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大地に降り立つ――「惑星政治学」の実践とは?
「地球環境にとって、人間の活動が脅威である」、そんな認識が世界で広がり始めています。人間中心主義的な世界観では、地球環境はもはや維持できない、そんな風に考える若い世代が増えています。では、非人間中心的な世界観とはどのようなものなのでしょうか? 本特集では、動物、植物、菌類、微生物など、人間以外の視点に寄り添うかたちで、世界を眺めるとはどういうことかを探究していきます。政治学者の前田幸男さんは、ノンヒューマンの存在も含めた、「惑星政治学」というこれまでにない政治の視座を提唱します。
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Contents
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「人類の共同財産」という名のもと、地下資源を収奪する文明
日本は高度成長期には公害問題を、2011年3月11日には東日本大震災と原発事故を、それぞれ経験しました。これらは、言うまでもなく何らかの犠牲の上に成り立つ政治経済構造の闇を浮き彫りにしたという点で大きなターニング・ポイントになりました。他方で、60年代の公害問題と原発事故による「環境破壊」の両者にはさまざまな相違点はあるものの、水銀やウランといった天然資源を地下から抽出し、それが地上の生命を脅かしたという点では、驚くほど問題の性質が同じと言えます。
2020年代に入ってからは、新型コロナウィルスの感染拡大の最中にウクライナ侵攻が始まり、そしてパレスチナ危機へとつながります。20世紀の遺物だったはずの「戦争」が世界のどこかで起きることがむしろ当たり前だという感覚を共有するようになった人が増えたのではないでしょうか。このような軍事侵攻で使用される戦車には鋼鉄やセラミックなどが大量に使用されていますし、ドローンもアルミやプラスチック(石油由来)から作られています。AIを使用したハイテク戦争といっても、展開される兵器・武器はどれも天然資源を原料とした「マテリアル」があってはじめて遂行が可能になるという点は、今一度注目する必要があります。
このように現代の経済発展も戦争も各国は地下資源に全面的に依存しているわけですが、この体制には実は国際法が制度的にも正統性を付与しているという点は無視できません。「人類の共同財産(common heritage of mankind: CHM)」という概念は1960年代に国連の場に登場し、国連海洋法条約では「深海底及びその資源は、人類の共同の財産である」(第136条)として明文化され、1982年に採択されています。この文言挿入の背景として、どの国も参加が許される「公海自由の原則」が適用されれば、先進国には深海底の開発への排他的な専有や採掘が許されなくなることから、CHMにすることで深海底の天然資源へのアクセスを確保したかったという点が挙げられます。他方で、途上国は先進国による独占的な開発を防ぎ、利益の衡平な配分を確保することが狙いで合意へと至り、CHMは明文化されました。
「持続可能な開発」や「平和的利用」への配慮は、条文の中から解釈として引き出すことは可能ですが、そこには(深海底の天然資源を)「利用しない」という選択肢はありません。「大地」は人間が所有できる「モノ」であって、何かを共に行っていく「パートナー」であるという認識にはなっていません。国際的な体制さえもこの地下資源は収奪するものという文明のあり方を正統化しているわけです。
上記のことを踏まえ、以下では、この「大地」を「地下資源」と捉え続けることの問題を、拙書『「人新世」の惑星政治学――ヒトだけを見れば済む時代の終焉』(青土社)でも取り上げた「新しい地政学(geo-politics)」との関係でお話したいと思います。
地球にのしかかる人口増加
人類が登場してから世界人口が10億人に達した1804年頃までには数十万年かかっているのにたいして、70億人から80億人への増加はわずか11年間(2011~2022年)です。この20世紀後半は大加速時代と呼ばれていて、人口と経済の拡大がパラレルに進んできました。今後の世界では、アフリカで人口が急増することがわかっている一方で、日本のように今後、人口が急減していく国が存在することから、2100年には90~110億人の間のどこかに落ち着くと言われています。しかし、このことは、経済・消費活動の規模がそのまま温存されることを意味し、人間による大地への負荷を軽減に向かわせるような材料とは言えません。
人口も経済規模も容易には縮小できないのなら、「二酸化炭素回収・有効利用・貯留(CCUS: Carbon dioxide Capture, Utilization and Storage)」という枠組みでテクノロジーを通して大気中の温室効果ガス(GHG)の増加を抑えるアプローチに現在注目が集まっています。そこにビジネスチャンスを見出そうとする動きもありますが、CCUSの開発コスト・リスク・効果への疑念などが指摘されています。
この点、GHGの変化を長期的に観測しているハワイのマウナロア観測所のデータを見れば、その濃度の値がまったく下がっていないのは一目瞭然です[★01]★01。対象物質(たとえば二酸化炭素)が、どの程度大気中に存在しているかを表す割合のことをppm(parts per million)で表しますが、たとえば2024年4月時点で示されている「426.57 ppm」というのは、常に最高値の更新を続けている中の通過点でしかないということです。
つまり、データはみなさんが日々の生活の中で使用しているパソコンやスマホといったデバイスに保存できる容量を超える場合、クラウド上のドライブに保存することで対処できますが、大地から抽出された地下資源由来のGHGを、そのような仮想空間にしまい込むことは不可能です。実際にGHGを技術的に大地に戻し、地球全体の濃度を抑えるということが極めて困難であることにも自覚的でなければならないでしょう。
以上を敷衍すれば、現代は再び戦争が幅を利かせる地政学のリバイバルの時代だなどと豪語する、物知り顔の「アナリスト」がしばしばメディアに登場してきますが、世界人口の短期間での膨張や、GHGの排出抑制の困難さなど「地球/大地」の限界について考慮しなければならない現代においては、大国の「勢力圏」を振りかざすような伝統的な地政学を昔と同じように重宝することなど実質的には不可能なのです。とすると、どのような地政学がありうるのか、という問いが浮上してきます。
二つの地政学――「地理」から「地質」へ
地政学は、これまでは①「地理(geography)」に重きをおいていましたが、これからは②「地質(geology)」が交差する学問として理解するべき時代に入ったと言えます。①の地理ベースの地政学は散々聞いてきた話でしょう。たとえば、古くはロシアの「南下政策」、日本外交における「自由と繁栄の弧」、そして中国の「一帯一路政策」など。これらはいわば、大国の影響圏を世界地図の上に書き込んでいくような話です。そこでは仮想敵国が措定され、制海権、制空権といった言葉が飛び交いますが、それは有り体に言えば、人間同士のいがみ合いを地図上で可視化するものでしかなく、地球はそのための舞台背景に過ぎません。伝統的な地政学では人間が構成する共同体の存在しか「見ない/見えない」わけです。
しかしながら、①地理だけを切り取って世界を理解できる時代はもう終焉を迎えつつあり、いまや人類が大地にかけてきた負荷がどれほどのものかを考える時期と言えます。①はベクトルが横(の相手)に向かっているのに対して、②はベクトルが下に向かっていると考えればわかりやすいでしょうか[★02]★02。
もちろん、①も地上だけの話ではありません。石油や天然ガスの埋蔵量が戦略のカギを握るわけですから、ベクトルは下にも向かっています。しかし、伝統的な地政学では、国土に豊富な資源が埋蔵されているなら、徹底的に採掘することに何のためらいもなかったわけです。大地への負荷をかけないという観点での下へのベクトルではなく、他国よりも優位に立つためなら徹底的に抽出・使用できるリソースとして大地を見ているに過ぎません。この点、先進国の豊かさは地下資源を消費できたからであって、私たちが使う電気を作る発電所の動力も地下資源あってこそ得られるものです。この地下資源も他国との対抗関係を意識した戦略論の中に位置づけられており、そこでの「政治」が射程に入れるフィールドも専ら他国との関係に集約されていきます。
それに対して②の新しい地政学は、①がたとえば国家間にある緊張関係の中に「政治」を見るのとは違って、ノン・ヒューマンと人間の間にある種の「政治」を見ていきます。たとえば、温室効果ガスの濃度の上昇については先述しましたが、これが平均気温2℃の上昇につながれば、ストックホルム・レジリエンス・センターが指摘しているように、「ホットハウス・アース」、すなわち地球の温室化が進むと予想されています。ホットハウス・アースによって、何が引き起こされるかと言えば、水循環の崩壊、さらには海洋循環の停止です。極地域や寒帯地域の永久凍土はとけていき、特に南極大陸の上に乗っている氷床の融解は海面上昇へとつながります。固体から液体へ、また液体の海水も蒸発して、以前よりも多くの水蒸気が発生し、大気中に雲を形成し、ある場所では暴風雨として立ち現われたり、他の場所ではさらなる大地の乾燥を引き起こし、厳しい干ばつの引き金にもなりえます。「大地」は、「水」を媒介にして、人間活動が引き金となった「結果」を「自然災害」として、私たちの眼前に見せつけてきます。この文脈での「大地」はもはや演劇における備え付けの舞台背景のようなものではなく、行動するアクターになっています。まるで「大地」が人間の活動に「待った」をかけているかのようです。つまり、「大地が牙を剥く」と言われるように、大地と人間の間には利害関係が横たわっているわけで、そのような関係性そのものが政治的であると言いたいのです。
ガイアと向き合う新しい地政学へ
英国の科学者ジェームズ・ラブロック[★03]★03はこのことを「ガイアからの復讐」と呼びました。ガイアとは、ギリシャ神話に登場する「大地の女神」の名称のことで、彼は地球をガイアであると表現しました。ギリシャ神話では女神ガイアは「怒り狂う復讐の神」として描かれています。ラブロックは、ここから着想を得て、地球は、もはや人間の活動を静かに見守ってくれる「母なる大地(Mother Earth)」であることをやめ、荒れ狂う「大地の女神」、すなわち、ガイアへと変化し、地球表面の居住可能空間を破壊してきた人類に「復讐」するとしたわけです。上記の例で言えば、水循環を崩壊させた人類に女神であるガイアが応答していると言えますから、これは関係性の問題となります。ヒトは自らの利益の追求のために続けてきた活動が「大地」を傷めていることに、大地(ガイア)自身が「自然災害」の形をとってNOを突き付けていると捉えるわけです。
そして、この人類とガイアとの間の政治に向き合うときではないか、というのが、もう一つの地政学の課題であり、惑星政治学の一大テーマです。ラブロックは元々、NASAの火星の調査プロジェクトに関わっており、そこで火星が人間にとって住める星になりうるのかを調査しました。しかし、結論として火星ではどうやっても「空気」が組成されないことが判明します。結果的に、ラブロックが行ったNASAでの仕事は、地球を他の惑星と比べて考察する「比較惑星研究」という分野の先駆けになったと言えます。つまり、地球が他の惑星とは決定的に異なり、奇跡的に大気や水をたたえた「生息可能空間(habitable space)」になっていることを、彼はここから理解したのです。
ここまで「大地」という言葉を頻繁に使ってきましたが、英語で言うとEarthですから、これは「地球」とも訳せます。しかし、地球は映像としてはイメージしやすいですが、実際に、一個人がその総体を体験するには、巨大すぎて不可能です。なにより、地球が「球体」であることは宇宙空間に人類が飛び出して、初めて実際に地球の外側からその「丸さ」を観察できただけであって、実際には「球」を触れたり感じたりすることはできません。よって、「新しい地政学」を自分の問題として考える上では「大地」という言葉の方が実感しやすいでしょう(英語では同じ言葉になりますが)。私たちが毎日踏みしめている「大地」と「自分という人間」との関係性(地人相関性)を理解していくことが新しい地政学の出発点となります。
管理するものとしての「地球」をこえて
こうして「大地」との向き合い方を考えるとしても、これまで人間が痛めつけてきた「大地」をケアしていこう、と一致団結するという単純な話にならない点が悩ましいところです。一番わかりやすいテーマは「資本主義」への態度です。①「持続可能な開発目標(SDGs)」は、資本主義を維持しながら、改良をはかる漸進主義的な立場といえ、とりわけ日本で流行っていて、企業はこぞってSDGsを取り込んでいます。ガイアに対処する方法と言うとSDGsを想起する人もいるでしょう。②逆に、マルクス主義からエコロジーを考える立場からすれば、現行の資本主義をやめていくことが処方箋になっていきます。「大地」をケアするにも、①’資本主義を維持しながら改良をはかる漸進主義的な立場に立つのか、それとも②’資本主義をやめていくという立場に立つのか。そもそも「大地」のケアなどどうでもよいと考えている人との対立は想像しやすいと思いますが、「大地」のケアが大切だと考えている人の間でさえ、手法をめぐって深刻な対立があることが見えてきます。
ただ、どちらの立場にも共通しているのは、「地球/大地(Earth)」を管理の対象として見る視点です。上記のガイアの議論のように大地を「動き出している主体」とは見ません。管理対象として捉え続けると、いつまでたっても人間と大地との間の政治を考えようという発想にはなりません。このガイア論を受けて議論を展開した人類学者のブリュノ・ラトゥール[★04]★04は、「物質(thing)」があたかもヒトと同じように動く主体と捉える立場から、大地を「アニメート化する物質」として捉えます。逆に、あくまでヒトとモノの違いを峻別し、モノを管理対象と捉える立場に立てば、大地は「動かないモノ(=脱アニメート化された物質)」となります。
「地球」を管理対象と見る発想の起源の一つは、17世紀ヨーロッパの宗教戦争(30年戦争)に求められます。トマス・ホッブズは戦争が二度と起きないようにするために『リヴァイアサン』を執筆し、「社会契約論」を展開しました。そこでは政治から宗教的要素が取り除かれ(しかし、信仰としては各自の内面で実践されるという理解とともにです)、国家との関係で政治的決定を行う主体としての人間が立ち上げられます。他方で、この時期、科学的な研究も発展し、判断力を備えた人間が実験を通して「自然」を取り扱うことが定着していきます。こうして徐々に主体である「人間」と、客体である「自然」は分離し、両者の境界線ははっきりしていきます。
たしかに、一面で見れば政治的主体としての人間の立ち上げは、人間による権利のための闘争という地平を切り開き、国家による抑圧からの解放の象徴となる「人権」の誕生とその保障の歴史へとつながっていきますので、それ自体は言祝ぐべき事柄です。
しかし、それは結果的に所有権概念の確立とも相まって、権利が排他的に人間だけに付与されることを意味するようになり、「ヒトならざるものたち(動植物、大地、祖先など)」はそれよりも下に位置づけられていきます。この副作用たるや根深く、ノンヒューマンは道具的に捉えられ、管理対象として見なされ続けています。これが「ノン・ヒューマンと向き合う」ことがなかなか浸透しない背景と言えます。
プラネタリーに考え、テレストリアルに行動する
では、具体的に何ができるのか? 私は月並みですが、「大地に降り立つ(Down to Earth)」体験が重要だと思っています。頭でっかちにはならないように、大地に降り立って、水と空気の流れをつくれる人が育っていくこと。現在、大学で教鞭をとっていますが、油断すれば、すぐに大地から離れてしまいます。講義棟や研究室は、当然、建物の中にあります。PCやホワイトボードを使って、喧々諤々とディスカッションしますが、地に足がついていません。
そうした危機感から、2年ほど前から所属先の創価大学で自然体験型のフィールドワークの授業を立ち上げました。授業では、①まず、受講生のみなさんに呼吸する土とはどのようなものかをレクチャーを通して理解してもらいます。②加えて、『杜人(もりびと)――環境再生医 矢野智徳の挑戦』というドキュメンタリー映画を皆で鑑賞し、じっくりと質疑応答の時間をとって理解を深めます。③その後、実際に土の中で空気と水が流れるというのはどういうことなのかを学ぶために、実際にフィールドワークに入ります。昨今の学生はICTによって頭でインプットする情報は膨大ですが、身体をつうじて四季を感じるのが下手で、その体感から得られる知識も乏しいままとなります。解剖学者の養老孟司さんは『虫捕る子だけが生き残る――「脳化社会」の子どもたちに未来はあるのか』[★05]★05(小学館)という鼎談本の中で、こんなことを言っています。
数ある遊びの中でも虫捕りがなぜいいかというと、それはほぼ理想的に脳が回転するからです。感覚から入って、計算して、その結果が運動として出て、出た結果が再入力される。虫を見て、「いた!」と思ったら、筋肉を動かして、捕まえて、自分で調べて、標本を作って、考えて、また虫を見て……という具合に、インプットとアウトプットが連鎖しながらくるくる回り続ける。(『虫捕る子だけが生き残る』、43頁)
対照的に大学の教室での学びの多くは、静止した情報のインプット、のみです。この繰り返しで凝り固まったカチカチの頭をフィールドワークでほぐしていくわけです。その授業の中核を占めるフィールドワークですが2種類からなります。一つが、硬くなった土壌改善の作業。前回は、大地再生ネットワークさんにご協力いただき、東京国立にある「やぼろじ」という場所をお借りして大地の再生作業について教えてもらいました。もう一つが、キャンパスに隣接する「八王子滝山里山保全地域」という場所に入っていき、そこでの四季を感じるプログラムになります。どちらの活動でも虫や鳥などの生き物に遭遇する点は共通しています。
前者の土壌改善のフィールドワークの方は、カチカチに固まった大地にスコップで穴を穿ち、空気を入れながら炭(竹炭や燻炭など)を少しずつ入れ、微生物や菌糸が土の団粒化を促進してくれるような状態を作っていきます。すると、1週間も経たないうちに、モグラがその土地に戻ってきたのです。東京でも、ヒトが少し手を加えれば、大地が再生していくことを実感しました。

- 大地再生講座実践の様子
後者のフィールドワークでは、四季とは何かを理解するために、里山での田植えや下草取り、そして秋にはお米の収穫を自分たちでして、しかもそれをその場で炊いて食べます。そこでは「これが本当に東京のお米なのか?」、と学生たちはその美味しさに感激します。こういった大地に根ざした体験を積み重ねることにより自然への感覚を養っていきます。

- 稲を刈る学生たち

- お米に喜ぶ学生たち
気候変動問題を学び、絶望していた学生たちでしたが、どちらのフィールドワークでも、太陽と水と生き物と空気の「流れ」に触れていく中で、いつしか笑顔と充実感を得ていきました。
『天空の城ラピュタ』の主人公であるシータのこんな科白を思い出しました。
土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんの可哀想なロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ。
学生たちは、シータの科白を自分なりの体験の中で噛みしめていくわけです。かつて詩人の山尾三省は「たくさんの絵のコマをつないで生きているがごとくに画像を構成する」アニメーションは、「現代に再生されたアニマの世界、それが宮崎駿さんに象徴されるアニメーションという方法論なのだと思います」と述べていました[★06]★06。アニマとは、精霊、命、霊魂という意味が込められており、アニミズムはここにつながってくるのですが、さらに言えば、この視座は「大地」を「アニメート化する物質」と捉えるラトゥールの方法論とつながっていきます。
仏教の世界に「縁起」という言葉があります。縁りて起こる。縁に触れて反応して行動するといった意味合いです。矢野智徳さんは映画の中で「結」の大切さを語っています。生き物同士の結、ヒトと大地の結、里山に集まるヒトの結、そして五大(地水火風空)の結。「結」があるということは実に多様なつながりがあるということです。こうした結をつうじて、「命は流れの中にある」という状態を大切にできるのではないでしょうか。この「結」の理解は、政治理論でいうところの対決型の政治理解ではなく、誰かとともに何かを一緒に行うという協調型の政治として理解することができます。かつてハンナ・アーレントは他者とともに行動するとき、「権力(power)」は立ち現われてくるとしました。
前半ではガイアとヒトの関係はある種の暴力的な関係にあることを見てきました。これが惑星政治学のテーマであると伝えましたが、他方でアーレントの見る権力観はそのような対決型のものではなく、もっと「他者とともに活動を行っていく」ものになります。ノン・ヒューマンとの間でもそれを考え、実践することが可能だと捉えるのが惑星政治学のもう一つのテーマであり、里山での活動はその実践編になります。
「グローバルに考え、ローカルに行動する」はよく語られることですが、そこには罠があります。グローバルやローカルには、スケールの違いはあれど、どちらも人間の思考と活動のための「舞台背景」であるという暗黙の前提があります。これからは、地球表面を形成している「生息可能領域(habitable zone)」が命の流れを作り出していることを念頭に置きながら、「プラネタリーに考え、テレストリアル(大地)とともに行動する」時代にしていかなければなりません。みなさん、それぞれの足元から新しい時代を切り開いていきましょう。
★01 米国海洋大気庁(National Oceanic and Atmospheric Administration: NOAA)の以下のサイトを参照。https://gml.noaa.gov/webdata/ccgg/trends/co2_data_mlo.pdf ★02 詳しくは、「ウクライナ危機のいまこそ「惑星政治(プラネット・ポリティクス)」が必要だ」を参照ください(https://courrier.jp/news/archives/282873/) ★03 (1919-2022)。イギリスの科学者、環境学者。NASAの宇宙計画の共同研究者として火星の生命探査計画に参画したのがきっかけにして、地球を自己調整する1個の生命体とみなす「ガイア理論」を提唱。オゾン層破壊の解明に貢献するなど、温室効果ガスをめぐる気候変動問題に積極的に警鐘を鳴らした。2003年に大英帝国勲章を受章。主な著書に、『地球生命圏 ガイアの科学』工作舎)、『ガイア』(NTT出版)、『ノヴァセン』(NHK出版)などがある。 ★04 (1947 – 2022)。フランスの哲学者、人類学者。自然、人間、実験装置などを等しくアクターと見なすアクターネットワーク理論(ANT)を提唱。自然と社会の二元論を支柱とした近代のあり方を見直す哲学を展開し、地球環境問題の克服に向けた思想でも注目を集める。2013年にノルウェーのホルベア賞、2021年に京都賞の思想・芸術部門を受賞。主な著書に、『科学が作られているとき』(産業図書)や『虚構の近代』『地球に降り立つ』(ともに、新評論)。 ★05 養老 孟司, 池田 清彦, 奥本 大三郎『虫捕る子だけが生き残る――「脳化社会」の子どもたちに未来はあるのか』小学館、2008年 ★06 山尾三省『アニミズムという希望――講演録・琉球大学の五日間』野草社、2000年、12頁。新装版が、新泉社より2021年刊行。

- 前田幸男
- 1974年、神戸市生まれ。創価大学法学部教授。専門は政治学・国際関係論、平和学。創価大学文学部卒業後、2010年に国際基督教大学で博士(学術)号取得。同大学社会科学研究所助手、大阪経済法科大学法学部准教授を経て、現職。米国カリフォルニア大学ロサンゼルス校地理学部客員研究員(2023-2024)。英国ウォーリック大学高等研究所客員教授(2024-2025) 。学際的な視点で「惑星政治学」の構築に取り組む。著書に『「人新世」の惑星政治学――ヒトだけを見れば済む時代の終焉』(青土社、2023年)、『批判的安全保障論——アプローチとイシューを理解する』(共編著、法律文化社、2022年)など。訳書にリチャード・フォーク『パワー・シフト——新しい世界秩序に向かって』(共訳、岩波書店、2020年)など。
