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アーカイヴとウェブ上の記憶をめぐる作業日誌#1

アーカイヴとウェブ上の記憶をめぐる作業日誌①の画像

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    1月15日(月):これから作業日誌をつけてみようと思う。

     「DISTANCE.mediaで連載をするのはいかがでしょう」と編集部に提案したら、「それはいいですね」というので、打ち合わせをする中で「日誌はいかが」というアイデアを頂戴した。それはいいなと思って、早速とりくんでみることにした。

     なにしろ日誌はざっくばらんに書けるのがよい。どちらかといえば進行中の仕事などについて、そのつど考えたことや思い浮かんだこと、悩んでいることなどを書きつけて、断章を重ねてゆくスタイルだ。

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    1月19日(金):日誌という形式には馴染みがある。

     昔、ゲーム会社でゲーム開発に携わっていたころ、日々なにをしたかを記録していた。なぜそんなことをするのか。1本のゲームを半年とか1年くらいの時間をかけてつくっていると、実にたくさんの課題やトラブルに遭遇する。また、そのつど思いつくことがある。それらを日々、簡単にスケッチしておくような感じで書き留めておくわけだ。そうしておかないと、つい昨日や先週のことがすぐに分からなくなってしまう。

     人間とは面白いもので、ほんの少しでも言葉で書いておくと、後日それを目にするだけで、書いていないことまでいろいろ思い出せる。記憶を呼び戻すにはきっかけが必要なのだ。また、そのつど言葉にしてみることで、頭も整理できたりする。もっともこれは、後で思い出したいアイデアなどについてのことで、なんでもかんでも思い出せばよいということではない。

     以上は、日誌を書く人の側からの話だった。読む人にとってはどうか。誰かの日記を読む面白さに似たなにかを味わってもらえたらいいなと思う。この日誌がそうなるかは分からないけれど。

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    1月24日(水):つい日誌という形式について言葉を重ねた。

     肝心の、なんについての日誌なのかをまだ述べていない。大まかにいえば、ここ、DISTANCE.mediaで進めているアーカイヴ・プロジェクトについて、それからこのサイトのインターフェイスやユーザー体験について考えたり試したりしていることについてつらつらと書いてみるつもり。

     DISTANCE.mediaでは、かつてNTT出版が発行していた雑誌『InterCommunication』(全66号、1992-2008)の記事をデジタル化して公開するアーカイヴを構築している。このプロジェクトについて、この際だからあれこれ考えてみたいことがあるのだった。というのも、これまでいろいろなデジタル・アーカイヴを使ってみて、「もっとこうなっているといいのにな」と感じることが少なくなかった。せっかく厖大なデータを公開して、みなが閲覧できるようにするなら、使い勝手のよいものにしたい。と、そんなことを考えている。

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    1月30日(火):ところで、『InterCommunication』誌が創刊された1992年といえば、日本にもインターネットの環境が構築されて、そろそろ広がっていこうかという前夜のような頃だ。

     当時私は大学生で、たまさか日本でも早くからインターネット環境が整備されたキャンパスに通っていた。というよりも、特に勉強したいことがあったわけではなく、そのコンピュータ環境を目当てに選んだのだった。

     『InterCommunication』は1992年発行の第0号から読んでいた。アートとサイエンスとテクノロジー、そして社会の交わるところで生じつつあること、少し先の未来を垣間見させてくれるような誌面を毎号楽しみにしていたのを覚えている。その頃はまだまだ雑誌が元気だったように思う。

     大学や図書館、書店を通じていろんな分野の雑誌があることを知り、できるだけ幅広く目を通そうと思い立ったのもその頃だった。自然科学、数学、プログラム、ファッション、哲学、現代思想、文学、法学、経済学、政治、音楽、美術、論壇(左右を問わず)、漫画、アニメ、映画、ゲームなど、そういえば手当たり次第に雑誌を読んでいた。

     雑誌は一つひとつの記事が比較的短いのと、思わぬものに出会えるのがいい。目当ての記事を読もうと手にした雑誌で、それまで知らなかったことを教えられ、興味を持つようになった、という経験を何度したか分からない。

     そんなこともあって、いまでも自分の興味の所在とは関係なく、これと決めた雑誌は毎号目を通すようにしている。ちょっとかっこうをつけて言えば、自分の狭い関心の壁を破壊してもらうためでもある。

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    2月3日(土):インターネットが普及して、ネット上に各種のウェブサイトができるようになるにつれ、雑誌は衰退の途を辿っているようでもある。

     ただ、ネットを日常的に使うようになった現在から振り返ると、雑誌にはもう一つとても重要な利点があると感じられる。一言でいえば、限りがあるところだ。

     限られた数の紙束のそれぞれのページに印刷できる文字やら図版やらには自ずと限りがある。それぞれの雑誌の編集者は、この制限の下で掲載するものとしないものを取捨選択しており、また、それを並べる順を決めなければならない。つまり編集が効いている。

     これに対してネットは玉石混交(石多め)で無際限といってよい。それはそれで楽しいものだが、ノイズが多すぎても疲れる。特にネット上で商業や経済活動が広がって以降は、どこへ行っても広告(動画も多い)が表示され、落ち着かない場所が増えている。

     誰かが半ば冗談で、「紙の本は読んでも読んでも広告が表示されないからすごい」と言っていたのを見かけたことがある。ほんと、そうだよなと思う。関心がない広告なら表示されても無視すればよいという発想もあろうけれど、目の端に入るだけで十分気が散るものだ。読みたい文章を掲載しているサイトでも、広告の表示頻度が高いと読むのを断念してしまう。

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    2月7日(水):デジタル環境でものを読むことについては、考えてみたいことがいろいろとある。

     電子書籍にしろ、ウェブサイトにしろ、PDFにしろ、かなり使い込んで馴染んでいるほうだと思うけれど、ものを読み書きするための道具としては、まだβ版の状態だと感じている。

     もちろん、現状で満足だという向きもあるだろう。それはそれでよいとして、他方でもっと快適な読字環境をつくれるはず、という思いもあるのだった。というのは、長年本とコンピュータの双方に付きあってきての実感でもある。

     デジタル環境は、なんというか、人間がコンピュータに合わせている部分がまだまだ多い気がしている。

    つづく

    山本貴光やまもと・たかみつ
    文筆家、ゲーム作家。1971年生まれ。東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。コーエー(現コーエーテクモゲームス)にてゲーム制作に携わり、在職中から執筆活動を開始。1997年より吉川浩満と「哲学の劇場」を主宰。著書に、『文学のエコロジー』(講談社)『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『心脳問題』(吉川浩満と共著、朝日出版社)など多数。

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