IC24-35
クセナキスにまなんだこと
[掲載日:]
ベルリンのはずれの、
いまはない家から郵便局へむかう森の小道を歩きながら、
パルメニデスの「存在」からピタゴラスの「数」、
プラトンの「多面体」を通ってエピクロスの「偶然」にいたる
古代ギリシャ哲学史の講義をうけたことを思いだします。
またニューヨークの空港のカフェテリアで言われたことば、
「人間は時空の認識にしばられている、
この悲しいガラス箱のなかの迷路からぬけだして、
ここが二億光年のかなたであり、
いまがいつもであるような存在にめざめることができるだろうか」……は
昨日のようによみがえります。
ベルリンで受けたたった一度のレッスンらしいレッスン、
確率計算と音色構造からつくりあげた作品を見せたときの批判、
「ここには、いらない部分が二箇所ある、
消しゴムをかそうか」……は
方法が結果を保証するとは限らない、と理解したけれど、
それから30年あとに、パリのスタジオで、
コンピュータが一晩中計算してつくりだした1分たらずの音響を再生し、
データを一つだけ変えて、再計算をセットしながら
「有効な組み合わせがみつかるまで、データをひとつひとつためしている」
と言われたのを、
偶然を超えて顕れる普遍ではなく、
落ちこんでしまった時空の迷路からぬけだすための道しるべを、
古代哲学史を反転しながら
「偶然」から原初の「存在」にもどるメービウスの帯をもとめているのか、
とあらためて思ったが、これも、
もう一つの誤解なのでしょうか。
確率とは、パスカルにとってのように
神あるいは絶対的存在にいたるための賭だったのか。
謎めいた古代の記号が刻み込まれた巨大な岩である音楽は、
(パルメニデスのいう)「存在」を回復するための
てがかりとなるのでしょうか。
たしかなものは何一つなく、暗黒の宇宙を漂っていくだけの人間にとって、
哲学史の廃墟の前で、いまひとたびの、
世界を製作する方法が、幻想でないという保証はどこにあるのでしょう。
1962年、子供のコーラスとオーケストラのための《Polla ta dhina》の
テクストとなったソフォクレスの《アンティゴネ》のコロスの歌の
dhinonつまりdeinonということばは、おそるべきもの、強力なもの、困難なこと、
さらには、わざにたくみなもの、と訳されます。
ハイデッガーは、これをunheimlichと訳します。
これは、安住していられないものです
冒険する人間は、to deinotaton、つまりdeinonの最上級であって、
困難のなかにのりだし、暴力によって、たくみなわざによって、おそるべきものをつくりだす。
しかしこれは、困難のなかに投げだされ、世界の暴力にさらされ、無の方におびきよせられ、
人びとの幸福な炉端には招かれることがない、
というのとおなじことを言っているのです。
音楽は、こうして世界とふれあうことができる。
世界の不幸とふれあうのも、冒険する人間にとっては避けることのできない過程で、
世界の不幸は、音楽の真実の響きです。
[この文章は1997年11月12日、国立京都国際会館で行なわれた
第13回京都賞記念ワークショップ「クセナキス イン 京都」で著者自身によって朗読されました。
再録を許可いただきました財団法人稲森財団に感謝いたします]
(たかはし ゆうじ・作曲)