F1-5
「弱いロボット」と考える、共生のインタラクション
自律と他律の距離
豊橋駅から車で20分ほど、市街地を抜け、緩やかな坂道を上っていく。日本一の輸入車陸揚げ港である三河湾と、太平洋とにはさまれた小高い丘の上に豊橋技術科学大学がある。豊かな自然に囲まれたこの場所に、知る人ぞ知るユニークなロボットたちがうごめいている。
「弱いロボット」と名付けられたそのロボットたちは、人の手を借りながら行動する、いわば「一人ではなにもできない」ロボットだ。自分ではゴミを拾えないが、周囲の手助けを上手に引き出しながらゴミを拾い集める〈ゴミ箱ロボット〉、昔話を喋りながら途中で物忘れをしてしまう〈トーキング・ボーンズ〉。開発を主導している岡田美智男さんは、「弱いロボット」を通じて、人とロボットとの関係性を見つめてきた。
2023年5月、「DISTANCE.media」の編集委員であるドミニク・チェンは、岡田さんの研究室を訪ねた。ドミニクは、人と会話できるぬか床サイボーグ〈Nukabot〉の開発者でもあり、そこには「弱いロボット」の大きな影響があると言う。
人とロボットは、そして人と人は、弱さでつながりあうことはできるのか。「弱いメディア」を志向する本メディアは、ロボットの「弱さ」からどんなヒントをもらえるのだろうか。「弱さ」をめぐって語り合う。
構成:山本ぽてと
写真:高橋宗正
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Contents
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- 岡田研究室(ICD-LAB)のシンボルにもなっている〈Muu(む~)〉。目の動きと、「む~」「むむ~」の言葉だけを返すシンプルなロボットであるゆえに、「えっ、何を考えているの」と思わず寄り添ってしまう魅力がある。
物忘れをするロボット
岡田 この本(『未来をつくる言葉――わかりあえなさをつなぐために』)、面白いですよね。
ドミニク ありがとうございます。
岡田 ここで紹介されている「タイプトレース」(キーボードで文章を書く過程を記録し、再生する技術)を見て、僕も似たようなものを考えていたなと。すっかり忘れていたんですけど、思い出しました。特許を書いたのは2004年なんですが、電子メールを書いているときの試行錯誤の様子も相手に伝えちゃおうと。
ドミニク えー!
岡田 同じですよね。
ドミニク 岡田先生の方が早いですよね。これは特許ですか。
岡田 特許です。本当にすっかり忘れていて、本を読んで思い出した(笑)。
ドミニク なんと!
岡田 だからドミニクさんとは似たような関心があるんだなぁって、嬉しくなりました。
ドミニク 僕の研究では「共話」が一つのキーワードになっていて、岡田先生が研究されている「弱いロボット」も共話的なロボットであると感じています。
岡田 昔から「共同想起対話」(Joint Remembering Dialogue)に関心があるんですよ。たとえば、僕らは日常生活で、昨日見た映画や、テレビのシナリオを2人で話しながら思い出すことがありますよね。お互いに、ユニゾンしたり、なぞったり、引き取ったりしながら、お互いに交互に一つのストーリーを喋っていく。
ドミニク まさに「共話」ですね。思い出しながら、という意味で言うと、文化人類学者の川田順造さんが西アフリカのモシ族の人々のところで観察された、みんなでおとぎ話を思い出しながら話し合う夜会のことも思い出します。
岡田 1986年頃にエドワーズとミドルトンがその現象に「Joint Remembering Dialogue」と名付け分析していました。日本では佐々木正人先生なども生態学的な想起論ということで着目されてましたし、京都大学の谷泰先生が主催されていた「コミュニケーションの自然誌」という研究会がありまして、そこでも同様な議論されていたんですよね。
ドミニク すごく学際的な集まりであったと聞いたことがあります。動物行動学や人間の会話分析が専門の細馬宏通先生や、人類学者の木村大治先生、そしてもちろん岡田先生もいて。
岡田 そうですね。僕はかつて関西にある国際電気通信基礎技術研究所(ATR)に勤めていたので、誘われて勉強会に参加していたんです。他にも霊長類学から人類学までやっていた菅原和孝さん、エスノメストロジーをしている串田秀也さん、さまざまな人が集まっていて面白かったですね。
それで、彼らのユニゾン的な同時発話の現象や共同想起対話の議論を横で聞いていると、僕はロボットに実装したくなっちゃう(笑)。じゃあ映画のストーリーを思い出しながら二人で喋る共同想起対話を、ロボットと人間でやってみたらどうなるのか。人とロボットとが対等に想起しあうところにはまだまだ届かないんですが、そこから物忘れをするロボット〈トーキング・ボーンズ〉が生まれました。物忘れをしてしまうから、人間が自然に話を補完して、共同想起対話のようになるのではないかと。

- 〈トーキング・ボーンズ〉は「えーと、なんだっけ?」と言いながら、桃太郎のストーリーを話す。「川から流れてきたのはなんだっけ?」という質問に「梨」と答えるドミニク
ドミニク ちなみに、僕が共話について関心を持ったのは、能のお稽古のときでした。能の先生である安田登さんから、能には共話があるというのを教えていただきました。シテとワキがフレーズを一つずつ付け足しながら台詞を完成させていく箇所がさまざまな曲のなかにあるんですね。いろいろと調べていくうちに、これはデジタルコミュニケーションでできていないことばかりだと思いました。
と言うのも、SNSでは文章が確定した状態で共有されますね。文字が書かれるときの「言い淀み」はなかったことにされ、固定化された文章だけが残っていく。一方で「タイプトレース」では「言い淀み」も含めた不完全さが記録されるからこそ、読者は自己を投影でき「共に在る」感覚を抱きます。
岡田 「タイプトレース」の発想は、自分の考えているプロセスそのものを外に見せてしまうというものですよね。書き直したり考えたり、止まってしまったり。その部分も周りに開示する。
喋るときもそうですが、僕たちは自分の考えを整理してから相手に伝えるように育てられてきたと思うんです。言い淀みながら喋ることはフォーマルな場ではなかなかないですし、文章だったらなおさら書き直した跡なんか見えない。だからこそ、書き淀みながら喋るプロセスを相手に見せるのは、自分を全部見せているような感じがあります。弱いところまで見せている感覚。そこが面白いですよね。
僕たちが興味を持ってきたのは、子どもの言葉足らずな発話です。小学校から帰ってきたばかりの子どもが、お母さんに「今日面白かった」って言ってとりあえず喋ろうとする。で、お母さんは「何をしてたの」って言って助け舟を出す。「積み木遊びした」「誰と遊んだの」「ソラちゃんと遊んだよ」「楽しかった?」「楽しかった!」 と。言葉足らずな子どもの発言を、うまくお母さんが支えてあげる。その支えを子どもは自分のなかに引き込んで、一緒になってお母さんと情景をつくりあげる。そうした発話のスタイルがすごく面白いなと思っていました。
子どもが過不足なく「今日は○○ちゃんと積み木遊びをして楽しかった」と言うよりは、お母さんとのコミュニケーションが豊かな感じ、共話を志向しあっている感じがする。
ドミニク そうした弱さを見せる行為が、「共につくる」とか「共に存る」感覚を生んでいるんじゃないかと思います。
岡田先生と同じ「コミュニケーションの自然誌研究会」にいらっしゃった木村大治先生は「共在感覚」という概念を構築されていますよね。アフリカのボンガンド族の人々は、壁をはさんで向こう側、つまり隣の人がこっちの会話にいきなり入ってきて一緒に笑うのだといいます。そして自宅から150m以内に住んでいる人には挨拶をしないらしい。その範囲の人たちは「共に在る」感覚だからです。
木村先生は、そうした「共に在る」感覚が、文化やコミュニケーションの作法によって伸び縮みすると分析されているのが面白いですね。分断を生みやすいSNSを考えるうえで、共在感覚という視点は有効なのではないかなと僕は思っているんです。
相手に委ねた会話
ドミニク 僕がコミュニケーションに執拗にこだわるのは、一つは多言語環境のなかで育ってきて、子どもの頃はうまく自己表現ができずに、アイデンティティクライシスにあったからです。
それと同時に、吃音が出てきて、ここぞというときに、なかなか言葉が出てこないもどかしさがありました。あるとき、美学者の伊藤亜紗さんに、どもりについてのインタビューを受け、世の中には吃音で苦労している方がたくさんいることを知るきっかけになって。そこで一度、自分の悩みが相対化された感じがありました。
さらに、子どもが生まれたら、言葉足らずな娘が、なんだかもぞもぞして、言いたそうだけど言えていない感じがあるんですよね。吃音ではないけれど、恥ずかしさだったり、失敗する怖さだったり、いろんな理由で、自分の言いたいことが表出できていないんだと思って。つまり、吃音的な状況は吃音者にだけではなく、誰にでもあることなのかもしれないと思ったんです。
そこから、たとえ自然言語が話せて「わかりあえる」と思っていたとしても、人にとっては実は「わかりあえない」ことがデフォルトなんじゃないかと、考えるようになってきました。すべて言えなかったとしても、「すべて言えないことがある」ということ自体が共有できているとすごく励みになり、助けになるんじゃないかと。
岡田 ドミニクさんの本に、「リアルタイムな反応を強いる身体的コミュニケーションの世界と異なり、自分のペースで時間をかけて記述することは、それ自体が大きな安らぎの源泉だった」と書いてあったので、すごく共感しました。
僕は生まれが東北なんですよ。東北生まれはけっこう口が重いので、口下手な人が多いんです。僕も喋るときにどこか抑えてしまう。だからいつも我慢しているような感覚が自分のなかにあって、コンプレックスだったんです。
口の重い人間が、関西の職場で働くことになったんです。そしたら、同僚がものすごいお喋りなんですよ。関西の喋りっていうのは、本当に日常のなかが漫才みたいな感じで。
ドミニク ふふふ(笑)。
岡田 あれを見たときにすごいなと思った。東北生まれの僕は、きちんと自分のなかで考えてから相手に喋ろうとする傾向が強くて、思ったことをひょいっと喋ることに心理的な抵抗があったんです。でも自己完結していたら、お喋りにならないんですよ。
ボケるときって、相手のツッコミを予定してボケているわけでしょう。自分が言葉を放り出すときに、自分の言葉がどういう意味で捉えられるのかわからない状態で、放り出す。きちんと相手が受けて、支えて、意味づけをしてくれると思って、相手に半ば委ねているわけです。
ドミニク ああ、たしかに。
岡田 それで相手に委ねることを基本としたコミュニケーションシステムをコンピュータでつくってみたいなと思いました。まずコンピュータは言い淀まないし、相手に委ねることをしない。今のChatGPTも完璧な言葉を相手にボンと投げ出しているわけです。そうすると、相手は置いてけぼりになっちゃうんです。
そうして生まれたのが相手の目を気にしながらオドオドと話そうとする〈トーキング・アリー〉です。相手の目線がこっちを向いているときには喋って、目線が外れたときには「えっとー、あのー」とちょっと言い淀んだり、言い直したりして、相手の様子を伺っている。間合いを取って、制御の一部を聞き手に委ねていて、聞き手に支えてもらうわけです。
ドミニク 僕が〈トーキング・アリー〉から目をそらすと、そらしたことを検知して「えっと、あのー」って言ってくると。
岡田 相手の視線が戻ってくると、それに合わせてまた情報を小出しにする。そうすると言い淀みや言い直しのある発話になるんですが、相手の状態に合わせているので、聞き手を置いてけぼりにしません。相手の状態に合わせて、情報を出すタイミングを図っていたり、発話内容を選んでいる。それがやさしさのようにも感じられる。聞き手の方もちょっと参加してみようとエンゲージメントも高まります。
ドミニク 僕たちは話すときに、相手に届けると同時に、自分で自分の言ったことが聞こえて、その至らなさに思わず赤面するとか、なんでこんな幼稚な言葉しか出てこないんだろうと思う。それが言い淀みの正体ですよね。常に自分で自分の発した言葉の音を聞かざるをえないから。でもChatGPTとか生成AIっていうのは声を持たないから、そういうフィードバックループを持たない文章生成しかできないのかもしれない。
岡田 それで今は、このシステムを利用しながら、ChatGPTの発話をもうちょっとアジャイルにできないかと研究室の学生さんたちと考えてます。ブリコラージュ(Bricolage)という言葉がありますよね。
ドミニク ええ。レヴィ=ストロースですね。
岡田 ブリコラージュとは、ありあわせをうまく組み合わせながら、その場をしのいでいくというような意味なんですが、発話なんかも、ある意味ではありあわせなんじゃないかと。とりあえず暫定的な発話を発してみて、自分の思っていたイメージとズレてしまったり、相手になかなかわかってもらえないと、言葉を継ぎ足していく。自分が持っているいろんな素材をありあわせながら発話をつくっていく。そういう発話生成のプロセスを僕らは、モノローグとかダイアローグのあいだにあるものとして「ブリコローグ(bricologue)」って呼んでます。
ドミニク ブリコローグ! 語感がかわいいし、人が話すことの本質を言い当てている言葉ですね!
岡田 ブリコローグ的な発話をすると、アジャイルに継ぎ足し継ぎ足し、思いついたものを話しながら、相手の表情を見ながらまた継ぎ足していくことになる。
ブリコローグの内容自体はなんでもいいんですけどね。新聞記事の内容を引用しても、ChatGPTから出力されたテキストでもいい。文章を発話片にバラして、大事なところだけポンと喋って、相手の反応によってまた付け加えていくような喋り方をしたらもっと人間らしくなるかなと。人間が思いつきで喋るような感じです。
ドミニク 視線や表情などいろんなものを見ながら。
岡田 私たちのコミュニケーションでは、相手の知っていることをわざわざ話すとなんだか変に聞こえてしまいますよね。「あなたはこれを知らないだろうけれども」と言っているように聞こえてカチンとくる。だから相手の知っていることは喋らないのは基本なんだけど、ChatGPTは喋りすぎてしまっているから、「なんだこいつ」といつも思うんです。もうちょっと言葉足らずでアジャイルなChataGPTにできないかなと。
今日はこの対談の前に、ドミニクさんの研究について、僕の研究室の学生さんに話してもらいましたよね。ドミニクさんもつくっている〈Nukabot〉にGPT-3を実装していて、僕たちは似たようなことを議論しているんだなと思いましたね。
ドミニク 〈Nukabot〉も共話ができるようになりたいと考えていますね。今日、岡田研究室の学生さんから、まさに相槌や声の重ね合わせを今の音声認識モデルでどうつくるのかという質問がありました。「いいコンピュータを使っているけれど、反応に400ミリセカンドかかっちゃうんですけど」と。われわれ技術設計をやっている人間も、既存の技術をさまざまに組み合わせている。ブリコラージュだなと思いましたね。

- 岡田研究室のメンバーと意見交換をするドミニク。「共話できる弱いロボットをつくるためには、強いコンピュータが必要?」と言った冗談も飛び出した。
岡田 そうですね。
ドミニク 「ブリコローグ」か、いやぁ、面白いですね。でもそれって僕たちが喋っているやり方そのままですよね。今こうやって、台本なく喋っているのもブリコローグと言えますよね。
岡田 その方が人間的なコミュニケーションになっていそうな気がします。きちんとした文章にしてから相手に伝えるとなんか肩苦しい感じになっちゃうんだけど、人間は思いついたままポンポンポンと出して、少しずつ精緻化するような形の喋り方を実際はしていますよね。
ドミニク ここまでお話を聞いて来て、タイピングのプロセスをそのまま見せたり、言葉足らずにすることだったり、弱さを開示する発想って、ある種の礼儀正しさのようなものに近い気がしました。
弱さはだらしなさという意味ではなく、謙虚さみたいなものと密接につながっている。「自分にはどうしてもできないことがある」と開示するのと、ポーカーフェイスで知ったかぶりで「あ、それですよね。はいはい」という態度でやるのか。弱いってことは謙虚であることなんでしょうね。
ロボットと身体
岡田 〈Nukabot〉って、あのボソボソ喋る感じがいいですよね。
ドミニク 妖怪っぽいですよね。
岡田 ChatGPTがやっているのは、「こういう質問が来たら、多くの人はこういう答え方をするだろう」と予測しているだけで、その言葉の意味がわかっているわけではない。そこに心があって、お互い折り合いをつけながら会話をしている感じはしません。
ただ〈Nukabot〉はちゃんと言葉の意味が実際にグラウンディング(grounding)されているのがいいですよね。ぬか床の状態がまずあって、「かき混ぜてほしい」と言ってくる。伝達意図がはっきりしているから心を通わせることができる。
ドミニク グラウンデッドってすごく大事ですよね。日本語だとなんて言えばいいんだろう。
岡田 接地されているとか、基盤化されるとか?
ドミニク 基盤化されるとか、その場に根ざしてるっていうことですよね。situated、状況に埋め込まれた、とも言いますね。
岡田 僕らがつくった〈ペラット〉というロボットは、バランスを取るためにフラフラしていて、ぶつかりそうになったり倒れそうになると「おおお!」と声を出します。思わず目が離せなくなる。あれはロボットの身体と言葉がつながった感じがします。

- 〈ペラット〉は前後によろよろと動き、すぐに倒れそうになるので、思わずみんなで支えたくなってしまう
ドミニク 身体があるのは大切ですよね。相手も身体がある〈ペラット〉くんみたいなものを見ると、自分と同じ形だと思って、倒れようとしていると自分ごととして受け止められる。
岡田 身体があることでグラウンドされる。自分の身体の状態を言葉として表出しているから、人に届くようなソーシャルな意味を持つ。〈Nukabot〉も同様で、自分のぬか床の状態をちゃんと言葉として表出しているから、言葉に意味があって、コミュニケーションが自然な形になっていると思うんです。でもなかなか今の人工知能との会話はそこまで到達していない。言葉がちゃんと世の中にグラウンドされていないからです。
ドミニク 岡田先生が以前、あるインタビュー(「頼りなさが生み出すもの――弱いロボットのちから」)のなかで、ぬいぐるみのロボットを抱っこして話しかけているおばあちゃんを見て、ロボット研究者として申し訳ないことをしてしまってるんじゃないかと感じたお話をしていて、すごくよくわかるなと思いました。
アメリカではグリーフケアの産業で、亡くなった高齢の夫のメールなどを学習させ、遺族がその人と会話が続けられるAIを開発しているのを見たことがあります。そのニュースを見て、岡田先生がおっしゃっていた申し訳なさと同種の違和感を持ちました。人間がロボットに心を感じることと、ロボットに心が実際に宿ることのあいだには大きな開きがある。
岡田 思わず心を感じてしまうようなロボットをつくるのは、意外とできてしまう。それは心があると人に思わせているわけだから、ある意味で欺いているわけです。どうやって上手に欺くのかを研究するのはちょっといやらしいなと思う。
もっと心を持った状態で言葉が表出できればいいんだけど、今の時点のChatGPTはうわべだけの表層的なやりとりです。「おはよう」と言ったら「おはよう」と答えるし「今日は元気?」と聞いたら、それらしいことを答えることもできる。それはこういう文脈ではこういう答え方をすることが多いから、答えておこうというだけの話です。心を通わせることはできないし、心を通わせていると人間が思い込んでいるだけなので。それは嫌だなと。
ドミニク 〈Nukabot〉も会話システムそのものを、もっとグラウンデッドなものにできないか考えています。
まずはその場の人とどのような会話をしているのかを疑似学習しながら関係性によって変調していくことができると面白い。数ヶ月一緒に生活するとだんだん僕っぽく喋るやつが出てくるとか、環境との関係性でグラウンドしていくことをやってみようと思っています。ぬか床自体が腐っているときと発酵しているときの声質が異なるということも試しています。時間と共に複雑化していくにはどうしたらいいのか考えていますね。ぬか床は中身が日々すごく変化してるのに、〈Nukabot〉というシステムが変わらないのは変な感じがしてます。
岡田 人間の目を気にしながらオドオドと喋る〈トーキング・アリー〉は、ニュースソースを使っています。ロボットは言葉の意味を理解できていないけれど、でも世の中にあるニュースは知っていて、それを一生懸命伝えようとしているという前提があるんですね。意味はわからないけれど、引用をしながら「伝えようとする気持ち」はある。聞いている相手の視線があるかどうかで発言するのかどうかを変えると、一生懸命伝えようとする意志のようなものはグラウンドされるかなと思ったんです。
もうひとつ、三体で会話している〈Namida0〉というロボットもあるのですが、言葉足らずで喋ったものを他のロボットが「それはどういうこと」って聞き直したり、途中で引き取って喋ることで、分けあって喋る雰囲気をつくる。その情報をみんなで一生懸命伝えようとする状況をつくり出そうとはしているんですけど。でもロボットは意味を知っているわけではない。悲しいですよね。そのあたりはね。

- 「開催された……」「秋田県で……」「そうそう……」3体でひそひそと話をする〈Namida0〉たち。思わず耳を近づけて聞いてみたくなる。
たぶんChatGPTとかディープラーニングなんかも、自分が今何を喋ろうとしててどういう状態にあって喋ってるかは、自分で説明できないし。
ドミニク まったくわかってないですね。
岡田 そういうものを相手におばあちゃんが一生懸命ね、やりとりしている姿を見るのは嫌だなと。
やっぱり、ChatGPTなんかは喋りすぎちゃっていますよね。でも実際は、〈Nukabot〉のように言葉足らずでボソボソっとしたほうがすごく人間味がある感じがする。
ドミニク 必ずしもたくさん情報を喋ることがいいことではない。岡田先生たちの〈トウフ〉を見ても同じことを感じました。今日見せていただいたときには、ふたつのモードがあって、最初のモードでは、言葉にならない音を出しながら震えている。次のモードのときは僕の喋った言葉に対して言葉のようなものを返している。でも意味のない音を出しながら震えている方が、「こういう意味かもしれない」「喜んでるのかもしれない」と、人間側の見立てを誘発するなと思いました。

- 〈トウフ〉はマイクの音に反応してプルプルと動き、言葉にならない音を出す。「自分の子どもが赤ちゃんだったときを思い出す」とドミニク
先日、知人の人工知能研究者が、基本的にGPTは、バージョンが上がれば上がるほどつまらなくなると言っていました。不確実性がどんどんなくなっていく感じがあると。
〈Nukabot〉ではGPT‐3を使って、双方向のお喋りができるようになりました。GPT-3では「プロンプトエンジニアリング」と言って、前置きの文章を指定することができます。それで内部処理では〈Nukabot〉的な人格の前置きを毎回かませています。人間的な考え方をしない存在でという、非人間的な人格の前提を置いて、テキストを喋らせてるんです。
そのときも、喋ることをあまり饒舌にさせない方がいいという気づきがありました。ついこの間、日々〈Nukabot〉と接してくれている人たちから、「GPTになってからすごい喋るようになって、逆にロボットっぽく感じて、生き物とか妖怪らしさが減った気がする」と言われたんです。GPTを使いながらボソボソと喋らせるっていうのもありかもしれない。極端に字数を減らすとか、無口なGPTにしてみる。やっぱり、喋りすぎですよね。GPTは。
「たどり着いちゃった」幸せ
ドミニク 僕はこの「弱いロボット」の議論を出発点として、「弱いSNS」「弱いコミュニケーション」「弱いインターネット」というふうに、弱さを当てていかないと、どんどんシステムが壊れちゃうような気がするんですよね。これから「DISTANCE.media」という新しいメディアができるのですが、ここでは遠くを見渡そうというビジョンがあるんです。遠くを見るためには、岡田先生の研究されている「弱さ」がすごく重要になってくるように思います。
岡田 今のメディアやコミュニケーションには、計画しすぎているし、将来を見通して、全部つくりこみすぎちゃってるところがあると思っています。もっと自由度を残しながらその状況状況に合わせていき、やっていくうちにその自由度を減じていく方法の方が、情報として長持ちするような気がする。
ドミニク アジャイルな方が情報として長持ちする?
岡田 意味がどんどん長持ちするかなって。あまりにもつくりこんだ情報を将来まで残そうとする感じがあるんだけど、その意味とか価値っていうのはそのときの状況状況によってどんどん変わってしまうはずなんですよね。もう少し暫定的なあり方というか、環境や時代のなかで、それが意味づけられて、新たな価値が生まれ育ち、結果として遠くまで届くようなやり方もあるのかな。
ドミニク 遠くをしっかりと見据えようとしすぎると、計画主義的になってガチガチになってしまうけれども……。
岡田 それだと意味としてあまり遠くまで届かない。後世まで届かないみたいな感じもあるのかな。
ドミニク なんかそういう言葉を聞くと、たとえば研究っていうものについても同じことが言えるのかなってちょっと思ってきました。
岡田 僕はね、研究計画書、あれがあんまり好きじゃない。たとえば3年間の研究計画を立てなさいって。あれが一番苦手なんですけど、なかなか立てられないですよね。
ドミニク 立てられないですね(笑)。
岡田 そのときそのときのいいとこ取りをして、研究の中身って進化していくもんだと思うんです。それは目的を持ったものじゃなくて、その場その場でつくられるものだから。3年後どういう方向に流れていくかっていうのを、あまり予測したくない。だから授業なんかでも、学生の顔を見る前にシラバスをつくるのはあまり好きじゃない。
ドミニク すごくわかります。
岡田 だって顔を見なきゃどういう情報を提供したらいいかわからない。授業をしながら、学生の反応を見て、じゃあどういう話をしようかと考える方が、本当は面白いはずなんだけど。計画的に合理的にやるのがいいという価値観に影響されすぎているなと思いますね。ゴールを決めるよりも、そのときの面白いものを組み合わせていったら、意外と面白いものにたどり着いちゃったっていうやり方を僕はしたいなと。
ドミニク 「たどり着いちゃった」っていう。
岡田 たどり着こうと思ってやっていたわけじゃないんだけど、いいとこ取りをしたらたどり着いてしまったと。それもブリコラージュですよね。
エンジニアリングの発想は、目の前にある社会的な課題を解決するために、最適な理論を探し、最適な設計をし、素材を集め、効率よく問題の解決を図ろうとする。ですが新たなモノを生み出していくときって、将来を見通せないところがあります。人材も寄せ集めですし、そのときにある技術のありあわせでやっていく。そこで結果としてつくりあげられたものが面白かったり、3年くらい続けてみたら意外といい感じになっていく。そっちの方が研究していて幸せなんですよね。
ドミニク よくわかりますね。〈Nukabot〉も完全にブリコラージュでやってきました。そうした意図のしなさも、先生の研究に共通しているように思いました。思わず手を差し伸べてしまう、思いがけず声をかけてしまう弱いロボットと、今おっしゃった先々まで計画せずに気がついたら「たどり着いちゃった」感じ、と言いますか。
岡田 それが一番幸せな仕事の仕方だと思っています。だから学生にも「こんな研究をしなさい」とミッションを落としたくない。その時々に面白いものを組み合わせたら、意外と面白い発想が生まれて来る方が健全な感じがしますね。
だからメディアも計画的につくりこんだ形で、相手にどのような情報を届けようか試行錯誤して完璧なものをポンと載せるよりも、いろんな人がツッコめて、議論を引き起こしていくなかで、たどり着いちゃうようなやり方もあるんじゃないかな……。抽象的ですけどね。
ドミニク 遠くを見据えたいのであれば、逆にゴールを設定しない方がいいのかもしれない。もっとお互いがお互いの弱い部分にツッコミあって支えられて、前のめりによろけながら進んでいった方が、遠くまで長い時間残るものが生まれてくるんじゃないか。この「DISTANCE.media」にとってもすごく大事な指針をいただいてしまった気がしておののいています。
岡田 結果として情報としてしなやかさを持つ、レジリエントな情報というのがあるのかもしれないですね。カチッとしたものよりは、場面場面で意味を変えながら、しなやかに主張が残っていくような。
ドミニク 非常に共感しました。それはいわゆる今現時点での「工学的」な発想ではないですよね。
岡田 やっぱりお金を出す方は安心なんですよね。「3年後にこういう結果が出てくるんだったら応援してあげよう」という話だと思うんです。
ドミニク でもそんなに安心できるところにお金をベットしてもイノベーションは起こらないとも思いますね。
岡田 戦後日本のものづくりを考えても、物がない、技術がないときに、ありあわせでつくったものから面白いものが生まれてきたケースがけっこうあって。たとえば本田宗一郎さんは戦後にバタバタと呼ばれるものをつくりました。旧陸軍から手に入れた小型エンジンと、さち夫人の湯たんぽをガソリンのタンクにして、自転車に組み合わせてエンジンつき自転車をつくった。
ドミニク 完全にブリコラージュですね。
岡田 それがスーパーカブにつながり、ホンダの繁栄をつくった。そうしたブリコラージュ的なところから、今でいうイノベーションがどんどん起こってきたわけです。
最近はお金をかけて優秀な人を集めて計画すれば、イノベーションが起こるんじゃないかという発想で、研究計画書を書かせて新しいものを生み出しなさいという……ちょっとメディアの話とは離れちゃいましたが。
ドミニク 今は計画主義的なところがありますが、もしかしたら次世代の工学の合理性は、アジャイルさやレジリエンスのようなところに宿ってくるのかもしれません。

- 豊橋技術科学大学は高専出身者が大半を占める。「高専生は受験がない分、一芸を極めたオタクになりやすい。研究室ではそれぞれの学生が得意なことを組み合わせながら面白いものができあがっていく」と岡田さん)
「予約しすぎる」私たち
ドミニク インターネットが今やわれわれの現実の大きな一部を担うようになっていますよね。特にSNSには、ユーザーが商品化している問題があります。たとえば某国の前大統領は、どれだけコミュニティ・ガイドラインを違反してもなかなか追放されなかった。それは、皮肉にも、彼がものすごい広告収益を稼いでいたからでしょう。それがロールモデルになって迷惑な行動を起こすYouTuberとかTikTokerが出てくる。とにかく注目を集めることが、ある種の社会資本的な強さとなって人間の行動を規定するようになっています。
このように人間の方もテクノロジーとの接点において変わっていくわけですが、たとえば岡田先生の弱いロボットと普段一緒に暮らしていたらまた全然違う変化を人間はしていくと思うんですよね。〈Nukabot〉と暮らしているうちに、微生物の存在を気になっていくというように、だんだんその人自身にも変化してほしいと思っています。先生も「弱い」ロボットの研究を通して人間との付き合い方が変わったようなことはありますか?
岡田 ロボットの研究というよりも、日常のしょうもない話なんですけど……。コロナの前にドイツにいく用事があって、フランクフルトの空港についたら、泊まる予定のホテルの名前をメモしていないことに気づいたんですよ。スマホで確認しようとしたらローミング設定がされていなくて、インターネットが使えない。
まったく情報がないなかで街のなかをうろうろしてしまった。夕方の街のなかを歩きながら、ちょっと心が折れそうになったんですよ。仕方がないので、たまたま目に入ったホテルに飛び込んで、インターネットを借りたら、それが泊まる予定のホテルだった……。
ドミニク すごい偶然。
岡田 なぜ心が折れそうになったのか考えると、今はインターネットがあるから、事前に予約ができて、自分のなかで自己完結できるようになったからです。今は地球の裏側に行くのでも、宿やタクシーを予約したりする。でも昔の安い宿なんかは、当日に飛び込みで行けば空いていたわけです。その場に委ねることができた。それが豊かさだったはず。
でも今は経済的な合理性の観点から空き部屋の率をできるだけ下げて、インターネットで予約することが前提になっています。それが結果として脆弱性を生んでいる。あるいは心が折れてしまうような場面をつくってしまう。
インターネットはすごいかもしれませんが、社会のレジリエンスもそういった形で低下しているのではないかなと感じましたね。経済的合理性に、インターネットが拍車をかけている。まぁ、屁理屈なのかもしれないけど。なんで心が折れなきゃいけないんだ! って思ったときに、「予約しすぎている、つまり自分のなかだけですべてを完結しようとしていたからなんだ」って気づいたんです。
ドミニク たしかに、スマホ以前は、僕も大学時代にはアメリカを紙の地図を持ちながら車で旅したりしていましたが、今GPSやカーナビなしで同じことをしろ言われたら、たぶん心が折れるだろうな……。
岡田 今の旅行って、事前にマップで確認して、「ここに行こう」ともう決めてしまう。あれだとフィルターバブルと同じようなことになりますよね。一歩踏み出して隣を見てみようとはなりづらいんじゃないか。
ドミニク さきほどお話した計画書主義が、個人の行動にも降りてきていると。
岡田 自己完結していること、自己責任でなんでもできることがいいことであると。自分であらかじめ備えようとする傾向が強くなっています。メディアがそれをさらにエンパワーする。そうすると他人がちょっとしくじったりすると、「なんでちゃんと備えておかないの!」と、厳しくなってしまうんですよね。自分のなかにも弱いところがあると自覚できれば、人に対してもその弱さをおもんばかることができる。ちょっと助けてあげようという話しになると思うんですよね。
だから「弱いロボット」は、自分のなかであまりつくりこまない、情報を全部持たない、自己完結せずに周りに半ば委ねつつ行動をしていく考え方です。
ドミニク メディアがまさに悪い意味でエンパワー、というか助長していますよね。そう思うと、僕たちが喋りながら感じているおぼつかなさを表現できるような文章メディアを考えなければいけない。
たとえば、こうした対談を文章にして記事を載せるときに、僕たちは確認をして校正をします。そのときによく起こるのは、一人が書き足しはじめて、そうするとそれを見た別の人が書き足して、どんどん長くなっていく(笑)。
岡田 ああいった記事は、書き足しているもんなんですね。
ドミニク 書き足してしまうことはありますね。一人の書き足しが他の人たちの書き足しを誘発してしまうところもある。これは弱さを受け入れていない気がする。
岡田 断片断片のやりとりがリズミカルで面白かったのに、全部自分で表現しちゃおうとするんですね。
ドミニク そうなんですよ。コントロールしたくなってしまう。
岡田 『ロボット――共生に向けたインタラクション』(東京大学出版会)を出したときに、ニコライ・ベルンシュタインについて、いろいろと勉強していました。
ベルンシュタインの話を簡単にまとめると、僕らは進化の過程で複雑な環境に適応するために、柔軟性があって多様な動作ができる身体を選び取ってきた。でもその柔軟性や多様性と引き換えに、身体は自分のなかでは抱えきれないほどの冗長な自由度を持ってしまった。だから自らでは律することのできない冗長な自由度を、環境によって制約してもらっている。たとえば私たちは、歩くときには地面に委ねながら支えてもらい、一緒になって身体を動かしています。こうした概念がすごく腑に落ちたんです。
言葉も同じだと思います。子どもとお母さんの言葉足らずな発話は、「今日、楽しかった」と解釈の自由度がすごく広い言葉をお母さんにぶつけていますよね。冗長な自由度を含んでいるとも言える。お母さんはその自由度をちょっと制約してあげて、言葉の冗長度を少しずつ減らしながら言葉の意味を明確にしていく。これを共同作業としてやっている。
だからメディアでも、最初から自由度をかっちりさせた情報よりも、折り合いをつけながら意味を絞り込んでいくのも面白いんじゃないか。
ドミニク 面白いですね。私たちが読む記事はだいたい完成したもので、動かないものになっている。もう折り合いも、擦り合わせもできない状態です。でもすべての記事がドラフトであるという発想だと、読者からのコメントやツッコミが入り、著者がどう反応するのかのプロセスも見せてしまうという。
意地悪なコメントばかり来たら苦しいですが、気持ちのいいコメントが来たら嬉しいですよね。僕が研究者っていいなって思えるのは、気持ちのいい学会や研究会に出たときです。厳しいけれど、ありがたい質問もありますが、逆に肯定的なんだけど毒にもならないコメントもある。ありがたみは何かと考えたときに、共同作業しているかどうかの感覚だと思うんですよね。
チキンラーメンのくぼみ
岡田 そうそう、チキンラーメンにくぼみってありますよね。麵のところにくぼみがあって、生卵をのせると、卵が流れ出ないようにカバーしてくれるような形になっている。でもあそこに卵をのせろと強制されているわけではない。自由なんですよね。他のものをのせたってかまわない。今日はネギをのせてみようかなと、いろんな工夫を引き出す余白になっているのだと思います。
そうしたいろんな人の工夫や創意工夫を引き出すようなものを、僕らは「クリエイティビティポケット」と呼んでいるんですけど、あそこのくぼみが「自分だけ感」をつくり出す余白になっているんですよ。
チキンラーメンが美味しいのは、ラーメンにもともとあった美味しさと、自分の工夫とのコラボレーションがあるからです。そこで関係性や有能感や自律性がうまくコンバインされて、「ああ美味しかったな」「なんだか嬉しいな」という感じをつくり出す。そのきっかけとして、あのくぼみがある。
僕らが〈トーキング・ボーンズ〉でやっている「あれ、なんだっけ、あれ、あれ」と言いながら物語を喋っているとき、物忘れをしている部分も一種のくぼみなんですよね。
そこを手伝っても手伝わなくてもいい。ちょっと手伝ってあげると、貢献できた気持ちになって、結果としてロボットと人間とのあいだにつながっている感じが生まれる。「なんだか嬉しい」「なんだか幸せ」という感じをつくりあげる。共同作業を生み出すうえでも、あの余白やくぼみがすごく面白い感じがしますね。
ドミニク さきほども共同想起対話のお話のときに少し話しましたが、川田順造さんの『口頭伝承論』(平凡社ライブラリー)のなかに出てくる、西アフリカのモシ族という人たちの話をあらためて思い出しました。夜な夜な村の集会で集まっておとぎ話をみんなで話すソアスガというイベントがあると。
そこでは最初の語り部が「今日のおとぎ話はこうで、こうで」と話すのですが、物忘れをする。「なんだっけ?」と言っていると、聴衆のうちの一人が「いやいや、○○でしょう」と助け舟を出して、そうすると次第にみんなで語り合うようになっていく。その集会が村の人たちにとっての最大の娯楽であり、連帯感を確認する場であるのだと。
そこでも最初の語り部が忘れたり、言い淀んだりすること自体が余白になって、そこから共話的なコミュニケーションが生まれていっている。この様子を見て、川田先生は「共に」シンクロニシティを意味する「シン」と、「言葉」を意味する「ローグ」を組み合わせて、「シンローグ」(synlogue)と呼びました。共話という言葉の英語として「シンローグ」がぴったりだと僕は思いましたね。
岡田 共話的なメディアってなかなかないですけど、うまい形で参加しながら、みんなで意味を育てていくような……
ドミニク チキンラーメンのくぼみがあるウェブサイトって何ですかね。そこにみんなで卵もネギも投入できるくぼみって。
岡田 Twitterの140字、ああいう限定された場は言葉足らずになるからこそ、誰かがちょっと補完しなきゃいけない。だからみんなの参加でタイムラインができていく。よくできてるなと思いますね。
ドミニク たしかに。今はお金を払ってる人は、3000字近く書けてしまうので、その良さがだんだんとなくなっちゃってますよね。最初は、Twitterは俳句なんて言われてましたから、長文にしていたら今ほど広まらなかったと思いますね。
ですから、冗長な自由度に対する適切な制約があるなかでクリエイティビティが生まれるポケットがあるといいな。ブラウザにチキンラーメンのくぼみがドーンって書いてって、そこにテキストやファイルを投入できるとか?(笑)。
岡田 ちょっとした面白いキーワードを放り込めるとか。
ドミニク それをみんなで育てている感覚が生じる場ができるとよいですね。まだまだお話したいことがたくさんありますが、今日はありがたい気づきを本当にたくさんいただきました。ありがとうございました!

- 岡田美智男
- 1960年福島県生まれ。豊橋技術科学大学情報・知能工学系教授。工学博士。一九八七年、東北大学大学院工学研究科博士後期課程修了。工学博士。NTT基礎研究所、国際電気通信基礎技術研究所などを経て、二〇〇六年より現職。専門は、コミュニケーションの認知科学、社会的ロボティクス、ヒューマン・ロボットインタラクション。主な著書に『弱いロボット』(医学書院)、『ロボットの悲しみ』(共編著、新曜社)など。

- ドミニク・チェン
- 情報学研究者。1981年生まれ。博士(学際情報学)。早稲田大学文学学術院教授(表象・メディア論系コース)。NTT ICC(Inter Communication Center) 研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て現職。Ferment Media Researchを主宰し、人と技術と自然存在の関係性を研究している。著書に『未来をつくる言葉』(新潮社)、『電脳のレリギオ』(NTT出版)など多数。写真:Takaya Sakano






