IC18-35

作曲行為の未完性について

[掲載日:]

音楽が創られるのは何のためか。

人びとがあつまるとき、
行事であれ、儀式であれ、
ただ人びとが会うことの悦びのためであれ、
音楽がそこにあれば、楽しい。
それがなくても、人びとはあつまるが、
音楽は集いを、ともにあることのしあわせと、
ふかいやすらぎで飾る。

コンサートの語源は「合意にもちこむ」ということらしい。
争っていたものたちが和平を結ぶ場を想像してみれば、
そこには飲み食いがあり、唄があり、踊りがあり、
それらすべてが音楽ではなかったろうか。
いまコンサート会場には、飲み物食べ物はもちこめず、
踊る場所もなく、歩くことも、立つこともできず、
音楽家と、見物人に分かれ、区切られて、座っている。

それでも、コンサートは否定されるべきものだ、
と言うことはない。
コンサートは現実の場であり、そこに来る人たちがいる限り、
観念で否定しても、なくなることはない。
それに替わるものがなければ、いくら貧しくても、
コンサートは音楽の場でありつづける。
別な場をつくりだすのは、音楽家のしごとではない。
人びとのあつまりかた、人間関係、社会が変わらなければ、
音楽の場は変わらないだろう。

電子的仮想現実が、現実に替わることもないだろう。
感覚の対象すべてを電子的につくりだしても、
もう一つの身体をつくりだすことができなければ、
それは仮想にとどまるだろう。
身体はもう一つの身体をもとめる。
身体のないところに心はない。
イメージによって感覚をつくりあげるのは、
昔から心を集中させる一つの手段だった。
それが自発的な努力からではなく、
電子的手段によって強制されるなら、
神経症と疲労しか残らないだろう。

音楽をきく身体は、音を通して、
音楽をつくる身体をきいている。
楽器を操る手、うたう喉の緊張を感じる。
だから音楽はだれのものでもない。
手があり、声があり、それらをうごかす意志があり、
響の生成、持続、消滅を感じる意識がある。
そこに起こる身体と身体、心と心の共振が、
音楽の時間であり、ともにあることの悦びでみたされた
人間の空間をひらく。
音楽のあるところに苦しみはない。

だが、作曲という作業は、演奏から切り離されてきた。
自立した音のイメージを操作することには、苦しみがある。
身体から遮断された音は、心の解放からは程遠い。
実体化された音、オブジェでありサンプルである音。
構造だけが空転し、増殖する

楽器を操る手を音符を書く手に置き換えて、
書く速度で音をつくっていくこともできる。
昔ネーデルランドの作曲家がミサを書いたときのように、
一つの声を最初から最後まで書き、
はじめに戻って次の声部を書く。
結果としての、生成するポリフォニー。
出発点としての定旋律。

反対に、まず演奏し、記憶から書き取ることもできる。
鍵盤楽器の作曲家が変奏曲を書いたときのように、
よく知られた旋律から出発し、
装飾を加え、置き換え、組み替える。
雅楽の古譜も、師の演奏を弟子が書き留めたものだった。

これら二つの方法は、
演奏の場から離れてしまえば意味がない。
楽譜として自立した瞬間から
モデルは設計図になり、
イメージだけで実体のない音が増殖する。

そのうえ、音楽は演奏の場だけがすべてではない。
楽器をととのえ、やるべきことを試してみる。
それからあつまって練習する。
これが音楽家の生活だ。
継続する学習過程、楽器や音に対する注意深さ、
途切れない意識の持続のなかで、
演奏そのものは、プロセスの最終段階にすぎない。
表面に顕れている一部分にすぎない。

もしやるべき音楽がすでにあるなら、
作曲する必要はない。
すでにあるものが充分でないなら、
作曲は、調整して間に合わせるための技術として登場する。
それは、無からの創造ではない。
引用、本歌取り、音色旋律型などの出発点は、
楽器やジャンルの伝統との接合のため、
演奏者とのコミュニケーションのために有効な手段だ。
構成、音組織、リズム構造も手がかりにすぎない。
それらはなくても、楽器と手さえあれば、
音楽は成立する。
顕れ、消える響そのものでさえ、仮の足場にすぎない。
響を空間のどこかに存在しているものと幻想し、
現象の相にとらわれるよりは、
そこから遡って、それらの音を創り出すために
そこにある、あるいはそこにない因子の組み合わせを、
演奏者である他人の手の運動として理解する、
これが作曲家のしごとでないと、言えるだろうか。
そして、他人の手を理解するためには、
まず自分の手を理解しなければならない。
自分の手を、そして、手のうごきをつくりだすための
身体内部の統合を内側から観るとき、
人間はすでに存在しない。
作曲家が演奏者を押しのけて自己主張するのは、
こうしてみると、よけいなことだ。
どんな自己表現も、ここでは成立しない。
微細な意志と、身体感覚と、意識の、
生成また消滅する、途絶えることのない変転があるばかりだ。

作曲は、最初の練習のためのモデルを提供する。
その作業は、最初の練習に備えてのイメージ練習だ。
基本的なうごきの型、
演奏家相互の関係、変奏し、装飾し、対話し、交換する、
それらの関係と、意識の錨となる「数」が書かれ、
しかも、すべてを書き込むのではなく、
演奏者のかかわる部分、
音が現実となる場ではじめて顕れる条件を空白に残しておく。
このモデルは、練習をはじめるときに必要な
統合、心の集中のためにある。
練習が進むにつれて、
意識はひろがり、空間や時間の細部が見えてくる。
はじめのモデルは、しだいに忘れられていく。
作品とは、無名の作者による未完の行為ではないと、
だれが言えるだろうか。

(たかはし ゆうじ・作曲)

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