IC15-25
音の輪が回る
[掲載日:]
「音楽は楽器を構成する部分と
人のたくみな技のかかわりから生じる。
飛ぶ鳥の跡のようにとどめようのない音の空性は、
華嚴経にあるインドラ神の宝石の網のたとえのように、
一音がすべての音を映し、すべての音が一音を映す
相互依存による生起を意味する」
これは何か
楽器と呼ばれているもの、それは独立した存在ではない。
『八千頌般若経』が言うように、
「木の胴があり、皮があり、絃があり、
棹があり、駒があり、撥があり」
これらがあるから人の手がかかわることができる。
それらをつくりだしたのも人の手であり、
つくられたそれらのあいだの関係を定めたのも人の手であり、
人の手はいままたそれらにかかわって、
そのかかわりが音と呼ばれ、
音をつくりだす運動の全体が音楽と呼ばれることになる。
音楽がこうして生まれたとき、楽器は楽器となる。
この運動が止むとき、音もなく、音楽もなく、楽器もない。
この運動が音を音でないものから分け、
音楽を音楽でないものから分け、
楽器を楽器でないものから分ける。
それらの定義、それらの境界は、
運動のつづくあいだしかつづかない。
運動が停止し、再開されるたびに、
定義はやりなおされ、境界はつくりなおされる。
この運動を空ということもできる。
それはひらかれているが、外部も内部もない。なぜか。
たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、
それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。
だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を
演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、
音とともに時空間をつくりだす。
だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない
幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、
この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい」
どんな音でもよいわけではない。
どんな音楽でもよいわけではない。
それ自身で固定され、他のどんな音の影も映さない音、
沈黙を排除する音は、うつくしくない。
固定され、何度でも繰り返され、
音楽でないもの、それを生活と呼ぼうか、
それと切り離され、対立する音楽、
その反対に、生活のなかに沈んでしまい、
境界をつくることのない音楽は、うつくしくない。
音楽がうつくしいと感じられるとき、
そこに、たくみな技がはたらいている。
技とは何か。この問に答えることには意味がない。
作曲法、演奏法のような一般的な方法はない。
技についての知識を集めれば、技から遠ざかる。
そうは言っても、断片的な知識は存在する。
ことばや概念は、ことばや概念でないものを指し示す。
断片を組み立てて運動をつくりだすことはできないが、
断片とは、部分に焦点が合った瞬間の残像だとすれば、
運動が継続しているあいだは、知識がつくられていく。
そのあいだに、技法を不充分なことばで語ることもできる。
技法を語ることばを分析したり、
そこから概念をつくりだしながら
抽象的思考にとらわれていくかわりに、
不充分なことばを手がかりにして
手探りで手をうごかしてみることができる。
手のうごきとともに知識はうしなわれていく。
手のうごきが流れるように自然になれば、
うごかす力がいらなくなり、力もうしなわれていく。
流れのなかで形はくずれ、色は褪せていく。
対立や粗い変化をつくりだそうとする意志のはたらきが止み、
耳が突然ひらいたように、手がひとりでにうごき、
それととともに音の繊細な変化が点滅しているのに気づく。
この過程を、手が音の微細な身体にめざめる、
と言うこともできる。
ここに一つの技法がある。
「音の現われる前、音の消えた後を聴く。
二つの音の間を感じる。
聞こえるように入り、それから音の微細な身体を意識する。
音の輪は、回りながら
ピッチ、装飾、リズム、テンポ、音数、音色、手法が
自然にゆらめき、浮動する。
漂う音の形を繋ぎあわせる」
これは、音楽家がはじまりのない時から
いつもおこなってきたことでもあり、同時に
技法としていまだ意識されたことのなかった技法でもある。
この技法は音楽をつくりあげるというよりは、
いまだ存在していなかった身体をつくりあげるためのものだ。
音の立ち上がる前、音の消えた後、
二つの音のあいだの沈黙は、
もし聴くというより、特定の焦点なく感じるようにするならば、
その限りで、音の気配をはらんでいる。
音楽が終わった後も、
もしその感じをもちつづけることができるなら、
生活は変わらない。生活する身体が変わる。
音楽は必要ではないもの、実体のないもの、空になるだろう。
だからといって、音楽を止める必要はない。
音楽は必要にしばられないものとして、自由になり、
実体のない一瞬の幻として、いとおしく、
空なるものとして、さらにうつくしくなる。
音を繋ぎ合わせて音の輪をつくる。
闇のなかの松明が
旋回しているあいだは火の輪をつくるように、
音の輪が回るあいだは音楽が存在する。
手がうごきを連続体としてとらえ、
輪を回すのではなく、
輪がひとりでに回るように感じ始めるとき、
手は、はじめの形からわずかに逸脱している。
形は型そのものではない。
型そのものは、どこにも存在しない。
形はすでに顕れている。
顕れながら、自分の跡を吹き消していく。
このようにつかわれるための音の輪をつくることは、
やさしくない。
水の上に書き、風で描くようにたよりなく、
とらえどころがない。
音の輪を回すことも、やさしくない。
音は意志によらず、自然に変わり、
しかもその変化に気づくのは、演奏者自身ではない。
そして、この技法を
音楽を離れて日常のなかにもちつづけるのは、
ほとんど一生を費やしてもできないほどむつかしい。
知性によれば、一瞬にして到達することもできる。
技法はそうはいかないゆえに、技法でありうる。
(たかはし ゆうじ・作曲)