IC16-24
さえずる世界
[掲載日:]
慈善病院の白い病室でわたしが
夜明けにめざめたとき
つぐみをきいて、やっと
わかった。しばらく前から
もはや死の恐怖はなかった。なくなるものは
何もないのだ、わたし自身が
いなくなるだけだ。いまや
その後のつぐみの歌も
たのしいものになった。
と、ベルトルト・ブレヒトは書いた。
朝、めざめると、
鳥が鳴いている。
だが、どうしてそんなことが言えるのか。
鳥の声がするからといって、鳥というものが
窓の外のどこか、木の枝にとまって、
歌をうたい、それをわたしが寝床のなかで
きいているなどと、アンデルセンの童話のなかの
皇帝のように、世界の中心にいて、
ナイチンゲールはもちろんのこと、死でさえも
自分のためにあるかのように。
朝、めざめると、
鳥が鳴いている。
そんなことはありえない。
わたしがめざめることと、鳥が鳴くことに
何の関係があろうか。
だが、そこには意識しようがしまいが
関係がうまれる。
なぜなら、鳥が鳴いたのは
めざめたときだったので、
その前でもなく、寝床を離れた後でもなかった。
そうでなければ、「朝、めざめると、鳥が鳴いている」
と思うこともなく、書くこともなく、
ブレヒトの詩を思い出すこともなかった。
偶然のようなめざめと鳥の出会いから、
心が幻のようなことばを思い浮かべ、そのことばから、
記憶と連想が蜃気楼を組み上げ、
耳はもう鳥の声をきいていることを忘れてしまった。
朝、めざめると、
鳥が鳴いている。
もし、そう思わなかったとしても、
めざめたとき、鳥の声をきいたのなら、
そこに関係が成立していないとは言えない。
わたしのいる室内だけが世界で、
鳥は世界の外にいると言うこともできないし、
反対に、鳥は世界のなかにいて、
めざめた意識は世界の外に立っている、
と言うこともできない。
鳥とわたしがいるのが世界なら、
鳥とわたしがいなければ世界はなりたたない。
わたしがいなければ、鳥もなく、
鳥が鳴かなければ、わたしはいない。
鳥が鳴いている。どこで。
窓の外のどこか、木の枝にとまって。
だが、その枝は、心の創りあげた枝。
それは窓の外にはない。心に映る影にすぎない。
心に映る枝の上に、心の創りあげた鳥がとまっている。
鳥の声がきこえるのは室内。
鳥がいるのは心のなか。
鳥が鳴いている。
だれがそう思うのか。
鳥はすでに創られている。
声がきこえる。
その声をきいているのはだれだろう。
もしそれがわたしなら、わたしはどこにいるのか。
わたしとは、きこえる声から鳥を創り、
鳥から枝を創り、こうして
窓の外にあるべき世界を構築しつつあるもの。
あるいは、めざめから朝を認識し、
朝と鳥の声を関係づけ、
記憶のなかからブレヒトの詩句をさがしだすもの。
わたしがこの作業をしているあいだ、
鳥の声は置き去りにされている。
わたしというシステムには、鳥の声のはいる余地はない。
ひとつの耳の感覚からたちまち始動するシステム。
幻のような思考の上に思考を積み上げ、
髪の毛ひとすじを裂くように自己増殖する
非現実の運動がわたしだ。
朝があるのは過ぎた夜があるからだ。
めざめがあるのは、過ぎゆく眠りがあるからだ。
一日がはじまる。その一日は、
まだ実現していないことがらの計画でできている。
記憶と連合による世界の構築、
過去と未来に裏打ちされた現在の設定、
作動しつづけるシステムのどこにも、
これがわたしだ、
と言えるような対象を見定めることができない。
システムの作動によってたえず立ち上がり、
過ぎてゆく空間と時間のなかには、
システム自体を見つけることはできない。
しかし、こうして創られていく空間と時間の外には
見つけられるような何ものもなく、
見つけるという作用それ自体もありえない。
ふと眼があく。
さえずりがきこえる。
この言い方も正確ではない。
ひらいた眼は、眼を見てはいない。
だから、見える世界には眼は存在しない。
白っぽい空間のそこここに居座っているものたちがある。
それらも無条件でそこに存在しているのではなく、
一瞬ごとにその現在感は更新されている。
見ることが、その現在感をたえず創りだしている。
見ることによってテーブルを創ることはできないが、
テーブルのある世界は、見える限り現在する。
さえずりがきこえているのは、きいているからではない。
きくことによってさえずりを創ることも、
それを止めることもできないが、
さえずる世界は、それがきこえる、
あるいは、感じられる限り、ありつづける。
さえずりをきくのは、わたしではない。
わたしも耳も、きこえる世界に現われることはない。
わたしがいない、耳がない世界がさえずる、
あるいは、さえずりがさえずっているだけ、
さえずりがさえずりをきいているだけだ。
一瞬ごとに、それは過ぎてゆく。
そうでなければ、それはさえずりではない。
録音して、速度を落としてみれば、
(これはディジタル・サンプラーでかんたんにできる)
さえずりの一音は、数音からなる短いメロディーとなる。
鳥の時間は、人間の時間より速い、ということよりは、
瞬間より短い時間に起こり、過ぎ去る変化は
たとえ一音の音色としてであれ、きこえている、
あるいは、瞬間以下の次元ではたらく注意が、
さえずりをたえず更新している、と言える。
チベットのシンバルは、紐をゆるくもって持ち上げ、
重さをはかりながら打ち合わせる。
その振動は、はずみがついて加速しながら、
振幅が小さくなり、
ついに唸りになって余韻に溶けこむまでつづく。
最初に打ち合わせるのは、人のすることだが、
あとは楽器がそれ自体を鳴らすプロセスになる。
人はそれを注意深く見まもるだけだ。
だが、このプロセスを維持しているのは、まさに、
手を出さないで観察し、理解する注意なのだ。
それなしには、
楽器がそれ自体を鳴らすということは起こらない。
注意が逸れると、響はくずれ、停まってしまう。
手をうごかしても、響はくずれ、停まってしまう。
世界を維持し、更新し、しかもそれにとらわれず、
離れて、自由にしていられるのは、
逸れることのない注意のはたらきのためだ。
(たかはし ゆうじ・作曲)