IC19-41

演奏の体験

[掲載日:]

コンピュータをふたたびつかいだして、ほぼ十年。
キーボードをつみかさね、エフェクタを通して、
少年たちがやるように音楽をつくるところからはじまり、
キーボードをまず一つにし、それからつかうのをやめ、
エフェクタを捨て、シンセサイザを捨て、
サンプラとコンピュータだけのセットにたどりついた。

最近は、そのサンプリングにも限界を感じ、
コンピュータのつくりだす構造や
ランダム性の単調さにもあきて、
楽器のつくる音楽の周辺へと追いやって、
ほとんど環境音のようにしかつかわなくなっていた。

ある日、サンプラのディスクドライブがこわれ、
それに気づかずに、あるだけのディスクを試して、
サンプル・コレクションすべてが消えてしまった。
それは一つのきっかけだった。

何年も、思うようにならない機械の都合にあわせて
仕事時間をとられ、
要するに機械をつかうどころか、
機械につかわれてきた。
仕事を終えた数日間は、
やっと終わったという気分を
結果への満足ととりちがえていた。
しばらくたってみると、
音や構成の欠陥が耳についてくる。
そこで、演奏するたびにつくりなおすことになる。
それでも、これでいい、というところまでは、
ほとんどたどりつけなかった。

これでは、仕事はストレスでしかない。
じっさい、この頃は仕事をするたびに病気になっていた。

「狐」という儀礼的作品を北九州でやったときのこと。
コンピュータ・パートは、そういうわけで失われたので、
竹筒と法螺貝を手の空いている演奏家たちにわたして、
客席のあちこちで鳴らしてもらった。
闇のなかで、もちろん楽譜もなく、
かんたんな約束と合図でできる合奏は、
複雑なプログラミングと音像移動による
元のコンピュータ・パートよりも、
意外性をもつリズムと、
相互作用のひろがりをつくりだすことができた。

フィリピンの作曲家にして音楽学者ホセ・マセダが
何年も前に言っていたことがある。
正確な言い回しではないが、このようなことだ。
「一人の名人を百人が聞く。
百人は聞いて、立ち去る。それが限界だ。
一人が百の太鼓をあやつることもできる。
百人が一つずつ太鼓をもつこともできる」
また、
「バッハもモーツァルトも、支配者のために書いた。
音楽で支配関係を表現した。
みんながわずかなものをわけあって生きることを
あらわす音楽はなかった」

その何年かあとに、
「水牛楽団」という移動するグループをはじめたとき、
参加する音楽の原理を考えた。
それは、和声なし、なぜなら、
メロディと伴奏の区別こそ、開発の思想だから。
そのかわりに、同時変奏と組み合わせ。
同時変奏は、原旋律をめぐって各人が
各人のやりかたで演奏することで、
ヨーロッパ人は、ヘテロフォニーという蔑称で呼んだ。
組み合わせはその反対に、
各個人のもつ断片の組み合わせが、
旋律としてきこえることで、
ヨーロッパではホケットというが、
ホケット(散奏)の場合は、全体がまずあり、
それを個人に切り分けるという考えだから、
方向は逆になる。

「水牛楽団」は、演奏者の関係から出発した。
個人の技術は、それほど考えなかった。
竹竿の上で曲芸をやる娘と、竿をささえる父親の話がある。
父親は、相手の安全に気をつければ、芸はうまくいくと言い、
娘は、じぶんの身に注意すれば、相手を助けられると言った。
泳げないものが、おぼれたものを助けようと
川に飛び込んでもだめだ。

ところで、技術とはなんだろう。
必要でもないものを買いあさるように躾けられ、
他人を押しのけたものに賞が贈られ、
自己主張が現実認識とまちがわれる社会では、
多く、速く、大きいことが技術の目標になる。
欲望と、不安と、暴力が技術をつくりだす。
それは、見えている以上の細部をもたない粗雑な技術、
部分だけを切り離してつかう技術、
外側から量だけで測られる技術、
体験しないものでも、ことばだけで語ることができる技術だ。

楽器と手が出会うとき、伝統的な技術がはたらきだす。
それがどんなものか知るためには、
手のうごきをちいさく、ゆっくりにしてみればよい。
すると、連続した一つのうごきに見えたものは、
たくさんの細部の組み合わせからできていて、
さらに速度を落とせば、
その細部もまたこまかい要素の複合であることがわかる。
それは、フラクタルのように単純な自己相似形ではない。
細部にかかわる要素は、その全体より大きく、多様だ。
なぜなら、うごいているのは手だけではない。
全身のうごきの統合が手にあらわれているのだ。
究極の、それ以上分解できない要素はない。
分解すればするほど、統合された全体が拡散していく。

このとき、うごきは身体の内側から感じられている。
身体の内側から認識される空間や時間は、
運動と無関係に外部にある空間や時間とはおなじではない。
こうした練習なしには、手のうごきや、
結果としてあらわれる音についての知識は得られない。
それは、ことばで語れない神秘ではない。
それを語ることばは、
体験なしに語られたのとおなじことばでも、
おなじことを意味してはいない。

身体の根拠を欠いた思想は、無知そのものだ。
感覚や論理でとらえた世界は、部分像以上のものではない。
こうして手をうごかしながら一つの音を知ること、
それは部分的な知識ではない。
身体の内側から世界を観ているときは、
そこに見えているのが、世界のすべてでなくてなんだろう。
そこには内も外もなく、観ているものさえもいない。
だが、そこから眼をそらさずに観つづけることは、
生活のなかでは、ほとんどできない。

(たかはし ゆうじ・作曲)

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