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ヒカヒカの土地の先に――農地の大区画化と〈種の孤独〉
「地球環境にとって、人間の活動が脅威である」、そんな認識が世界で広がり始めています。人間中心主義的な世界観では、地球環境はもはや維持できない、そんな風に考える若い世代が増えています。では、非人間中心的な世界観とはどのようなものなのでしょうか? 本特集では、動物、植物、菌類、微生物など、人間以外の視点で世界を眺めるとはどういうことかを探究していきます。テクストと環境を往還しながら思考するエコクリティシズム研究の結城正美さんは、生まれ育った山麓の足元で起きた農を巡る出来事から、ヒューマンとノンヒューマンの関係を考えます。
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Contents
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草とヒカヒカ:里山を支えてきたもの
日本の大半は温暖湿潤で、植物が繁茂する。作物だけでなく、雑草とよばれる草も旺盛に育つ。雑草を抜かない自然農法にみられるように、草をめぐる考え方に変化が起きているとはいえ、依然として草に対する嫌悪感は強い。
生まれ育った石川県の山麓も例に漏れず、草は邪魔もの扱いされている。草が伸びると作物がよく育たないということに加えて、田畑に草が生えていると怠け者とみなされ、近所から白い目で見られるという発想が、集合的草嫌悪症の根底にあるようだ。草のない田畑を美しいとみなす母世代の人たちは、田んぼの畔に除草剤を散布し、畑の草を根こそぎ抜き取る。
除草剤が普及する前、集落の人たちはくる日もくる日も草取りに明け暮れていたことだろう。大正生まれの祖母は、足腰が弱って畑に出られなくなると、庭に座り込んで草取りをしていた。そうやって土地を「ヒカヒカ」にしておかないと落ち着かない様子だった。ヒカヒカはピカピカの古の言葉。草一本生えていないヒカヒカの田畑や庭は、祖母世代や母世代には光り輝いてみえたのだろう。ヒカヒカの里山の風景は、農業の機械化以前、祖母のような人々が日々連綿と続けてきた手入れに支えられていた。
除草剤をまけば草は枯れる。しかし、今から半世紀以上前にレイチェル・カーソンが『沈黙の春』(1962年)で警告したように、草を枯らす毒は土壌に浸透し、生の連鎖を死の連鎖に変える。大袈裟なことを言っているつもりはなく、田んぼの畔にまかれた除草剤の影響は稲にも及ぶという事実を指摘しているに過ぎない。生態学の視点から見れば、言わば草の生えない「ヒカヒカ」は「砂漠化」も同然なのだ。
安全安心な米づくり・野菜づくりよりも、このヒカヒカの田畑を重視する心性は、近年進められている農地の大区画化にも関わっていたのか、と気づかされる出来事が身近なところであった。
機械と農業:土地を平す大区画化
数年前から山麓のあちこちで、田畑に重機が入り、畔を取り払って土を掘り返し、平して大きな農地に変える事業が進んでいる。政府主導の「総合的なTPP等関連政策」の農業生産基盤整備にあたるものなのだろう。[★01]★01数枚の田畑が一つの巨大農地になれば、畔や土手がなくなり、用水路の新設などで水辺の環境も変わる。そうやってじわじわと山麓の風景が変化している。
農業従事者の減少と高齢化を考えれば、農業の機械化は避けられない。そして、機械で効率よく農作業を行うには、農地は広ければ広いほどよい。アメリカでもオランダでも、一区画分の農地の広さに度肝を抜かれた。とりわけカリフォルニアの畑は、見渡す限り同一作物が植えられていて、畑というより工場とよぶ方がふさわしいと思えるほどだった。ドキュメンタリー映画『キング・コーン』(2007年)で活写されているように、植え付けから収穫に至るまで全工程を大型機械で行うには農地の大規模化は必須である。
規模はちがえど同じことが山麓で進んでいる。いろいろ思うところはあるものの、私は農業の機械化=農地の大区画化に反対しているわけではない。ただ、すべての田畑を集約化・大区画化する必要があるのか、という疑問はもっている。
傾斜地農地のダイバーシティ:農地と草地のモザイク

- 梅の木の畑から見た田植え前の眺め
念頭にあるのは、傾斜地の農地だ。具体的には、わが家の前に広がる段々の田畑約10枚で、半分は実家の所有地である。私が小学生の頃は家族親戚総出で田植えと稲刈りをしたが、いつ頃からか集落の農業組合にすべて委託するようになった。年によっては米でなく大豆が栽培されることもある。一番高い段の農地は、かなり前に稲作をやめて梅や桜の木を植え、弟が定期的に草刈りをする以外は放ったらかしだが、満開の桜は見事であり、梅干し用の梅の実に加えて山菜も少々採れるたのしい場所だ。この高台の農地を私たち家族は「梅の木の畑」とよんでいる。20年ほど前、水田、樹木、畔や土手から成る風景が目の前に広がるこの土地の一角で、私たち家族は暮らし始めた。
一昨年だったか、この梅の木の畑を含む一連の田畑が集約化され大規模農地になる予定だと知った。平地ならわかるけど、どうして傾斜地まで? 高台の農地は相当削られるだろうから、環境の激変は避けられない。
段々の農地を平すことに抵抗を覚えるのは、個人的に愛着のある風景だからということもあるが、最大の理由は生物多様性の減少である。生物多様性を研究する宮下直・東京大学農学部教授によれば、傾斜地の農地では高低差のある土手が広がり、そこが草地となって、「農地と草地が組み合わさったモザイクが必然的に成立」する。[★02]★02「景観のモザイク性が高いことは、比較的狭い範囲に多様な生態系が詰まっていることを意味して」おり、[★03]★03したがって、水田と畔・土手のモザイクから成る農地が平されることにより生物多様性が減少することは明らかである。
私は農業の専門家ではない。生まれ育った環境ゆえ農には多少触れてきたものの、仕事は環境文学研究である。農業の専門家ならともかく、文学研究者が生物多様性を出しにして傾斜地農地の大区画化に疑問を呈するとは身の程知らずと非難する向きもあるだろう。私自身、数年前に山麓に家族を残して都心で働くことになり、田畑の草刈りは金沢に住む弟に任せきりだ。口を挟む立場にはない。しかし、それでもやはり、傾斜地の田畑まで集約化・大区画化することへの懸念は払拭できない。
実家の母に、どうして大区画化の書類にハンコをついたのか、それとなく訊いたところ、ハンコをつかないという選択肢はなかった、と。集落の同調圧力は身に染みて感じてきたので、母の心情はわからないでもない。
この段々の農地の風景を日常的に見ているのは、私たち家族ぐらいだろう。なにしろ家の目の前なのだから。周りに人家はなく、人通りといえば田んぼの水を確認しにくる人、犬と散歩する人、遊んでいる子どもたちくらいである。人の姿をまったく見ない日があっても、サギ、トンビ、サル、トンボ、ハチ、カエル、ミミズをはじめノンヒューマンに出会わない日はない。そんな場所である。
平地はともかく、傾斜地まで大区画化しないといけないのか。募る懸念を、山麓一の物知りである山口一男さんに漏らしたところ、あのあたりは結城屋敷跡として文化財に指定されているのでは、と教えてくれた。調べたところ、河岸段丘の一連の農地は部分的に、「結城城跡」(ID602 )と「結城屋敷跡」(ID 4402)として石川県の文化財に指定されていることがわかった。[★04]★04
文化財指定地ということは、土木工事を含む開発事業の際に試掘調査が義務付けられる。一縷の望みが見えたように思い、そのことを母に話したところ、予想外の反応が返ってきた。
「やっと田んぼを手放せたと思ったのに」
母はため息をつきながらそう言った。
文化財に指定されている土地の開発事業は、事前に県の教育委員会に届け出て、文化財保護法に則ったプロセスを踏まなければならず、事業者である石川農林総合事務所によれば、今年の稲刈り後に試掘調査を開始する予定とのこと。
というわけで、文化財を前面に出して母にアピールしてみた。
「文化財指定地だよ。平されて大きな田んぼになったら、何か埋蔵されていても永久に手が届かなくなるよ」
と言うと、母は間髪入れずにこう言った。
「誰が田んぼの草刈りするの? 本当に大変なんだから。これでようやく草刈りから解放されると喜んでいたのに」
え、草刈り? そこまで草が重荷だったとは、不覚にも私は気づかなかった。〈ヒカヒカの田畑〉と〈農地の大区画化〉が、草をめぐる強迫観念でつながった。
母には悪いが、私はこの段々の農地の風景を守りたい。カエルやバッタなどを狙ってサギがしょっちゅう飛来する。注意深く佇むサギの姿を見ていると、単身赴任先の都心で深まる「種の孤独」が和らぐ。
種の孤独(species loneliness)とは、人間中心主義的な物理的環境の改変とそれに伴う生物多様性の減少が進行する状況下、ヒトという種が感じる不安や孤独を指す言葉である[★05]★05。田舎でも都市型ライフタイルが浸透し、他種・多種のいる日常は過去のものとなった。種の孤独を感じる私は、都市だけでなく田舎でもマイノリティなのかもしれない。
山麓にはたまにしか戻れないが、滞在中は、カエルの大合唱に圧倒され、サギに目が釘付けになり、蛍の舞に心を奪われ、梅の木の畑にいつの間にか群生していた野生ミツバに狂喜したりする。こうしたノンヒューマンの隣人たちがそれぞれ仕事に専念しているのを見ると、私も自分のすべき仕事をしよう、と真っ直ぐな気持ちになる。人間関係のあれやこれやで参っているときは特に効果覿面だ。
夏になれば、家の周りで蛍が舞う。田んぼ脇の小さな用水は、苔がついたり、古びたコンクリートの割れ目から水草が漂ったりして、なかなかの風情だ。ここに蛍が棲みつく。
暗闇に蛍が飛び交う幻想的な光景は、古来から人を惹きつけてきた。蛍を詠んだ歌も多く、よく知られるものの一つに、「沢水に 蛍の影の 数ぞ添ふ 我が魂や 行きて具すらむ」(西行)がある。暗闇に浮遊する光の弧を見ていると、忙しない日常が後景に退き、蛍とともにある〈いま・ここ〉にリアリティを感じることがあるが、そうした経験を思い起こさせる歌だ。恋心や無常感と並んで、モア・ザン・ヒューマンの感受性も、蛍の舞いによって触発されてきたのである。
畦が取り払われ、新品の用水路が設置された田んぼでは、蛍の舞いは望めない。
自然のインフラ:畔や土手の仕事
興味深いことに、多様な虫の存在は収穫量を高めるという実験結果がある。
前掲の宮下の研究によれば、ソバ畑での実験から、(1)畔の草丈をひざ下程度に維持することによってソバ畑に来る昆虫が増え、(2)ソバの受粉と結実に大きく貢献する、(3)したがって、畔の割合が大きい小規模の畑ほど昆虫のご利益が大きい、ということがわかったという。[★06]★06
ソバ畑と畔の関係は、水田と畔・土手の関係にも当てはまるようだ。宮下は、アシナガグモの多い水田ほどイネの害虫が少ない傾向があること、水田から水がなくなるとアシナガグモは畔などの草地に移動することを指摘し、次のように記している。
日本の里山景観は、西欧の画一化した農地景観とは対照的に、元来が「自然のインフラ」ともいうべき環境が整っている。畦畔や土手のある草地、隣接する水路、そして周辺の森林などである。日本の伝統的な景観である小規模圃場や細かな起伏に富んだ地形が、送粉サービスや害虫防除サービスを維持してきたのである。だが高度経済成長期には、日本でも土地改良事業などと称して、圃場の大規模化や水路のコンクリート化などが進められた。それは水田の乾田化や機械化により農作業の効率を高めたのは確かである。それでも幸いなことに、平野部を除けば、まだまだ小規模農地や里山のモザイク性は十分維持されている。[★07]★07
わが家の前に広がる田畑も、高度経済成長期の土地改良を経ている。母が嫁いだ1960年代末、田んぼは「千枚田のように小さかった」そうだ。昭和に大区画化された田畑が私のデフォルトであり、経験のベースラインである。
前述したように、稲作の機械化とともに手作業は減り、私はほとんど農作業を手伝うことがなかったけれども、毎朝田んぼの水を見にいく祖母や父の背中、畔に座って編んだシロツメクサの冠、畔のタチアオイを刈らずに残しておく草刈り人夫のやさしさ、いまよりも数が多かった蛍の乱舞、暑い夏に稲に交じって伸びた草を抜く祖母の姿、稲刈り後の藁のいい匂いなど、田んぼ由来の経験は少なくない。カエルやサギや蛍をはじめとする田畑のノンヒューマンと接すると、そうした経験が思い起こされる。
機事有る者は、機心有り:諸星大二郎『未来歳時記 バイオの黙示録』
農地の巨大化と農業の機械化は表裏一体の関係にある。機械への依存が高まると、モア・ザン・ヒューマンの感覚や感受性を活性化させる経験が減衰し、効率化を求める「機心」が支配する。[★08]★08 機心とは荘子の言葉で、機械(テクノロジー)に頼る心を指す。「機械を有する者は、必ず機事有り。機事有る者は、必ず機心有り」とあるように、機心が生じると人間の心が荒ぶという戒めが込められた言葉だ。
機械を使わずに農業を営むことは現実的とはいえないが、機械に依存することには危険が伴う。機心が肥大化した先にはどのような世界があるのかーー
漫画家・諸星大二郎の作品集『未来歳時記 バイオの黙示録』(集英社文庫)に「案山子」という作品がある。
バイオテクノロジーが進んだ未来、鳥にヒトの遺伝子が入り込み、見た目は人間に羽根が生えているという鳥が農地の作物を狙う。農地には、鳥の被害から守るためにバイオ・ロボットのカカシが置かれており、初代のカカシロボットであるカカレンジャーは、自らの仕事に誇りをもって田んぼから鳥を追い払っていた。しかし、農地の大規模化に伴い最新型のグレート・カカシンガーが導入されて以来、カカレンジャーは農家から用無しとみなされ馬鹿にされる。プライドを傷つけられたカカレンジャーは、グレート・カカシンガーが撃ち損ねた鳥をかくまって助ける。それは自分を嘲弄した主人への仕返しというよりも、自分を必要としているものを守りたいという気持ちからであった。「変だよな 案山子が鳥を守るなんて…… でも 俺は何かを 守るために 作られたんだ」[★09]★09とつぶやくカカレンジャーは、機心が肥大化した人間よりも人間らしく感じられる。
ヒューマンとノンヒューマンの隣人のために
今秋、わが家の前の田畑の試掘調査が始まる。私は東京にいて直接見ることはできないが、夫や子どもたちが報告してくれるだろう。段々の農地の大区画化を懸念しているのは私たち家族ぐらいだが、この風景に愛着をもっているのも私たち家族ぐらいだろう。
土地をヒカヒカにすることに価値をおく集落の心性は、自然と人の暮らしをケアするという意味で、機械化以前の里山にとっては重要だったにちがいない。しかし、営農人口が減少の一途にある現在、ヒカヒカ精神は生物多様性にとって脅威になりうる。
カエルやサギや蛍や野生ミツバが各々の仕事に従事できるのは、それが可能となる環境があるからだ。田んぼがなくなればカエルはいなくなり、カエルのいない田んぼにサギは来ない。草の茂る畔がなくなれば蛍は生きていけず、適度に湿った木陰がなくなれば野生ミツバは姿を消すだろう。多種・他種の絡まり合う生物多様性は、多種が各々の仕事をおこなうことのできる環境があることを前提としているのである。
多様な生きものがいることによって、ヒトという種は孤独を免れてきた。生き物のダイバーシティは、何より「ヒト」という種の存続に関わる。農の現場を知らない身勝手な言い分であることは承知のうえだが、農に携わる人の手が失われ、機械化が不可避の今だからこそ、人間をとりまくものとの関係を想像しなおすことが重要なのではないかと思う。ノンヒューマンの棲み処を壊さない新しい農の形を、なんとか探っていけないものだろうか。
★01 https://www.cas.go.jp/jp/tpp/tppinfo/kyotei/tpp11/pdf/20191205_tpp_taikoukaitei.pdf (閲覧日:2024年8月16日) ★02 宮下直『ソバとシジミチョウ』工作舎、 2023年、p.87 。 ★03 同 p. 88。 ★04 いずれも「いしかわ文化財ナビ」ウェブサイトhttps://www.bunkazainavi.pref.ishikawa.lg.jp/ で情報公開されている(閲覧日:2024年8月13日)。 ★05 参照:Michael Vincent McGinnis, Freeman House, and William Jordan III, “Bioregional restoration: Re-establishing an ecology of shared identity,” Bioregionalism, edited by Michael Vincent McGinnis, Routledge, 1999, pp. 205-222. ★06 宮下pp. 202-206。 ★07 宮下 pp. 211-212 ★08 農地の大区画化・機械化による経験の絶滅と機心の関係については、宮下直氏とのやり取りから学んだ。 ★09 諸星大二郎「案山子」2006年、『未来歳時記 バイオの黙示録』2021年、集英社文庫(コミック版)、p. 92。

- 結城正美
ゆうき・まさみ
- 青山学院大学文学部英米文学科教授。専門はアメリカ文学、エコクリティシズム(環境文学研究)。フルブライターとしてネヴァダ大学リノ校大学院に設置された世界初の「文学と環境」プログラムで学び、2000年Ph.D.取得。金沢大学教員を経て2020年より現職。著書に『文学は地球を想像する――エコクリティシズムの挑戦』(岩波新書)、共編書にEcocriticism in Japan (Lexington Books)、訳書にD. エイブラム『感応の呪文――〈人間以上の世界〉における知覚と言語』(水声社/論創社)などがある。ASLE-Japan/文学・環境学会元代表、Routledge Environmental Humanitiesシリーズ共同監修者。近年は、AGU環境人文学フォーラム の主宰等、環境人文学の発展に注力している。


