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記憶という庭を世話する

記憶という庭を世話するの画像
写真:高橋宗正

インターネットは、かつて図書館や博物館のメタファーで語られていました。記録メディアの飛躍的な向上、さらにはオープンで集合知的なその性質によって、無限に記録と記憶が可能な開かれた情報環境が実現し、世界の共通のインフラが生まれる、かつてそんな夢が描かれていました。

しかしながら、めまぐるしく押し寄せる情報の波は、過去をまたたくまに押し流し、私たちの足場を時々刻々と組み替えています。さらには、精度の低い情報、偏った情報、誤った情報が流通し、情報環境の劣化、タコツボ化、汚染にもさらされています。いわば、記録も記憶もおぼつかない情報環境のなかで、私たちはこれからどのように、記憶を共有し、共同体を形成してゆけばいいのでしょうか?

本シリーズでは、「記憶のケア」というテーマのもと、わたしたちの情報環境を見つめ直します。最初に、記憶やアーカイブにかんする著書もある、編集委員の山本貴光さんに、シリーズの緒言をいただきました。

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Contents

    記憶はどこか庭に似ている。庭では、放っておいてもいろいろな植物が生え育ち、その様子は季節とともに変わってゆく。そこに人が、土を耕したり草を抜いたり種を蒔いたり苗を植えたりと手を加える。庭には、自然に変わってゆく要素と人為で手を加える要素とが混ざり合い、人が意図した状態と意図せざる状態とが生じては移ろってゆく。意図しない植物はしばしば「雑草」と呼ばれるわけだが、なにもせずにおけば、雑草だらけの草茫茫にもなるし、こまめに手を入れれば整った状態にもなる。そうかと思えば、あれこれ世話を焼いても、思い通りになるとは限らず、時とともに崩れたり変わったりして留まることがない。

    私たち人間の記憶もまた、意図した状態と意図せざる状態とが混ざり合ってできている。仕事の必要や試験前のように努めてものを覚えることもあれば、放っておいても日々の経験を通じてその気がなくてもなにかが記憶に残り忘れ去られていったりもする。加えてスマートフォンを通じたネット接続が日常となったいま、朝から晩まで各種のウェブやアプリを通じて、次々となにかしらが目や耳から入る。このとき、私たちの記憶にはなにが起きているのか。

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    「あのいい感じのシャツはどこで見たんだっけ。たしかInstagramだったけど、どこだったかな……」といいながら、タイムラインを遡る。いくつもの投稿を画面の外へと見送って、「うーん、記憶違いかな」と覚束なくなり、そう思いながらなおも画面のスワイプを続けると、やがて「あった!」と再会できたりできなかったりする。なにかを目にして気になったことは覚えていても、それを目にしたメディアのどこにあったのかとなるとぼんやりしてしまうことも多い。

    加えていえば、以前ウェブで見たものがいまでも残っているとも限らない。ある調査によれば、2013年前に存在したウェブページの38%は存在せず、2023年のウェブページのうち8%が削除されているという。少し前に読んだニュースを見直そうと思って再訪したら削除済みだったとか、サブスクしている音楽や映画サイトで気に入っていた曲や映画が利用不可になった、という経験がある向きも少なくないのではないか。

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    ところで、私は数日前にこの「ある調査」についての記事を読み、概要だけを覚えていた。いまお読みのこの文章を書くにあたって、正確を期すために読み直そうと思ったのだが、どこで読んだのかを覚えていない。閲覧してから今日までのあいだに何百というページ、何千という画像を目にしている。かといって購読している新聞やニュースのサイトを回って探すのは数も多いので現実的ではない。うーん、たしかTwitter(現X)かBlueskyで「いいね」をしたような気がする。というので探しても見つからない。結果的にはBlueskyでBookness and Therenessというアカウントによる投稿をリポストしていたことが分かった。その投稿は、COURRiER Japonに掲載された記事「10年前のウェブの約40%は「すでに存在しない」」(2024.05.29)という記事へのリンクを示したものだった。

    と、この経緯自体がややこしく、読むのも面倒なくらいだ。ややこしいついでにいえば、COURRiER Japon掲載のその記事は、Independent紙によるものである。そもそもネット上で目にするものには、どのアプリか、どのサイトか、どのページか、どのアカウントか、どの投稿か、どのリンクか、といった複数の要素が絡んでおり、少なくとも私の頭はこの絡みあった状態をそのまま記憶して「ここ」と覚えておくようにできていない。そこでたいていの場合、ネットで気になるものを見かけると、スクリーンショットを撮るかPDFでファイルにして手元に保存するようにしている。

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    もちろんなんでもかんでも見聞きしたものを覚えておくのがよい、という話ではない。ネット閲覧を含む日々の生活のなかで、ぜひとも覚えておきたいと思うものがどれくらいあるか分からないが、それにしても庭でいうところの雑草の勢いがものすごい。ちょっとネットを眺めて歩くだけで、覚えておきたいものがわさわさと草の向こうに隠れてしまう。

    それでもいいではないかといえばそうかもしれない。他方で、目下私たちが使い、作り続けているネットを中心とした情報環境を前提として、自分の庭をもう少し思うように造りたいと思う場合、どうしたらよいのだろうか。一言でいえば、記憶をどんなふうに世話するとよいだろうか。この特集では、そうした問題を頭の片隅に置いてあれこれと考えたり試してみたりするための手がかりを探ってみたい。

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    山本貴光やまもと・たかみつ
    文筆家、ゲーム作家。1971年生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。文筆家・ゲーム作家。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。コーエー(現コーエーテクモゲームス)にてゲーム制作に携わり、在職中から執筆活動を開始。1997年より吉川浩満と「哲学の劇場」を主宰。著書に、『文学のエコロジー』(講談社)『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『心脳問題』(吉川浩満と共著、朝日出版社)など多数。

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