F4-9
人口減少時代における「野生動物のマネジメント」
「ニュー・ワイルド」の視点から
「地球環境にとって、人間の活動が脅威である」、そんな認識が世界で広がり始めています。人間中心主義的な世界観では、地球環境はもはや維持できない、そんな風に考える若い世代が増えています。では、非人間中心的な世界観とはどのようなものなのでしょうか? 本特集では、動物、植物、菌類、微生物など、人間以外の視点で世界を眺めるとはどういうことかを探究していきます。
今回は、野生動物のマネジメントを専門とし活動されてきた、羽澄俊裕さんにご寄稿いただきました。人間はこれまで動物との共生を謳いながらも、他方で野生動物との縄張り争いを繰り広げてきました。人口減少は、いわば野生動物たちの巻き返しを意味します。そして、野生動物の活動領域が広がることの最も大きな懸念は、感染症などの危険性が高まることだと羽澄さんは言います。
そんな時代に私たち人間は、野生動物と、また自然とどうむきあえばいいのでしょうか? 野生動物を鏡として、人間たちのあり方を考え直します。
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Contents
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静かにせまる自然の驚異
地球規模で大気や海水の温度が上がり、夏の猛暑が長くなったせいで、もはや四季をあじわう余裕もありません。強大な台風が増えて、線状降水帯と呼ばれる集中豪雨が随所で発生することも、人新世と呼ばれる時代の人間活動が引き起こした現象と言われています。運の悪いことに日本列島の地下が活発に動く時代に入ったので、大規模な地震や津波、火山噴火の頻度が高まりました。そして、日本の社会が人口減少時代に移行したことでさえ、すべてが人と自然の関係において重要な意味を持っています。私は長らく野生動物をマネジメントする仕組みつくりの仕事をしてきたので、少しばかりその分野で広がる混沌についてお話しします。
最近は、クマ、イノシシ、シカといった大型動物が都市部にまで出没して騒ぎになります。車との衝突事故が増え、鉄道との衝突も年に5千件を超えて、もはや野生動物の問題は農山村の出来事ではなくなりました。発端は昭和時代に始まった過疎にあります。中山間地域の高齢化と人口減少、具体的には農林業の従事者や狩猟者が減ったこと、耕作放棄地や空き家が増えたこと、そんな人間の活力の低下に合わせるように野生動物の分布が広がりました。本格的な人口減少時代に入ると、彼らは郊外へ都市へと侵入するようになりました。当然、両者の活動空間の重なりが広がれば、人がアタックされる事故やら生活環境害といった問題も増えていきます。
もっとも懸念されることは人獣共通感染症という、野生動物から家畜、ペット、人へと感染する病気です。新型コロナよりも致死率の高いFSTSという感染症が、ダニを通してペットや人へと感染して、死者を出しながら静かに西日本から東日本へと広がっています。鳥インフルエンザや豚熱の感染によって何万という家禽や豚が殺処分されれば、肉や卵の価格が高騰します。安心・安全な人間生活を阻害するという意味では、こうした現象も災害として向き合わなくてはならない段階にきています。
問題を抑えるには自然とのほどよい距離を保つことです。野生動物の害性と正しい距離をとるとしたら、それを意図した空間のデザインと、野生動物が人馴れしないよう警戒心を持続させる心理的バリアが必要です。人が減っていく時代だからこそ、人が集まり暮らすコミュニティには獣害防除の体制を社会基盤としてセットしなくてはなりません。にもかかわらず、経済の低迷と人手不足が広がったせいで、野生動物の専門技術者の育成も雇用の仕掛けも後回しにされています。それは介護士、看護師、保育士の問題と同じで、その社会的意義の理解が足りないことによります。

- イノシシに荒らされた畑
自然にまつわる国際情勢の変化
1992年に生物多様性条約が誕生すると、その理念は世界の自然保護をリードしてきました。これに批准した日本の社会も懸命に後を追いかけています。高度経済成長とともに工業化と強引な開発を推し進めていた時代からの急転換は、昭和の終焉、バブル崩壊とともに経済が低迷を始めたタイミングと合致します。それは自然に優しい時代になったということではありません。人も自然も危機的な状況におちいりはじめたとの自覚によるものです。
そもそも生物多様性条約は、生物の多様性という、さまざまな生物たちの関係性で成り立つ自然環境(生態系)をまもるための条約ですが、各国が熱心になった理由は遺伝子技術の驚異的発展によるものです。自然界の動植物に潜む未知なる遺伝子が、革新的な食料、医薬品、材料を生み、新たな生物を生み出すことさえ可能な段階に入りました。
これらの技術は莫大な利益につながるので、一部の先進国、一部のグローバル企業が独占しないよう、国際的なルールつくりが必要になったということです。自然は明らかに人間に有益な存在となり、自然資源、生態系サービスといった経済用語で表現される「財産」として理解されたのです。
ところが科学技術は驚異的な速度で進むので、その功罪やリスクの大きさの理解すら追いつかなくて、不安の種がふえています。一度は立ち止まって、人類存続のための正しい選択とは何か、じっくり考えてみるべきです。新たな技術を私たちの日常に意味あるものとするには、環境倫理、生命倫理、技術者倫理、等々、それぞれの分野の正しい方向についての議論を先行させることです。
たとえば、生物多様性条約で議題にあがる脅威の一つに外来種の問題があります。外来種とは、地理的条件から生物の本来の移動能力では到達できない場所に人間が持ち込んで、定着に成功した動植物のことを指します。この外来種こそ、人類がまもるべき自然とは何であるか、命の扱いはどうあるべきか、そんなことを考えさせられる重たいテーマを背負っています。
「ニュー・ワイルド」という視点
生物は何万年という時間を経て、それぞれの土地の環境条件や他の生物との関係を通して、進化をとげる種もあれば、滅んだ種もありました。生き残った生物種の中でもそれぞれの集団は異なる遺伝的特性を獲得しています。現代の人間はそのことに価値を見出しました。そして新たに侵入してきた外来種によって、人間にとって貴重な遺伝子を持つ生物が消えてしまうとか、本来ならありえない交雑種が生まれてしまうことが問題視されるようになりました。
そもそも外来種とは長い歴史を通して人間が生み出したものです。人類が地球上に分布を広げ、農耕を開始したこと、家畜を生みだしたこと、養殖技術を誕生させたこと、大航海時代以降は世界各地に植民地をひらいて家畜や植物を持ち込んだことも、ペットになる動物、農作物、園芸植物を誕生させてあちこちに運び込んだことさえ、すべて外来種を生みだす原因となりました。
現在、生物多様性条約の方針に従って、地球上のあちこちで外来種の根絶に向けた取り組みが行われていますが、多くのコスト(予算、労力、時間)を投入しているにもかかわらず、根絶に成功した事例は限られます。そんな経験を重ねる中で異論・反論が出てきました。
「元の自然に戻そうと理想をかかげたところで、そもそも常に変化する動的な生態系を相手に、いったいいつのどんな状態の自然に戻すというのか、もしも目的を達成できたとして、狭い特殊な空間を維持するために人間が手を入れ続けなくてはならないのなら、そんな空間は庭であって、やっていることはガーデニングと同じことだ。原生自然(wilderness)を取り戻すなんてことは幻想にすぎないのだから、外来種も含めて、これから先の激しい地球環境の変化に耐えうる生物種をできるだけ数多く残していくことにこそ、労力を割くべきだろう」。
そんな考えのうえに想像される新たな生態系を、フレッド・ピアスというイギリスの科学ジャーナリストが「ニュー・ワイルド」と呼びました。ポイントはすべての外来種を排除するのではなく、あくまで地球上の生物の「種数」を減らしてしまう外来種、これに絞って取り除こうではないかとの見解にあります。

- Fred Pearce, The New Wild : Why Invasive Species Will Be Nature's Salvation, Icon Books, 2015 (邦訳『外来種は本当に悪者か?: 新しい野生 THE NEW WILD』草思社)
生態系の害
日本の法律は、生物多様性に負の影響をもたらす問題を「生態系の害」と位置付け、それを抑止することを目的としました。たとえば外来生物法では害性の強い外来種を「特定外来生物」に指定して対処するという仕組みになっています。法律上の害の概念とは、あくまで人間にとっての害であって、生物多様性が人間にもたらす恩恵の損失という意味でしかありません。生物そのものが危機に瀕することは現象面としかとらえません。そして、人間に直接的に害をもちこむものは在来種だろうが外来種だろうが駆除するのです。
いかにも人間中心の考え方ですが、これも人間が生物の一種である証拠です。生物は自らの種の存続のために生きています。個々人が何を考えようが、人間はその原則にしたがっているにすぎません。最近になって、生物多様性をはぐくむ環境の破壊が人類の存続にとってマイナスになることに気がついて、あわててまもろうとしています。もはや手遅れかもしれないとしても自らの種の存続のために努力します。私たちは生物ですから。
ただし、欲望のまま加速する資本主義や戦争にブレーキをかけられないとか、温暖化につながる化学物質やプラスチックの廃棄、核物質の拡散を止められないとすれば、人間という生物も絶滅するのです。それも私たちが生物であることの証です。ホモ・サピエンス一種が滅んだところで地球の自然はなくなりません。
ところで、外来種ではなく、在来種であっても生態系の害を引き起こす動物がいます。奈良公園でおなじみのシカは、本来、せんべいではなく植物を食べる動物です。ところが集まる習性があるので、密度が高まると植物が食べつくされてしまうのです。1990年代あたりから、全国の山の中で、増えたシカによる森林環境の変化が確認されるようになりました。国立公園の保護区でまもられた高山植物や、湿原の植物がいつのまにか消えていたり、森林内の地表の植物が食べつくされて森の栄養を貯めている土壌が流されたり、そのせいで根の浮き出た高木が大風で倒れてしまうとか、地面が斜面ごとすべり落ちるとか、この数十年のうちに森林の生態的な機能が失われています。それは生物たちの複雑な関係性が壊れ続けているということです。それだって生態系の変化にすぎないのですが、誰もが大好きな山の緑は、夏の高温、集中豪雨、シカの食圧によって急速に姿を変えています。
植物が消えてしまうこの現象を「生態系の害」に該当すると判断した国は、20年以上もシカを減らす努力を続けています。捕獲の総数は年間70万頭に達していますが、なかなか問題の解決にいたりません。シカは植物の残る場所に集まるので、よほど個体数を減らさないかぎり、スポット的に高密度状態が発生して問題は続くのです。腕利き猟師の高齢化と減少が著しいこと、急峻な山間部での捕獲作業が大変なこと、夏の異常な高温や豪雨が作業のじゃまをすること、そんなたくさんの障害が問題の解決を妨げます。

- 増え続けるシカが森林の生態系を破壊している
生態系で考える
地球全体の人口が増え続けることが問題なら、日本の人口が減ることが悪いはずがありません。この先の時代は、人口が減り続ける社会の形を模索しつつ、温暖化の進行や地震で激しくなる災害を予防的に回避しながら生きていくしかありません。すでに始まっているその様子は、人間の活動域の空間的な縮小と社会構造の転換です。そんな現代のパラダイムシフトがどっちに向かって進んでいくのかわかりませんが、いずれにしても、今という時代は日本の将来を左右する分岐点であることを意識するべきでしょう。
たとえば現在の状況を、人間も動植物も、生物の全体をすべてひっくるめた生態系の視点でとらえるなら、在来種だろうが外来種だろうが、野生の動植物はみな人間の撤退に素直に反応しているにすぎないことがわかります。ある生物の勢力が弱まった空間に他の生物が進出してくる現象は、自然界ではよく見られることです。クマやイノシシが街中を走り回ることも、竹林が繁茂することも同じです。人間によって新天地に連れてこられても生き延びた外来種ほど、混乱する状況ではたくましいものです。そんな人口の減る時代に動植物の害性を排除しつつ、かつ生物多様性保全をかかげてうまくやっていくとすれば、できるだけ工夫して棲み分けることしか思いつきません。
腕利きの猟師たちが減ってしまったこの時代に、現状の捕獲努力で抑え込むには相手の母集団が増えすぎました。では、どうすれば有効な棲み分けに持ち込めるかというヒントは、かつて野生動物を抑え込んでいた1960年代あたりまでさかのぼって、それぞれの地域の農山村に生きた人々の暮らしの機能面を探ってみれば見つかります。そして、これからの時代の集まって暮らすコミュニティに、その機能を新たな形でセットしていくことです。
問題は獣害にかぎりません。災害を避けながら私たちはどこに暮らすのか、安心な子育てや教育の空間を確保するにはどうするか、無駄を避けるためにできるだけ近場でコンパクトにエネルギーを供給する仕掛けをどうつくるか、獣害や病虫害を避け、夏の日照りも水不足も洪水も避けられる食料生産の場をどこに確保するか、そんな諸々の問題にこたえる空間をどのように生み出すか。そんなことを国土利用のレベルでも、身近な空間のレベルでも考えなくてはなりません。そして、考えついた社会の仕組みの上にお金の働きを機能させます。
その一連の作業を一言で言い表すなら「生態系で考える」ということです。経済よりも前に、生態系の思考の下に社会の仕組みを組み立てなおす。そうすることでしか、この先の未来に人類が生き延びる活路はないと私は思うのです。きっとそれはノンヒューマンともうまくつきあっていくことにつながっています。
生き延びるためにあがく
実は国際的な議論の場では、生態系で考えるという思考は以前から取り込まれてきたことです。日本の環境基本法にも取り込まれています。にもかかわらず、なぜだか先に進めない現実をどうしましょう。それを遠巻きに眺めていても仕方がありません。障害となる課題をひとつひとつ乗り越えていくしかありません。
その前に、今を生きる人々が直面する社会のさまざまな問題、貧困、格差、差別、等々の深刻な問題を抱えたままでは、環境問題に目を向ける余裕など生まれません。だからこそ、SDGsがかかげた17の目標をクリアするというアクションには重要な意味がありました。ところが、人類がこれほどの考えに到達したにもかかわらず、世界中で大規模な山火事や旱魃、洪水が起きているというのに、為政者たちは温室効果ガスをまき散らす戦争を終わらせることすらできません。もはや2030年という、5年先の目標年のSDGsは達成できないことに誰もが気づいています。
それでも絶滅を回避するためにあがく。それこそが生物たる人間の本性です。たとえば、すでに定着したエコという言葉は、なんだか商品の宣伝文句で消費されがちですが、その本質にある思想まで消耗してしまっては困ります。エコの思想を実質的に私たちの日常に浸透させるにはどうしましょう。たとえば、江戸文化の持続可能な生活スタイルとか、地方にひっそりと生き残る生活技術を懐かしんだりする空気感には、一つの活路があると思います。
もう一度、それぞれの土地に根付く多様性に満ちた風土をとらえなおして、地球温暖化の影響に対処する方法を考え、それぞれの土地にマッチした生態系の思想をつくりあげる。それができたら、しっかり政治に練りこんで、社会経済の仕組みとなる法制度に仕上げていく。そうしないことには、22世紀を生きる世代にまで人間の文化をつなげられません。

- 羽澄俊裕はずみ・としひろ
- 1955年生まれ。1979年東京農工大学農学部環境保護学科卒。博士(人間科学)。1983年野生動物保護管理事務所設立、1991年同社代表取締役社長就任、2015年同社退任。立教大学ESD研究所客員研究員、東京農工大学農学府特任教授を経て、現在は神奈川県公園協会理事、国 ・自治体の各種委員会委員。専門は野生動物保全学。主要著書は『冬眠する哺乳類』(共著、2000年、東京大学出版会)、『自然保護の形』(文永堂出版、2017年)、『けものが街にやってくる』(地人書館、2020年)、『SDGsな野生動物のマネジメント』(地人書館、2022年)、『外来動物対策のゆくえ』(東京大学出版会、2024年)ほか。
