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阪神・淡路大震災30年の言葉 #3 傷と名づけて、ともに生きる
「がんばろう神戸(KOBE)」という掛け声とともに復興を推し進めてきた阪神淡路大震災から30年。被災地に溢れざるを得なかった「前向き」な言葉の陰にどんな思いや沈黙があったでしょうか。10歳で震災を経験した社会心理学者・高森順子さんは、「阪神大震災を記録しつづける会」の事務局を引き継ぎ、それぞれの「震災後」を語る人々の言葉に出会ってきました。震災30年の今年、新たに募った「30年目の手記」を手に取り、自らの「復興」の日々も振り返りながら、「前向き」な言葉とは違う、もう一つの「震災後」の語り方を探ります。2025年3月まで全6回連載予定。(連載リストはこちらより)
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Contents
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「間に合った」と「間に合わなかった」のあいだで
1995年の阪神・淡路大震災から15年が経った2010年から、私の伯父の高森一徳が代表を務めていた「阪神大震災を記録しつづける会」を通して、震災体験を手記として書き綴ってきた人たちと過ごしてきた。かれらは、震災直後から何度もうしろを向いて「あの日」を書きつづけてきた。
私が同会を引き継ぐことになったのは、2004年12月に伯父が亡くなり、活動が休止状態になって5年が経とうとする2010年1月だった。その年に行われた執筆者の交流会「手記執筆者の集い」には、約30人が参加した。
その5年後の2015年1月、同会として10年ぶりの手記集を出版した。そこには14人の執筆者が手記を寄せてくれた。そして今回、2024年1月17日から12月17日まで、一般にも門戸を広げて募集を行った「30年目の手記」に、186篇の手記が集まった。そのうち、同会の手記執筆者は、前回の連載で紹介した小西眞希子さんを含め3人だった。
私が同会とかかわりをもってから15年が経ったことになる。伯父の高森一徳が代表を務めていたのが95年からの10年間だから、伯父の活動期間よりも長くなった。人生経験も専門性も乏しかった25歳の私は、今月で41歳になる。たくさんの手記を読むことが、私の専門性をつくった。
最初に手記執筆者に出会ったのは、伯父の追悼会を兼ねた10巻目の出版記念会だった。2005年1月、記念会に集まったひとは100人程度だった。それから5年後の交流会、さらに5年後の手記集出版の記念会と、参加するひとは減っていった。私は、執筆者たちと震災を振り返る「なにか」をするたびに、いまここにはいないかつての執筆者の声を反芻していた。「次にみなで集まるときには絶対に声をかけてね」、「手記集をもう一度つくることがあったら、必ず書くから」。私は15年間、かれらからこういう宝物のような言葉をもらい、そして、かれらと別れることを繰り返してきた。
「いまだから書きたい」「いまだから話したい」。記録集をつくるたび、そういうかれらの思いに応えられたことに満足感があった。それは、震災から15年後に活動を引き継いだ私でも遅いことはないと確信する手応えをもたらした。
一方で、「なにか」をするたびに、もう書けない、もう話せないひとがいることをまざまざと知った。私は、「間に合った」と「間に合わなかった」の気持ちを行ったり来たりしながら、ぼんやりとたちのぼる「寂しさ」のような感覚に囚われた。もうやめてしまおうか、と投げやりな気持ちになることもあった。
「30年目の手記」は、「阪神大震災を記録しつづける会」と、神戸市の文化施設であるデザイン・クリエイティブセンター神戸(KIITO)が共同で行った手記募集事業である。2024年1月から約1年間かけて手記募集を行うこと、応募期間中から随時、手記をウェブサイトで公開すること、後援にNHK神戸放送局と神戸新聞が入ることなど、記録しつづける会にとっては異例づくめだった。なかでも、行政と報道と連携して活動を行うことは、記録しつづける会にとっても、もちろん私にとっても、大きな転換点になった。
そもそも、記録しつづける会は、行政や報道からこぼれ落ちるような体験者の声を集めることを目的としてきた。その目的から考えるならば、行政や報道と最初から組むことは、同会の活動の本質を抜き取ることにもなりかねない。しかし、それでも今回、このような座組で活動することを決めたのは理由がある。一つの世代が交代する30年という年月が経った今、同じことを続けることにも気力や体力が必要なはずだが、なにか新しいことをしなければならない切迫感も感じている。確信をもってやっていたことに迷いが生まれはじめる。そういう空気がたちこめるのが、30年という年月なのだと思う。
それに、「30年目の手記」の呼びかけを「記録しつづける会」単独でおこなっても、それが必要なひとに届くかどうか不安もあった。それならばいっそのこと、この活動を、できるだけ大きな「拡声器」を使って呼びかけたい。そこで強力な協働先になるのは、行政と報道ではないか。こうして、一緒になって「30年目の手記」を呼びかけて、「間に合った」と「間に合わなかった」の振り子運動のすえに、ともに寂しい思いになろうじゃないか。少し乱暴な言い方だが、私個人としては、そういう思いがあった。
書き終えて気づく「心の傷」:長谷川貴子さんの手記
「30年目の手記」の呼びかけをはじめた2024年1月、まだ1週間も経たないうちに「応援します」と声をあげてくれたひとがいた。長谷川貴子さんだ。
約6年前に芦屋で小さな書店を開いた長谷川さんは、記録しつづける会が以前に出版した記録集を読んでくれていた。いまだからこそ、震災の「あの日」と今を結び直し、語り直せないかという「30年目の手記」の活動に共感し、SNSを通じて応援のメッセージを送り続けてくれた。
私がはじめて長谷川さんに会ったのは2024年5月だった。「震災で家は全壊でした。当時住んでいた家は、横倒しになった阪神高速道路のすぐ北の辺り。揺れで1階はつぶれてしまったんですけど、夫と私は2階で寝ていたので無事でした」。私は、それは大変でした、ご無事でよかったです、と相槌を打ちながら「ぜひ手記を書いてください」と言った。長谷川さんは、「もちろん書きます。1回目の締め切りに間に合うように書きますね。苦しい体験をしたひともたくさんいるので無闇に声をかけることは難しいけれど、可能な限り呼びかけてみますね」と応えてくれた。
最初の締め切りの2024年8月、長谷川さんの手記が2篇届いた。1篇目は「震災前、震災後、そしてこれから。」、2篇目は「心の傷――文字にしたら少しは楽になるかもしれない」という題名がつけられていた。
「震災前、震災後、そしてこれから。」は、震災当時、自宅の解体をめぐって自衛隊員から長谷川さんにかけられた心を尽くした言葉を思い返しながら、平和への思いと、政治への憤りが綴られた手記だ。読み手である私たちは、この手記をとおして、この30年の彼女の暮らしのなかに、震災、戦争、平和といった、大きな出来事が確かに織り込まれており、すべては地続きであることを静かに受け取ることができる。私は長谷川さんとまだ数回しか会ったことがなかったが、彼女らしい手記だな、と感じた。
2篇目の手記も、1篇目と同じように目を通していった。読み進めるうち、大変なものを受け取ってしまった、とたじろいだ。2篇目「心の傷――文字にしたら少しは楽になるかもしれない」には、95年1月17日の長谷川さんの体験が描かれていた。
あの日、長谷川さんは、近所の人が渡してくれたハシゴで自宅の2階の窓から外に出た。地震で一変した町並みに理解が追いつかないなか、「◯◯さん見かけた?」と声をかけられた。背中合わせに隣接する家に住んでいた高齢の親子のことだった。長谷川さんは「見てないです。青少年センターにみんな避難しているらしいからそこかなあ?」と答えた。そう答えながらも、頭の隅には、もしかしたら2人は家の下敷きになったままかもしれない、との思いもあった。
長谷川さんの手記は、こう締め括られる。
あの時、身長より高い塀の向こうに見えるはずの家が見えなかったのだから、全壊だったことは間違いなく、その下に2人が埋まっていることも容易に想像できたのに、なぜ避難所にいるかもしれないなどと言ったのか。なぜ塀の中を見てみようとしなかったのか。
あの日、近所の人たちが集まって救助活動をしたのは、目の前に広がる瓦礫の山から這い出てきた誰かが、家族が埋まっていると訴えていた家ばかりで、高い塀が崩れていなかった隣家のことは皆の目からこぼれ落ちていたように思う。だからこそ、と思ってしまう。次の日に親戚の人が来たと聞いたのは2、3日してからで、新聞にはお二人のお名前が載っていた。
ふとした時に思い出し、なぜ?と自問し、それに対する言い訳の数々、そう、思いつく限りの言い訳の言葉で全身をふわふわと包み、次にそんな自分を思いっきり非難して。そして苦しくなる。
手記を書いた理由として「もう1本保険として書いておこうと思い書き始めたのがこの文章。誰にも、もちろん夫にも伝えたことのないことを活字にできてよかった」と添えられいた。
私は、長谷川さんと会って、あの日の体験を聞いた。ただ、この2篇目の手記は、長谷川さんから聞いたはずの体験の質感とはまるで違っていて、私は彼女に会ったにもかかわらず、なにも聞けていなかったと思った。「それは大変でした、ご無事で良かったです」なんて、なんて軽い相槌を打ってしまったのだろうか、と。同時に、私は長谷川さんの1篇目の手記も、2篇目の手記も、これから「30年目の手記」を書こうと思うひとたちに読んでもらいたい、と強く思った。誤解を恐れずに言えば、彼女の手記はとても魅力的だった。
同じ頃、「30年目の手記」の取材がはじまろうとしていた。NHK神戸放送局アナウンサーの坂本聡さんが取材構成を考えていた。「30年目の手記にすでに応募されていて、取材に協力してくださるひとを紹介してほしい」。そう言われた私は、長谷川さんをぜひ取材してほしい、と伝えた。
正直にいうと、私は長谷川さんを取材で取り上げてくださるのならば、1篇目を中心的に取り扱ってほしいと思っていた。もっといえば、2篇目を取り扱うことに不安を感じていた。なにより私自身が、この2篇目の手記を受け止めきれずにいたのかもしれない。2篇目の手記は、30年が経過していることを忘れてしまうほど生々しく、読み手の私自身も痛みを感じた。また、長谷川さん自身も、2篇目がニュースとして切り出されることに不安を感じているようだった。坂本さんは、長谷川さんや私が2篇目を取り扱うことに不安を感じていることは十分承知していた。そのうえで、慎重に言葉を選びながら、ぐっと踏み込んだ提案をしてきた。「30年経ってはじめて言葉にできる『あの日』を書いた2篇目の『心の傷』を取り上げたいです」。私はまだ戸惑ったままだったが、そこから、3人でのやりとりがはじまった[★01]★01。
長谷川さんは坂本さんにたいして、2篇目の手記についてこう語った。「なにかのきっかけでふっと出てきそうになるんです。でも、思い出したらだめって、蓋をする。この繰り返し。これを見つめたら、自分がどうなってしまうかわからないから」。ずっと蓋をしてきた「あの日」。それを30年を経て、あらためてみるために、うしろを向く。そうして、手記を綴ったのは長谷川さん自身だ。もちろん、手記が公開されることも承知のうえだ。それでも、手記を書くという行為は不思議なもので、「書いた」というより、「書かされた」であるとか、「書けてしまった」という感覚を抱くことがしばしば起こる。じっさい、長谷川さんは「2篇目はするするっと書けてしまって、書いたあとで、どうしよう、と思った」と述べている。
ニュース報道のあと、「30年目の手記」を取り上げた1時間の番組が放送されることになった[★02]★02。長谷川さんにはもう一度取材に応じてもらい、坂本さんがもう一度聞き手としてインタビューをおこなった。その番組のナレーションをつけるにあたり、長谷川さんが強く否定した言葉があった。「30年間、心の傷を抱えてきた長谷川さん」という言葉だった。「私はあの日の体験は心の傷だと思ってなかったんです。手記を書いたあと、これって、心の傷なんじゃないかって気づいた。だから、このタイトルも、手記を書いたあとに付けたんです」。
長谷川さんの言葉を聞きながら、私はこう思った。あの日、長谷川さんは塀の中を見なかった。そして、長谷川さんはこの30年間、「あの日」に蓋をして、見ないようにしてきた。忘れることはできないが、思い出すことも怖い。長谷川さんはそんな出来事を、30年を経てようやく手記として綴ったのだ。
インタビューのなかで、長谷川さんが「自分の今の気持ちを言い当てている」として、読み上げた言葉がある。精神科医で医療人類学者の宮地尚子によるエッセイ集『傷を愛せるか』に収録されたこの文章だ。
傷のある風景から逃れることはできるかもしれない。傷のある風景を抹消することはできるかもしれない。けれども傷を負った自分、傷を負わせた自分からは、逃げることができない[★03]★03。
長谷川さんは淡々と読み上げたあと、清々しい顔をしてこう続けた。「手記を書くことで、私はあの日を『傷』として名づけたんです。これから私は、『傷』を引き受けていくんだなって思っています」。
喪失体験に主体性を取り戻し、再構築する
長谷川さんは手記を綴ることで、あの日の「傷」を認め、それを他者にひらいた。読み手である私たちは、手記を手がかりに、その傷がいかなる言葉で語られうるのか、やりとりを繰り返していった。その繰り返しの作業は、私たちがその傷にどれだけ丁寧に触れたとしても、長谷川さんの傷はときに痛み、ときに沁みることもあっただろう。私や坂本さんが手記を読み解こうと試みることは、長谷川さんにとって自らの「傷」を理解する助けになったかもしれないが、同時に、傷をさらに痛めることにもなっただろう。
30年間見なかったことにしてきた「あの日」を見つめ、それを「傷」と名づけることは、「寝た子を起こす」ようなふるまいになってしまう。長谷川さんにとって、私たちとやりとりをすることは、不安や後悔が細波のようにやってくる日々だっただろう。それでも、長谷川さんは、自らが手記を書いた意味をカメラの前で言葉にする決断をしてくれた。彼女の言葉が、新たな手記の書き手を連れてきた。私はそのことに深く感謝している。
「あの日」にたいする距離感や温度はそれぞれに違う者同士が、誰かの「あの日」を一緒になって想像して、言葉の往復をする。そうして生まれた「あの日」の理解は、かけがえのない共同作業の時間だった。私は、ひとりの体験を、みなで言葉にする日々を一旦終えたいま、あの日々がいかに創造的であったに気づき、静かに驚いている。
長谷川さんが引用した宮地尚子の文章は、こう続いていく。
傷がそこにあることを認め、受け入れ、傷のまわりをそっとなぞること。身体全体をいたわること。ひきつれや瘢痕を抱え、包むこと。さらなる傷を負わないよう、手当てをし、好奇の目からは隠し、それでも恥じないこと。傷とともにその後を生きつづけること[★04]★04。
この連載では、災害後の復興に向かう社会に「世直し」と「立て直し」という2つの対照的かつ、どちらも「前向き」な志向があることを見出した精神医学者の中井久夫の理論を受けて、災害研究者の矢守克也が「やり直し」という第3の志向を示したことを、現場の言葉から理解しようとしてきた。長谷川さんの手記執筆という営みを踏まえると、この「やり直し」の志向とは、「喪失体験」をそれとして認め、あらたに主体的なものとして「喪失体験」を再構築することだといえるのではないか。その意味において、手記執筆とは、「喪失体験」に主体性を取り戻す最初のステップとして位置付けられるのではないか。
手記を書くことで、長谷川さんは、「あの日」を「傷」と名づけた。それは、思い出さないように蓋をし、見なかったことにしてきた態度とは異なる、きわめて能動的なふるまいだ。そして、その「傷」を、私や坂本さんをはじめとした読み手にひらいた。そこで交わされるやりとりによって、彼女の「傷」のすがたかたちの理解はより深まった。
この日々が、長谷川さんの「ひきつれや瘢痕を抱え、包む」ことにつながったかどうかは心許ないが、少なくとも、読み手の私自身はなにかに包まれている感覚があった。それは、冒頭で述べた、私が15年感じてきた「寂しい」という感覚もまるごと包んでいった。そして、気づけばこの一年でいくぶん楽になった気がする。
私は、長谷川さんにとっての「あの日」がどのように変わり、どのように変わらないのかを、あと10年、さらにもう10年先、見つづけられたらと願っている。「傷」や「寂しさ」をともに手当てし、ともに隠し、ともに恥じないように生きつづける。そう思えた私は、もう寂しくはない。
特設サイト[ 阪神・淡路大震災から30年目の手記 ]
「震災前、震災後、そしてこれから。」
https://kiito.jp/saikanshuki/shuki/017/
心の傷――文字にしたら少しは楽になるかもしれない
https://kiito.jp/saikanshuki/shuki/018/
長谷川貴子

- 阪神・淡路大震災から「30年目の手記」
- 阪神・淡路大震災から「30年目の手記」は、1995年から現在まで震災体験の手記集の出版を行う「阪神大震災を記録しつづける会」の取り組みをもとに、2021年に東日本大震災の震災手記を集めるプロジェクト「10年目の手記」の方法を援用し、発展させた手記募集プロジェクトです。
★01 NHK「リブラブひょうご:阪神・淡路大震災の手記 “30年目”だから語れること」2024年10月8日放送https://www.nhk.or.jp/kobe/shinsai/livelove_51.html★02 NHK Eテレ「こころの時代〜宗教・人生〜その言葉が道をひらく:阪神・淡路大震災 三十年の思いをつづり、つなぐ」2025年1月12日放送https://www.nhk.jp/p/ts/X83KJR6973/episode/te/MYX5Z7L195/ ★03 宮地尚子『傷を愛せるか(増補新版)』、ちくま文庫、2022年、224頁。 ★04 前掲、223-224頁。

- 高森順子たかもり・じゅんこ
- 社会心理学者。1984年兵庫県神戸市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。現在、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]産業文化研究センター研究員。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。著書に『10年目の手記―震災体験を書く、よむ、編みなおす』(共著、生きのびるブックス、2022年)、『震災後のエスノグラフィ―「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)、『残らなかったものを想起する―「あの日」の災害アーカイブ論』(編著、堀之内出版、2024年)など。
