記」に、山中さんは1篇の手記を寄せた。タイトルは「引き継がれたバトン」。20年目の手記に滲んでいた、言葉を生み出し続けることの難しさについては、引き続きその思いが募っていることが伺える。

    想像も予見も及ばない喪心の一日は、反芻するたびに記憶を上書きしどんどん色濃くなっていく。直接見聞きした物事は30年経ってもすぐ傍にあるのに、伝え聞いた話や自分の発した言葉は色褪せやがて消えていく。感じたこと伝えるべきことを文字や音声にして残す本当の意味を知るのは、ずっと後になってからだった。

    ただ、そのあとに続く文章が、山中さんの今の心境の変化を感じさせた。

    「世」という漢字の成り立ちは、十を三つ合わせたもので「三十年」を表しているそうだ。同時にそれは一つの世代の長さでもある。親から子へ神戸の史実を伝える時、震災は避けて通れない出来事だ。世代間の語り継ぎが行われた結果、親世代が体験した未曾有の災害を自分事として捉えられる年代に達し、まるで申し送りをするように次に続く世代が声を上げ始めた。広島や長崎がそうであったように、受け継ぎ残そうとする次世代の意志を神戸が育んでいる。

    世代が移り変わり、体験者がいなくなっていくことをただ憂うのではなく、記憶を次の世代が引き受けていることを、たしかなものとして感じ取り、歓待する。山中さんの今の心境は、体験を言葉にし続けることの苦しみや諦めすら滲んでいた20年目と比べると、ずいぶんと軽やかで、柔らかなものになっていた。

    2024年11月、山中さんの手記執筆者としての30年を、NHKが番組取材をすることになった[★03]★03。前回の連載で手記執筆者の長谷川貴子さんを取材した神戸放送局アナウンサーの坂本聡さんが、今回もインタビューすることとなった。私は、約6年前の2018年7月に、同じ場所で山中さんにお話を伺ったことを思い出しながら、その様子をカメラの背後から見つめていた。

    山中さんは、私の前で6年前に話したことを、あらためて、強い思いとともに語りなおしていった。自分は「被災者ではない」という思いがあること。当時の勤め先の大阪の日常に打ちのめされたこと。「あの日」から時間が経過するなかで、自分にしか書けないこととは何かを問い続けてきたこと。手記執筆という営みを、自らが負った「心の傷」に、あらたに「傷」をつけ直すような作業として捉えていること。手記執筆という営みが、自分の人生を支えていること。

    2018年には聞かれなかった思いも語られた。山中さんははじめて、「あの日」になにを失ったのかを口にしたのだ。「私は神戸をなくしたんです」。山中さんは、そう言って、さらに言葉を続けた。「街が私に書かせたんです。私は、神戸の代わりに書いたんです」。

    6年前、山中さんは私に、「被災者ではない」という思いがあることと重ねるようにして、「私は何もなくしていない」と言っていた。それは、10歳で被災し、家族も家も無事だった私の感覚と重なった。それがいま、山中さんは「神戸をなくした」と言う。それは、私が30年、言葉にできなかった思いのように感じられた。山中さんも、私も、あの日、神戸をうしなったのだ。そう言葉にしていいのだと。私は、撮影を見守るなかで、この言葉を手帳にそっと書き記した。

    山中さんの「あの日」への思いは、書き続けることで、更新され続ける。「あの日」は一体なんだったのか。「あの日」から続く今、書けることはなんなのか。正解を言い当てることも、完成することもない。だから、山中さんの手記が書き終えられることはない。

    「未完」のまま手渡し、他者が引き継ぐことに賭ける

    山中さんが書き尽くしたと思うことはない。これからも、未完のまま書き続ける。そして、まだ見ぬ読み手の解釈を待ち続ける。この態度は、いかなるものなのだろうか。それを考える補助線となるのが、「共話」という概念である。

    もともと「共話」は、1980年代に言語教育学者の水谷信子によって生み出された造語である[★04]★04。日本人にとっては意識できぬほど深く根付いているがゆえに、日本にやってきた留学生の日本語教育において見落とされがちな会話の形式として、水谷が析出した。近年、この「共話」という会話形式は、情報学研究者のドミニク・チェンによって深化した解釈がなされ、他者との共生のあり方を考えるための概念としても注目されている[★05]★05

    「共話」とは、話し手と聞き手の二者間のやりとりにおいて、話し手が文の途中で話を一旦やめ、そこに聞き手が相槌を打たせる隙を与えたり、聞き手に次に続くであろう話を引き取ってもらい代わりに話してもらう会話形式である。水谷は、調査の対象として、原稿なしで展開されるテレビやラジオの座談や対談を検討している[★06]★06。ここでは、その一つを紹介したい。

    A「これ、世界的な現象でね……」

    B「日本だけではない」

    水谷は、このやりとりは「これ、世界的な現象で、日本だけではない」という一文を、話し手と聞き手と二人がかりで完成させたものだという。そして、このような互いに相手の話を完結し合う会話形式は「歌舞伎の割りぜりふのよう」であり、話し手と聞き手という明確な線をぼかし、区別させないがゆえに「共話」という言葉がふさわしいという[★07]★07

    前述したように、情報学研究者のドミニク・チェンは、「共話」という会話形式を概念として深化させ、その社会的効能を説いている。チェンは、語りを自己で完結させず、未完成のまま相手に手渡し、他者との境界を溶かす「共話」のあり方は、話者同士が互いの知覚の一端を担い合い、それぞれの知識と記憶を喚起し合うという。そして、それは「川の両岸の中間に位置する中洲のような、一種の共有地(コモンズ)」を生み出す力がそなわっているという[★08]★08。自分と他者を架橋し、それぞれの「わかりあえなさ」を静かに分かち合う。「共話」の概念には、そのような力があるというのだ。

    手記の書き手は、すべてを書き尽くし、書き終えることはない。読み手もまた、すべてを受け取ることはできない。「書く/読む」をめぐるコミュニケーションは、どうすり合わせたとしても「わかりあえなさ」の残余がある。この事実は、ディスコミュニケーションとして改善すべきものとして捉える人もいるだろう。逆に、表現の「受信/発信」において、多かれ少なかれ起きてしまうものだとして、見なかったことにしたり、諦めたりすることも賢明な判断だと思う人もいるだろう。

    ただ、山中さんはそのどちらの姿勢もとらない。手記を「未完」のまま手渡し、読者を信頼し、次なる言葉が繰り出されることに賭ける。「あの日」から30年を経て、山中さんは「わかりあえなさ」を引き受け、それこそが、まだ見ぬ読者とつながる回路であると確信しはじめている。山中さんは、うしろを向いて書き続ける試行錯誤の日々から、自ら主体的に出来事を完結させずに、「未完」のままに、手渡し、手渡される関係に生きる姿勢を獲得したのだ。それが、山中さんのいう、「継続という柔らかい事実そのものが、今の私を支えている」ということなのだろう。

    震災から4年後の1999年、山中さんの手記は、娘さんへ宛てた手紙の形式で綴られている。

    以前はそんなことなかったのに、お父さんは地震がきっかけで死というものを、ものすごく身近に感じるようになりました。

    それは四年たった今も変わらず、明日も元気に目覚めて欲しいと君の寝顔に毎晩のように祈ります。手を握らなければ安心して眠れないお父さんの癖はいつになったら直るんだろうね。

    この間久しぶりに地震直後のビデオを見たね。神戸で何があったか、地震がどれほど恐ろしいものなのかを覚えていてほしくて、手を引いて瓦礫の中を歩きました[★09]★09

    今回、山中さんの手記執筆者としての30年を番組で取り上げるにあたって、長らく再生できなかったビデオをデジタル変換することになった。地震から約1ヶ月後の2月11日、娘さんとふたりで神戸を歩く様子を、山中さんは撮影していた。山中さん自身、長らくこの映像を見ていなかったし、私も見るのははじめてだった。映像には、近所の小学校のグラウンドに佇み、山中さんを見つめる娘さんの表情が写っていた。山中さんはカメラ越しに娘さんに声をかける。「みんな、おうちなくなったの。ほんで、みんなここにいるの。覚えておいてね」。娘さんは、グラウンド全体を見渡そうと、くるりとうしろを向く。山中さんが手記を書きつづけていなければ、この映像が人々の目に触れることもなかっただろう。

    山中さんの「手記を書き続ける」という営みは、完結しない。山中さんは、いつまでも「未完」のままであることを引き受けて、節目に言葉を紡いでいくだろう。そして、読み手のもとに、山中さんの「未完」の言葉は手渡されていくだろう。読み手は、それを引き継ぐようにして、新たな言葉を繰り出すかもしれない。いまの私がまさにそうであるように。すべてが途中のままに、言葉が言葉を引き連れて、続いていく。

    語り継ぎとは、終わることのない営みだ。山中さんの「未完」の言葉は、これからも誰かの筆を進ませ、誰かの声を生み出すだろう。記憶のバトンが引き継がれるとは、こういうことなのだ。


    阪神・淡路大震災から「30年目の手記」:

    山中隆太「引き継がれたバトン」

    https://kiito.jp/saikanshuki/shuki/090/


    阪神・淡路大震災から「30年目の手記」
    阪神・淡路大震災から「30年目の手記」は、1995年から現在まで震災体験の手記集の出版を行う「阪神大震災を記録しつづける会」の取り組みをもとに、2021年に東日本大震災の震災手記を集めるプロジェクト「10年目の手記」の方法を援用し、発展させた手記募集プロジェクトです。

    ★01 阪神大震災を記録しつづける会編『阪神・淡路大震災 20年目のわたしたち』、2015年★02 阪神大震災を記録しつづける会編『筆跡をきく——手記執筆者のはなし』、2020年、48頁★03 NHK Eテレ「こころの時代〜宗教・人生〜その言葉が道をひらく:阪神・淡路大震災 三十年の思いをつづり、つなぐ」2025年1月12日放送https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/MYX5Z7L195/★04 水谷信子「あいづちと応答」、水谷修編『話しことばの表現』、筑摩書房、1983年、37頁-44頁。★05 ドミニク・チェン『未来をつくる言葉——わかりあえなさをつなぐために』、新潮社、2020年。★06 水谷、前掲書、38頁。水谷が分析の対象としたのは、以下の3つの番組録音である。(1)テレビ座談会「文化について語ろう」(麻生良方・江崎玲於奈・浅利慶太・村松剛)より25分5秒間、(2)テレビ対談「あなたとテラスで」(ロミ山田と曾野綾子)より9分30秒間、(3)ラジオ番組「電話身の上相談」(弁護士と主婦)より5分間。★07 水谷、前掲書、43頁。★08 チェン、前掲書、164頁-165頁★09 阪神大震災を記録しつづける会編『今、まだ、やっと…… 阪神大震災それぞれの4年目』、1998年、神戸新聞総合出版センター

    高森順子たかもり・じゅんこ
    社会心理学者。1984年兵庫県神戸市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。現在、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]産業文化研究センター研究員。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。著書に『10年目の手記―震災体験を書く、よむ、編みなおす』(共著、生きのびるブックス、2022年)、『震災後のエスノグラフィ―「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)、『残らなかったものを想起する―「あの日」の災害アーカイブ論』(編著、堀之内出版、2024年)など。

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