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パラリンピック選手の驚きの脳#1ー義足のジャンパー、マルクス・レーム選手を調べてわかったこと

[2024/08/30 改訂]

義足のジャンパー、マルクス・レーム選手の脳を調べてわかったことの画像
写真: iStock.com/Mongkolchon Akesin

「もとーる」とは、岡山弁でからだの使い方が達者なこと。もとーる・ラボでは、知覚・身体科学研究者の柏野牧夫さんをラボ長に迎え、「うまくいく」からだを探っていく。

第1回目のゲストは、ニューロリハビリテーションの専門家であり、パラアスリートの脳と身体の研究に取り組む、東京大学の中澤公孝さん。中澤さんは以前、パラ陸上男子走り幅跳びで8m72の世界記録を持つ、ドイツのマルクス・レーム選手の脳を調べたことがある。そこから見えてきたのは、これまでの常識を打ち破るような驚くべき脳の姿だった。パリ・パラリンピック大会では、人類初となる9m超えのジャンプにも期待のかかるレーム選手。その驚異的なパフォーマンスに隠された脳のひみつに迫る。

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取材・文:田井中麻都佳

Contents

    突然、逆上がりができるようになるのは、
    脳の「可塑性」のおかげ

    ――お二人はご一緒に研究をされているとお聞きしました。

    柏野 はい。最初はJSTのCREST(2014-2020)、その後JSTの未来社会創造事業(2020-2023)で共同研究をしました。それだけではなく、年に1、2回程度ですが野球の試合を一緒にする仲間でもあって、10年くらい前に桑田真澄さん(元讀賣巨人軍二軍監督)をご紹介いただいたのも中澤先生なんですよ。桑田さんは中澤研に所属されていましたからね。中澤先生も私も、野球好き、スポーツ好きで、それが研究のモチベーションのひとつになっています。

    パラリンピック選手の脳のヒミツに迫る(前篇)の写真
    中澤公孝さん(左)と柏野牧夫さん(右)。

    スポーツがうまくなるというのは、筋力が強くなるとか、心肺機能が向上するとかいうように、身体の変化ももちろん関係しますが、それだけではなくて、身体を操る脳の方にも変化が起きています。この脳の変化、言い換えれば神経可塑性というのが、からだを自在に操る「もとーる」ことに本質的な役割を果たします。

    たとえば鉄棒の逆上がりができるようになった直前と直後で筋力が急激に変わったりはしないわけですが、いわゆる「コツ」、つまり持てる筋力をうまく使えるような身体の動かし方を脳が学習したということになります。逆に、筋力だけ鍛えても、パフォーマンスはむしろ低下することもあります。その筋力をうまく使えるように、あるいは重くなった身体を操れるように、脳が適応できていないわけです。

    ――からだのスペック自体は変わらないのに、昨日までできなかったことが急にできるようになる、というのは、考えてみれば不思議なことですよね。それはまさに脳の可塑性によるところが大きいわけですね。

    柏野 一口に脳の可塑性といってもいろいろありますが、一つ言えることは、その変化幅が驚くほど大きいということです。たとえば、視野の上下が反転される「逆さメガネ」を着けると、当初は当然上下逆さまに見えますが、それだけでなく、眼球や頭部の運動に連れて視界が大きく揺れ、吐き気さえ催すほどです。しかし2、3週間もそのまま暮らすと自然に生活できるようになり、ついには自転車に乗れるほどまでになる。ある意味、新しい身体に、脳が適応したということになります。

    中澤先生が研究されてきた、身体障害に伴うリハビリテーションも脳の可塑性を抜きには語れません。それが最もドラスティックに現れるのが、現在研究されているパラリンピック選手の脳というわけです。

    左右の脳が同時に活動する!?
    マルクス・レーム選手の不思議な脳

    ――中澤先生は、2021年に、ご著書『パラリンピックブレイン』(東京大学出版会)を上梓されました。どういういきさつで、障害を持つ方の脳の研究を始められたのでしょうか。

    中澤 5〜6年ほど前に、あるテレビ局の番組制作に関わったのがきっかけです。このとき調べたのが、マルクス・レームという、右脚のひざ下が義足のパラリンピック走り幅跳びの選手でした。ご存じかもしれませんが、彼は8mを超える跳躍で世界を驚かせたトップアスリートで、2023年に8m72cmという驚異的な世界記録を打ち立て、いまや健常者の世界記録(8m95cm)を超えるのではないかと言われています。このとき初めて、義足選手の脳を、機能的脳画像検査法(fMRI)を用いて調べました。

    検査自体は単純なものです。足首や膝、股関節をそれぞれ動かしてもらい、fMRIを使って活動する脳の一次運動野の活動領域を調べるという実験です。具体的には、MRIのガントリーに仰向けに寝てもらい、左右の下肢の関節まわりの筋肉をそれぞれ一定のペースで動かしていただきます。ちなみに、切断して失われた右の足首の関節については、あたかも足首が存在しているかのようにイメージしてもらいました。

    パラリンピック選手の脳のヒミツに迫る(前篇)の写真
    マルクス・レーム選手

    ――つまり、本当は右の足首は存在しないけれど、頭のなかで存在しているイメージで動かしてもらったわけですね?

    中澤 そうです。その結果、驚くような結果が得られたのです。通常、脚の筋肉を動かすと、右脚であれば左側、左脚であれば右側の脳が活動するという、いわゆる交叉性支配が形成されています。ところが計測の結果、レームの場合、義足につながっている膝関節を動かすとき、左側だけでなく、右側の運動野も同時に活動していることがわかったんですね。つまり「両側支配」が認められた、というわけです。これには非常に驚きました。

    ちなみに、欠損している右足首を動かすようにイメージしてもらうと、左側の運動野が活動するという、いわゆる一般的な活動パターンが見られました(図1)。

    パラリンピック選手の脳のヒミツに迫る(前篇)の写真
    図1 レームが下肢関節周囲筋を収縮させたときに活動がみられた脳領域。義足側膝関節周囲筋の活動時にのみ両側性の運動野活動が観察された。

    この時点では、これがレーム選手に特有の現象なのか、それとも義足のアスリートに共通する現象なのかわかりませんでした。そこで次に、単に義足を使用している人(つまりアスリートではない人)のグループと、健常者の走り幅跳びの選手を調べてみたところ、やはり両側支配は認められませんでした。

    パラリンピック選手の脳のヒミツに迫る(前篇)の写真
    図2 両側性の運動野活動が認められたのは、レームの義足側膝関節のみだった。

    そこからさらに詳しく調べようと、レームとは別の義足の走り高跳びのアスリート(S選手)を調べてみたところ、レームと同様に、義足と接続している関節を動かす際に、脳の両方の運動野が活動していることがわかったのです。しかも、通常、健常者には見られることのない、右の脳から右半身を動かす(左の脳であれば左半身を動かす)「同側皮質脊髄路[★01]★01」が使われているということもわかってきました。

    これらの実験から見えてきたのは、義足を使って長い間スポーツをしている人、つまり日常生活にはないような特殊な運動スキルを訓練によって身につけている人の場合、健常者とは脳が大きく異なる、ということでした。

    パラリンピック選手の脳のヒミツに迫る(前篇)の写真
    図3 走り高跳びのS選手と一般健常者の比較。

    柏野 それはすごいですね。脳の使い方が劇的に変わるというか、本来の使い方を超えて使えるものは最大限使うというか。

    中澤 そうなんですよ。そこでさらに大腿義足と言って、膝関節がなく、太腿から脚を切断した重い障害のあるアスリートを調べてみたところ、またしても驚くべきことが判明したのです。この方の場合、切断した脚を動かすときだけでなく、切断していないほうの下肢を動かす際にも、両側の脳が活動することがわかり、たいへん驚きました。

    障害のある方というのは、トレーニング法も健常者とは大きく異なるんですね。つまり、切断していないほうの足を相当に鍛えないといけない。とりわけ、片側大腿切断の場合はとくに、切断していないほうの脚の役割が増します。切断していないほうの脚に頼らざるを得ない、ということなのでしょう。だから、この結果を見たこのアスリートの方は、「非常に納得できる」とおっしゃっていました。

    もっとも、この結果は一例しかありませんので、現状は仮説の域を出ません。競技によっても結果はちがってくると思います。とはいえやはり、片側大腿切断アスリートの場合、切断していないほうの脚の動きがパフォーマンスの向上に決定的に重要な役割を果たしていることはまちがないでしょう。そして、そうした特殊なスポーツスキルを身につけるために厳しいトレーニングを積んだ結果として、切断していないほうの足を動かす際にも両側支配という特殊な脳の姿を形成することになったのだろうと推測しています。

    うまくなるには癖を「壊す」プロセスが必要なのかも

    ――脚を動かす際に、脳の両側が活動するということは、脳をたくさん使っている、言い換えれば脳のリソースをたくさん使うということですよね。そのことが、パフォーマンス向上につながっているのでしょうか。

    中澤 そこはまだよくわかっていません。確かに脳のリソースをたくさん使うというのは、活性度が上がることでもあるし、ある意味では効率が悪いとも言えます。いずれにせよ、驚異的なスキル習得のためのトレーニングの賜物であることはまちがいないでしょう。もっとも、それが技能の向上にどれくらい関係があるのか、現状はなんとも言えません。そもそも、両側支配だとおかしなことになる、という研究論文もあるんですよ。

    ――おかしなこと、というのは?

    中澤 脚を切断して、義足をつけて歩くトレーニングをすると、最初のうちは急激に脳の状態が変わるんですね。とくに初期は、脳の両側の活性度が上がることがわかっていて、一カ月ほどして退院するときの歩き方を調べてみると、脳の両側の活動が高い人ほど「歩容がいびつになる」という報告があるのです。

    柏野 その状態を超えていくということなんじゃないですかね?

    中澤 うん、私もそう考えているんだけどね。

    柏野 つまり、現状で間に合っているときには、それ以上の能力を獲得する必要はありませんよね。たとえ怪我をしても、その状態でなんとか日常の動作をこなすことができれば、新しくスキルを獲得する必要はないでしょう。ところが、それではまったく間に合わないようなスキル、たとえば脚を切断して義足で歩くとか、さらに義足で走り高跳びをやろうなどとすれば、日常生活の動作の延長線上では到底できないわけで、まったく新しいスキルを獲得しなければなりません。そのスキルの獲得のプロセスにおいて、これまでの状態をいったん壊して、新しく脳と身体のつながりをつくり変えていく必要があるんじゃないかと思うのです。

    パラリンピック選手の脳のヒミツに迫る(前篇)の写真

    中澤 おそらくそういうことでしょうね。これまで、足を切断された一般の方の脳の変化を追う研究はありましたが、アスリートのような特殊なトレーニングをしている人については調べられてきませんでした。そこを、われわれは継続的に調べようとしています。それぞれの競技に特有のトレーニングを継続していくなかで、脳活動にどういった変化が起こるのか、またそれがパフォーマンスにどう影響を及ぼすのかということを、より詳しく見ていきたいと考えています。

    柏野 こういう変化というのは、われわれのような一般人でもちょっと思い当たるふしがありますよね。私自身、10年以上投球練習を続けてきて、練習を始めた当初と現在とでは、身体の使い方がまったく変わったと感じています。側から見れば、さほど大きく変わったようには感じられないかもしれませんが、自分のなかではまったく違った意識と感覚で投げている。

    たとえば、投げる時に気にしているのは、軸足の右脚に体重を乗せてから、左脚に乗せ替えて上体を回転させるタイミング。これをなるべく遅くするようにということをもっぱらチェックしています。そのかわり、投球腕である右腕への意識はなるべく消すようにしている。以前とは意識の配分が違います。

    そもそも技能の上達のプロセスで重要なのは、染み付いている自分の癖を壊すことだと思うんですね。癖を抑えるというのは非常に難しくて、やっと克服したと思っても、ふとした瞬間に出てきてしまいますからね。

    中澤 わかる、わかる! それ、すごくよくわかります。

    柏野 たとえば、本番であがってしまったり、体調が悪かったりすると、昔の感覚に戻ってしまうことがよくあります。さっきの例で言えば、上体が回転し始めるタイミングが早くなる。しかも、そのことに、本人は気づいていないことが多い。トレーニングを積んで、新しいモデルを脳のなかにつくっていったとしても、前の強固なモデルがある以上、ふとした瞬間にそれが出てきてしまうから、やはり、古いモデルを壊してつくり変えることが必要なんじゃないかと思うのです。あるいは、いままでの癖を出さないように強く抑え込むために脳が変わる必要があるのだろうと、自分自身、長く投球の練習を続けてきて実感しています。

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    ★01 大脳皮質の運動野から脊髄を経て骨格筋を動かす神経線維の束のこと。

    中澤公孝なかざわ・きみたか
    東京大学大学院総合文化研究科教授。1962年生まれ。1985年、金沢大学教育学部卒業。1991年、東京大学大学院教育学研究科博士課程修了・国立障害者リハビリテーションセンター研究所運動機能系障害研究部長を経て、2009年より現職。著書に、『歩行のニューロリハビリテーション』(杏林書院、2010年)、『健康・運動の科学』(共編、講談社、2010年) 『パラリンピック・ブレイン』(東京大学出版会、2021年)がある。
    柏野牧夫かしの・まきお
    知覚・身体科学研究者。NTTフェロー。1964年生まれ。1989年東京大学大学院修士課程修了。博士(心理学)。著書に『音のイリュージョン~知覚を生み出す脳の戦略~』(岩波書店、2010)、『空耳の科学-だまされる耳 聞き分ける脳』(ヤマハミュージックメディア、2012) 他。趣味は野球と歌謡曲(どちらも鑑賞と実践)。

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