IC9-42

閑話休題 知の枷

[掲載日:]

(「コンピュータ音楽(その2)」は、3月にパリで
UPICシステムをつかって作業をしながら書こう
と思ったが、それでは期日に間に合わない。そこで)
浅田彰の『「歴史の終わり」と世紀末の世界』は
11人の知識人との対話集だが、
これを読んで奇妙に思ったことをいくつか。

ここに登場する知識人はほとんどがヨーロッパ人であり、
ヨーロッパ中心主義がくりかえし批判されるにもかかわらず、
ヨーロッパの外を見る視点はやはりヨーロッパ人のものでしかない。
パレスチナ人サイードと、おそらくジジェクを除いて、
外部からの視点が存在することを意識しているものさえいない。
「知の世界」にはアフリカ人もメキシコ人もブラジル人もいない。
そしてアジア人も。(柄谷行人は、日本語をしゃべっているから
アジア人だと言えるのだろうか。)
タンザニアの女たちが薪を拾い集めるかわりに
コンロをあたえてやればいい、とか、
南を援助してやらなければならない、とか、
かれらに見えている非ヨーロッパは、相も変わらず
国家や権力や、原理主義でなければ、
抽象化された人間、対象物、標本としての原住民でしかないのか。
考える人間はヨーロッパにしかいないから、
あたえられる側の人間がどう考えようが、
世界はヨーロッパ人(あるいはアメリカ人)が考えた通りのものだ
という、意識にさえのぼらない前提。

単線的な歴史の時間と生産向上の神話は、
思考の対象として否定されているかもしれないが、
思考様式はすこしも変わっていない。
何かが終わった、と判断する知性も、
自分自身も終わった側にいるのだとは思っていない。
復古主義や野蛮への退行の危険が指摘されるが、
それらのいかにももっともなことばは、
自分たちではなく「あの連中」が
世界について考えることは許せない、
なぜなら世界(ことば)はこちら側にあり、
ヨーロッパ標準時で進んでいるのだから、
というようにしかきこえない。
多元的な時間の出会う場としての世界史は
SFにすぎないとでも思っているのだろうか。

使えるものは何でも回収するナチズムや消費社会、
より一般的には資本主義のありかたが話題になるが、
ヨーロッパ的知性がそれとおなじことをやっている、
しかも善意から、
ということは認めようとしない、あるいは見えない。
(ここで、ノーノやヘンツェに対するキューバの音楽家の、
アイロニカルな友情を思い出す。
かれらが自分の意志でやってきて、
キューバ文化を理解しようとしたことについての感謝と、
かれらの善意にもかかわらず、それさえも
ヨーロッパによる知的収奪の一部であることに
かれらが気づかないことについての、ちょっとしたコメント。)

すべてを回収するのは、
ヨーロッパ的時間の一元論にとっては自然なのかもしれない。
すべてについてイエスかノーかを言えなければならないのならば、
言うことによって、すべてを知のなかにとりこんでしまうのだろう。
どの対談を読んでも、知識人たちは、
知っているものが、知っていることを
知らないものに教えてやるという姿勢でものを言っている。
(もっとも、かれらはインタヴューをうけている、
と思いこんでいるはずで、対話という意識さえないのだろうが。)
それが、ヴィリリオのいうリアルタイム・インタフェースの
じっさいの姿なのだろう。
相手かまわず超高速のフランス語で、
思想のウイルスを過剰露出する。
それが、たちまち回収済みの情報になって、
次の相手との対話で虚仮にされるとは、思ってもみないだろう。
歴史の反復はコッケイなだけだ、とマルクスは思っていたらしいが、
現在の「世界」、つまりヨーロッパの、知識人は、
かつてのヨーロッパ知識人の茶番としての反復にすぎない、
(のかもしれない)という思いが
一瞬でもかれらの頭をよぎったことがあるだろうか。

対話の最後に柄谷行人がくる。
この操作された順番で、
それまで知のシステムのあいだをくぐっては、
パロディー化した相手の言説を投げかえす浅田彰と、
そのからくりに気づかずに
「世界」についての思いこみをひたすら独語する
お人好しの知識人との喜劇的な緊張関係はやぶれ、
群れのなかの相似形の疑似対話で、
知の円環は閉じられる。
この気を許した人間関係は、日本的「ホンネ」の共同体と
どこがちがうのだろう。
知的天皇制の雰囲気のもとでこそできることではないのか。
(この最後の対話は、日本語という「外部」の言語に
安住しているからできるようなものだ。
この本がもし、英語かフランス語で出版されていたら
論争にまきこまれることになっただろう。)
フランスの理論がアメリカでは大学共同体の「学術」になり、
それがめぐりめぐって日本では
疑似孤立群の世界早解り談義になるのか。
この群れは、一元的普遍に世界をとりこんだあげく
外部を失って自己崩壊するヨーロッパ的知の
貧しいコピーでもいいから、「世界」の内側に席を確保したい、
という願望から、
知的三極構造のなかの日本を忠実に演じているのか。
外部についての知は既成のシステムへの回収にすぎない、
というようなことを書いたのは柄谷行人ではなかったか。
書くことだけならだれでもできるが、
回収されている自覚もなく、世界の見取図を語っているのは、
かつての柄谷行人の影なのか。
回収作業が知識人の習性になっているようでは、
創造(想像)力のはたらく余地をあらかじめ塞いでしまい、
過剰ゆえに無力なことばをつらねるか、
現実追認を近未来予見に偽装することができるばかりだ。
近視眼的な図解は転換へのインパクトをもてないだろう。
こういうパフォーマンスを見ていると、外部にとどまるには、
自分が世界のなかで無力であり、
無知であると認めるところからはじめる以外にはないのではないか、
と思ってしまう。
無害無力な未知のものが文明の足元に立ちあがる。
カタストロフィ点とはこういうものだろう。
文明内部での文明批判は、じつは
この恐怖感を覆い隠すために費やされていることば
ではないだろうか。

(たかはし ゆうじ・作曲)

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