IC14-39

再閑話休題 いまさらのモダニズム

[掲載日:]

モダニズムの再検討、未完のモダニズム、
何をしようというのか。
東京で「ブーレーズ・フェスティバル」というものがあった。
現代音楽もよい演奏者によれば、クラシック並みに売れること、
ヨーロッパ現代音楽の主流がいまでも音楽の中心であるべきこと、
さらにその中心がブーレーズであるべきことを、
ジャパン・マネーによって日本人に教えてくれるための
ありがたい企画だった。
フランスのナショナリズムは十年前から巻き返しを計っている。
外国人を追い出し、あいも変わらぬ文化官僚の権力闘争がつづく。
フランス哲学とは、ドイツから輸入され、舌の回転数だけが加速されたものだった。
フランス美術は、貧しいスペイン人やロシア人が
さらに貧しいアラブ人やアフリカ人の文化からつくりあげたものだった。
フランス音楽はほとんど存在しない。
パリに亡命した外国人の音楽でなければ、
そのどれかをとって官僚化したものだ。
フランスではだれもが法王になりたがる。
反対派でさえ、自前のアカデミーをもちたがる。
ブルトン、アラゴン、サルトル、ラカン、ブーレーズ、等々。

1950年代のモダニズムはいまや採算のとれる商品になった。
それを論じるのもよいだろう。
だが、どこに立ってどんなことばでそれをするのか。
1968年頃、パリの本屋で見つけたアルチュセールの『資本論を読む』で、
ヘーゲル的本質論がタマネギの芯のようなものであることをまなんだ。
それ以外は忘れてしまった。
アルチュセールの他の本は、解釈学にすぎないように思われた。
マルクス、フロイト、スピノザが書く行為と、
かれらについて書かれたことばとはちがう。
解放された思想と、思想からの解放はおなじではない。
解放は芯をもたない。ハード・コア、
芯というと、膿の中心にあって手に触れるしこりを連想する。
思考を分泌するしこりがある。
それは、核となる概念とは限らない。たとえば、
思想家だって職業として大学を選ぶことはあるだろうが、
自覚しないうちに、それが思考の芯になることもある。
小杉武久の作品に「長い紐を自分の身体で巻取っていく」
というのがある。
うごけばうごくほどしばられていく。
身体は紐の芯に限りなく近づく。
追放され、亡命した人間たちの考えたことを、
制度として解釈する、すくなくとも、そこに意味の芯を見つけようとすれば、
ますます自分がしばられてゆく。
しかも、アルチュセールの場合は、芯は二つあった、
アカデミズムと共産党。

モダニズムをモダニズムのことばで論じることには
おのずから限界がある。それができるというなら、
自分の靴紐をひっぱりあげて、空中浮揚することもできるだろう。
1990年代が1930年代をくりかえしているとか、
現代をフォルマリズムで解くとか、
非ヘーゲル的に再定義した理念ということばをかかげることには、
(だれに頼まれているのか知らないが、)時代を憂える姿勢がある。
(ここでまた思い出すのは、
「世界をよくしようとすれば、かえって事態をわるくする」という
ケージの日記のタイトル、これはケージが母親に言われたことばだったと、
どこかで読んだ記憶がある。)
しかし、それはアカデミズムというものだ。
自分のつかうことばによって、
自分が批判しているはずの対象に帰属してしまうのだ。
昔読んだアブラム・モールの本には、
フロギストンということばを捨てて、酸素ということばをつかった時に、
化学が生まれた、と書いてあったが、
解釈学はその反対に、古い皮袋に新しい酒をいれようとする。
(そして、化学はことばとともに、新しい対象を発見したが、
発見の連鎖に頼って前進した時はすぎ、
いまや組み替えによる発明の時代だ。
名付けによって世界が生まれる創世期は終わり、
構造式のなかに閉じられた領域は、梗塞に向かう。
組み合わせによって鎖を無限延長しても膠着状態から脱出できないならば、
次には、ことばを再定義して視点を変えようとする。
ここに囚われている状態こそ、そのまま解放であるのか。
だが、それは内面化であり、選ばれた人にだけ見える世界像だ。)

破壊者、歴史の天使。かれは分析による理解はしない。
意味の制度だとされるものに無意味の堆積しか見ないから。
予言もしない。見えるのは未来ではなく、からまった過去でしかない。
一つのものを、それでないすべてのものの集まりとして観る。
そこには一もなく、したがって多もない。
かれは同意しない。
したがって反対もしない。あらわれているものについて、
一方の側に立つのではなく、
これでもなく、あれでもないと、言いつづけるだけだ。
言いつづけながら離れてゆく。だが、どこへゆくのでもない。

ソクラテスが無知のふりをしただけだったら、
弁証法はうまれなかったろう。
ナーガールジュナが主張をもっていたら、
相互依存する生起は見えなかっただろう。
知識から理解はうまれない。
さらに、判断中止がなければ、現象学もなく、
かっこにいれることなくして、方法論はない。
なぜなら、方法とは絶対的なものではなく、仮の足場、
例外を前提とする規則にすぎないからだ。
だが、暖炉の前にねころんで夢見ることは、
そこから生まれたデカルト哲学よりもひらかれている。
レンズみがきは、スピノザを哲学から解放する。
これらの方が、むしろ方法とよばれるのにふさわしい。
世界を観る方法、世界とともに生きる方法だ。
観る人は世界のなかにはいない。
世界の外にもいない。
地球をうごかすためには、
アルキメデスのように外に足場をもたなければならない。
上もなく下もない宇宙空間で、
うごかすことと、うごかされることには、区別がない。
うごかす人は、努力のはてに、それとは知らず流される。

観ることは、身を引くことだ。
仮象として、影として、ヴェールとして観る、あるいは、
かたちの微細面を観る、とさまざまに言われているここには、
見つめてつなぎとめられる対象もなく、
視点を変えるといっても、どこかに移動するというよりは、
いままでの視点、あるいはすべての「視点」を離れることに、
アクセントがおかれている。
反復再現する世界の危機を妄想するよりは、
ペルシャ絨毯の反復される模様の一点に欠損を発見する(ベンヤミン)か、
籠の網目の一箇所を魂の出入り口として編み残す(ボアズ)ことの方が、
可能性の空間をひらくためには有効だろう。

(たかはし ゆうじ・作曲)

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