F6-5
パパがコロナで死んでも、人生は続く——自棄っぱちケアのための試論
-
Contents
-
「よき自己紹介」と「ままならぬ自己紹介」:記憶の記述、その脱線
1984年に神戸市ポートアイランドの市民病院で生まれた私は、1995年にその東隣につくられた六甲アイランドの高層マンションの低層階で阪神・淡路大震災に遭いました。電信柱のない、石畳で美しく舗装された、どこまでも平坦な海上都市をふるさとにもつ私は、液状化現象であふれる泥で団子をつくって遊びました。被災後、はじめて島外に出たとき、崩れた家屋の解体作業によって立ち上る砂煙と、垂直に立つ建物がひとつも見当たらない風景に平衡感覚を失い、嘔吐しました。当時10歳の子どもだった私は、40歳の中年になりました。コロナ禍の2020年に生まれた子どもはまもなく4歳になろうとしています。
2004年、19歳のときに、震災体験の手記集を1995年から毎年出していた市民団体「阪神大震災を記録しつづける会」代表の高森一徳が亡くなりました。一徳は父の兄、つまり伯父です。同会が10年の節目、10冊目の出版記念会を迎える直前のことでした。伯父は、10年で434編の手記を世に送り出しました。2010年、25歳のときに、私は休止状態だった同会を引き継ぎ、以来、手記を書く人びとと過ごしてきました。私は、伯父亡き後の10年で14編の手記と、6つのインタビュー記録を世に送り出しました。また、同会の活動と並行して、手記に限らず、写真や映像など、あらゆるメディアを介した災害の記録や表現をテーマに研究を続けてきました。
来年1月17日、阪神・淡路大震災から30年が経ちます。私は、同世代の研究者とともに、震災30年のあいだに生まれた災害の記録や表現を振り返るフィールドワークを2023年の暮れから始めています。伯父から引き継いだ「記録しつづける会」の活動を踏まえた、震災手記を募集する事業「30年目の手記」も今年の1月から取り組んでいます。この道行きは、来月からここではじまる連載「記憶〈分有〉論——阪神・淡路大震災30年のメディア実践を辿る」(仮)で書き留めていきたいと思っています。
このような自己紹介を、私は何度も繰り返してきました。この文章を一読者として読んだならばどう感じるだろう、と考えを巡らしてみます。この文章の書き手の「高森順子」という人物は、幼少期の体験を出発点にして、社会的に意義ある研究活動を一貫して続けている。そして、震災30年という節目のタイミングを、準備万端で待ち構えている。「社会的に意義ある研究活動」というのは、破壊や喪失をともなう「震災」という出来事が中心をなすものだから、この人物は被災時にトラウマティックな悲しみを抱えることになって、それを埋め合わせるようにストイックに研究活動をしてきたのだろう。そのトラウマは決して癒えることのない傷になっているのではないか……。手記を集めていたという高森一徳という人物も、あの震災に並々ならぬ思いをもっているだろうし、その活動を引き継ぐのが、親戚にしてはちょっと距離のありそうな「姪」であるわけだから、二人にはなんらかの特別な絆があったに違いない。いろいろと想像が膨らみそうです。しかし実際の「高森順子」は随分違います。
手記:書かずにはいられないもの
研究活動は確固たる意志をもって続けてきたというより、「やめたとは言ってない」という消極的な言い方がぴたりとはまります。伯父の活動を引き継いだのも、メディア報道では「伯父の遺志を継ぐ」という一言に集約されてきましたが、いくつもの偶然が積み重なったすえの結果に過ぎません。
大学院に入ったのは、就職活動に失敗したことと、モラトリアムの時期がほしかったからです。23歳当時、恋愛関係のお付き合いをしたことがなかった私は、「恋愛」や「結婚」といった「二人がかり」のことは当分のあいだ、もしかしたら一生できないのはないか、と真剣に悩んでいました。結果的に2回結婚することになるのですが、これ以上脱線すると戻れなくなりそうなのでやめておきます。
話を戻します。「二人がかり」のことができない悩みを解消する方法として、「一人きり」で、しかも一生かかっても終わらない仕事はないか。それが「研究」でした。「研究」ならば、私の人生のグラグラの足場を固められるのではないか。蓋を開けてみれば、フィールドワークを手法として採用する研究は「一人きり」でできることなんてごくわずかで、「恋愛」や「結婚」とはまた違う、「n人がかり」の共同作業に四苦八苦することになりました。ただ、それは遅れてきた青春のようでもあり、苦しくも楽しい思い出にもなりました。遅れてきた青春、と含みをもった表現をしたのは、私は中学校1年生の秋ぐらいから、約3年間不登校だったからです。「一人きり」の作業をしたいとこだわったのは、「一人きり」だった時間が長かったからかもしれません。
不登校は被災体験がトリガーだったのでは、と思う人もいるかもしれません。それは一理あるかもしれませんが、お嬢様の校風がとてつもなく合わなかった、というのが本当のところだと思っています。だから、自分の経歴をなんでもかんでも、被災者の延長線として回収することはできない。そういうこともあって、これまではこんなふうに自分のことを書いたことはありませんでした。
いつまで経っても本題にいかないおしゃべりは、人の怒りを買うことすらあります。私は酔っ払うとよくそういう状態になって、だんだんと周囲の人たちは生返事になっていきます。仕舞いに私は、「みんな聞いてる?」と椅子から立ち上がり、みなの顔を確認し、一瞥してくれたことに安堵し、さらに脱線ばかりの自分のストーリーを延々話し続けます。適当に流し聞きしてくれているとわかると、その清々しい突き放しっぷりに、安心した気持ちにすらなります。また話が脱線しました。私の背景説明は、冒頭の3段落分で充分、これが、もっとも適切かつ、もっとも簡潔な、私の説明文なはずなんです。
ただ、この文章の冒頭の3段落だけでは、どうにも、いまの「高森順子」と距離が離れすぎたように思えてならないのです。大学院に入って間もないころは、借り物の思考の枠組みと、よそ行きの言葉で、どうにかこうにか「活動」を「研究」にうまく仕立てようとしてきました。ただ、ここ数年は「n人がかり」で生み出す「活動」の存在自体をよく見てから、そこにフィットする言葉をあまり無理強いせずとも繰り出せるようになってきました。活動と研究はシームレスにつながっているし、それが私の人生になりつつある。研究職としての立場はいまだふらふらしていますが、研究者としては知らず知らずのうちに中堅になり、良くいえば「責任感」、悪くいえば「面の皮の厚さ」みたいなものも出てきました。
今回は、面の皮の厚い文章を許していただきたいです。念頭には「記憶のケア」という今回の特集の言葉があります。そのうえで、ちょっと書き方の実験をしてみたい、と思っています。この実験を通して、いまの私と折り合いのつく文体を探ってみたい。実験はもうすでにはじまっていますが、まずもって、自分が書きたくてたまらないことを淡々と書くことからはじめたいと思います。
私が書きたくてたまらないこと、それは、2021年10月9日に父がコロナで死んだことです。昨年から震災30年の記録表現を訪ねて歩くなかで、なぜか、どうしても、父の死にざまを書きたいと強く思うようになりました。父が神戸で生まれ育ち、神戸を愛していたから、というのもあるかもしれません。ただ、どうしても書いておきたいことがある。それを書きたくて、それを誰かに読んでほしくて、たまらない。そういう、表現欲求の臨界点みたいなものがあることを、私は、父がコロナで死んで、そこから3年が経ったことで、いま、まざまざと体感しています。それはきっと、震災30年のあいだ、自分の体験を「書かずにはいられない」とペンを取り、タイプを叩いたひとたちと共鳴するところかもしれません。
記憶のケアと「書くこと」:「自棄っぱちケア」を実験する
父のコロナ罹患からの看取りに至るまでの日々は、怒り、不安、拒絶、悲嘆、虚脱といった、あらゆるネガティブな感情がごちゃごちゃになって、私や私の家族を巻き込んでいきましたが、ときおり不意に差し込まれる笑いがありました。思わずふっと笑みがこぼれる程度のものから、手を叩いてバカみたいに大笑いする瞬間もありました。号泣と大笑い、沈黙と多弁を繰り返したあの日々を書き、それをパブリックな場所に置いてみたい。
堰を切ったようにおこがましいことをつらつら書いていますが、この場所を借りて、私の欲望を叶えてみたいと思っています。この特集の言葉に半ば無理やりに寄せるならば、自分の書きたい欲望に素直に従うという今回の実験は、トラウマティックな記憶のケアのあり方として、それがさらに傷つかないようにていねいに思い出そうとするのではなく、100均のおもちゃのスクイーズみたいに、がっしり掴んで、引っ張り出すような扱い方もあるかもしれないと考えてみるものです。私はKIRINJIの「自棄っぱちオプティミスト」という曲が好きなのですが、いわばこれは「自棄っぱちケア」があるかどうか、という試みです。
ここからの文章は、私が当時、iPhoneのメモ機能に「書き置き未満」とタイトルをつけて記録していた言葉を素材に編集しています。
2021年7月、日本の主要都市部では4回目となる緊急事態宣言が発出され、その渦中で東京五輪が開催されていた。のちに「第5波」、「デルタ株流行期」と呼ばれる感染拡大が起きていた。日本国内ではこの時期、79,189人が感染確認され、うち683人が重症化した。パパはその一人になってしまうことになる。
まだ猛暑が続く9月初め、パパが新型コロナウイルスに罹患した。67歳、身長180cm、体重90キロ。持病はあったかと聞かれれば、血圧が高いとか、コレステロール値が高いとか、たしかにそれは生活習慣病とかメタボリック・シンドロームと言われればそうだが、「不摂生」のひとことで括ってしまえるようなことくらい。いつも肩や腰が痛いと言っていて、食べることが好きで、たまに友人たちと酒を飲むのが好きで、山下達郎や大瀧詠一が好きで、演劇や落語が好きで、数年前から熱心に歌舞伎を観に行くようになった。私とのLINEでのやりとりは、「あれ聞きましたか」「これ見ましたか」という、いまハマっているエンタメ事情の確認が中心。私にとってパパは、趣味の合う友人のようだった。
罹患する直前の8月29日、パパはママと一緒に私が住む名古屋に来ていた。コロナ流行期間中も、感染対策を万全にして、パパはつねにどこかへ出掛けていた。60を過ぎて自営の仕事を畳み、ここからは世の中のエンターテイメントを味わい尽くしてやろう、という気概みたいなものがあった。私のiPhoneには、生後10ヶ月になる孫をマスク姿で抱くパパの写真が入っている。その日は、孫の様子を見るついでに、熱田神宮に行く旅程だった。私が名古屋にいなければ、パパはいまも生きていたかもしれない。そう思わなかったといえば嘘になる。実際、パパがコロナにかかった場所は名古屋らしいというのは、これまでほとんど誰にも話すことはなかった。熱田神宮の神は何をしていたんだ、なにがパワースポットだ。さすがにこれは無礼な書き方か。神をも恐れぬ物書きになりたいとは思わないので、これくらいにしておく。
神戸に戻ってから発熱したパパは、無駄のない動きで入院に至る。同居するママと妹が罹患しないように、ほとんどの時間を自室に篭って過ごしていた。解熱剤を使ってもすぐに上がる熱、苦しくなる呼吸。家族が感染しないために、声を出すことはほとんどなかった。「インフルエンザの数倍辛い」。LINEでパパはそう伝えていた。閉ざされたドアの向こうにいるママと妹とつねに連絡をとり、食事、トイレ、風呂などの用を済ませる際に二人に不用意に近づくことがないように徹底していた。そのLINEグループには私も入っていたので、やりとりはリアルタイムで伝わっていた。パパは事前に購入していた血中の酸素濃度を測るパルスオキシメーターを使い、数値が93になるのを待ち構えていた。当時、患者数が激増していたため、酸素濃度が安定して93の数値を出していないと入院できなかった。自宅療養中の死亡例を伝えるニュースが連日流れていた。93に下がった数値を確認したパパは、自分で救急車を呼んだ。
救急隊員がやってくると、パパは自室のドアを開け、声を出さずに家を出て行った。ママと妹は、パパの後ろ姿を見つめていたという。パパは振り返らなかった。感染の可能性を極力減らしたい。それが、互いに見つめあい、声をかけあうこともできない別れの時間をつくることになってしまった。
神戸労災病院に入院したパパは、その後まもなく、神戸大学病院に転院した。予想以上に肺が傷んでいたことと、高度な医療を施せば治る可能性があると判断されたからだった。転院したパパは、麻酔で眠り、人工呼吸器をつけ、集中的に肺を回復させる治療をはじめることになった。LINEでママと妹がコロナ陰性であることを確認し、「ほっとした」と返事をして、治療同意書にサインをして、眠りについた。直前に送られてきたマスク姿の自撮り写真は、数日前に孫を抱いていたパパとほとんど変わらないように見えた。パパが麻酔で眠りについたのは、9月8日の昼過ぎのことだった。
9月17日から日に一度、「リモート面会」でパパの様子を見ることができるようになった。感染爆発でつねに満床状態だったはずの大学病院は、リモートで患者と家族が面会をするための準備をする余裕など全くなかったはずだった。面会用のタブレットなどの機器も満足に揃っていない様子だった。こういう状況下で、患者の家族の不安を少しでも払拭しようと必死で時間をつくる医療チームに深く感謝した。
リモート面会の初日、13時過ぎに病院から電話がかかってきた。看護師がGoogle Meetの10桁の会議コードを伝えてくれる。私はブラウザを立ち上げて、コードを入力し、参加ボタンを押す。タブレットを操作する看護師が映る。しばらくするとカメラが移動し、清潔な白いシーツに包まれて眠るパパが映った。何を話したらいいのかわからない。看護師はパパの顔がよく見えるように熱心にタブレットの位置調整をしてくれていて、この時間を有効に使わないと申し訳ない気持ちになってくる。ただ、たくさんの管につながれたパパを見て、何と声をかけたらよいのか、言葉に詰まる。バツが悪くなった私は、「音楽かけるから聞いてよ」とパパに言っているような素振りで、タブレットの後ろにいるはずの看護師に伝えてから、Apple Musicのサブスクのアルバムリストを適当にさわった。慌てていたこともあって、何を流せばいいのか、すっと思いつかない。パパは山下達郎が好きだが、ヤマタツはサブスクに音源がない。こんなところでつまずくか、と思った。たまたま目についたトニ・ブラクストンとベイビーフェイスの「Reunited」をかけた。2014年に「Love, Marriage & Divorce」、直訳すれば「恋愛、結婚、離婚」という身も蓋も無いタイトルのアルバムに収録されている、比較的ポジティブな気持ちになる曲だった。アルバム発売当時、私は離婚したばかりで、パパは嬉々とした顔で「順子にぴったりのアルバムが出たぞ」と薦めてきた。パパはたまにこういうきつい冗談をかましてくる人だったが、実際、このアルバムはとても良かった。
リモート面会の過ごし方は次第にわかるようになった。パパと話そうとするのではなく、タブレットをもつ看護師と話をするのが、この気づまりな時間を沈黙せずに過ごす方法であると理解した。私は「今日もよろしくお願いします」と挨拶をしてから、パパの身体に関するあれこれを聞いていく。褥瘡ができないように身体の向きを変えるようにしていること、清拭は数人がかりでやること、清拭の後には顔色が良くなること。言葉を発することはないパパが発するシグナルにどんなものがあるのか、看護師は教えてくれた。看護師とのルーティンのやりとりを終えると、パパに話しかける。「順子です。今日も見にきました。今日は顔色よさそうって看護師さん言ってくれてたけど、本当によさそう。ほっとしたよ。また明日も見にくるから。大丈夫だから。ゆっくり体を休めて」。そういうことを言ってから、少し間を空けて「ありがとうございました、また明日、よろしくお願いします」とタブレットの後ろにいる看護師に声をかける。そうやって、10分間を過ごした。
私がリモート面会に慣れていく一方で、ママや妹は眠るパパを見ることへの不安が消えなかった。私は「無理してつなぐ必要はないし、私が毎日つないで、わーわーしゃべっているから大丈夫」だと言った。私は育児休暇中でほとんどの時間を家で過ごしていたため、毎日同じ時間にリモート面会することができたというのもあった。たまに、リモート面会時にiPhoneのスピーカーモードで二人に電話をかけることもあった。これなら、眠るパパを見ずに、パパがいる空間に二人の声を届けることができる。今思えばもっと上手いやり方があったかもしれないが、そういう工夫をしながら、なんとかリモート面会を続けた。
9月が終わろうとしていた。ママは主治医に呼ばれ、パパの病状の説明を受けた。主治医は、パパは治療に応え、コロナウイルスや合併症の細菌もすべて身体から消えたこと、ただ、それまでに負った肺の損傷が激しく、これからゆっくりと肺や心臓が機能をやめることになると、言葉を慎重に選びながら説明した。
10月2日、私は神戸に向かった。大学病院に着く頃には、陽が傾きはじめていた。土曜日の夕方の大学病院は閑散としていた。玄関前でママと妹と落ち合い、パパが入院しているHCU(高度治療室)に向かった。当時、コロナ患者の面会が許されることはほとんどなかったが、さまざまな条件が重なって、家族のうち1人であれば面会してもよいことになった。奇跡が起きたと思った。
主治医や看護師たちが私たちをHCUに招き入れていく。防護服の着方ひとつにも作法がある。私たちはレクチャーを受けながら、少しずつ彼らと同じような格好になっていった。私と妹は、二重のドアの先にある個室の手前までいくことを許可された。一方、ママはパパに触れられる距離で面会ができるということだった。「もうベテラン看護師長の風情醸し出してるやん、似合いすぎ」。看護師たちの手際良いアシストと声かけで、ママは防護服をばっちり着こなしていた。妹は「でもこんなにおぼつかない足取りのベテランいる?」といって、みなが笑った。ママはこの非常時の緊張からくる高揚感からか、「こういう仕事ってかっこいいですよね、憧れてたから嬉しい」と看護師たちに言った。
主治医とともにママが1つ目のドア、2つ目のドアを開け、パパが眠るベッドへと近づいていく。私と妹は、ガラス2枚越しでその様子を見守ったが、私たちとパパの距離はおそらく10メートル以上離れていて、パパの顔を見ることはできない。私たちの近くにはタブレットが置かれていて、パパの顔を映し出していた。主治医に促されて、ママがパパに声をかけ、背中を撫でた。私も妹も、声を殺して泣いていた。タブレットの画面を見ることはほとんどせず、10メートル先のパパの姿を、パパを撫でるママの姿を、目に焼き付けようとしていた。タブレットからママの声が聞こえた。
「予約してた歌舞伎、録れてますから。連れて行ってほしかった場所、まだたくさんあります。パパのこと、お兄さんみたいに思ってしまってたね。夫婦らしいことをあまりできなくて、ごめんなさい。順子も詠子もいるから、大丈夫だから。今日会えてよかった。あともう少し、がんばろうね」
パパが死んでしまったら、納体袋に入れられてしまう。パパに触れられるのは、いましかない。全員がそれをわかっていた。ママはパパの血行がよくなるように、いつものちょっと強めの撫で方で、パパの背中を勢いよくさすった。いつものママとパパだと思ったら、涙が止まらなくなった。いま、パパ、どんな顔してるかな。私はタブレットを見た。パパの片目から涙がこぼれていた。妹に声をかけて、一緒にその目を見た。また、ママとパパの様子を見た。主治医はママにこう言った。「お母様がお父様にどんなふうに体を撫でられたか、その順番、強さ、全部覚えました。私、毎日それをやりますから。お母様の代わりに」。私も妹も声をあげて泣いた。
「今日は阪急で美味しいもん買って帰ろ」。ママはそういって、三宮のデパ地下で惣菜類をいくつか買った。家に帰ってから、どっと疲れが出た。気を抜くと絶望に飲み込まれそうになる。気晴らしにテレビをつけると「キングオブコント2021」が流れていた。こんなに悲しいことがあっても、お笑いは面白い。男性ブランコの1本目のコントに、涙が出るほど笑った。ボトルメールがきっかけで文通をはじめた二人が、はじめて出会い、互いの愛を確かめ合う、ばかばかしいコントだ。コントの終盤、拳を振り上げ、飛び上がりながら「大好きだ!」と叫ぶ浦井さんの姿で暗転する。私は、辛くなったらこれを見れば、明日から絶対大丈夫だと思った。なぜだかわからないが確信していた。何を言っているのかよくわからないかもしれないが、私にとってこのコントは救いだった。いまでもちょっと辛いことがあると、このコントを見る。いつでも見られるように、U-NEXTに課金してスタンバイしている。
10月9日の夕方、パパは亡くなった。死亡確認もリモートだった。翌日、私は夫と娘とともに、パパのもとに向かった。喪服はどうしても抵抗があり、私も夫も娘も「とりあえず紺色」、「お受験」みたいな格好にした。娘はパパが亡くなる前日に1歳になっていた。まだ残暑が厳しく、タクシーを降りてから大学病院の玄関につくころには汗だくになった。
厚手の半透明のビニール越しに、パパの顔を見た。「前髪がおでこにくっついちゃってる」。ママはそう言って、ビニール越しに髪の毛をつまんで直そうとしている。ビニールが分厚くて、なかなかうまくいかない。その様子を見ていたら、鈍器で殴られたみたいな絶望がやってきた。
葬儀業者や当直の看護師の方々が送り出す手筈を整えてくれていた。私は「写真、撮ろう。パパだったら絶対に写真撮ってる」と言った。妹も「パパならいろんな角度から撮るはず」と続けた。ママは「パパの周りを花いっぱいにするからちょっと待って」と、棺に大量の切花を入れはじめた。
パパはとにかく写真を撮る人だった。数年前に私は原因不明の高熱で入院した。胆嚢から出血し、顔がまんまるに腫れ上がった。神戸から駆けつけたパパは、「つらいな、がんばれよ」といいながら、ごく自然な動作で、苦しくて声も出ない私を撮った。のちに「血球貪食症候群」という、字面からして恐ろしい病だとわかったのだが、あれ以来、私はパパに「あのとき写真撮ったの、なんやったん」となじるように言っていた。「順子は生きてるわけですし、これもひとつの思い出になるわけですよ」とパパは言った。こういうとき、パパは妙にかしこまった言い方をして、人をおちょくる才能があった。さらに、その写真はパパの友人たちに共有されていたことがリモート面会の最中にわかった。パパの友人たちが私の当時の状況をあまりに詳しく知っていたので、おかしいなと首を傾げていたら「写真も見せていただいて……」と一人が白状した。そこから、僕も、私も、とみなが続いたのだった。私は、眠るパパを前に「いやいやいや、それはないって」と言った。
今、パパは写真を撮ることはできない。ただ、パパはこの状況を撮りたくてたまらないはず。それなら、私たちがパパの代わりに、パパの死にざまを撮ろうと思った。あらゆる角度の写真を撮り、これならパパも納得しているだろうと思えたので、私は夫に「集合写真も撮って」とiPhoneを渡した。パパの棺の前で、私たちは口角を無理やりあげて、ポーズをとった。私に抱かれた娘は、わけもわからず目を丸くしていた。iPhoneを渡された夫も同じような顔をしていたに違いない。
数日後、兵庫県のコロナ罹患者の死者数を伝えるニュースが流れた。神戸市であらたに2名の死亡が確認されたこと、一人は60代で喫煙歴があるとのことだった。これ、パパのことだ、と思った。禁煙して20年くらい経つのに、喫煙歴あり、でまとめられちゃったか。何度も禁煙に失敗し、禁煙パイポとか、ネオシーダーとか、中南海とか、煙草っぽいなにか、でお茶を濁したりもしていた。辞められるはずがないと思っていたが、ある日、ぱったり煙草を辞めた。パパの煙草の匂いを少し思い出した。
以上が、「記憶のケア」という本特集の言葉を推進力にして、父のコロナ罹患からの看取りに至るまでの日々を書いたものです。私の記憶の一部は、言葉を使った表現になった、といえるでしょう。
私のiPhoneに記録された当時のメモや写真は、その一つひとつが、海から突き出た氷山のようでした。どれもが切り立っていて、冷たく、互いをつなぐ回路はありませんでした。今回、あの日々をひとまとまりの表現にしたことで、私はずいぶんと、この突き出た氷山の一群と向き合うことが楽になったと感じています。
クルーズツアーの船の上から、氷山を眺め、海の下の光景に想いを馳せる。記録を頼りに表現をつくることは、記録という氷山を観察し、記憶という海の下を想像するツアールートをつくることに喩えられそうです。これで、私自身を含め、読者のみなさんもこのツアーに参加する、つまりは、あの日々を表現として受け取ることができるようになりました。船酔いしてしまった人がいたらごめんなさい。ただ、このツアーから「こういうことがあった」という出来事そのもの、「こういうひとがいた」という存在そのものの手触りを感じてもらえたらと願っています。
言葉にしていく、つまりここでいうツアーのルートを決めていく過程では、表現の取捨選択が無数にありました。書きはじめる前に、これは書こうと決めていたことで、書かなかったこともあります。逆も然りです。最初に「自分の書きたい欲望に素直に従う」と宣言して書きはじめましたが、その欲望もまた、暴走しないようにハンドリングしないと、表現として定着させることはできませんでした。現実的な話をすると、原稿依頼には「5000字~7500字(上限1万字目安)」と書かれてあったので、それを意識しながら分量を調整していましたし、締め切りはつねに意識していました。分量は完全にオーバーしていますが、締め切りはなんとか守ることができそうです。
記憶と表現:忘却と発見の引き裂かれのなかで
この文章には「自棄っぱちケア」という副題をつけましたが、本当の自棄っぱちにならないために「自棄っぱちケア」とさしあたり括ってみて、言葉にしてみたというのが、今回の試みの適切な言い方かもしれません。さらにいえば、これを書き終わった私はもうすでに、書いているあいだのハンドリングの感覚も、表現の取捨選択の過程で起きた逡巡も、忘れかけているように感じています。それは、自転車に乗れた瞬間から、乗れなかった頃の身体感覚を思い出せなくなることに似ています。
記憶を表現することは、「私」の問題を「私たち」の問題として考える回路を生み出します。だからこそ、社会をつくるうえで、表現は求められるのです。
一方で、記憶を表現することは、断片的で未分類の感覚を穏やかに消し去ることも伴います。トラウマティックな体験をした人は、しばしば「言葉にするのが怖い」と言います。それは、表現することで忘れてしまう感覚があることへの恐れからくる言葉なのかもしれません。
記憶を表現することで、表現する前の感覚を忘れてしまう。それならば、いっそのこと表現しないまま、ずっとこの感覚を抱いていたいと願うことさえある。一方で、記憶を表現することで、新たな感覚が開かれもする。さらに、それは他者にも開かれうる。そういう予感が、二度と戻らない感覚を捨て去るとしても、表現することに駆り立てる。つまり、記憶を表現することは、感覚の忘却と発見の表裏一体のもとにあるのです。このような、記憶と表現の引き裂かれる関係を理解することが、記憶を表現するという営みのダイナミズムを理解する手掛かりになりそうです。

- 高森順子たかもり・じゅんこ
- 社会心理学者。1984年兵庫県神戸市生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科単位修得満期退学。博士(人間科学)。現在、情報科学芸術大学院大学[IAMAS]産業文化研究センター研究員。グループ・ダイナミックスの視点から、災害体験の記録や表現をテーマに研究している。2010年より「阪神大震災を記録しつづける会」事務局長。著書に『10年目の手記―震災体験を書く、よむ、編みなおす』(共著、生きのびるブックス、2022年)、『震災後のエスノグラフィ―「阪神大震災を記録しつづける会」のアクションリサーチ』(明石書店、2023年)、『残らなかったものを想起する―「あの日」の災害アーカイブ論』(編著、堀之内出版、2024年)など。

