IC1-24
夢見反世界
[掲載日:]
さてここで、送られてきた『Inter Communication』創刊号をパラパラとめくり、コンピュータ・コミュニケーション、仮想現実、遠隔臨場感などのことばをきらめかせながら、テクノロジーがすでに人間を変えてしまったことを疑わずに、あらゆる情報を即座に解釈する現代の占筮者たちの言説を拾い読みするうち、世界はそれほど居心地のよいものではないということを、かれらはどこかで感じているような気がしてくる。
ここに現われるテクノロジー的人間は、ゴーグルとデータ・グローブを着けて原子炉の冷却装置をいじっている、としようか。このような装置に視覚も触覚も委ねているために、数千キロも離れていると信じている現場はじつは通りの向かい側にあって、不器用な遠隔操作のおかげで、すでに過熱した装置からは蒸気が噴き出しているのが見えない。それも当然だ。何故なら、われわれが客観的現実と思い込んでいるものは存在せず、感覚と外部との接触を脳が判断したデータがすべてなのだから。ところで、脳は脳自身にとってはたして存在するのか、神経束と脳の境界を脳は区別できるのか。脳が内部にあり、神経路を通じて外部とつながっているという言明は、まさに客観的現実の観察者の立場ではないのか。
視覚や聴覚、さらに触覚を構築するテクノロジーは、初歩的とは言え、なかなかおもしろい効果をつくりだすことに成功した。もうすこし発展すればそれに基づくコミュニケーションの新しい形態も確立するかもしれない。だが、それが感覚そのものを変え、さらに世界を変える前に、変わった方がいいのは、それについて論じることばだろうと思う。現象を分析し、隠れた本質を抽出するといった論理が、いまだに使われているような気がする。近過去から先駆的傾向を見つけ出し、そこから現在の実現段階へと引かれた線を延長して近未来を夢見るという線型論理以外の展望はもてないのだろうか。
マラルメとデータベースを比較してみると、データベースはまだマラルメの書物をつくれる水準にはないし、その水準に至ることはまずないだろう。カフカとコンピュータ・コミュニケーション、ジョイスと人工言語でも同じことだ。ハイ・テクノロジーの産物は、初歩的であるだけではない。問題はむしろ、それらが人間の想像力をあまり信じていない、あるいは想像力を抑制するようにはたらく、というところにあるようだ。
脳と世界をむすぶ神経路という客観的な言い方でしかことばにできないにせよ、関係を重視し、実体は関係の網の結節点だとするならば、幻覚と現実を区別することはできないし、そんなことに意味もないから、ゴーグルで見ているイメージだけが世界であっても差し支えないはずだが、その世界は外部との接触をいったん遮断し、あらかじめ設定した環境のなかに包み込むことでしか実現されない。その環境のなかでうごきまわることも、ある程度変化させることもできるが、それはすでにプログラムされている範囲を越えない。用意された快適な環境に包み込み、内面化するテクノロジーは、技術的発展とは別に、あるいはそれを方向付けているとまでは言わないにしろ、それを作り出す必要を感じた文明の欲望のある様相を表わしている。「インターフェイス」というコミュニケーションの様式は、表面から読み取ること、脳と化して内部にひきこもった人間とプログラムを内蔵した機械が、お互いに内部に立ち入らないでつきあうやり方を指している。テクノロジー論者の描き出す夢のような未来図にもかかわらず、このように考えるしかなかったこの文明は疲れ切っているのだ、と推測することも可能なのだ。文明がある方向に発展していくこと自体が死の徴候となることもある。過去にはローマ、クメール、アステカなど、うまくいったために滅びた文明や、それ自体の神話に絡みつかれて無気力に立ち枯れた文明もあった。
現在開発されている技術がもっと発展し、輝かしい未来をもたらすというような予測には何の根拠もない。テクノロジーとその神話を区別して、新しい発見を古びた論理で祝福している解釈学は沈みかかっている文明と運命をともにするとしても、発見された技術そのものは残るという考えも、いささか楽天的ではないだろうか。予想もされなかった(それだからこそ、その名に値する)発見が、いまのテクノロジーを異なる方向に押しやることの方が、はるかに可能性が高い予測と言えないだろうか。
この文章を書いている、というより叩き出しているコンピュータにしたところで、いまのテクノロジーが不安定な基盤の上で、一方向だけに暴走しているという感想をもたせるには充分なしろものだ。小さな基板に焼き付けられた回路が瞬時に無数の決定を行なうことができる、というこのハイ・テクノロジーの産物が、一方では無駄な放熱の初歩的な問題さえ解決できずに、絶え間ないファンのノイズを撒き散らしている。なめらかなディスプレイがユーザー・インターフェイスの快適さを誇っているが、裏側ではパッチコード・スパゲッティが埃を呼び集めている。コンピュータをただ論じるとしたら、その速さを「純粋速度革命」などと呼ぶこともできるだろうが、それを使って音楽を創る方から言えば、その遅さにいらいらさせられるばかりだ。これは信じられないほど鈍くて、愚かな道具なのだ。決められた手順にしたがっていれば、仕事はたちまちできてしまう。だが結果を修正しようとしたり、手順を変えようとすると、機械は抵抗するように思われる。機械というものが目的をもったシステムとして定義される限り、またその目的設定が外部を遮断した快適さとむすびつく傾向にある限り、そこに踏み込んでくる使用者を妨害するのは、機械の自己防衛と言えなくもない。相手が人間でなく機械だから、こんなに非創造的な関係を打ち切るどころか、視力を失うまでディスプレイを見つめて深夜まで作業に追われることになる。
電気的エネルギーが速度という一点だけを追求しながら微細化し、電磁波の絶対速度で地球をコミュニケーションの網に絡めとったとは言っても、これはどこか砂上の楼閣的なテクノロジーの勝利であって、このエネルギーがその反面でもつ不細工さ、発電装置の巨大な規模とその破壊的な性格(水力、火力、原子力による汚染、地域破壊)、廃熱の蓄積による温暖化、エレクトロニクス工業による水の浪費などの問題を忘れそうになる。このエネルギーが貯蔵に不向きなのも特徴的で、不釣合いに大きな化学的装置を必要とする上に、微量の放電は避けられない。これとおそらく関係する問題が、記憶の短さだ。石に刻まれた古代の碑文が数千年も保存され、紙が数十年かかって劣化するのに対して、電子的記録は数十年以内に消滅する。それは大量の情報をもち、記憶をもたない文明にふさわしいメディアと言える(情報論が人間を機械と考えるように、人間の記憶も、コンピュータが情報を保存するのとおなじに思われてはいないだろうか)。
エレクトロニクスがクールな表面に内側のハイ・テクノロジーを包み、裏側にロー・テクノロジーを排出するアンバランスな技術であることが偶然ではなく、むしろ構造的にそのようなものとして意図されているとしたら、補完的な改良の試みにもかかわらず、それはそれ自体の発展の純粋速度によってますますバランスを崩すと想像する方が自然だろう。プロセッサが加速されれば、その分加熱することになる。ナノテクノロジーに巨大なファンを組み合わせないですむためには、どうしたらいいのか。それとも、ハイ・テクノロジーが裏側にロー・テクノロジーを引きずっていることは、アンバランスではなく、これこそがバランスなので、もしそうでなかったら、人間は自分が飛ぶ技術を発明する代わりに飛行機のようにやたらに大きく不細工なものを考え出しはしなかったろう。テレポーテーションやワープはSFだが、テレプレゼンスは3D映画とそんなに変わらない。仮想現実は超現実ではなく、このみすぼらしい世界、ほとんど無為の日々からはどうしても離陸できないのだ。ただ映画館には外があるが、脳内部にひきこもった人間にはもう外部は存在しないと、この脳自身は考えることができる。
映画館が発明されたおかげで、情報理論も成立可能になった。観客はまず暗闇のなかに入れられ、防音した壁のなかで光も音も奪われる。一人ずつ座席に固定され、一方に顔を向けるように強制された上で、スクリーンから大量のメッセージを流し込まれる。映画館は手術台と宇宙船の妥協案なのだ。演劇の時代はこうはいかなかった。『ハムレット』の劇中劇がもう一度舞台化して見せているように、額縁舞台のなかのドラマは、桟敷で進行している社交、駆引き、陰謀の引き立て役を務めるにすぎなかった。歌舞伎の観客にとっては桟敷のなかが生活であり、舞台はテレビが本来あるべき姿、室内照明の一種なのだった。現実のテレビは不幸にも映画の後に発明されたために、マクルーハン理論にしたがって、映画を演じている。そこで、見る側も倒錯して、ホームドラマを見ながら、つい家族を演じてしまう。
人間が受動的な感覚器であり、忘却という微量放電をともなう欠陥情報処理機であるとする立場と、世界とは暗い頭蓋内に閉じ込められた自我が神経路からのデータを分析して作り上げる幻覚であるという思想とは、正反対のように見えても、遮断された感覚を刺激してつくる擬似現実を追求するという、歴史的役割をひとしく担っている。仮想現実からただの現実に転落する瞬間のショックには失望という緩衝装置が両方向にはたらく。だれもがディスプレイに繋がれたまま干からびていくサイバーパンク戦士の至福感を体験することはできない。操作する側とされる側の分離があるなら、システムの作者とオペレーターも体験から除外されることになるだろう。(たかはし ゆうじ・作曲)