IC20-24

消えていく音

[掲載日:]

余韻が長く、唸りを含む楽器、
たとえば、磬子、金剛鈴、
インドの鈴や小シンバルなどを響かせて、
余韻が消えていくのをきく。
音の渦は、空中の見えない孔に吸い込まれて、
その辺りの空気をいくらかかき乱し、
音と音でないものが交錯し、
いつか音はそこからなくなっている。
音がなくなったことに気づいても、
しばらくは、めざめた耳の意識がたゆたっている。

このように、現象のはじまりよりは、
消えていく瞬間に意識をあつめ、
よびさまされた意識のほうに注意を向けて、
それを持続させようとする。

見えにくいものに眼をこらし、
ききとりにくい音に耳を澄ますとき、
心が澄んでいるのに気づく。
そこには観ているものもいないし、
対象はすでになく、
観るというはたらきも消滅している。

だが、なにかをしているとき、
たとえば楽器を演奏しているときは、
こうはいかない。
手がうごくたびに、意識がゆれうごき、
外に拡散していく。
音をつくろうとする意志が、
演奏者という主体をつくりだす。

舞踊のように何もない空間をすすむ身体なら、
自分の手の先を見ているだけで、
うごきが自然と統合されることもあるだろう。
楽器演奏の場合は、楽器にさわる手を見ることは、
手を身体から切り離して外側に出してしまう危険、
音をつくる運動を内側から感じられなくなる危険がある。
演奏者は、自分の手を見ないように訓練されることが多い。

手を見るのではなく、手を感じること。
視覚や聴覚とちがって、身体感覚は中断することがなく、
手を感じると同様に、頭や、脊椎を感じることができるし、
身体のうごきとともに、
それを見ている意識に気づくこともできて、
うごきの細部がわかってくると同時に、
意識はかえって対象にまきこまれない距離まで離れていく。
手の感触を意識する、それだけに集中する技法がある。

その前提となるのは、姿勢の安定だ。
どこにも緊張し、縮まっている箇所がないように
整えられた身体は軽くなり、
しずまり、墜ちていく。
呼吸が楽になり、それからかすかになっていく。
空中に吊上げられた、無重力でからっぽの頭の下に、
帆のように張られた脊椎が浮いている。
肋骨の蔭で、肺がゆるやかにはためく。
帆の両端に肩と肘がぶらさがり、
その先端で、手がうごいている。
力ではなく、ゆらぎが手のうごきを準備する。
手は楽器に吹きつけられ、舞い上がり、したたる。
その手を感じていると、
その蔭に息が寄り添っているのがわかる。
呼吸は途絶えることなく、心をつなぎとめる錨となって、
身体と意識の透明な波を見まもっている。

ここには変化する指の感触があり、
音は、それをつくろうとする意志から切り離され、
生まれ、色褪せ、消えていく。
指の意識、音の意識は、それぞれの変化を感じ、
感じるままに、そこにある。
生まれた音は生まれたままに、
色褪せる音は色褪せるままに、
消えていく音は消えるままに、
どうしようもなく、ただすぎていく。

だが、この状態をたもつことは、たいへんむずかしい。
この技法は、獲得するよりは捨てること、
することよりは、しないこと、
つかうことよりは、つかわないこと、
ちかづくよりは、はなれることによっている。
意識がなにもしない状態でいられるだろうか。

まず、呼吸を忘れる瞬間がある。
いったん呼吸を見失ったら、
意識はたちまち糸の切れた凧のように、
どこかへさまよい出ていく。
身体の統合が解体し、
それと同時に音楽のバランスもくずれる。
力と意志があらわれる。
力は、流れるエネルギーをせきとめ、
身体のあちこちに、また音楽にも結節をつくりだす。
音を制御し、支配しようとする意志は、
音を数珠玉のような、あるいは杖のような、
硬直した不透明な外部の実体に変える。
そして、内部にはみたされることのない衝動が生まれる。
それを創造力と言おうか、存在の不安と言おうか、
ヴィジョンと言い、イメージと呼ぶか、
この自己増殖し、拡散していく欲望と幻想は、
音楽を世俗化し、発展させ、音楽史をつくりだしてきた。

手の音楽にもどるためには、
イメージや思考から、意識を手にひきもどすことを
たえず思い出さなければならない。
一瞬実現された感触は、
気がつくと、すでに失われている。
実現されたと感じること自体、よけいなことだ。
転落しつづけ、やりなおしつづけるのが、
音楽の演奏のじっさいのありさまで、
わかっていてもできない、あるいは、
わかっているために、かえってできない、
訓練と学習のプロセスが、音楽家の生活というものだ。
それにも限界がある。

近年は音楽家の友人たちが、病に倒れ、
死んでいくのを見てきた。
そのとき、仕事がなんのたすけになるだろう。
音楽は、生のプロセスを変えることはできない。
水牛楽団のころ、
音楽は社会を変える力はないと知ったときのように、
それを知っても、音楽をやめることはできなかった。
それは、やはり執着というものだろう。
だが、身体がうごかなくなり、
心もはたらかなくなるときは、かならず来る。
それも、遠くない将来に。
人間が一個の呼吸器になってしまうとき、
音楽ではなく、ただ生きることそのものが
最期の訓練と学習の場になるのだろうか。

(たかはし ゆうじ・作曲)

Recommend おすすめ記事